偽聖女だからと婚約破棄に魔界追放された私、どうせ死ぬならその前に幼なじみを捜します。人間界が大変と言われてももう帰りたくありません!
目の前の若者を見た瞬間、アリヤの全身が固まった。それなのに鼓動だけが激しく耳元で聞こえる。
生まれて16年、心臓は破裂しそうなほど振動しているのに手も足も動かなくなることにアリヤは驚いた。
(やっぱりここにいた!)
魔界の中央にある城の最深部。薄暗くじめじめとした大広間でアリヤはようやくその若者にたどり着いた。
紺色の修道服をまとったアリヤは、体のすみずみまで空気が行き渡るように小さな胸を数回上下させて自分を落ち着かせる。ようやく手が動かせるようになると、彼女は乱れていた紅茶色の長髪を整えながら緑色の丸い目で正面を見すえた。
年齢よりも幼く見えるアリヤに視線を向けられた若者は、漆黒のマントを大仰にひるがえすと靴音を響かせながら前に進み出る。石柱や彫像の影に逃げ込んだ骸骨や動く死体たちがすがるように若者を見る。
青白い顔に銀色の髪。頭の上には2本の鋭い角が生えている。まがまがしい装飾が施されたローブに髑髏の紋様が彫られた杖。そして、アリヤが見上げなければならないほどの長身――もっとも、これはアリヤが低すぎるせいもあるのだが。
外見こそ若いが威風堂々とした彼は49の魔族を統べる魔界の王、魔王に間違いなかった。
「見ろ人族の娘。骸骨や動く死体どもがおびえているではないか。お前はこの魔界の疫病神。早々に我が城から立ち去るがよい」
(こちらは動けなくなったのにむこうときたら!)
魔族以外は対等に扱う必要はないといわんばかりに魔王の声は冷たかった。だがそれがアリヤの負けん気に火をつけた。
「イヤです。ようやくここまで来たんです。それに偽聖女といわれたことはあっても疫病神なんていわれたことないです」
「俺の部下たちを奇跡の力で散々怖がらせておいて自分は聖女の偽物、無力な娘だと言い張るか」
「それは――そこに隠れている骸骨や動く死体が私の顔を見て勝手に逃げてるだけよ。本当はこちらが悲鳴を上げて逃げたいくらいなんだから」
「ならばいまからでも遅くはない。存分に叫んで――いや。ここで叫ばれてはうるさくてかなわんので、あっちで叫んでから出て行けばよい」
心底うんざりしたように大きくため息をついた魔王は、まるで野良犬でも追い払うかのように手を振った。
(あくまでそんな態度を取る気!? それならこっちだって!)
自分を見て動揺するどころか意にも介さない魔王に、アリヤはこの3日間でさらに汚れた修道服の端をつまみ恭しく会釈した。
「人間の娘がたったひとりでここまで来たんです。普通、なにか訳ありだと思いません?」
わざとらしくかしこまったアリヤが顔を上げると、不敵な笑みが浮かんでいる。一瞬、ぎくりとする魔王。
「魔王さま。どうして私が魔王城まで来ることになったか、ぜひ話を聞いてください」
「いやだから出て行けばよいだけで話をする必要はないぞ」
顔を引きつらせたままの魔王のことなどお構いなしに、手を組んで目を閉じたアリヤは神に祈りを捧げるかのように語りはじめた。
※ ※ ※
それはほんの3日前、人間界にある王宮での出来事だった。
「聖女の名をかたる背信者アリヤよ。このシュナスが与えられた権限により汝から聖女の称号を剥奪し、婚約破棄、人間界からの追放、魔界への流刑を命ずる」
貴族や役人が居並ぶ謁見の間。アリヤが見回す先の玉座に座るシュナスの目は明らかな侮蔑を含んだ冷たいものだった。
人間界の代理王である金髪碧眼の美男子からそのようににらまれては、普通の貴族令嬢であれば簡単に失神していたであろう。
ただ、アリヤは気の弱い貴族令嬢ではなかった。
きらびやかな衣装をまとった参列者の中、ひとりだけ場違いな薄汚れた修道服を着ていた彼女は気を失うかわりに両膝をついて手を組み満面の笑みを浮かべた。
「この王宮に来てから最も嬉しい言葉! まさかそれをシュナス様からいただけるなんて。ありがとうございます!」
嬉しそうに感謝の言葉を口にしたアリヤに貴族・役人たちが一斉にどよめき立った。
中でも最前列にいた公爵令嬢のダリンがひときわ大きな声を上げた。
「なぜ『ありがとうございます』なのです! 逆です! 貴方は赦しを請わなければならないのです!」
「けどダリン様、うれしいときには『ありがとう』ではないでしょうか」
不思議そうな顔をするアリヤにダリンは黒髪を振り乱して奇声を発すると、真っ赤なドレスを引きずりながら前に進み出た。
「奇跡も使えないのに聖女だなどと陛下を欺き、それが明らかとなった今も悪びれずに平然としていられる。本当であれば処刑もまぬがれないところを陛下のお慈悲で追放で赦されることをもっと深く自覚なさい!」
「感謝しているから受け入れようとしたのですが――」
「お黙りなさい田舎娘!」
赤い唇をへの字にまげ美しい顔を醜く歪ませながら言葉を続けようとするダリンを、いつの間にか近づいていたシュナスが抱きよせるようにかばった。
「君のおかげで僕は偽聖女の悪辣な企みにはまらずにすんだんだよ。恩人の君がこれ以上あの偽聖女の水準にまで降りる必要はないよ」
「陛下!」
「それだけ君を大切に想っている」
見つめるシュナスに赤くなるダリン。
謁見の間にわき上がった歓声を受けながら、シュナスはもう一度大仰に宣言した。
「教育係であったダリンからの勇気ある申告がなければ、僕はお前にだまされて結婚するところだった。今の非礼の罪は問わない。ダリンにこれ以上辛い思いをさせたくないからだ。そのかわり、すぐに人間界から出ていくんだ」
祝福の声と拍手が再び謁見の間にあふれかえる。
