2
「あ、あ、足を開いて座るなんて、貴方、一体今までどんな生活をなさっていたんですか?!」
女官長ベルタの悲鳴のような声が広間へ響き渡る。
すでに歩き方、挨拶・自己紹介の仕方、礼の仕方で散々駄目出しが続いていたので、他の公女殿下の影達はちらっと視線を送るだけで、素知らぬ顔をしている。
「ちょっと休憩のときくらい、好きに座ってもいいじゃないっすか」
むすっと口を尖らせて女官長を睨んでいるのは、ヴァレンティナだ。
背もたれのない小さな腰掛けに、両足を九十度の角度で開いて、左太ももの上に肘をついている姿勢で、である。百二十度よりは上品な角度だと思うのだが、どうやら女官長サマにはそう見えないらしい。
「休憩のときだろうと、入浴中だろうと、いついかなるときも、気を抜いてはいけません!普段の何気ない仕草は、そのまま姿勢に表れます!」
「えーーー……」
「あと、言葉遣いも注意したはずですが」
冷ややかな台詞とともに、手に持っていた茶菓子をさっと取り上げられる。ようやく休憩で一息つけると喜んだのに、これではちっとも休憩にならない。
「大変、申し訳ありませんデス。これで宜しいですカ?」
しかし、もう三時間も休み無しだ。さすがに茶菓子くらいは食べたい。怒りをぐっと抑え、引きつった笑みを浮かべつつ、ヴァレンティナは両足を閉じて背筋を伸ばす。
「まだ、四十点です。膝だけでなく、爪先まで揃えて一直線にして下さい。足先は、膝より少し前へ。そうです。出来れば、ほんの少し、足先を斜めにする方が美しく見えて、宜しいですね。手は、太股の上で指先を揃えて軽く重ね合わせます」
「休憩じゃないっすよ、それ!」
「ないっすよ……?」
「……休憩とは、いえないのではないでしょーか」
ヴェルティナの涙目の抗議に、深い深い溜め息をついた後、女官長は取り上げた茶菓子を返してくれた。
「まだまだ言葉遣いは精進が必要ですが、まあ、今は良いでしょう」
助かった。
今までに食べたことも見たこともない、美味しそうな焼き菓子がようやく食べられる。
ヴァレンティナはさっそく皿から手で持ち上げて、そのままかぶりつこうとして……慌てて影武者その1を見やった。
駄目だ、もう食べ終えている。
その隣のその2へ視線を向けると、上品にフォークで小さく一口大にしているのが見えた。
なるほど。あれが正しい食べ方か。
あんな大きさでは、全然食べた気がしないのではと思ったが、普段通り食べようとすれば、きっとまた取り上げられることだろう。女官長がこちらを凝視しているのを、ひしひしと感じる。
更に、影その3が(頑張って……!)と思念を送ってくれているのも見えた。
致し方ない。
自然と開きそうになる膝を懸命に閉じつつ、なるべく、音を立てないよう、丁寧にフォークで焼き菓子を切って、それを口に運んだ。
「美味しい……!」
思わず、頬が綻ぶ。
小麦粉と卵、バターを混ぜ合わせた生地に、刻んだ干葡萄や胡桃を入れて焼いたものらしい。これは……いつものようにガブリとかじりつくのは駄目だ。勿体なさすぎる。今みたいに、一口大でじっくりゆっくり味わうのは、大正解だ。
口の中の至福にうっとりと目を閉じながら、ヴァレンティナは焼き菓子を存分に堪能した。
その様子を、周囲が、興味深そうに・微笑ましそうに・眉をひそめるように―――様々な反応で見ていることには気付かないまま。
怒濤の一日目が終了した。
そこそこ体力はある方だと思っていたのだが、疲労具合が半端ない。お貴族様も、案外、楽ではないのだなと思う。
夕食も、ヴァレンティナにとっては苦行の連続だった。
まず、一組あれば充分に事足りるはずなのに、ナイフとフォークが両脇にずらりと並んでいることが解せない。
そして、ナイフやフォークの使う順番、食材の切り方、フォークの口への運び方……そういったことを一から十まで注意を受けて、何度、手掴みで食べてやろうかと思ったかことか。
「それでは、今から温泉にお入り頂きますね」
最初の顔合わせのときにヴァレンティナに女っぽさがないと口走った侍女……エマ・フォーゲルが、食後、なんとなくそのまままったり過ごしている影達ににこやかに告げた。
「温泉???」
「大きな、湯浴み施設です。王族以外は入れない場所なんですけど、疲労回復や美肌効果がありますから、特別に…ということで」
わぁ!と嬉しそうに影その3と4が両手を組む。
一方で、影その1と2(元々、公女の影武者だった二人)は首を振った。
「わたくし達は、少し今後について話し合う必要があるから、後で入るわ」
「承知いたしました」
エマは綺麗な動作で頭を下げ、「さて」と残る影達に目を向ける。
「案内いたしますので、ついてきて下さい」
屋敷を出て庭園をしばらく行くと、突き当たりに小さな神殿風の建物が現れた。
エマはその建物の中へ入って行く。
三人も後へと続くが、入った先は何もない空間だ。それぞれに不審そうな顔できょろきょろと建物内を見渡す。
入口の対面の壁には、花が飾られた祭壇と、光の乙女のレリーフ。
エマは、慣れた様子で乙女のレリーフの横に回り込み、ぐっとそれを押した。
がこん、と低い音がして、レリーフが動き出す。
「扉?!」
影その3が、目を丸くして叫ぶ。
エマはにっこり笑った。
「この地下に、温泉があります。公宮とも繋がっていますが、こちらが正式な出入口だそうです」
「すごいですね」
地下へと続く階段の脇には、一定の間隔で光苔が置かれ、柔らかくも十分な明るさのおかげで足元の不安はない。
エマを先頭に、揃って下へと向かう。その背後で、自動的に扉の閉まるゴトゴトした音が響いた。
「地下の温泉は、光の乙女の祈りによって湧き出たのだと聞いています。初代公王のお怪我を癒すためだったとか。その後、この地に公宮が建てられることになりました」
「へえ、光の乙女が祈って湧き出たのは、北にある青い泉のことかと思っていました……」
「ええ、青い泉もそうですよ」
影その3の呟きに、エマは当然と言わんばかりに大きく頷く。
ヴァイスベルク公国は、建国百二十年ほどの歴史の浅い国だ。
初代公王フリッツ・ヴァイスベルクは、元はクライン王国という、今はグランバルト帝国に併呑された国の一貴族に過ぎなかった。しかし、王国と帝国の戦争が始まり、国の半分が焦土と化して、フリッツは王国を守ることより、自領の民の命を守ることを選んだ。百人以下まで減ってしまった民を、少ない兵士で守りながら、“魔の森”と恐れられていたグラウネーベルの森へと足を踏み入れたのである。
そしてその森で、光の乙女、エレナ・デューラーと出逢う。
エレナは光の加護を持つ聖女だった。その力を戦争に利用されることを恐れた両親によって、幼い頃から森の中でひっそりと暮らしていた。
そんなエレナと、フリッツは、出逢うなり互いに一目で恋に落ちた。
エレナは、傷つきボロボロになっていたフリッツのために、彼の領民を森の奥の洞窟へ匿い、更にフリッツの怪我を癒した。
怪我が癒えたフリッツは、領民達の前でエレナへ愛を誓い、この地で新しい出発をすることも誓う。
こうして、ヴァイスベルク公国は誕生したのだ―――。