変身の代償(後)
3
目覚まし時計が僕を急かす。夢から覚めるにはまだ早い時間だけれど、余裕のある朝を過ごしたくて、僕はのそのそとベッドから這い出る。
カーテンを開け、朝日を部屋の中に入れる。うん。今日もいい天気だ。
体中に残った眠気を吐き出すように、僕は大きく体を伸ばす。全身を軽くほぐし、僕は制服に着替えるため、パジャマを……あれ?
ボタンを外そうとした僕は、妙な違和感に包まれた。いつものパジャマじゃない。間違えて姉さんのパジャマを着てしまったのだろうか。
昨夜の事はあまり憶えていない。神楽さんと一緒に本屋に行き、彼女の姉に会い、彼女のマンションに行って……、それからどうしたっけ?
僕は気を取り直して、パジャマを脱いだ。……んん? 何かがおかしい。
頭がズキズキする。昨夜の記憶が曖昧になっていて、なんだか気持ち悪い。
制服を手に取る。入学式の時は、式が終わってすぐにずぶ濡れにされてしまったせいで、制服でみんなの前に出たのは昨日が初めてだった。性別を間違えられるなんて、そろそろ勘弁して欲しいのだけれど。
シャツに袖を通し、スカートを……、って、あれ?
「湊ちゃん、お着替え終わったかな~?」
乱暴にドアを開けて、姉さんが侵入して来た。
何やらニヤニヤと、僕を見て笑っている。
いや、理由はわかる。寝ぼけて女子の制服を着ようしているのを目撃したからだろう。
僕は慌てて、スカートを放り投げた。
なぜ今日に限って僕の部屋にやって来たのか。まるで、僕がこの服を着るのを知っていたようだ。
もしかして、昨日、何かあったのだろうか。
「ね、姉さん、僕は、昨日……」
「昨日はビックリしたわ。まさか湊ちゃんが妹になっちゃうなんて」
姉さんの楽しそうな声が僕の心に刺さった。
今、なんて言った?
妹? 僕が?
ふと、昨日の事を思い出す。昨日、神楽さんと本屋に行き、彼女の姉に会い、彼女のマンションに行って……。
そうだ、神楽さんの魔術実験に巻き込まれて、僕は女の子になってしまったんだ。その後から今日の朝までの記憶が無い……。
あまりのショックに記憶がなくなっちゃったのかな。それとも、その場で気絶して、誰かがここまで運んだのか。
「それにしても、あの子……。えーと……、黒藤さん? だったかな。あの子は何者なの?」
黒藤さん……って、神楽さんの事かな。
「私、本物の魔法使いなんて初めて見たわ。年寄りがローブ羽織ってるイメージしかなかったけど、若くて綺麗な子もいるのね~」
そんな楽しそうに言われても……。
姉さんが神楽さんを知っているという事は、姉さんが迎えに来てくれたのだろうか。
「昨日の事、なんだけど……」
もし迎えに来てくれたのなら、何か知っているかもしれない。なんとなく、僕が憶えていない部分は、とても大事な事なんじゃないかと思えるのだ。
気を失うほどのショックを受けたのなら、その理由だって相当なモノのはずだ。体が女の子になってしまった事を憶えていて、その後で気を失ったというのなら、それ以上の何かがあるハズなのだ。
……と、神楽さんみたいな事を考えるようになってきた。昨日もこんな気持ちになったけど、やっぱり神楽さんに影響され過ぎてるのかも。
とにかく、昨日の事を知りたい。何があったのか、そして、これからどうすればいいのか。
「黒藤さんから電話があって、湊ちゃんが倒れたって聞いたものだからね。お姉ちゃんビックリして、慌てて迎えに行ったのよ。そしたら、妙な部屋で湊ちゃんが倒れてて、黒藤さんに色々と説明してもらったんだけど……。お姉ちゃんには難しすぎてわからなかったわ」
ああ、魔術の事も説明したのかな。
そりゃあそうか。じゃなきゃ、いきなり弟が女の子になったなどと言われても、信じられるワケがない。
「とにかく、湊ちゃんが女の子になっちゃったって聞いときはビックリしたけど、湊ちゃん、ビックリし過ぎて気を失ってて、そのまま連れて帰って、着替えさせて……」
着替え……、ああ、今朝のパジャマの事か。これ、姉さんのだったんだ。
ん? どうして僕のじゃなくて、姉さんのを着せたんだろう?
「それでね、湊ちゃん。今日からしばらく女の子だから、そっちの制服を持ってきたんだけど、着方わかるかな?」
……だんだんおかしくなってきたぞ?