惨めなアリヤの姿を見ようとダリンはシュナスの肩越しに謁見の間を見渡したが、アリヤの姿はどこにもなかった。
追放を宣言されたときから嬉しすぎて心ここにあらずだったアリヤは、すでに謁見の間の大きな扉をひとりで押し開けて出て行ってしまっていたからだった。
※ ※ ※
語り終えたアリヤは小さな体でふんぞり返って見せた。魔王はといえば渋い顔で頭を押さえている。
いつの間にか物影から出てきた骸骨や動く死体たちが魔王を後ろから心配そうにのぞき込む。
「どう、分かってくれたかしら?」
「お前が人族の中で社会不適合者ということがな」
「それはひどい!」ほおをふくらませるアリヤを無視して魔王は言葉を続ける。
「人族のいざこざに俺たち魔族を巻き込むな。そもそも魔界はごみ捨て場ではないぞ」
「私がごみ!?」
「捨てられてこんなに勝手にしゃべるごみは初めてだがな」
「それはごみに口がないからでは? あったとしても『捨ててくれてありがとう』とは言わないと思うけど」
「なるほど。ではお前も人間界を追放されて恨んでいるのか?」
魔王の問いかけにアリヤはあごに手を当て考える。
聖女だからと王宮に召し上げられて5年。早々に王太子との婚約が決まり、後は「聖女のための教育」という名の軟禁生活。うんざりするほど聖典と礼儀作法の勉強をさせられ、それ以外の時間は人間界の繁栄を神へ祈ることを強いられ続けた。
そのような生活の中でアリヤができたことといえば、部屋の窓から外を見て自由になりたいと思うことだけだった。
それが突然の偽聖女あつかいに婚約破棄。しかも魔界へ流刑とあっては実質死刑宣告のようなもの。「自分たちは手を下さないのでひとりで死んでこい」と遠回しに言っている分だけたちが悪い。
ただ、不幸かといえばそうは思わない。引き換えに自由を手に入れたのだ。
「シュナス様には感謝しかないわ。婚約を破棄されなければここには来られなかったから」
そう言って本当に嬉しそうにほほ笑むアリヤの顔は魔王にとって予想外だったらしい。魔王が言葉に詰まっているのを見るとアリヤは軽やかに彼に近づく。骸骨と動く死体たちは驚いてまた石柱の影に逃げ込んだ。
「魔界に追放されて自由になった私は考えたわ。せっかく自由になったなら、最後に5年前に別れた幼なじみともう一度会いたいな、と」
顔をのぞき込むアリヤがあまりにも近すぎたのだろう。マントを振ってアリヤを遠ざけた魔王は、落ち着きを取り戻そうとせき払いをした。
「それはお前の勝手だ、好きにしろ。だが魔界からは出ていけ。部下たちがお前を恐れる」
「魔王さまは平気なのね?」
「はは。魔王たる者、聖女が持つ霊気ぐらい余裕だ」
「ふーん――じゃあ、私の願いをかなえてくれるなら魔界から消えるわ」
ようやく出てきた言葉を聞いて魔王の口から八重歯がのぞく。影に隠れている魔物たちも顔を出してアリヤを見る。
「言ってみよ」
「まず、願いがかなったら私を殺して」
その言葉に、骸骨たちは骨を打ち鳴らし動く死体たちは石畳を踏み鳴らす。
大広間に反響する野次の大きさにアリヤは小さな体をさらに小さくして身構えたが、見かねた魔王が杖で石畳をつついて黙らせた。
「いきなり物騒な娘だ。しかも『まず』などとその言い方、2つも願いをかなえろとはなんたるわがまま」
「まあまあ。実は私の願いはひとつ。幼なじみを捜すこと、これだけ」
「捜してどうする?」
「助けてもらったときのお礼を言いたいな、と。5年前、崖から落ちた私を幼なじみが助けてくれたの。その時のお礼」
「なぜそのときに礼を言わなかったのだ?」
「あまりのことに気が動転して。次の日に言うつもりだったのに会えなくてそれきり」
「なるほど。では、そのお礼とやらを伝えられれば死んでもよいというのか?」
若い見た目からは想像できない低い声で魔王がすごみをきかせる。その声におどろいた魔物たちは影の中に首を引っ込めた。
しかし、杖先を向けられたアリヤは恐れるどころか正面から向かい合った。
「次の日、私は王宮に連れて行かれて何もすることができなかった。そのことも謝りたい」
「そうであれば死ぬ必要はないのでは?」
「追放された私が人間界に戻っても、また魔界に追放されるか次こそ本当に処刑。それならばとやってきた魔界では出て行けといわれる始末。行く場所のない私はどちらに進んでも死ぬしかないわけ」
小さくため息をつくと、アリヤは急に表情を変えてにこりとほほ笑んだ。
「なのでいっそ私を殺してくださいな」
「そこまで聞いて殺めてしまっては単なる極悪人ではないか。しかもお前、その言い方は自分からは出て行かないと言っているようなもの。追い出したければ殺せ、と脅すなど魔族より悪辣だぞ」
あきれた魔王が杖を振りまわすと、その下をくぐってアリヤが近づく。魔王は慌てて手を高く上げたまま動きを止めた。
「危ないぞ、人族の娘」
「でも杖を止めたわ」
「たまたまだ、たまたま」
「まあそれでもいいけど――ところで、願いをかなえてくれるなら私も魔王さまのいうことを聞くというのはどう?」
「なるほど交換条件か」
アリヤに背を向けると、魔王は歩みながら指を折って数える。
「お前の願いは2つだったな。俺は魔界から出て行けなので残り1つ。魔界のものに『殺してくれ』とは言わないこと。それでよいな」
アリヤがこくりとうなずくと、骸骨と動く死体たちが恐る恐る物影から姿を現した。そして魔王を取り囲むと守護騎士のように整列した。
「では、その幼なじみを捜すための情報をいただこう。その男は人族なのだろうからこの魔界にはいないのではないか?」
魔族の長たるにふさわしい堂々とした振る舞いで若き魔王が問いただす。はやり貫禄がある。
(それにしても白々しい――それとも本当に分かっていないの?)
