千年の大樹
新年の粉雪舞うキャンパス、その中でもひときわ静かな片隅に、日比谷教授の環境倫理学研究室が佇んでいる。
美樹は、ただぼんやりと、ゼミ室の中で、本を広げて眺めていた。
『尊厳死の倫理』
それを見た織田先輩は
「あれ?越後さんの卒業論文って、尊厳死がテーマだっけ?」
と、怪訝そうに尋ねた。
「あ、いえ、もしかしたら、関係あるかもって。」
「ふうん。」
日比谷教授がゼミ室に入ってきた。
「皆さん、お昼休みの時間ですよ。午後は、ええっと、今日は織田君の発表の番でしたね。公害病のトラウマについて、面白い記事を見つけたそうですね。楽しみにしていますよ。」
「はい、公害病に対して、どのような償いがされるべきか、とても考えさせられる記事でした。」
これを聞いて、美樹は妙な胸騒ぎを覚えた。
公害病ではないものの、美樹は幼いとき、兄の大樹を亡くしていた。
ただ、なぜ大樹が死んだのか、それはわからなかった。両親に聞いても、教えてくれなかったのだ。久しぶりの帰省の際にも何気なく大樹の話をしても
「大丈夫、大樹お兄ちゃんは、美樹のことをずっと見守ってくれているよ。」
と、母は言うだけだった。
美樹は昼食を終えると、キャンパスのすぐ脇を流れる小川の、樫の木の下のベンチに腰掛け、一冊の本を開いた。
『美輪健介のスピリチュアルな格言』
これが文学部生の美樹に似つかわしい本かどうかは重要ではない。重要なのは、これが看護学科の旧友、凛からもらった本だということだ。
「辛いことがあって、さらにその同じ辛いことを経験している他の人が目の前にいるとき、一番優しくなれるのはあなたなのですよ。」
美樹にとって、この場所は唯一、本を音読できる場所だった。
「そっかあ。でも、私なんてただ評論してるだけだし、本当に優しくなれるのかな?」
風がざわざわと樫の木の葉を揺らした。かすかに雪が降っており、空は相変わらず曇っていた。
やがて昼休みが終わり、織田の発表が始まった。
美樹はただ、ぼんやりと織田の発表を聞いていた。確かに、織田の紹介する記事は今までにない視点を提供しており、とても読者に考えさせる余地を与えるものだった。しかし、美樹にとって、この記事に対して自分の考えを述べるだけでは、何かが足りない気がしたのだ。
「織田君、ありがとうございました。他に質問や意見はありますか? 特に、来年度から大学院生になる越後さん?」
「あ、いえ、特にありません。」
「そうですか。卒論で忙しい時期かもしれませんが、くれぐれも先輩方のご意見にも耳を傾けてくださいね。」
ゼミが終わり、一人暮らしの部屋に帰る途中、凛と待ち合わせをしていた。
「美樹ちゃん、ごめんね。今日、ご飯を一緒に食べる予定だったのに、ちょっと熱っぽくって。」
「え?大丈夫?病院まで付き添うよ。」
美樹と凛は十年来の旧友だった。
ぼんやりとしか覚えていないのだが、美樹は小学校高学年のときに転校しており、その後もあまり口数は少なく、ただ本を読みふけるような少女だった。そのような中でも数少ない、何でも話せる友達が凛だった。二人は姉妹のように仲がよく、中学、高校、大学と、ずっと同じ学校に通う仲だった。
美樹は凛と一緒に自転車を押しながら、病院へ向かった。
「凛ちゃん、卒業したら、献血ルームで働くんだよね?」
「うん、旭川の献血ルームで。」
「旭川って、日本でいちばん北の献血ルームなんだよね。」
美樹は、幼い頃から、冬になると風邪を引きやすい凛の体質のことを知っていた。
「大丈夫。世界の誰かを助けられる献血、その一役を担えるなんて、光栄なことだから。献血のためなら、どこにだって喜んで行くよ。」
いつも気丈に振る舞う凛の姿も、幼い頃のままだった。
そんなことを話しているうちに病院に着いた。
「越後さん、お付き添いありがとうございました。肺炎の可能性があるので、詳しく検査します。今日はもう夜遅いですし、気をつけてお帰りくださいね。」
看護師にそう言われ、美樹は自宅の布団の中にうずくまり、目を閉じた。
「ねえ、***さん、答えてよ!誰か助けてくれる人はいないの?」
そう言って美樹は何物かを必死に揺すっていた。ただ、何を揺すっていたのかは、思い出せなかった。
