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昼食後、談話室へ移動するよう指示される。影武者五人が揃ってそこへ行くと、一人の女性が中で待っていた。
女性の年は三十前後くらい、くすんだ金髪を後ろで一つにまとめ上げ、黒のシンプルなドレスで身を包んでいる。おかげで少し、陰気な印象だ。
ラウラ・デルマ・ツァイスと名乗った女性は、しかし話し出すと、柔らかで優しそうな雰囲気がふんわりと滲み出た。
「わたくしは、公国や周辺国の歴史、重要人物などのお話をしますね。なるべく分かりやすく説明いたしますので、頑張って覚えてくださいませ」
にっこりと微笑んで、一枚の紙を配る。そこには、簡単な地図が書かれてあった。
「まずは、基本の地理を頭に入れましょう」
ヴァイスベルグ公国は、周囲を森に囲まれている。未だ“魔の森”と名高いグラウネーベルの森だ。初代公王の時代から変わらず、この森には魔物が棲息している。これが、ある意味、公国の堅固な城壁として機能している。
そして、光の乙女の加護によって、公国内には魔物は侵入しない。
公国が他国と繋がる道は、たった三つ。光の街道と呼ばれるそれは、公国内と同じく光の乙女の加護があり、街道上であれば魔物に襲われることはない。
光の東街道は、グランバルト帝国へと繋がっている。
南街道は、碧玉海に面するベント国に。
西街道は、リッシェテール共和国に。
ちなみに、どの街道も、他国までは馬で丸一日ほど掛かる。
リッシェテール共和国の西側は、大河ヴェールを越えると、ヴェルティナの故郷でもあるグリスアレナ国やテラセカ国などの小国が乱立し、戦火が絶えない地域だ。グランバルト帝国の東は、広大な砂漠が広がっていて、更にその向こうにはラミルアブヤドという国などがあるらしい。
ベント国より南は碧玉海、幾つもの小さな島が連なっているが、その先の海の果てはどうなっているかは誰も知らない。
ヴァイスベルグ公国の北、グランバルト帝国とリッシェテール共和国の間には、ヴァロア教を信仰するヴァロア神聖国という国がある。
以上が、大まかな地理だ。
グランバルト帝国とリッシェテール共和国という、大陸の二大国に挟まれた小さなヴァイスベルグ公国が、曲がりなりとも独立を保っていられるのは、偏に、グラウネーベルの森と光の乙女の加護によるものだと言えよう。
「とはいえ、それだけで国の安寧を保てるものではありません」
ラウラは、地図をとんとんと指先で軽く叩きながら言った。
「他国と姻戚関係を結ぶことで、我が国はバランスを取っている部分もあります。どの国に、どのような方が嫁がれているか、大切なことですから、きちんと覚えてください」
ということで、地理に続いて各国の王族、皇族、主要貴族の名、公国との姻戚関係の説明が始まる。
「いやぁぁぁっ!どうして、似た名前の人があっちこっちにいるの!!」
説明が始まって、さほど経たないうちに、リナが悲鳴を上げた。
「てゆーか、公女サマ、伯父だの伯母だの従姉妹だのが何人いるんですか。親戚多すぎてワケわかんないぃぃぃ」
「アルラ様」
リナの言動や態度を咎めるように、静かにイーラが呼び掛ける。
実は全く同じことを叫びそうになっていヴァレンティナは、そっと口を手で押さえる。
「ムリです、ムリムリ!!あたし、そんなに記憶力は良くないんです。覚えられません!」
「最低限、帝国との関係者は完全丸暗記していただきたいですね」
「ひえぇぇぇ…………」
リナがふらっとのけ反る。
「自分とこの甥姪でも名前が出てこないときがあるのに、完全丸暗記なんて……」
「大丈夫、毎日、何回も呪文のように唱えていれば、すぐに覚えられなすよ」
ニコニコ。
優しい笑顔で、全然優しくないことをラウラは宣言する。
「こ、公女さまは、全部覚えているんですか?」
「九歳の第五公女殿下も、八歳の第六公女殿下も覚えておられますね」
「うえーーーーん」
そんな小さな子供でも覚えているなら、出来ないとはとても言えない。リナはがっくりと突っ伏した。
「でも、公女殿下に限らず、庶民の方でも商売をなさっていれば、お得意様の顔や名前を全部覚えていますよね?」
「!」
「ああ、そうだわ。名前だけでは覚えにくいようでしたら、明日、肖像画をお持ちしましょう。ついでに、それぞれの方の逸話も幾つかまとめておきますから」
ラウラは、相当、有能だ。
上手にリナの苦手意識を逸らし、問題改善策を提案する。
泣き顔になっていたリナは、表情を改め、素直に頷いた。
午後の休憩のお茶時間になって、ヴァレンティナのかつらが届いた。
「これで、ようやく気持ち悪さが軽減しますぅ」
さっそくヴァレンティナにかつらを取り付けながら、侍女のミラが嬉しそうに言う。
「気持ち悪い???」
ヴァレンティナが問い返すと、ミラは深く頷いた。
「気持ち悪いですよ。姫様方の中に、一人だけ女装男子が混じってるんですから」