紺色の修道服の裾を握りしめ、負けじとアリヤも言い返す。
「いいえ。魔界の外れに住んでいると言っているのをはっきり覚えてるわ。いま思えば魔界の辺境に家があるとか変な子だと思うけど」
「魔王城にひとりで入りこむお前の方がよほど変に思えるがな。他に特徴は?」
「太陽の光が苦手だとか。あと、頭の両側にコブのような角のような――」
アリヤはわざとらしく語尾を弱めて魔王の様子をうかがう。しかし、魔王は動揺するどころか見下ろしながら口元を嘲笑でにじませた。
「はは。そのような体を持つ人族など聞いたことがない。大方、夢見がちな少女の妄想といったところか」
「妄想じゃないわよ! 森の中を走りまわったり木登りしたり魚釣りしたり、その子と一緒に遊んだんだから」
アリヤが熱く語れば語るほど魔王は目を細めて生暖かい視線を向ける。
それがますますアリヤを熱くさせたが、ふと目を落とした先にうごめくものを見つけると、彼女は急ににんまりとした。
「思い出した。私が捜している幼なじみは虫がとても苦手。中でも足がいっぱいな虫が大の苦手で……あ、そこに虫が!」
わざとらしく大声を出してアリヤが指さす。そこには一匹のムカデが石畳の上を這っていた。
「ムムムムムムカデごときがなんだというのだ!」
「だったら私の後ろに隠れるのはなぜかしら」
そう言いながらもアリヤは笑いをかみ殺すのに必死だった。
なにしろ偉そうにしていた魔王が小さなムカデを見た途端、一瞬にして自分の背後に隠れたのだ。おかしくないわけがない。
アリヤに指摘されて恥ずかしくなったのか、魔王はすぐさま彼女から離れるともっともらしく咳払いをして顔をそむけた。
「そういえばまだ幼なじみの名前を言ってなかったわね。ジキマオ・ウノビダツ。ジキマオと呼んでたわ――そういえば私たちもまだね。私はアリヤ。魔王さまのお名前は?」
咳を抑える魔王のにぎりこぶしを凝視しながら、ここぞとばかりにアリヤがたたみかける。
「ま、魔王で充分だろう、人族の娘よ」
「あら、その人族の娘には名乗らせておいて魔界の頂点に立つ自分は名乗らないなんて。魔界は日の光が入らないから魔王さまの性根も腐るのかしら」
「くっ――魔王ヴィダーツ。日陰族だ」
「どおりで青白い顔をしてるはず。ジキマオもあなたと同じ顔色をしてたわ」
表情を読まれないように魔王はマントをたぐり寄せて顔の半分を隠していたが、左眉が上がっているのをアリヤは見逃さなかった。
「年は私より4つほど上。あと右手の甲にアザがあるはず。なんでも一族の証とかでことあるごとに自慢したし。そういえば魔王さまの右手にも――」
グイグイと近づくアリヤに、同じ間隔で後ずさりする魔王。つられて動く、骸骨と動く死体たち。
「その右手を見せて――」
アリヤが伸ばした手が魔王の右手に触れようとした瞬間。
ガッシャーン!
大広間の奥からとどろく衝撃音がアリヤの声をかき消した。魔王を守る骸骨と動く死体たちが騒音の方へ武器を構える。
アリヤがふり返ると数体の魔物が奥からはじき飛ばされ彼女の前に転がった。
「僕の愛しい人、ここにいたのかい!」
喜びに満ちた爽やかな声が大広間に響きわたる。
通路から現れた声の主は、金糸の刺繍がほどこされたマントに白い鎧を身にまとった金髪碧眼の美男子だった。アリヤにとって忘れられるはずがない人物、代理王シュナスだ。
「この僕がわざわざ迎えに来たんだ。さあ一緒に帰ろう、僕だけのアリヤ」
間合いを取る魔物たちを剣先で威嚇しながら、シュナスが金髪をかき上げる。最後に片目を閉じて視線を送ることも忘れない。
途端にアリヤの首の後ろにぞわぞわとした寒気が走った。異性の気を引くためのわざとらしいしぐさが生理的に受け付けないのだ。
思いっきり顔をしかめるアリヤの気持ちなど知ってか知らずか、魔王は手をたたいて喜んだ。
「見ろ。年はお前よりは上ぐらい、化粧をしているのか顔も白いしなにより人族。まあ角はないが幼少時代ゆえの思い違いだろう。あれがお前の捜していたジキマオではないのか。あっさり見つかってこれはめでたい」
「わざと言ってるわよね。あの方はシュナス様、人間界の長。魔王さまほどの人が知らないはずないわよね?」
「ほう。するとあやつがお前の元婚約者か」
返事のかわりにそっぽを向くアリヤににやりと笑う魔王。そのふたりのやりとりを見てシュナスが驚きの声を上げた。
「なんと、私の聖女は魔王にたぶらかされたか!」
「俺がこのチビをたぶらかす? まさか――イテッ!」
反射的に応えた魔王だったが、アリヤにむこうずねを蹴られ次の言葉が出せなかった。
かわりに修道服の端をつまんで会釈したアリヤが続けた。
「たぶらかされてなんていません。シュナス様が婚約を破棄してくださったおかげでここに来ることができたことをうれしく思ってますわ」
丁寧なお礼の最後に氷のように冷たい微笑みをつけることも忘れない。
その言葉にシュナスの顔が蒼白から紅潮へと変化した。女性は自分の望む言葉以外話さないと思ってきた彼にとってアリヤの返事は理解できないものだったのだ。
「なんと。魔王城に来て嬉しいなど【魅了】の魔法をかけられたに違いない。おのれ魔王め、私の愛しい人を奪う気か!」
自分を納得させる理由を見つけたシュナスは芝居じみた宣言をして魔王に剣を向ける。
挑まれて何もしなければ沽券に関わるとばかりに魔王も杖を頭上に掲げる。骸骨や動く死体たちも石畳を踏み鳴らしてシュナスをじわりと包囲する。
「ふたりともちょっと待って」
アリヤの大声が張り詰めた空気を一瞬にして壊した。彼女はふたりを遠ざけるように手を振りながらその間に立つと、小さな体を大きく見せようと肩をいからせて叫んだ。
「当の本人を無視して、やれ【魅了】だなんだと勝手に決められても困るんですけど!」
女性に間に立たれてはどうしようもないとばかりに、魔王とシュナスは杖と剣を収める。
アリヤは人差し指を立てると魔王とシュナスを交互に指さした。
「それぞれが私に質問しなさい。その答えで私が【魅了】されてるか判断するのはどう?」
その提案にすぐに反応したのは魔王だった。
「面白い。では問おう。聖女よ、人族の王が迎えに来たのになぜ共に帰ろうとしない」
「それは簡単。あの王宮には小部屋に閉じ込められてた思い出しかないからよ」
魔物たちが石畳を踏み鳴らして喝采を送る。慌ててシュナスがひざまずいて尋ねた。
「僕の愛しい人。僕の愛はいついかなる時も君にだけ捧げられていた。そのことを忘れたのかい?」
「私があの湿った小部屋で一歩も外に出られなかったとき、あなたは何回、私を訪ねて来てくれましたか?」
開いた手を見せながらアリヤが指を折って数えてみせる。それが片手で終わりそうになるところでシュナスは立ち上がってアリヤの腕をつかんだ。
