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何も知らない田中

作者: 杉谷馬場生

 田中は頭が悪いわけではないが何も知らない。

本なども読まないしそもそも漢字が苦手である。

学生時代も成績はなんとか留年を免れる程度の低空飛行でなんとか卒業できたくらいである。

改めて書くが地頭が悪いわけではない。ただ知識が著しく乏しいのである。

それで本人が苦労しているかというと特に苦労しているわけではない。生活に支障はないしむしろ何も知らないからこそ気楽に生きれている部分がある。

例えばある日、田中の住んでいるアパートが火事になった。

火元は田中の部屋の隣で田中の部屋も類焼したのだが田中は火傷ひとつ負わずに無傷で済んだ。

無論、気づいてすぐに逃げたとかそう言ったことではない。

「隣が火事」という自覚がなかったのである。正確にいうと「火事」を経験していなかったので知らなかった。

彼にとって知らないというのは何も起こってないのと同義である。彼にとって知識がないのは世間が狭い訳ではなく、むしろ知らないからこそ何も気付かずに身体に被害も被ることがない。

田中はその時火事というものを知らなかった。部屋が燃えていようともそれが何か知らなかったので自分の部屋が梁だけになってしまっていても、平然とその中で寝ていたのである。ちなみに被っていた布団も燃えていなかった。

そういう意味で田中にとって知らないということは大きな武器でもあるのである。しかし当然ながらその田中独自の理論も田中自身にはわかっていない。

さて、唐突に話は進むが田中は陽の当たらぬ荒野に佇んでいる。

田中は着の身着のままにこの地に降り立った。周りに人は誰もいない。

田中は袖なしのランニング姿でジャージ素材のハーフパンツを履き、サンダルである。これは部屋着である。

その姿で田中は少し寒いなと思っている。少し寒いなくらいにしか思っていないことがそもそも異常なのだ。

田中がいる場所はそもそも地球ではない。田中は月面に立っている。

なぜ月面に立っているか、それは田中が宇宙を特集しているテレビをふと見たことから始まった。

番組の冒頭に月面が映った。その広大無辺ぶりに田中は感動してしまった。そして行きたいと思ってしまったのである。

ここで普通の人ならば手順を踏むだろう。そして現実を知り、諦めるかもしれない。

しかし田中は何も知らない。どうやって行くのかも知らないし、地球の外にあることも知らなければ月には酸素がないことさえも知らない。

そして行き方を調べることさえも知らないのである。

普通はそれで終わるだろう。しかし田中は「知らないことを知らない」のでなんとなく行ってしまうのである。

どうやって地球を離れたのか。田中はなんとなく電車に乗った。田中は電車こそ万能だと思っている。万能な乗り物は他にもいろいろあるかと思うが、田中は電車を心底信じている。

そう。田中は何も知らない代わりに信じる心が強いのだ。

田中はなんとなく乗った電車で月に行けると信じた。信じて疑わないので心から信頼し、眠った。そして起きたら無事に月に辿り着いていたのである。そのメカニズムは凡人の想像を遥かに超えており、科学的解決法は無い。

当然月には酸素はない。しかし田中は月に酸素がないことを知らない。そもそも酸素を意識していない。なので田中は平気である。さらには重力の問題も知らないから地球と同じ感覚で歩いている。

「コンビニも何もないなぁ」

普通に喋っている。

田中はしばらく歩いていた。どこまで行っても何もない月面である。最初は見知らぬ土地(月)の光景に興味津々だった田中もいつまでも変わらない風景に飽きてきた。それに腹が減ってきたので帰りたくなってきた。

元来た道を戻ろうと思った。と言っても道などないのだが、初めに降り立った場所に戻ろうと思った。いずれ電車が来るだろう。本来ならば来るはずもないのだが、田中は電車を心底信じているので待つ事にしたのである。

そうして戻ろうとしたところ、遥か先に人影が見える。人影は二つあった。何もない場所に人影が見えたので田中は少し嬉しくなった。

田中は人影に向かって駆けた。月面なので本来はフワフワした移動しかできないはずだが、田中はそんなこと知らないので普通に駆けた。

「おーいおーい」田中は人影に声をかけた。

これにビックリしたのは人影の方である。

人影は大国の宇宙飛行士であった。当然宇宙服を身にまとい、月面探査のために月面に降り立っている。二人の宇宙飛行士は多くの訓練をこなし、充分な装備を経てようやくこの月面へと辿り着いたのだ。そんな感慨もひとしおの所に宇宙服も着ていないランニング姿の明らかに地球の男性と思われる物体がこちらに声をかけながら近づいている。これで驚かない方がおかしいというものだ。

