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「え?本名を呼んだらダメなんですか?」
戸惑うように、リナが言った。
影武者修行二日目の朝である。
「駄目です。公女殿下の影武者として、きちんと自覚を持って下さい。あくまでも一例ですが、例えば影として行動中に、自分と同じ名の者がたまたま呼ばれ、振り向いたりしては……目も当てられません」
朝食の席で、昨日、一緒に温泉に入らなかった二人に名前を尋ねたところ、即、そんな回答が返ってきた。この二人は、異様に似ていて区別しにくい(それだけ影武者として優秀ということだろう)。
「でも……五人揃っているときに、誰のことを指しているか分からないですし……」
リナは、そうですかと引き下がらず、困ったように眉を寄せながら、更に言い募った。
もっとも、現段階で行動に問題があって注意を受けているのは、ほぼヴァレンティナである。が、たまにリナやグレッチェンにだって指導は入っている。ヴァレンティナに言っているのかと思ったら、自分だったという場合があるので、個人を指定して問題点を言って欲しいというのは、当然の要求だろう。
「あ、それじゃあ」
ヴァレンティナがポンと手を打った。
「公女様、公女殿下、殿下、ソフィア様、姫様で呼び分けたらどうですか」
「却下です」
良い考えだと思ったが、逡巡もなく却下された。
「それで慣れては、それぞれがその呼び名でしか反応出来なくなります。どのように呼ばれても、同じように対応しなければなりません」
なるほど。一理ある。
では、どうすればいいのか……首を捻っていたら、それまで黙っていたもう一人が「では、こうしましょう」と口を開いた。
「基本的に公女、殿下、姫とどのように呼ばれても、全員、必ず返事をする。そして個人の区別は数字を使います。ただ、それでは囚人のような気持ちになりそうなので……」
白くほっそりとした右手が上がる。
「遠い東の国の数字を使いましょう。少し音を足し……一人目は、イーラ。二人目はアルラ。三人目、サーラ。四人目、スーラ。五人目、ウルラです。こういう名の者もいるでしょうが、今、この離宮にはいませんし、また貴女達の本名ではない分、呼ばれ慣れることもないでしょう」
あくまでもこれは、五人揃っている時に使用する区別名ですから、と続ける。
リナは、ヴァレンティナを見た。ヴァレンティナは、グレッチェンを見た。
それで個人を判別出来るなら、構わない…だろうか?と返答に迷っていたら、背後に控える女官長のベルタが「それで良うございましょう」と、まとめてしまった。
「では、こちらから、イーラ様、アルラ様、サーラ様、スーラ様、ウルラ様と呼ばせて頂きます」
流れるように、勝手に決めていく。
イーラは、最初に発言した影武者。アルラはリナ、次のサーラは区別名を提案したもう一人の影武者、スーラがグレッチェン、ウルラがヴァレンティナである。更に―――
「また、訓練期間中は離れていても判りやすいよう、それぞれ、決まった色を身につけましょう」
という次第で、イーラは赤系統のドレスやリボンを身につける。
アルラは、黄色。サーラは緑。スーラは青。ウルラは白、となった。
「えっ、白?!」
色指定を聞くなりヴァレンティナが嫌そうに呟くと、ベルタはうっすらとした笑みを浮かべる。
「ええ、白です。汚れると特に目立ちますから、気をつけて下さい」
「く、黒とか……」
「黒は、喪に服す色ですから」
「はあ……」
うううと唸りながら、ヴァレンティナは肩を落とした。
どうやら、色の件は事前に打ち合わせていたようである。
朝食後、手際良く五つの色違いドレスが運びこまれ、全員、着替えることになった。
「今からドレスですか?!」
ドレスを見て、リナとヴァレンティナが声を上げる。ただし、リナは嬉しそうに、ヴァレンティナは恐怖を滲ませた声で。