「愛は回数ではない、深さだ。君は婚約者の愛情を試すのかい?」
「おっと。質問は交互だ、人族の王よ」
いうが早いか魔王が杖先でシュナスの腕を鋭くたたくと、女の子のような悲鳴を上げてシュナスがアリヤの腕を放した。
腕をさすりながらにらみつけてくるシュナスを鼻で笑いながら魔王は2つ目の質問をした。
「まがりなりにもお前は聖女、どのような咎があって人間界を追われることになった?」
あごに手を当てアリヤはこれまでの5年間を思い返した。
いくら神に祈っても奇跡らしい奇跡を起こせなかったこと、王侯貴族が好むような礼儀作法が身につかなかったこと、聖典は退屈すぎて暗記などろくにできなかったこと、それなのに人の2倍は食事をしなければすぐにお腹が減ってしまうこと――そうしたことは思い浮かぶが、人間界から追放されるほど他人の迷惑になるようなことはしていないつもりだったし、した記憶もない。
「ああ、許しておくれ麗しの君よ。僕はダリンにだまされていたのだよ。あの性悪女が君を偽聖女だと言ったばかりに。でも、僕は本当の聖女だと気づいていたよ」
会話に割って入ったシュナスだったが、魔王が杖を出して行く手を阻むと剣の柄を握って身構えた。
「自ら追放しておいて未練たらたらと見苦しい。人族の王よ、一体、なにが狙いだ?」
「聖女は返してもらう。戻ってきてもらわないと僕の王座が危ない」
「ついに本音が出たな。本当の聖女と分かっていた? 自分の地位が危うい? 大方、聖女の庇護がなくなり人間界が厄災まみれになってしまった、というところだろう。それを鎮めるのが王たる者の責務ではないのか? ああ。女の尻を追うしか能のないそなたにそれを求めても詮無きこと。これは失敬」
「穢らわしい魔族の分際で。汚い口をこれ以上みだりに動かすのは死を意味すると覚悟せよ」
「なるほど。それだけなめらかに口が回れば国は回せずとも女は回せたというわけだ」
「最後の言葉はそれでよいな! 魔王、聖女をかけて貴様に決闘を申し込む!」
抜剣で放たれた一閃と杖の髑髏の光芒が激しくぶつかり、破裂音が波紋となって大広間を揺るがす。
「ちょ、ちょっとふたりとも!」アリヤは叫ぶが、当然ふたりは聞いていない。
魔王とシュナスは杖と長剣で一合二合と打ち合った後、激しくつばぜり合いをしてお互い後ろに飛び退いた。
近づいた魔王の背中にアリヤはもう一度叫んだ。
「争いはやめて!」
「ならばお前がひと言『人間界に戻る』と言えばよい。それで俺は負けることなくこの決闘が終わる」
「私はずっとここにいるから!」
「殺し合うな、でも戻りたくない、とはなんたるわがまま。昔と変わらん」
目元を笑いでにじませ一瞥した魔王は、なにかを言おうとしたアリヤよりも早くシュナスに杖で殴りかかった。
シュナスはかろうじて長剣で反らしたが、魔王が次々に繰り出す杖の連撃に防戦一方だった。
それでもどうにか隙を見つけて魔王の脇腹めがけて突きを放ったが、魔王は簡単にいなして体勢を入れ替えるとがら空きの背中を杖先で突いた。
「ああんっ」情けなく石畳に手をつくシュナスにアリヤが駆け寄る。
「シュナス様、武術を知らない私が見てもどちらが強いか分かるわ。もう戦わないでください」
「ああ、麗しの君よ……僕のことを心配してくれるなんて……やっと魔王の悪い魔法が解けたんだね……ゼイ……待っていてね……ゼイゼイ……すぐにあの魔王を打ち倒して……ゼイ……君を解放するから」
「肩で息をしながらそう言われてもなんの説得力もないんですけど。それよりひとりで人間界に戻ると約束してください」
「それはできない……ゼイ……なぜなら……僕は愛する君を連れて帰る……ゼイ……のだから……」
よろよろと立ち上がったシュナスはどうにか長剣を構えると魔王をにらみつけた。
「僕の最愛の人を……僕の愛する人を……ゼイ……返してもらうぞ」
息も絶え絶えでありながら、アリヤに視線を送り歯を光らせることも忘れない。まさに人間界随一の美男子といわれるだけのことはある――顔だけは。
シュナスは長剣の重さに耐えられずに体をプルプルと震わせていたが、ついに限界に達したのか右に左にと揺れ始める。
右に傾くとアリヤが心配して手を差し伸べ、左に傾くと魔王が杖先で押し返す、と振り子のような動きを数回繰り返した後、シュナスはようやくあきらめて長剣を石畳に突き刺して止まった。
それを見て、魔王はあきれたように大きくため息をついた。
「お前が愛しているのはそこの娘ではなく玉座だろうに」
「己の欲望にのみ支配される魔族に……ゼイ……人の愛など分かるまい……ゼイゼイ……僕と聖女の愛の深さを……聖女の無償の愛を……ゼイ……思い知るがいい」
シュナスは整った顔で美しく怒りを表したが、体の方はそれとは正反対で、剣にすがってヨロヨロとしている。
魔王は言おうとした言葉を飲み込むと別の言葉を口にした。
「思うところはいろいろあるが、そこまで言動不一致を恥じない精神の図太さはもはや賞賛の域。その分厚い厚顔は俺の杖でも魔法でも破れまい。うぬ、俺の負けだ」
「……ゼイ……ということは?」肩で息をしながらシュナスが尋ねる。
「お前の勝ちだ、人族の王よ。この俺と渡り合える人族がいたとはな。まさにこれが愛の力か、いやまいった。すぐにそこの人族の娘、聖女を連れて帰るがよい」
「ああ、神よ。正義が勝ちました」シュナスはひざをつき天を仰いで神に祈りを捧げる。
その完璧な所作は神々しさが宿り、彼の周りだけ別世界が広がったかのように感じさせた。
もちろん、アリヤと魔王はその世界に入ることなく冷ややかな目で見ているだけなのだったが。
「お前はあれと一緒に人間界に帰るのだ」
「はあ?」アリヤの声が裏返る。
「お前はあれのものとなったのだ。人間界からの追放も取り消されよう」
「だから私は戻らないって何度言えば分かるの?」
「人族は人族へ、魔族は魔族へ。それが自然の道理。いい加減わきまえよ」
「そうだよ、僕と一緒に帰ろう」シュナスが会話に割りこんだが、アリヤが無言でにらみ返すと叱られた子犬のようにおとなしくなる。
「ひとつ教えて。魔王さまはいま、やれシュナス様が勝ったからだの、やれ当たり前のことだからと言ってるけど、私の気持ちはどうなの?」
「ふん。自分の感情を他人に委ねるな。行動と感情は表裏一体。人間界に戻ればいずれ感情もついてこよう」
「えいやとやってしまえばそのうち気持ちがそれに慣れるかもしれないってわけね。それではさっそく私もやってみるわ」
安心したように魔王がうなずくと、アリヤはなにかを言いたそうにもじもじとし始めた。うつむく彼女の顔に紅茶色の髪がかかり表情が読み取れない。
「あの」小さくつぶやくアリヤに魔王が顔を寄せる。
「どうした、申してみよ」
「これでもくらいなさい!」
バチーーン!