「女装男子……」
「でも、世界で一番お美しい!って自慢の姫様が、男装しても麗しい王子様になれそうってことが分かって、新鮮でした!」
うふふん。
胸を張っているミラに、サーラが「何を言っているの」と呆れた声を出す。あまり感情を表に出さない彼女にしては珍しい。
「もうちょっとこう、前髪は長めに流して……そうですね、騎士の礼服なんかもステキでしょうね。きっと、宮廷で失神する女性続出だと思います~」
「まあ!騎士姿の姫様!ぜひ、見てみたいですわ!」
紅茶を配っていた侍女のリリーが目を輝かせる。
ヴァレンティナを含む影武者全員が、複雑な顔で互いに見合わせた。
「馬鹿なことを言うんじゃありません!さあ、仕事に戻りなさい!」
きゃあきゃあ盛り上がる侍女二人に、ベルタがパン!と手を叩く。
「はーい……」
不満そうな呟きを残して、ミラとリリーは頭を下げて部屋を退出した……。
夕食前まで、みっちり歴史の勉強が続いた。夕食後は、昨日と同じく温泉へ。
温泉に入っている間中、リナの陰鬱な声による“関係者名呪文”がぶつぶつと流れ続け、グレッチェンが耳を塞いで歌うという、神域にあるまじき光景だったことは内緒だ。
その後、就寝まで少しだけ自由時間ができた。
それぞれ自室でのんびり過ごすようだが、ヴァレンティナは図書室へと向かった。一階に小さな図書室があるのを、一日目の案内のときに見ている。本は、庶民にとっては高価だ。村長や神父様の本を数冊くらいしか読んだことがない。この機会に、色々な本を実際に見てみたかったのだ。
図書室に入ると、扉近くにアロイスが控えていた。
中にはラウラと、緑色のリボンで髪を一つにまとめた公女殿下の影武者がいる。緑色なので、サーラだろうか。
図書室に一つしかない机を挟んで座る二人の前には、数枚の紙やペンが置かれている。
邪魔をしてはいけないだろうと、静かに頭を下げて図書室から出ようとしたら、ラウラが「どのような本をお探しですか」と柔らかに聞いてきた。
「あ、いえ……、どんな本があるのか、見に来ただけです。たくさんの本が並んでるのって、見たことなかったから」
「では、わたくし達を気にせず、ゆっくり見て回るといいわ」
サーラが本棚を示しながら言う。
「ありがとうございます」
「公宮には、もっと大きな図書室があるのよ。読みたい本があれば、持って来させましょう」
「……えーと、あの、植物学の本なんて、置いてありますか?」
「公宮の図書室にはあるわね。では、明日、部屋へ届けさせます」
「あ、ありがとうございます」
公女様の本物の影武者は近寄りがたいと思っていたが、そうでもなさそうだ。ホッとしつつ、なるべく話し合う二人の邪魔にならないよう、静かに本棚に視線を走らせる。
歴史書、地理書、言語学、文化史……難しそうな専門書が並んでいる。その隅に。
(異国見聞記?あ、なんだか面白そう)
棚から抜き出して、表紙をめくる。
五十年ほど昔の、グランバルト帝国の外交官が書いた旅行記らしい。少し古めかしい表現が使われているが、読めないほどでもない。
今までに読んだことのある本といえば、真面目な学術書か神話をまとめた本くらいだ。こんな面白そうな内容の本が存在しているなんて、知らなかった。
最初の一、二ページに軽く目を通してから、この本を部屋で読んで良いかどうか聞こうと、机に座る二人に目を向けた。
「!」
振り向いたら、こちらをじっと見ているサーラと目が合った。
「部屋で読んで良いわよ」
尋ねる前に、答えを言われてしまった。勘がいい。
「あ、ありがとうございます……」
「旅行記がお好き?」
「や、学術書以外の本を初めて見たので……」
「ああ、本はあまり市井には出回っていないものね。せっかくだから、小説も読んでみる?宮廷のラブロマンスや、竜退治の冒険譚なんかがあるわ」
ふんわりと微笑めば、それだけで周囲が一段階明るくなったようだ。同性で、しかも同じ顔のはずなのに、一瞬、目を奪われる。
(お姫様って、スゲー……)
馬鹿な感想を抱きつつ、「はい、読みたいです」と返す。
とはいえ……のん気に本を読んでいても、いいものだろうか。影武者修業をもっと頑張らなければいけない気もする。だって今もサーラの前で、ラウラが何かせっせと紙に書いているのだ。きっと、明日の資料に違いない。
そんなヴァレンティナの逡巡を読み取ったらしい。サーラは更に笑みを深くした。
「息抜きも必要でしょう。楽しめる本を探しておくわね」
本を片手に、二階の自室へ。途中、ケリー、ベルタ、アデルを伴ったイーラが玄関から入ってくるのが見えた。ベルタとアデルは何か荷物を抱えている。
いきなり影武者を命じられた自分達も大変だが、イーラやサーラ、ベルタ達もかなり大変なようだ。
(こんな突貫工事で、大丈夫なのかな……)
まだ二日目だが、先を思うと不安しか感じられないヴァレンティナだった。
明日は22時頃に更新します。
日曜はお休みして、月曜から再開予定です!