プロローグ
夏の匂いが僕を溶かそうとしていた。
焼け焦げる砂浜に海風がまるで意味をなしていない。暑い。暑すぎる。
夏休みが始まって、でも帰宅部の僕には何も予定がなくて、意味もなく海辺の公園をさまよっていた。
強く風が吹いた。熱をわずかに冷ますように、僕の肌をなでていく。
空を見上げる。麦わら帽子が宙を飛んでいた。
その向こう側で長い髪が風に揺れるのが目に入る。淡いベージュのワンピースが僕の目を惹きつけてくる。
僕と同じく高校生くらいだろうか。でも背が小さいから、もしかしたら一つ二つ下、中学生くらいなのかもしれない。どこか幼さを残した顔つきは、あどけない微笑みを浮かべている。
時間が止まってしまったかと思うくらい、彼女から目を離せなかった。
少し優しそうなやわらかな瞳を僕に投げかけてくる。
潮の香りが鼻腔をくすぐって、僕は息をするのも忘れていた。
麦わら帽子が僕のすぐそばへと降ってくる。今の風で飛ばされてしまったのだろう。
僕は麦わら帽子を手にとると、彼女の方へと帽子を向ける。
「ありがとう」
彼女は気取った様子で微笑むと、すぐに僕の方へと小走りで駆け寄ってくる。
いや駆け寄ろうとしていた。
彼女の体がふわりと宙にゆれて、そのままたたらを踏む。
たぶん路面のくぼみに足を取られたのだろう。思わずといった様子で腕を振り上げていたが、バランスを取る間もなく砂浜の方へと倒れ込む。
彼女はぴくりとも動かない。大丈夫かなと思うものの、砂の上だからたぶん怪我はしていないとは思う。でもたぶんそこそこ痛かったんじゃないかな。
助けにいくべきかと思案するものの、彼女はすぐに何事も無かったかのように立ち上がる。
そのまま僕の前まで足をすすめて、片手でわざとらしくワンピースの裾をつかんで、反対の手を差し出していた。
「ありがとう。風で飛ばされてしまって」
差し出した腕から、ぽろぽろと細やかな砂が落ちて、太陽の光を反射していた。
同時に僕は我慢出来ずに吹き出してしまう。
「いや、無理。無理だよ。うん、まず砂を払った方がいいんじゃないかな」
麦わら帽子を抱え込みながら、笑いながら答える。
可愛らしい感じの彼女が妙に格好つけようとして、でも全く似合っていない様子はなんだか小さなこどもが大人ぶろうとしているかのようで、微笑ましくはあった。
彼女の頬が少しだけ紅く染まる。
「うう。もうっ。今日は大人可愛くがテーマだったのに台無し」
彼女は少し高いけれど、可愛らしい声で答える。たぶん見た感じ通りの明るく優しい女の子なのだろう。
「大人はたぶんこんなところで転ばないと思うよ」
「もうっもうっもうっ。言わないでっ、わかってるからっ」
ちょっとすねたように声をもらすと、そっぽを向いて顔をそらす。
それから腕や服についた砂を払い落として、溜め息を落とす。
「うん。でも、まぁ、拾ってくれてありがと」
「どういたしまして」
お礼を言う彼女に僕は麦わら帽子を差し出していた。
彼女は少しだけ背筋をのばして帽子を頭にのせる。つばの端をそっと押さえると帽子についた赤いリボンが揺れて、彼女の笑顔をいちだんと輝かせていた。
でも彼女はすぐに何かに気が付いたように目を開いていた。
それから僕の手をとって、すぐに嬉しそうな声で僕の名を呼ぶ。
「あれ。もしかしてキミ、拓海くん。拓海くんだよね!?」
「え……。いや、そうだけど。君は」
突然名前を呼ばれたけれど、彼女の顔に見覚えはない。そもそもこんなに可愛い子なら一度見れば忘れないと思う。
でも彼女は明らかに僕のことを知っている様子で、きらきらとした瞳を僕に投げかけていた。
「忘れちゃったの。私、詩音だよ。文月詩音」
「詩音……ちゃん?」
「覚えていないかな。ほら、七年前にさ。一緒に遊んだよね」
詩音と名乗った彼女の声に、僕の脳裏に何か古い記憶が思い起こされる。
鮮やかな色のついた思い出が、駆け巡っていた。
七年前。確かに僕は詩音と名乗る女の子と一緒にいた。
今と同じ夏休み。まだ小学生だった僕は、この公園で出会った彼女と一夏を過ごした。
「あのときの女の子!?」
僕の中にある彼女の記憶は、ツーサイドアップにまとめた髪の小さな女の子だった。
確かに僕は七年前、彼女と一緒にいた。
「うん。そうだよ。あの夏、ずっと一緒にいたよね。もういちど拓海くんに会いたいって、ずっと思っていたんだ」
彼女は僕の手をにぎりしめて、少し涙で目を潤していた。
いまにも泣き出しそうで、でも嬉しそうに僕をじっと見つめている。
そうだ。僕は確かに彼女、詩音と一緒にいた。あの夏限りだったけど、ほとんど毎日のように彼女と遊び回っていた。
でも何かが僕ののど元にひっかかっていて、僕は素直に再会を喜べずにいる。
戸惑う様子の僕に、詩音は少し照れたような顔を見せる。
「ごめん。私ばっか盛り上がっちゃって。でもね。ほんとにずっと拓海くんに会いたかったんだ。だから会えて嬉しくって」
少しだけ涙ぐんだ瞳は、確かに僕に会えて嬉しいと思ってくれているのだろう。
僕もずっと仲良くしていた彼女と再会できたことは嬉しいと思う。
でもどうしても心の中に何かがひっかかっている。
七年前、僕は確かに彼女と出会った。あの夏休み。僕はずっと彼女と遊んでいた。
この小さな町でどうして七年も出会わなかったのだろう。いや彼女がこの町の住人じゃないと考えればおかしくないか。この夏は夏休みの間だけ帰省していたのかもしれない。不思議なことはない。
けど僕はずっと彼女のことを忘れていた。
あんなにも一緒にいたはずなのに、彼女のことを懐かしく思うことすらなかった。
でも小学生のころの記憶なんて、忘れてしまうのは不思議じゃないかもしれない。
とはいえ小学生のクラスメイトのことを全員はっきりと覚えている訳でもない。おぼろげな記憶の中にいるだけの人もいる。
単純に普段一緒にいる友達のことで頭がいっぱいになっていたのかもしれない。つまりは僕が薄情な人間ということだ。
そうかもしれない。確かに僕は情に厚いタイプではないとは思う。
たぶん考えすぎなのだろう。
もしかしたら詩音があまりに可愛く成長していることで、忘れていた時間を悔やんでいるだけかもしれない。それも十分にあり得る。
まぁ身長はさほど伸びていないようだから、そういう意味では当時とあまり変わっていないかもしれない。あの頃の詩音ともういちど出会えたような気もする。
「いや僕も嬉しいよ。君があまりに綺麗になっていたから、びっくりしちゃって」
「拓海くんは、七年会わなかったうちに、お世辞がうまくなったね。遊び人になっちゃったのかなっ」
彼女は僕にいちど背を向ける。
でも紅く染まった頬を見れば、少し照れているのかもしれない。
涙をぬぐう様子を見せると、深呼吸をして、それからもういちど僕の方へと向き直る。
爽やかな笑みを浮かべる彼女に、どこか胸の中が痛んだ。
夏の日差しに負けないような彼女は、まぶしくて少しだけ目を細めた。
でもこの時の僕は、まさか詩音との再会が人生を変えることになるだなんて、夢にも思わなかった。