ヴァレンティナは、ドレスを着るのは、基本的な日常動作が女らしくなってからだろうと考えていたのだ。予定より早過ぎる。歩くことさえ怪しいのに、ドレスを着て、まともに動ける気がしない。
「ウルラ様は、誰よりも早くドレスに慣れて頂く必要があります。ヒールも履いて頂きます。かつらは、今日の午後には届く予定です」
そんなヴァレンティナに対して、ベルタは淡々と説明してゆく。ヴァレンティナの顔色は、ますます白くなった。
「カツラに……ヒール??あの、踵が高くて先の細い拷問具ですか?!」
プッと堪え切れずに吹き出したのは、グレッチェンだ。
「大丈夫よ~、最初はちょっと痛いでしょうけど、あなた運動神経が良さそうだもの、すぐ慣れるって」
「えええぇーーー」
運動神経だけで乗り切れる問題にようには思えない。どうして、良い仕事があると言われた時に、詳細を聞いておかなかったのだろう。旨い話には、裏がある。簡単に乗ってはいけなかったのだ。
すっかり生気を失ってしまっヴァレンティナの元に、ベルタがズンと立ちはだかる。
「さあ、それでは着替えますよ」
「胸には詰め物が必要ね」
「これくらいかしら?」
「うーん、もう一つ入れた方がいいんじゃない?」
もうちょっと慣れてからにして欲しいと涙ながらに懇願したのだが、ぎゅうぎゅうと、コルセットという恐ろしい拷問具に遠慮なく締め付けられた。
お貴族のお嬢様はもれなく全員、付けているらしい。腰を細く見せるために、自ら拷問具を付けるとは、狂気の沙汰である。
次いで胸には詰め物を詰め込まれ、着替えだけでヴァレンティナは息も絶え絶えになってしまった。
ちなみに、ヴァレンティナの着替えを手伝っているのは、昨日世話になった侍女のエマと、新しく現れたアデラだ。
最初はエマ一人で着替えさせようとしたのだが、逃げ回ったために、騎士のアロイスに捕まえられた。そして、大柄でがっしりと力のあるアデラという侍女に渡され、あっという間に下着姿に剥かれた。アデラは、年齢は四十代くらいだろうか。恐ろしく手際がいい。そして、無表情なのですごく怖い。
他にリリー、ミラというエマと同じ二十代くらいの侍女達も加わった。
ベルタと三人で、残る四人の着替えを順に片付けてゆく。リナ以外はドレスに慣れているからだろうか、さほど時間は掛からない。
なお、影武者達の護衛を兼ねているらしく、昨日から常に部屋の隅に控えていたアロイスは、ヴァレンティナをアデラに渡した後、女性の着替えであるからだろう、すぐに部屋を出ている。代わりに入ってきたのは、ケリー・ガートナーと名乗った二十代後半くらいの女騎士だ。明るい茶色の髪を無造作に後ろで一つに束ねている。よく鍛えた体つきだが、胸もあり、腰がくびれ、ヴァレンティナより遥かに“女性”である。
もう一人、部屋の外の入口には、蜂蜜色のくせっ毛を持つジェイ・ユングという、まだ十代に見える少年騎士も控えている。
ヴァレンティナが把握している限りでは、ベルタ以下、侍女四名、護衛騎士三名、後は厨房に年配の料理人の男性一人―――これが、現在、この別邸にいる使用人全員のようである。公女に仕える使用人として、この人数が多いのか少ないのか、ヴァレンティナには分からない。
だが、公宮には普通、掃除・洗濯・給仕等々、それぞれの仕事には専任の使用人がいると聞く。しかし今は侍女達が手分けして食事の準備から配膳、片付け、掃除、洗濯をしているようなので、昨夜、エマが「忙しい」と言っていたのは、本当のことだろう。かなりギリギリの人数で、この“影武者計画”を進めているようだ。
「それでは、ウルラ様以外は、あちらで簡単に歩く練習をした後、エスコートに慣れていただきましょう。ウルラ様は……」
ベルタは、ギラリと強い視線をヴァレンティナへ注ぐ。
「まずは、真っ直ぐ立つことからですね」
この台詞が合図となったのか、侍女四人はそそくさと部屋を退出し、それぞれの仕事を片付けに向かった。