魔王の青白い顔を両手ではさむようにしてアリヤが勢いよくたたく。魔王の青白い頬がみるみる赤くなる。
とっさにアリヤの手をつかもうとした魔王だったが、彼女は身を翻して逃れると彼に向かってあっかんべーをした。一番慌てふためいたのは魔物たちかもしれない。
「ようやく顔に赤みが差した。これで少しは冷たくて固い頭でも人の熱い気持ちが分かるようになったんじゃない」
「つっ。なにを言うかこのじゃじゃ馬が。相手に平手を食らわせておいてなにが理解できた、だ」
「食らわせたのは片手じゃなくて両手よ」
「言葉遊びをしているのではないぞ」
「そのとおりだわ。言葉だけで人を右から左に動かそうだなんて、それこそ言葉で人をもてあそぶことよ。ふたりは私を勝者への賞品かなんかだと勘違いしてるんじゃない?」
刹那、アリヤは目をつり上げて魔王をにらんだ。彼女の刺すような冷たい気迫にさしもの魔王もたじろいだ。
「ああ麗しの君、ようやく魔王の魔法が解けたんだね。おいで、君が愛する僕のもとへ」すかさずシュナスが前に出てひざまづく。
「ダリン様はどうするんですか?」アリヤは表情を変えることなくシュナスを見る。
「あんな悪女のことなど知らない。元はといえばあの女が悪いんだ。僕はかわいそうなんだよ」
「私の次はダリン様をお捨てになる。あなたは女をなんだと思ってるんですか?」
「いや、僕はだまされていただけで。だから君を迎えに――」
「いい加減にしてください!」アリヤの鋭い声がシュナスの耳に心地よいだけの声をさえぎる。
「忘れたとは言わせません。流行病で死に絶えた村でただひとりの生き残りだからだと、やれ奇跡の子だ聖女だと拉致同然にさらったのに小部屋に閉じ込めたのはなぜ?」
「そ、それは」口ごもるシュナスにアリヤはさらに言葉を重ねる。
「飽きた、からですよね。いざ王宮に召し上げてみれば目の前にいるのは単なる田舎娘。最初は珍獣を見るように物珍しくても3回以上は飽きるものね。そうなればあと後はお払い箱」
「そ、それはさすがに言葉がすぎるのでは」
シュナスが言い訳しようとするがアリヤと目が合うとしゅんとなって肩を落とした。アリヤがさらに続けようとすると魔王が腕をつかんで止めた。
「見ろ、大の大人が頭を垂れて子どものように泣くのをこらえている。これ以上責めるのは人としてどうだ?」
「私は人じゃなくて偽聖女だから」アリヤが口をとがらせる。
「言葉遊びはよせと言ったのはお前だろうに」
魔王はつかんだ腕を引っ張り力任せにアリヤを抱きよせる。
近づく魔王の顔。切れ長の涼しげな目がアリヤを見つめる。
「それに、お前が自分の口で自らをさげすむのを俺はもう聞きたくない」
耳元でささやく魔王の声に思わずアリヤは頬を赤らめる。
刹那、魔王は彼女をコマのようにクルクル回しながら後ろへ下がらせた。
「さて人族の王よ。飽きたのであればあのような田舎娘、とっとと村に戻せばよかったのだ。しかしお前はそうせずに王宮の北塔に閉じ込めた。なぜだ?」
「もちろん、愛しているから――」そう言いかけたシュナスがうつむいたのは、もう魔王にもアリヤにも飾りものの言葉は通用しないと分かったからだ。
「話は簡単、先日亡くなった先王の命令だ。王位継承の条件は人間界の庇護者たる聖女との婚姻。なので手放すわけにはいかなかった。先王が亡くなるまでは、な。」
「もっとも亡くなった途端すぐに追放したわけだが」とつけ加えると、魔王は杖で石畳を2回突く。それを合図に魔物たちが足を踏み鳴らし地鳴りのような重低音をとどろかせた。
「恥を知れ、人族の王よ。私利私欲にまみれアリヤをもてあそんでいたのはお前ではないか。アリヤがなにをした? なにもしていないことが罪ならば、人のことなどお構いなしに我欲のみで行動するお前はもっと罪深い。そのような大罪人が人族の上に立って治められるのか――いや、治める器がないからここに来たのだったな」
魔王の厳然とした言葉に骸骨や動く死体たちが剣や骨を打ち鳴らし歓声を上げる。シュナスはなにも言えずにうつむいたまま肩を震わすしかなかった。
「とはいえこのままひとりで帰すわけにもいくまい」手を上げて魔物たちを止めると、魔王はアリヤへふり返った。
「お前、帰ってやれ」あっさりとした言い回しにアリヤが顔を真っ赤にして無言でにらみつけると、魔王は慌てて話を続けた。
「か、考えてみろ。いま人間界は聖女であるお前の庇護が届かないため様々な厄災に見舞われている。このままこやつが手ぶらで帰っては、人間界に住まうものたちは絶望してさらなる混乱が生み出されるだろう」
そのように真面目に言われてしまってはアリヤも怒り続けるわけにはいかなかった。
自分が本当に聖女としての奇跡を持ち合わせているのかどうかは分からない。しかし、実際に大災害が起こっているのであれば、多少は自分にも関係あるのかもしれない。シュナスが自分を探しに来たことも合わせて考えれば帰らないと大災害は収まらないのかもしれない。
シュナスに目をやるとすがるような子犬の目でアリヤを見上げている。
「正直、こやつがひとりで帰り王位を剥奪され人々の前でつるし上げられようと自業自得なのだが、厄災で苦しむものたちに罪はあるまい」
魔王の声はシュナスに対する怒りより、人間界に生きるものたちへの憐れみの色が強かった。沈痛な面持ちの魔王を見て、アリヤは石畳の上で小さくなっているシュナスに尋ねた。