「ねえ、***さんなら、誰が助けてくれるかわかるでしょ?」
本当にそう叫ぶか叫ばないかくらいのところで目が覚めた。夜中の三時だった。
ふと、美樹は凛からもらった本を取り出し、ページを開いた。
「悪い夢を見て眠れない夜もあるかもしれません。でも、そんな夜も、決して無駄ではありませんよ。悪い夢を見ながら、あなたは、一生懸命に、頭の中を整理しているのです。これを越えたら、あなたは一段と強くなっていますよ。」
「頭の中を整理、ねえ。。。お兄ちゃんが死んだときのこと、そう、たしか、お父さんが慌てて帰ってきて、それから、それから、、、だめだ、思い出せない!」
美樹には、兄が死んだときのことがあまりにショックだったのか、その時のことを思い出そうとしても、思い出せないのだった。
そんな考え事をしているうちに、気づけば美樹は安らかな眠りについていた。
翌朝、病院の開院時間になったとき、やはり気になって、電話をかけた。
「越後です。海老原凛さんのことなのですが、」
「ああ、越後さん、昨日はお付き添いありがとうございました。海老原さんを詳しく検査したところ、悪質なコロナウィルスに感染しているようでした。命に別状はありませんが、大事を取って、しばらく入院が必要そうです。電話番号をお伝えしますので、いつでも電話をかけてあげてくださいね。親友の励ましは何よりも病気に立ち向かう力になりますから。」
電話を終えると、美樹はキャンパスへ向かって自転車を走らせ、黙々とパソコンに向かって卒業論文の執筆に取り組んだ。ただ黙々と。他の学生の雑談を気にかけないのはいつものことだったが、今日はひときわ、強く作業に集中しているようだった。
「越後さん、頑張ってるね。作業は順調?」
「あ、織田先輩、もうすぐ最初の査読がありますから。あと少しで形になりそうです。」
「さすが!でも、あまり根を詰めすぎないようにね。」
昨日のこともあってか、美樹がやや無理をしているところが、織田の目に止まったのかもしれない。
昼休みには、相変わらず樫の木の下に腰掛け、例の本を開くのだった。
「直接に困っている人のことを助けられなくても、あなたの行いが救いになることはあります。たとえば、飲酒運転で家族を失った遺族にとって、少年たちに過度の飲酒の危険を訴えるあなたの姿は、ヒーローのように見えるものです。」
午後も、美樹はひたすら黙々と執筆に取り組んだ。
「執筆完了!日比谷先生、査読をお願いします。」
そう言った頃には、時刻は夜の九時を回っていた。日比谷も、さすがに美樹のことを心配に思い、ゼミ室に残ったのだろう。
「越後さん、よく頑張りましたね。無理はしていませんか?目が充血していますよ。」
努力家の美樹が最後の一筆を夜遅くまで残って書き上げることは想像に難くない。しかし、この時の美樹の頑張りは、「努力」というよりも「早く片付ける」という何かがあったようだ。
翌朝、美樹が目覚めた頃には、すでに病院の開院時間を回っていた。美樹は迷わず病院に電話をかけた。
「美樹ちゃん、ごめんね。」
凛はそう言うと、いつもの気丈な姿とは裏腹に、泣き出してしまった。
「どうしたの?」
「卒業式、一緒に出られないかも。せっかくの美樹ちゃんの晴れ姿、見られないかも。最後の学校生活、一緒に過ごしたかったな。」
「大丈夫。もしそうなったら、卒業式の後でプレゼント持ってお見舞いに行くよ。」
「美樹ちゃん、いつも私に優しくしてくれたよね。受験でつまづいたときも、英語を教えてくれたし、最初はちょっと暗い子だなって思ってたけど、私には何でも正直に話してくれたよね。」
「こちらこそ、今までずっと一緒にいてくれてありがとう。凛ちゃんがいたから、ここまで頑張れたよ。早く治るように、祈ってるからね。」
電話を切ると、やはり美樹も泣きそうになってしまった。
風邪を引きやすい体質ながら看護師になろうと頑張る凛の姿を前にしては、織田の発表も、美輪の格言も、説得力を失うのだった。
その日の午前中を、美樹はたまにしか通わない書店を見回りながら過ごした。速読の得意な美樹にとって、俗世に迎合するような書店よりも、知の集積度の高い大学の図書館のほうが、求めるものを得やすい場所だった。ところが、この日だけは、何かを探し求めるように、書店を隅々まで歩き回った。前日の午後の頑張りもあり、さすがに日比谷もこの日の午前にゼミ室にいないことになど目くじらを立てるまい。
