ひので
ひので
差すような冷たい空気が肺に充填され、白い滑らかな息に変換される。ささくれた指先が冷え切っているのを感じ、肩を震えさせながら消えていく靄を虚ろに眺めている。
「なんでこんな…。」
誰に向けたでもなく零れた文句は力なく白い靄と一緒に消えてしまう。
「初詣? 」
雪が降り積もった窓をしり目に、灯油のにおいが薄らいだ頃合いでそう切り返した。その場に鏡は無かったが、さぞ偏屈な顔をしていたことだろう。声色は「私はそれに参加したくありません。」と露呈していた。というのも、ひとえに、白露寺はこの灰色の寒空の中、冷え切った手を擦って白い息を吐きながら出向く場所ではないのだ。初詣というのは新しい一年の多幸を神にねだるべく行うものであり、もっとゆとりをもって行うべきだ。ひいてはこんな氷点下4℃の銀世界を行くものではない。と心中にどっと溢れた冷たさを胸に閉じ込め、今年こそは行く、一人でも行くと言ってきかない祖母についていくことにしたのだ
。
白露寺はこの町で一番高い奥山の頂きにある。日ごろは、わざわざ険しい山道を登ってまで参拝する熱心な信者など居らず、気味悪くすら感じる小さな寺であるが、この大晦日の一夜限りは雪化粧をこしらえ、美しいと評判のちょっとした観光名所に化ける。そういうわけで、この日限りの巡回バスに乗り込み向かうのだが、同乗する参拝客は誰一人として顔見知りなので、ばつが悪いのである。五つくらいの頃は無邪気に挨拶をしていた気がするが、今となっては会釈をするのみ、ぎこちない笑顔で顔を合わせるのである。この空間が厭わしくここ数年は白露寺の初詣に参拝しなかった。腹をくくり赤紙でも届いたのかと言う面持ちで苔むしたバス停でバスを待ち呆けていた。一筋、視界の隅に赤い光が、曇り切った眼鏡を通って走る。眼鏡を首に巻いていた自分のマフラーに擦りつけ、紅一点、その視界に際立って異彩を放つ赤のマフラーを巻き付けた人型を視認する。彼女で間違いない、間違えるはずがない、ただどうして、それを認めざるとせん自分の醜い一志を破り、
「あの! 」
と声をかけてしまった。彼女は振り返る。その顔を見ることはできない。今どんな表情をしているのだろう。怒りに顔を歪めているのかもしれない。聖母のような優しい微笑みを浮かべているのかもしれない。あるいは…
無表情。
そこにあったのは何の心象も読み取れない虚無の顔。かろうじてこちらをじっと見ていることは分かってしまう。後悔が脳裏になんども過る。そりゃそうだ、覚えているはずがない。もう何年も前のことなのだ。当時の大晦日の雪が目の前の雪玉とリンクする。色あせた記憶が徐々に色づき、赤のマフラーがより一層彩度を極め、眼がしらに熱を感じさせる。俯いてしまった、その頭上から
「ひさしぶり。」
そう言って彼女は張り付いた鉄仮面を脱いでいた
。
バスの中は暖房が効いている。眼鏡が曇ることも無くなり、改めて彼女が彼女である事実を認識する。あろうことか彼女は一つ前の席に腰を下ろし、祖母と座れる席はその真後ろのみであった。珍しく今年は遠方からの観光客も同乗しており、車内は騒がしく、とまではいかないものの、賑わいを見せていた。彼女になんと声を掛けようか考えているうちに周囲の音が大きくなっていく。顔は絶対に火照っていた。汗腺が開く感覚がチクチクと体中を巡り、額には汗をかいていた。右隣りにはカップルが座っていて、望まず耳に流れるその会話はさらに事を大きくした。
「ねぇ。」
「はい。」
とっさに返事をしてしまった。彼女は完全に前を向いているのに背後にいる自分が返事をするのは誰に言われるでもなく、陳腐であるように感じた。すると彼女は振り返った。今度は俯く暇も与えず。
「初詣、一緒に行こうか。」
バスの中は暖房が効いている。
長いようで短い遊覧を終え、いよいよ白露寺に到着した。同乗していた観光客は興奮気味にスマートフォンで撮影に勤しんでいる。「行こ。」と手を引かれ「どこに?」と切り返す。
「どこが良い?」
「うーん…。」本当にどこがいいのだろう。
「無難に分堂から回ってく? 」ナンセンスかもしれないがこういう時は無難が一番である。
「じゃあこっち、行くよ。」彼女はまた手を握ってきた。不思議と、白露寺の境内は寒さが全く感じられなかった。それどころか暑いとまで感じていた。もうバスから降りているというのに、汗は止まらなかった。
五つの分堂、一つの本堂で構成された境内を巡るのはあっという間であった。一つずつ、分堂の鐘をつき、降り積もった雪を踏み分けいよいよ本堂であるというときに、他の分堂とは少し隔たれた場所に建立した見慣れない分堂が目にとまった。「あれ、こんなところあったっけ。」分堂は全部で五つのはず、加えてこの分堂は長らく人が立ち入っていないような、風化した様子であった。されどその姿は美しく、白い化粧を纏ったなんとも妖しく人を惹き付ける魅力を感じた。無意識の下、右足、左足、とゆっくり距離を詰めていく。その恐ろしさに気圧されるものの、もう踏みとどまれない領域まで来てしまった。途端、首を絞められるような感覚に襲われ、マフラーを抑え声にならない声を上げてしまう。反射的に振り返るとそこには、マフラーの末を掴んだ彼女がいた。その手には明らかに力が入っていて、少しばかり血管が浮き出ている。何が起こったのか分からないまま彼女の顔を見上げると、彼女は先程までの薄い表情とは打って変わって、瞳孔が開ききった凄んだ表情であった。
「そっちはダメ。」
彼女はそう言ってマフラーの末を掴んだまま手を本堂まで引いていった。
先程のカップルの後ろで本堂に並ぶ。その一列はまっすぐに伸びていて、こんなに人がいたのかと思うほどであった。並んでいる間、彼女の顔を見ることはできなかった。なにか良くないことをしてしまったのでは、と悔やんでまた、今度は冷たい涙が、角膜を覆うようだった。カップルが聞いているだけでくすぐったくなるような愛を願い、もはやそれにどぎまぎする余裕もなく、いよいよ鐘をつく。一礼して、小銭を投げ込み、しめ縄を両手でつかんで体ごと退く。鐘と撞木が激突する瞬間、彼女は何かを呟いた。そのか細い声が鐘の轟音に勝るはずもなく、かき消されてしまう。
「今…。」
彼女は何も言わずに振り返って列を外れていった。
帰りのバスの話である。依然として気が滅入っていて、それでも必死に自然な笑顔で談笑していた。そのとき祖母はずっと菩薩のように優しくほほ笑んでいたことを覚えている。バスから降り、再び息は白く染まる。沈んだ気分の中、彼女は
「その赤いマフラー、似合ってる。あたしのとそっくり。」と笑いかけた。どういう顔が正解なのか分からず、ただ
「ほんと、あたし達そっくり。」と笑った。
熱が指先に戻っていく感覚がした。彼女が暫時、目線を逸らし、後ろを指さす。斜陽に照らされた彼女を後目に振り返る。日の出。うざったいくらい燦として輝く光の塊。目がくらみ視界が金色に染まる。手でそれを隠し、
「初日の出だねー。」と話しかけた先には、祖母がたった一人、手に息を吹きかけているばかりであった。