「シュナス様、いま人間界はどうなってますか」
「ああ、ついに僕の――」目を輝かせてシュナスはアリヤを見たが、冷ややかな目であることに気づくと肩をすぼめながら小さな声で続けた。
「太陽は隠れ、暴風が石垣も家屋もすべてなぎ倒し、河川は激流となり畑を飲み込み、豪雨が人々の心を凍てつかせる。君を追放した次の日からそれがずっと続いている」
「それだけではあるまい」魔王が催促するとシュナスはひざに手をついて頭を垂れた。
「僕が――人々が聖女を追放してしまったことで神の怒りをかってしまったに違いない。厚い雲より撃ち放たれた稲妻はまるで神の怒りそのものであるかのようにすべてを破壊した」
「なにが破壊された?」
「城壁と西塔と南塔。それに王宮の屋根や天井を。それだけではない」
「それだけではない? ほかになにを?」
「厩舎や穀倉に兵舎。それに民家、商店なども。ああっ、そしてついには」
「まさか人族も撃たれたのか?」魔王が血相を変えて聞き返す。
「いや、僕の衣装部屋が見るも無惨な姿に」
「ああ、それを先陣としたからな」なぜか魔王が胸をなで下ろす。
不思議そうな顔をするシュナスを無視して魔王はアリヤに声を投げた。
「これで自分のしでかしたことがどのような結果をもたらしたか理解できただろう。お前は人間界に帰る、それしかあるまい」
「――そうですね。私が人間界に行くしかないと分かりました」しばしの沈黙のあと、アリヤはゆっくりと口を開いた。
魔王は満足そうにうなずいたが、刹那、アリヤは彼をにらみつけたかとおもうとまたたく間にふところまで入りこんでしまった。
長いまつげに覆われたアリヤの緑の瞳がまっすぐに魔王を見つめる。頬がうっすらと上気しているのが分かる。魔王はゴクリとつばを飲み込む。
「でも私はまだ魔王さまに願いをかなえてもらってません。それがかなえば行きます」
「お前の言う幼なじみはここにはいなかった、それが答えだ」
顔を硬直させてそう答える魔王の態度にアリヤは深くため息をつくと、指を彼の目の前に突き上げてあきれたように声を出した。
「まだしらを切る気? 魔王さま――いいえ、次期魔王のヴィダーツ!」
そしてとっさに彼の左手をつかむと、アリヤは自分の頭上にその手を掲げた。その手の甲には王冠のような黒いアザがあった。
「一緒に辺境の森を走りまわっていたとき、私によく自慢してたわよね。『これは次期魔王の証。俺は次期魔王のヴィダーツだ』って。ね、ジキマオ・ウノビダツ――ジキマオさん」
魔王は腕を振りほどこうとするが、アリヤは背中を向けて背中とお尻で対抗する。
異性の体の一部が当たることに照れがあるのか、魔王がアリヤとの接触をためらっていると、偶然にも彼女のかかとが魔王のすねを直撃した。
「――ッ!!」あまりの激痛に魔王が石畳に片膝をつく。
右腕をねじられたまま身をかがませる魔王の姿は、人間の少女に屈服しているように映った。
骸骨や動く死体たちは武器を捨てると一斉に小さな少女にひれ伏し、状況を分かっていないシュナスだけがキョロキョロと辺りを見回した。
その状況をいち早く理解したアリヤは、腕をつかんだまま魔王の背後に回ると自分の全体重でのしかかった。聖女修行で身につけた護身術がここで役立ったことになる。
「痛ッ。分かった、降参だ、まいった。腕がねじれる!」
「なにが分かったのか言ってもらってからでないと。本当ははじめから私のことを覚えてたのよね?」
「ああ、そうだ。アザを見られてまずいと思っていた。それより5年ぶりの再会がこれでよいのか我が友よ」
「我が友、ですって!」
魔王を突き飛ばすとアリヤは胸元からロケットペンダントを取り出しチャームを開いた。そこには小さな花指輪――鮮やかであったろう緑色は失われ、小ぶりの花の原色も抜けていたが――が飾られていた。
アリヤにそれを見せられた魔王は頭を押さえ首を振りながら息をもらした。
「ヴィダーツ。あなた、私に3つも嘘をついたのよ。1つ、私のことを知らないふりをした。2つ、自分の正体を隠した。3つ、5年前の約束がなかったかのように私を友と呼んだ」
「当たり前だ。5年前といまではあまりにもお互いの立場が違うのだ。お前は人族、俺は魔族。俺たちはそれぞれ帰るべきところがある。だから俺はお前をそこに帰そうと必死だったのだ、分かれ」
「いいえ、分からないわ」アリヤは肩をつり上げてはっきりと否定した。
「それなら5年前に父も母も死んでどうでもよくなった私をなぜ助けたの。谷へ飛び降りたときに助けなければよかったのに」
「馬鹿を言うな!」間髪入れずに魔王が大声を出す。
これまで冷静に振る舞っていた魔王の怒鳴り声にアリヤが目を丸くする。ヴィダーツは青白い顔を紅潮させて続けた。
「そんなこと、できるわけがなかろう」
「どうして?」
「なぜもどうしてもない――」アリヤの冷静な返しにヴィダーツは急に口ごもる。
白から赤、そして青へとめまぐるしく顔色を変えるヴィダーツの姿を見て、アリヤはチャームの中の花指輪に視線を落とした。
「あのとき、ヴィダーツが真剣に叱ってくれたから死ぬのは間違っていると思った。そう気づかせてくれたあなたにお礼をしたいと言ったら、あなたはこれを渡してなんと言ったか覚えてる?」
視線を戻すとヴィダーツはそっぽを向いていた。アリヤはくすりと笑った。