「越後さん、論文にはざっと目を通しましたよ。今日はお疲れでしょうから、早く帰って、休んでくださいね。」
これからは、日比谷との共同作業の過程だ。美樹が頑張った分、日比谷にも時間が必要なのを、美樹は察した。
「はい、今日はちょっと休むことにします。」
ゼミ室を出て正門へ向かう途中、元気な若者のボランティアの声が聞こえてきた。
「献血にご協力お願いします!只今、輸血用血液が大変不足しております!」
献血といえば、その必要性は、就職先の決まった凛から毎日のように聞いていた。全血献血と成分献血があること、成分献血は献血バスではできないこと、献血ルーム独特のリラックスできる雰囲気のこと。その度に、自分に勇気がないことに、良心の呵責を覚えるのだった。
「私にできることって何だろう?」
バスのこぢんまりとした外観から、ここでは自分の臆病さを克服するのには足りないと思い、献血ルームへと自転車を走らせた。そして、いざ到着してみると、その雰囲気の敷居の低さに、吸い込まれるように足が進んだ。しかし同時に、何か押さえようもない胸騒ぎを覚えた。
「越後さん、献血は初めてですか?」
「はい。」
「それでは、血圧測定と血液型検査から始めます。担当の者がお呼びしますので、待合室でお待ちください。」
待っている間、少しずつ、美樹の心拍数は上がっていった。
「越後美樹さん」
「はいっ!」
思わず勢いよく返事をして、問診室へと足を踏み入れた。
「越後美樹さん、それでは血圧を測りながら問診をしますね。初めてで緊張されていますね。」
美樹の腕に血圧測定用の帯が巻かれ、少しずつ絞められていった。
「今日、ご昼食は何時頃に食べられましたか?」
「ええっと、じゅうにじはん、、、」
そう言いかけた途端、美樹の心拍数は一気にはね上がった。
あろうことか、まさにこの瞬間に、兄の大樹の死のことを、はっきりと思い出してしまったのだ。その引き金となったのは、大きな赤い耳の、献血マスコットキャラクターのぬいぐるみを目にしたことだった。人はあまりに辛いことを経験すると、自己防衛のためにその記憶にふたをしてしまうことがある。しかしそれはある引き金によって再び思い出されることがある。今、美樹にそれが起こったのだ。
雨の降る夜だった。父が慌てて帰ってきた。
「どうだ、ドナーは見つかったか?」
「ううん、まだみたい。どうしよう?」
「くそっ、まだ見つからないのか!」
幼い美樹には、何が起こっているのか、はっきりとわからなかった。ただ、兄が危険な状態にあることとだけはわかった。また、父の口調がやや荒々しくなるのが怖かった。こういうときは、美樹は押し入れの中に閉じこもるのだった。
「今日、白血病の骨髄ドナーについてテレビで放送されていたわ。兄弟姉妹だと、四分の一の確率で型が一致して、ドナーになれるんだって。ドナー登録は献血ルームで受け付けてるんだって。」
「何!どうして医者はそのことを教えてくれなかったんだ?」
美樹は、自分に何かできることがあるのだと察した。そして、恐る恐る、押し入れの戸を開けた。
「お父さん、」
父は大きな息を一つついて、美樹にゆっくり話しかけた。
「いいかい、美樹、美樹が骨髄ドナーになるんだよ。」
「骨髄ドナーって、何をすればいいの?」
「美樹の腰骨に注射針を刺して、その中の血を少しだけ抜いて、お兄ちゃんに注射するんだ。麻酔をかけるから、痛くはないよ。そうしたら、」
「お兄ちゃんは、助かるの?」
雨が止んでゆくのがわかった。
「わからない。」
泣くのを必死に我慢しながら、美樹は続けた。
「私、注射怖い。でも、それでお兄ちゃんは助かるかもしれないんだよね?」
父は再び大きなため息をついた。
「行こう。」
父がそう言うと、美樹はとぼとぼと歩き出した。
雨はすっかり止んで、鈴虫が鳴いていた。
公園のそばを通ったとき、美樹は座り込んでしまった。
「やっぱり、注射、こわいよー。」
美樹はその場に泣き崩れてしまった。
父は苛立ちを抑えきれず、泣きじゃくる美樹の手を無理に引っ張った。
「いいから来い!」