「なんだあれは!」宇宙飛行士の一人が叫んだ。名はルイスという。

「宇宙人ではないようですね」ともう一人が呟く。驚きすぎて逆に冷静になってしまっている。こちらの名はニコルという。

田中は最初は人を見つけた事に歓喜していたがやがて顔を曇らせていった。見つけた二つの人影はモコモコとした服を着ていてぬいぐるみのようだった。本来は顔が見えるべき所は鏡のようになっていてどのような表情をしているのかわからない。田中にとってはそもそもなんであんな服装をしているのかが皆目わからなかった。

そうして最初は疑問に思った田中だったが、やがて「ファッションなんて人それぞれさ」という月面では本来通用しない理屈で納得した。

「こんにちは!」田中は二人に元気よく挨拶した。

「おい喋ってる。空気のない中で喋ってる」ルイスはニコルに囁いた。驚きすぎて逆に冷静になっているニコルは田中に向かって「こんにちは」と返した。本来、この場面ではお互いの言語が違うはずなのだが、物語を潤滑に進めるために言葉についての障壁はないものとする。もしかしたらこれも田中の「知らない故の強み」なのかもしれない。

「君はかなりラフな服装だね」ニコルは田中に質問した。

「テレビで見てとても綺麗だったから勢いで来ちゃって」

「なるほど」ニコルは頷く。「それで君は平気なのかい?」

「平気って何が?」

「空気とか重力とか気温とか」

「クウキ?ジュウリョク?キオン?」

「知らないのか!」叫んだのはルイスである。

「知らないからわかんない」

「いやいやいや!」ルイスは続ける。「わかんないからってどうにもならんことはあるだろう!アンタこの服装で平気なわけがない!普通は死んでるよ!空気も何もないんだぞ!俺たちが馬鹿馬鹿しく思えてくる!なんなんだアンタ!」

一気に捲し立てられて田中は不安になった。何故かわからないが怒られている。クウキ?キオン?何故だがわからないが今の田中の服装では本来ここでは生きられないらしい。田中の知らない強みが揺らいだ。新たな知識は本来有難いものなのだが、今の田中にとっては危険なものだった。

少しずつ苦しくなってきた。寒さが増してくる。田中に危機が迫ってきた。

その変化に敏感に察したのはニコルである。わずかな会話しか交わしていないがこの男は何も知らないのだ。知らないからこそ平気なのだ。信じられないことだが、この男にとっては知らないことこそが強大な力なのだろう。

ニコルは大急ぎでルイスの言葉を否定した。「嘘嘘嘘!この人の言ってることは嘘!大丈夫!今の君平気!ナイスファッション!カジュアル!最高!今の君が一番最高!」

「おいニコル!何言ってるんだ!」

「ちょっと黙っててください!君!この人は嘘言ってるから!」

「本当?」

「本当本当!君は今が一番!むしろ我々が馬鹿!大馬鹿!」

そうしてニコルは本来は絶対してはいけないことをした。しかしここまでしなければ田中を助けることは不可能だと思ったのだ。

ニコルはヘルメットを脱いだ。「ほらほら!平気!ね!」

「うわ!ニコル!お前!」

月面でヘルメットを脱ぐなど本来自殺行為である。しかし目の前にその常識を覆す存在がいる。ニコルはそれに賭けた。全てを忘れて自分を信じた。顔面はすこし寒い気がしたがなんとか平気だった。忘れるというのは凄いとニコルは思った。

「ほら、僕も平気だ。だから君は正しい」

「本当だ」

「このおじさんも平気だ」ニコルはルイスに話を振った。

「え!私も!」

「全てを忘れるんです。そして自分を信じるんです!」ニコルはルイスに囁いた。

ルイスはニコルの言われた通り、月面における全てのことを忘れた。そして忘れた自分を信じてヘルメットを脱いだ。ルイスもまた、思っていた以上に平気だった。

「平気だ。私も平気だ」

「ほら、僕たちも平気だ。だから君は正しい」

「ああ良かった。てっきり僕は間違っているかと思った」

「間違っていない。むしろ凄い」

「凄いんだ。そうかぁ」

「ところで君はどうやってここまできたんだい?」

「電車で来たんだよ。電車はどこにでも連れて行ってくれる万能な乗り物だからね」

「いや、そんなバ…」

バカなと言いそうになるのをルイスは堪えた。ここでまた常識を行ったらまた危険に陥る。

「それでは君はまた電車で帰るのかい?」ニコルが尋ねる。

「そうだよ。ほら」

月面の荒野の向こうに光が見える。それは6両編成の各駅停車の電車だった。ルイスとニコルはその異常な光景を異常と認識しないように自分に言い聞かせながらその風景を見守った。

電車が停車すると「じゃあ僕は帰るよ」と田中は電車に乗り込んだ。ドアはまだ開いている。ルイスとニコルはこの電車に乗ったらどうなるのだろうという好奇心に駆られた。乗ってきたシャトルもある。いろいろなものを残す事になる。しかし目の前の電車と田中を見てしまった以上、それらのものはどうでも良かった。

「我々も乗ろうか」

「そうですね」

ドアが閉まり、電車が動き出した。


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