「『ならば俺の嫁になれ』。まだこんな小さな子どもなのに」
手のひらを胸の位置に置いて背の高さを見せていたアリヤだったが、急になにかを思いだしたかのように顔を暗くすると緑色の目を何度も瞬いた。
「――でも、私はすぐに返事をできなかった。恥ずかしかったから。なので次の日に返事をすると言ったのにそれきり会うことができなかった。シュナス様に召し上げられたから」
「ああ。あの日はいつ来るのかと丸2日待ったな。だがお前は来なかった。それで思った。所詮、魔物の子は遊び友だちとしか思われていなかったのだと」
「なら僕と」ここぞとばかりに口をはさむシュナスに、
「「あなたは黙ってて!」」
アリヤとヴィダーツは同時にふり返って指を指すと、シュナスは首をすくめて目をうるませた。
叱られた子犬のようにしょげているシュナスを見て、アリヤもヴィダーツも冷静になれたのだろう。
アリヤは胸の前で指をもじもじさせ、ヴィダーツはわざとらしく咳払いをした。
「で、だ。俺がお前の境遇を知ったのは人間界での婚約告知の時だ。ああなるほどと思った」
「私が裏切ったと?」小さく尋ねるアリヤにヴィダーツは首を横に振る。
「相手はこの男。こやつの女癖の悪さは魔界にまで聞こえてきている。先王は女癖の悪さを直さなければ人間界が傾くと憂えたのだろう」
「だから私と結婚しなければ王位を継いではいけない、と」アリヤの声にヴィダーツは大きくうなずく。
「ところが先王が亡くなったところでこの始末だ。先王もさぞ無念だろうよ」
ヴィダーツがアリヤの方にふり返ると、マントがひらりと舞ってシュナスの鼻先をかすめた。
「はわわ」と声を上げて尻もちをつくシュナスを目の端で認めながら、アリヤはヴィダーツの顔を見上げた。
5年前の子どもの頃には立派な2本の角は生えていなかった。青白くて、手足だけ長くてひょろひょろしていて、何かあれば「俺は次期魔王だ」と偉ぶっていて、それでいて銀色の髪はいつもさらさらでいつも輝いていた。
いま目の前にいる魔王ヴィダーツに5年前の面影を重ね、アリヤは変わっていない部分を見つける。
いつもアリヤだけを見続けてくれる優しい灰色の瞳。その瞳が彼女をとらえて放さない。
ここに来て、彼を見て、5年の歳月が一瞬にして氷解したときに感じた緊張は、怖いような、泣きたいような、それでいて、懐かしいような、すぐに駆け寄りたいような、でも拒絶されたらどうしようという、いろいろな感情がない交ぜとなったものだった。
その緊張が、もう一度彼女を飲み込もうとしていた。
「それは分かったけど、それで?」できるだけ心の内を顔に出さないようにと、アリヤは修道服の端を握りしめる。
ヴィダーツはアリヤを見つめたままゆっくりと歩き始めた。
「人族には人族の、魔族には魔族のそれぞれの生きる世界がある。こやつが心入れ替えてお前を幸せにしてくれるならそれでよいと思った」
「そうでなければ?」
「49の魔族を統べる魔界の長として、昔なじみへの仕打ちにそこそこのお礼をさせてもらうつもりだった。ところがお前はそのどちらでもなかった」
「と言うと?」アリヤの言葉に魔王は足を止め、肩越しにふり返る。
「人族の王が幸せにしてくれないと泣くわけでもなく、人族に追いやられて悲嘆するわけでもない。どうせなら最後に俺に会いに行こうとひとりで魔界に入ってきた――まあひと言で言えば馬鹿だな」
そして目尻に笑いをにじませながらヴィダーツは鼻で笑ってみせる。それはアリヤをカチンとさせるのに充分だった。
「バカって酷くない?」
「酷いものか、馬鹿に事実を言っただけだからな。本当にこいつは馬鹿だと思った」
「こいつ呼ばわりされる筋合いはないんだけど?」
「はは。そういう強気なところ、本当に5年前と変わっていないな。思ったことをすぐにやってしまう、危なっかしいんだよ、お前は」
アリヤが思わず息をのんだのは、ヴィダーツの瞳に5年前と同じいたずらっぽい少年の輝きを見たからだ。
5年前と変わっていない。
森の中を走るのも木を登るのもアリヤにかなわなかったヴィダーツは、それでも彼女がひざをすりむけばすぐに駆け寄って回復魔法をかけ、親に叱られたと泣けばなにも言わずに頭をなでてやった。そして、5年前の最後の日、流行病で両親を亡くしたアリヤがすべてに絶望して魔境の谷に身を投げたとき、すぐさま飛び降りて彼女の身を守ったのもヴィダーツだった。
「だが5年前と違うのは、俺は魔王でありお前は聖女ということだ」
ヴィダーツの声がアリヤの意識を現実世界へと引き戻した。
いま目の前にいるヴィダーツは49の魔族を従える魔界の王であり、人間界と世界を二分する魔界の支配者だった。この5年間で彼は、アリヤと辺境の森を走っていた少年から魔王へと変わっていた。
「魔族と人族が相容れないのは理解できるな。魔王と聖女となればそれはなおさらだ。お前は聖女として神の恵みが人間界にあまねく降りそそぐよう祈り続けなければならないのだ」
ヴィダーツは腕を広げて誰かに言い聞かせるように語る。そのわざとらしいしぐさに違和感を覚えたアリヤがヴィダーツの顔をのぞき込もうとすると、彼はマントをたぐり寄せて顔を隠した。
黒いマントに邪魔されてほとんど見ることはできなかったが、それでも左眉だけが上がっているのをとらえたアリヤは一瞬にして気がついた。
ヴィダーツが左眉だけ上げて話すときはどんなときだったのか?