献血ルームは路地裏を回ってすぐの場所にあった。
「すみません、骨髄バンクへの登録をお願いします!」
とうに献血受付時間は過ぎており、泣きじゃくる子どもを連れて発せられるその言葉はあまりに不自然だった。
「どうなさったんですか?落ち着いてください、お話を伺います。」
泣きじゃくる美樹に気を遣った看護師は、大きな赤い耳のぬいぐるみを持ってきて、美樹に抱きしめさせた。
「何があったの?妖精さんに話してごらん。」
ぬいぐるみを与えられて少し落ち着いても、美樹は涙をぬいぐるみに流し続けることをやめられなかった。
「お兄ちゃんが、お兄ちゃんが死んじゃうの、うわあああん。」
一方、冷静を保った医者は、父に淡々と事実を述べた。
「申し訳ありません。骨髄バンクへの登録は、十八歳以上でないとできない決まりとなっております。」
「そうですか。」
父は平静を装うも、やはり苛立ちを抑えられなかった。
おもむろに父は美樹からぬいぐるみを取り上げ、
「この役立たずの妖精が、何が『真っ赤お耳は愛のしずく』だ、ふざけるな!」
幼い美樹は、なぜこんなに可愛い妖精に暴言を吐かなければならないのか、理解できなかった。
「もう嫌だ、うわあああん。」
美樹は一目散に献血ルームの外へ走り出し、ある場所へと向かった。
「ねえ、***さん、答えてよ。***さんなら、誰が助けてくれるのか、わかるでしょ?ねえ助けてよ、うわあああん。」
美樹は必死に何かを揺すった。ただ、何を揺すったのかだけは、思い出せなかった。
そのまま泣きじゃくりながら、美樹は疲れ果て、その場に寝込んでしまった。
目が覚めると、美樹は家の布団で寝ていた。母が外で寝ている美樹を必死で探し、寝かせたのだという。
「お兄ちゃんはね、、、美樹が献血ルームにいる間にね、、、死んじゃったんだって。」
その後すぐに、父の仕事の都合で、越後一家はあまり遠くもない場所に引っ越すこととなった。美樹にトラウマを掘り返させまいと、あえて生家に戻ることは、両親の側から提案することはなかった。
大樹の墓の場所は、美樹に教えられることはなかった。美樹はその後も、それまで通りご先祖様のお墓参りをした。それでも、心の中では、いつも大樹のことを思っていた。
「越後さん、越後さん、大丈夫ですか?越後さーん!」
血圧計の帯が緩むのを感じて、美樹はふと我に返った。
「今日は初めての献血で、ずいぶん緊張されているようですね。疲れもたまっている様子ですし、またの機会にお願いします。今日はお越しいただきありがとうございました。お飲み物を飲んでお帰りください。」
「は、はい。」
美樹は飲み物に口をつけることすらせず、ふらふらと部屋に帰り、バタリと倒れるように眠りについた。
幸いなことに、美樹の普段からの勤勉な態度は報われた。日比谷との二人三脚で進む卒業への道も、大きな困難に突き当たることなく、順調に進んだ。
美樹は、少し長めに昼休みを取ることにした。
まず、美樹は例の書店に立ち寄り、『はじめての刺繍』という本を買った。その次の日は雑貨屋に立ち寄り、行きよりもかばんを大きくして昼休みから戻るのだった。
「ふふふ。」
「あれ?越後さん、今日は荷物が大きいねえ。何かあったの?」
「秘密ですっ!」
美樹は織田に満面の笑みで返した。
そしてその次の日からは、いつもの通り、樫の木の下のベンチに腰掛けた。今回は、本だけでなく、裁縫道具も持ち出して、何か楽しそうに、木漏れ日の中の昼下がりを過ごしていた。
凛には薬が投与され、その薬が効いている間は、驚くほど咳が止まるのだった。美樹は、その薬が効いている間だけ、凛に電話をかけた。主治医の先生が俳優の誰に似ているとか、今日の病院食にはささやかなシェフのこだわりがあったとか、そんなたわいもない話をして過ごした。
そしてついに願いに願っていた事実が凛の口から告げられた。
「美樹ちゃん、私もうすぐ退院だよ!卒業式にも出られるよ!きっとプレゼントも持っていくね!」
「ありがとう。実は、私も凛ちゃんにプレゼントしたいものがあるんだ。」
そのことがわかったことで、木漏れ日の昼下がりはますます楽しくなるのだった。
「越後さん、よく頑張りましたね。これなら十分すぎる及第点ですよ。この調子で、修士号取得に向けて、頑張ってくださいね。」
日比谷との二人三脚も無事に最後まで走り抜くことができ、あとは卒業式を待つのみとなった。
「クスノキの下で会おう。」
美樹と凛は、そのように約束していた。
卒業証書授与が終わると、美樹は一張羅のスーツ姿で、クスノキの下で待っていた。
「美樹ちゃーん!」
振袖姿と共に、旧友の声が聞こえた。
「凛ちゃん、良かったー!元気そうで。退院おめでとう!そして卒業おめでとう!」
「ありがとう、美樹ちゃんも卒業おめでとう。ほら、約束してたプレゼント、持ってきたよ。」
凛は大きな赤い耳のぬいぐるみを取り出した。
「病院の看護師さんが、余っているから、献血ルームで働く私にどうぞって。ほら、美樹ちゃん、昔から寂しいときはぬいぐるみを抱きしめてたし、寂しくなったらこれを抱いて私を思い出してね。」
「そんな、悪いよ。せっかく看護師さんが凛ちゃんにって。」
「大丈夫!私はこれから嫌というほどこのマスコットを見ることになるんだから。」
「そうなんだ、じゃ、お言葉に甘えて、ありがとう。実は、私が凛ちゃんに用意したプレゼントも、同じマスコットなんだ。」
美樹は、不器用ながらにも、マスコットの刺繍されたニットのマフラーをかばんから取り出した。
「凛ちゃん、いつも冬になると風邪引いてるし、これで暖かくしてね。旭川に行っても健康で過ごしてね。」
「これ美樹ちゃんが縫ったの?すごーい、ありがとう。私もこのマフラー巻いて美樹ちゃんのこと思い出すね。」
二人はいつものように、大きなクスノキを見上げた。
「美樹ちゃん、良い名前をつけてもらったね。このクスノキみたいに、きっと立派にひとり立ちしていけるよ。」
「私も、凛ちゃんの凛とした姿には、いつも励まされたよ。」
二人はただ、しばらくの間、木の葉の間から青空を眺めていた。
「それじゃ、そろそろ電車の時間だし、私は帰るね。泣くんじゃないぞっ!」
「凛ちゃんこそ、風邪引くんじゃないぞっ!バイバーイ!」
「バイバーイ!」
凛が何度も後ろを向いて振袖を振って手を降るたびに、美樹は手を振り返した。
そして、凛の姿が見えなくなったとき、美樹はいつもの小川の樫の木に向かってすたすたと歩いていった。
そして、凛の分身とも言える、あの本を開いた。
「償いや許し、贈り物というものは、ときに、人のためにするものではなく、自分自身のためにするものなのです。」
「そうだね。私、凛ちゃんに最後まで笑顔で手を振ることができた。私、頑張った。」
一気に涙が美樹の顔に溢れ出した。そして、美樹は樫の木のほうに向き直り、話しかけるように、語りだした。
「ずっと、救われない気持ちに、悩まされていました。でも、その理由がわかりました。私には、救えなかった人がいたんです。でも、私にはどうしようもなかったんです。凛ちゃんは、病弱なのに看護師になって人の助けになろうとしていたのに、私なんて、人を救えなかったのに、評論ばっかり、口ばっかりで、」
美樹は樫の木に顔を近づけるようにもたれかかった。
「凛ちゃん、何にも力になれなくて、ごめんなさい、ごめんなさい、何にもしてあげられなくて、ごめんなさーい、うわああああん。」
一張羅のスーツが汚れることを気にすることもなく、美樹は樫の木に泣きついてしまった。そんな美樹に、樫の木は、ただざわざわと、風に吹かれて優しく語りかけるだけだった。
「大樹兄さんに、会いに行こう。」
卒業式が終わって大学院生になるまでの間、美樹は密かに旅を企てていた。このことは両親にも話さなかった。
「まもなく、龍門、龍門です。」
いつもなら特急電車を降りてすぐにバスに乗り換えて実家に向かうところ、この日はそのまま普通電車に乗り換えて、生まれ故郷の街、龍門へと向かった。胸にはぬいぐるみと、かばんには美輪の本を持って。
電車がブレーキ音を響かせて止まると、美樹は迷わず鯛焼き屋さんへ向かった。
「色々なことがあって頭がパンクしそうなときは、ひとまず甘いものを食べて深呼吸してから考えましょう。」
両親や友達とよく通った鯛焼き屋さんだったので、道に迷うことはなかった。しかし、当時は携帯電話もメールもなかった時代だったので、同級生との連絡は、ずっと途絶えていた。