それはヴィダーツが「俺は次期魔王だ」と強がりを言うときに決まって見せるクセ。
彼は5年前と変わらない――アリヤの顔が無意識のうちにほころんだ。
変わらないのであればあの頃と同じように話せばよい。王宮の礼儀作法も聖女としての所作もはじめから必要などなかったのだ。それをお互いに意識しすぎるからややこしいことになるのだ。
アリヤは大きく息を吐くと、顔をマントで隠して様子をうかがうヴィダーツに指差して言った。
「そんな建前だけで5年前の約束を反故にする気なの?」
小さな体を精一杯大きく見せようと胸を張るアリヤは、大きな体を縮こませるヴィダーツに近寄るとマントを強く引っ張った。
「次期魔王の約束ってその程度だったの? 人族の王であるシュナス様ですら直前まで私と結婚する約束を果たそうとしたのに」
「い、いや。そ、そやつは反故にしただろう」マントから少しだけ顔を出しながらヴィダーツが反論する。
「確かにそうよね。つまり私の知っているヴィダーツはシュナス様と同程度だったということね」
シュナスの名前を聞いてヴィダーツの体がびくりと反応する。
しばしの沈黙。そしてアリヤがマントから手を放すのと同時にヴィダーツが声を張り上げた。
「くそ、いまいましい。だから俺は何度も人間界に戻れと言ったのだ。それをお前はことごとく拒否したくせに。いいか、俺も男だ。惚れた女が目の前にいていつまでも善人でいられると思うなよ!」
全身を覆っていた漆黒のマントを放り投げると、ヴィダーツは食いつかんばかりにアリヤをにらみつけた。
顔を寄せるヴィダーツから離れたアリヤはくるりと回ってお辞儀をすると、次の瞬間には石畳を跳ねて彼のふところに入りこんだ。
「私の知っているヴィダーツは、善人ではなく『俺は次期魔王だ』が口癖の悪ガキだったわ」
「いいか最初で最後だ。俺は幾度も機会を与えた。人族は人族の中で暮らすのが一番だ。お前はそれを捨てる覚悟があるのか?」
「ずるい言い方。まさか自分じゃ決められないからって最後は女の私に言わせるつもりだったりするわけ?」
「馬鹿を言うな。ならば俺は自らの欲望に忠実になろう。一度とらえたら最後、その身が朽ち果てようとも人間界には戻れぬものと心得よ」
芝居がかったヴィダーツの声。日陰族特有の青白い顔のまま、耳の先を真っ赤にしている。それを悟られないように大声を出していたが、そのわざとらしさが返ってアリヤの笑いを誘った。
本当に、本当に最後の最後まで見栄っ張りなんだから――アリヤの口元から自然と笑みがこぼれる。
「あはは、回りくどい。魔界の辺境を走りまわってたじゃじゃ馬にそんな回りくどい告白が分かると思っているの、ヴィダーツ?」
「理解した。最後まできちんと言えというのであればはっきりと言おう」
杖を捨ててヴィダーツがアリヤの肩を力強くつかむ。
あっ、と思った時にはヴィダーツの顔がアリヤに近づいていた。
ヴィダーツの灰色の瞳には、戸惑いを見せつつまっすぐと見つめるアリヤの顔が映っていた。
「5年前の求婚、受けてくれるか?」
息の当たる距離、5年前の時を超えて、あのときと同じ声でヴィダーツが尋ねた。
一瞬にして5年前の記憶がよみがえるアリヤ。
崖の上から身を投げた彼女を空中で抱きしめたヴィダーツは、崖に生えていた枯木をつかんで谷底への激突を防いだ。
そしてアリヤを担いで崖をよじ登ったあと、大粒の涙を流して謝る彼女にヴィダーツは言った。
『ならば俺の嫁になれ。俺がお前の家族になってやる』
左眉だけ上げて格好つけて笑うヴィダーツだったが耳の先だけが赤い。アリヤが返事をできずにいると、彼はますます耳を赤くして足下の小さな白い花でなにかを作る。そしてなにも言わずにアリヤの手を取ると、薬指に花指輪をそっとはめた。
――そのときの、照れてるような、怒っているような、困っているような顔がいま目の前にあった。
胸が熱くなるのを頭が理解するより先に、アリヤの感情が口を突いて出た。
「どうして私がここに来たと思う? それが答えよ!」
アリヤがヴィダーツの広い背中に手を回す。それに応えるようにヴィダーツがアリヤの細い体を強く抱きしめる。
石柱のかがり火が次々と灯りゆらめき、線となり輪となりふたりを照らす。
赤く燃える炎が作り出す影から、わらわらと骸骨と動く死体たちが飛び出し、魔王城の最深部で結ばれた男女へ手をたたき足を踏み鳴らし喝采を送った。
シュナスだけがなにが起きたのか分からず、呆然とふたりを見ていた。
※ ※ ※
「――おおよそこのような流れとなります。いかがでしょうか、魔王様、王妃様」
暖炉に炎に照らされたリュートをはじく手を止め、耳長族の男がふたりを仰ぎ見る。
ふたりで住むには広すぎるが魔界を統べる支配者とその配偶者の居所としては小さすぎる館の一室で、ソファに座るヴィダーツはばつが悪そうに頭をかいた。
「いかがもなにも話を盛りすぎだ。これでは全員、性格破綻者ではないか」
「そうかしら。この手の話はこれぐらいの方が聞く人が喜ぶわよ」横に座るアリヤがにんまりとほほ笑む。
「いやしかし。これではあの代理王がいささか可哀想では」
「けど実際にこうだったんだし仕方ないんじゃない?」顔をしかめるヴィダーツに指を向けるアリヤ。
「いくら懲らしめるためとはいえ雷雨魔法など少々やり過ぎたと反省なのだがなあ」
「ええ、後で種明かしを聞かされたときは本当にびっくりよ」
「ああ、そこだけは本当に反省している。人族が死ななかったのが幸いだ」
目の前にあるアリヤの指を握ってひざの上に置きながらヴィダーツは頭を下げる。
アリヤが人間界から追放されたと知ったヴィダーツがまず始めに行ったこと。それは魔界中の魔法使いを人間界に送り込み、あらゆる厄災をまき散らすことだった。ただし、人族の命は奪わないようにと厳命して。
「この詩の終わりについてなのですが、おふたりは魔界の辺境、つまり人間界の辺境にお住まいを移された、で結びたいと考えております」
「代理王の体面も考えてやらねばな。仔細は任せる」
「とっても素敵な物語だわ」
「そうか? こんなものをわざわざ作るなど俺は――」
ヴィダーツの声が途中で止まったのはアリヤの表情が一瞬にして変わったからだ。アリヤの紅茶色の髪が逆立つ前に彼が耳長族に視線を送ると、男はわざとらしく咳払いをした。
「お取り込み中のところ申し訳ございません、王妃様。実は王妃様よりお聞かせいただきましたなれそめでひとつだけ分からないことがございまして。これを解決せねばこの詩を謳い歩くことができません」
男の言葉にふり返ったアリヤは、自分がヴィダーツを押し倒そうとしていることに気づき、慌てて居住まいを正した。
「ごめんなさい。それでなんだったかしら?」
「実はその――王妃様は本物の聖女様だったのでしょうか。それとも……」
その問いに、アリヤとヴィダーツはふたり見つめ合うと声を上げて笑った。
「「それが分からないのがこの物語の面白いところよ」」
ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。
これにてアリヤとヴィダーツ(そしてシュナス)の物語は終わりとなります。
少しでも面白いと思っていただけてましたら嬉しい限りです。
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