鯛焼き屋さんに着くと、一人の青年が、箱に詰めた鯛焼きを買って帰るところだった。美樹と同じくらいの年齢だった。
「もしかして、私の知ってる人かな?」
青年は後ろに人の気配を感じ、少しだけ振り返った。その瞬間、美樹はドキッとした。その顔立ちは、美樹の初恋の人の面影を残していた。しかし、本当にその青年がその人なのか、確信が持てず、名前を言い出すことができなかった。そうこうしているうちに、青年は、自分に向けられた大きな瞳からの視線をいぶかしそうに追い払うように、颯爽と去って行った。
「お客さん、お客さーん、つぶあん、こしあん、白あん、季節の桜あんとあるんですけど、どれにします?」
「あ、つぶあん一つください。」
「はいよ、つぶあん一つ百円ね!」
美樹は鯛焼きを買うと、自然と川原の堤防に向かって歩いていた。
「そうそう、ここがマラソンのスタート地点だったなー。昔は長く感じたけど、今ではこんなに近くに感じるなんて、私も大きくなたんだな。」
堤防のスタート地点にあったベンチに腰掛け、鯛焼きを頬張り、大きく一つ深呼吸をすると、鯛焼きの甘さに、自然と美樹の口から甘えた言葉が出た。
「凛ちゃんのバカ!旭川に行くのやめちゃえ!」
鯛焼きを食べ終えると、美樹はマラソンコースに沿って歩いていき、すでに肉眼で見えているゴール地点を通過してもなお歩き続けた。そして、ふと行きたい場所を予感し、堤防を離れ、ある公園へと、自然と足が向かった。
「千年公園」
ここに足を踏み入れるや否や、とても馴染みのある風景が、美樹の目の前に現れた。
「ああ、そういえば、こんな場所、あったあった!」
千年公園の中央には、美樹が唯一思い出せなかったものがあった。そこには、大きな白樺の樹が植えられていた。
「へえ、すごい。これ、凛ちゃんに見せてあげたいなー。きっと驚くだろうなー。」
そして、美樹はそっとその白樺の樹の下に腰かけた。
「小さい頃は当たり前すぎて気づかなかったけど、私ってこんな大きな命のもとで育てられたんだな。」
白樺は風に吹かれ、ざわざわと美樹に話しかけた。自然と、美樹はこの白樺に人格を持たせるように話しかけた。
「白樺さん、お元気でしたか?私は今、真面目に学問に励んでいます。」
すると、風が吹いて、今度はたくさんの木漏れ日が美樹のもとに降り注いだ。
「白樺さんも、お元気そうで何よりです。お兄ちゃんも、きっとそう思っていると思います。」
美樹はただ、そこに座っているだけだった。そして、風の一声一声が、美樹にとってはメッセージだった。その風の声の中から、一つ一つ、紐で手繰り寄せるように、両親から話してもらった、自分の名前の由来についての話を思い出していた。
そして、大切なことに気づいた。
この白樺の樹は、今までもこれからも、ずっと美樹と、そして今は亡き兄大樹との分身であり続けるのだ。
そして、その分身は世界にただ一つ、この白樺の樹でなければならないのだ。世界中のどの白樺の樹を探したとしても、決して二人の分身の代わりとなることはできないのだ。どのような大切な思い出も、常にこの白樺と共にあって、そして初めて今の美樹がいる。
美樹は、その白樺の樹の下で、命の与えられた時間の一秒一秒の重みを感じながら会話をした。気がついた頃には、陽は傾きかけていた。
そして、美樹には最後にどうしても通っておかなければならない場所があった。
美樹はぬいぐるみを白樺の足元に置き、白樺を抱きしめた。
「白樺さん、私は、私の行くべき場所へ行きます。どうかお元気で、長生きしてください。」
美樹は勇気を振り絞って、白樺のもとを後にした。
いっそう強くぬいぐるみを抱きしめながら、一歩一歩、何事もなかったかのように、路地裏へと回り込んだ。
そして、龍門献血ルームの前を、何事もなかったかのように、通り過ぎた。
龍門駅に着く頃にはすっかり空は赤くなっていた。久しからずして電車がやってきた。夕暮れ時のローカル線ともなれば、もはや美樹以外に乗客はいなかった。一両しかないその電車のいちばん後ろに腰掛け、いつものように、ささやき出した。
「美樹、今日は頑張ったね。これでもう、迷わなくなったね。私は、一歩大人になったんだ。」
夕焼けで真っ赤に染まった龍門の街は、米粒のように小さくなっていた。