つまり、姉さんは僕が女の子になってしまったから、女性用のパジャマや制服を持ってきたのか。確かに昨日の朝、姉さんは女子の制服を持っているとは言っていたのだが、まさか本当にここに持ってくるとは。
いやいや、そういうことじゃなくて。てことは、昨日の夜、僕が気を失った本当の理由って……。
「そういえば、下着のサイズはどう? 流石にそっちはお姉ちゃんのお下がりってわけにはいかないから、勝手にサイズを測って買ってきたんだけど」
僕は自分の胸に手を当てる。思い出したわけではないけど、だんだんわかってきた。
僕は女の子になってしまったから気を失ったんじゃなくて、女の子として生活しなくてはならなくなった事で、恥ずかしさのあまり気を失ったらしい。
どおりで記憶が曖昧なわけだ。そんな事を思い出したら、また気を失ってしまうかもしれない。自己防衛の機能とでも言うべきか、人間の脳って悲しいほど高性能だ。
僕は着替えかけた女子の制服のシャツを脱ぐ。あ、この場合はブラウスって言うのかな。とにかく、男子の制服に着替えなければ落ち着かない。
しかし、この制服は一体誰のモノなんだろう。どう見ても新しいモノじゃないし、サイズも少し大きい。
姉さんはこの学校の卒業生ではないから、姉さんのお下がりではないし……。
「あれ、脱いじゃうの?」
なぜか楽しそうに、姉さんは制服のスカートを差し出す。
いや、着ないってば。
僕は逃げるように後ずさり、クローゼットを開ける。中身を確認し、僕は固まった。
吊るされているモノだけでも十か二十くらい、いろいろな形をしたスカートがずらりと並んでいる。この分では、下の引き出しにはもっとたくさんの「女の子の服」が敷き詰められている事だろう。
上着やシャツなどは、今までと同じだ。僕が買ってきたモノもあるけれど、姉さんからのお下がりで、僕が着てもおかしくないモノが並んでいた。隣にスカートが並んでいなければ、男物と区別がつかなかったハズなのに、この組み合わせのせいで完全な女物の服だと主張しているようだ。
端のほうで縮こまるように吊るされた男子制服のシャツが哀愁を誘う。かわいそうに……。
いや、それよりもだ。制服のズボンが見当たらない。どこに行ったのだろうか。
考えられるのは、姉さんがどうにかした可能性だ。直接聞いてみればわかるかも。
「姉さん、僕の制服は?」
姉さんは楽しそうにスカートを差し出す。
そっちじゃなくて、ズボンのほうだ、と言ってみた。
姉さんは急に真面目な顔になる。
「昨日、制服を着たまま女の子になったのは憶えてる?」
僕は素直に頷いた。
たしか、制服のまま神楽さんのマンションに行って、そのまま女の子に……。
あれ、という事は……。
「その時、服まで女の子になって、それから元に戻ってないみたいなのよ」
姉さんは笑を堪えているようだ。その表情で理解した。
つまり、ズボンは消えてしまったということか……。なら、せめてジャージで、
「ジャージでの登下校は禁止、って、生徒会規約とやらに書いてあったわよ。曲がりなりにも生徒会役員なら、違反するわけにはいかないわよね」
生徒会規約の紙と、制服のスカートとブラウス、そして、女性用の下着がベッドに並べられた。
姉さんはとうとう堪えきれなくなって、ニヤニヤと笑っている。
なんか、神楽さんみたいな事をしてないか、姉さん。
「大丈夫。お姉ちゃんが、一から教えてあげるから」
僕は、戦慄した。
全く、ひどい目にあった。いや、これからもひどい目にあうのかも。
ともかく、姉さんのなすがままに女性用の下着を着せられ、抵抗虚しく女子の制服が僕の肌を包んでいる。
この格好で街を歩き、学校まで行かなければならないのか。しかも、学校でも僕は人目にさらされるのだ。恥ずかしさで死んでしまいそう……。
悲しい事に、いや、幸いな事に、僕が女子の制服で歩いている事に違和感を覚える人はいないらしく、僕に注目している人はいない。
ジャージでの登下校は禁止だと書かれているのに、男子が女子の制服を着る事は禁止されていない。その逆もまた然り。女装も男装も、校則の上では自由になってしまっているのだ。
自分は最初から女の子だったと言われている気分になる。あるいは、こうなる事が自然だったのだと思えるようになってきた。
ま、負けるものか……。ガンバレ、僕。
「ん? んん~? もしかして、湊人くん?」
後ろから声がした。振り返るより早く、声の主は僕の前に回り込んで、顔を覗き込む。
無防備なその顔はまっすぐ僕の目を見ると、ニッコリ笑った。
天音さんだ。よりにもよって、知ってる人に出会ってしまうとは……。
「やっぱり湊人くんだ! あれ、湊人ちゃん? どっちが正解なの?」
顔を近づけたまま混乱する彼女。なぜこの人はこうも無防備なのか。
思わず僕は顔を引き離す。危うく転んでしまいそうになった。
「え、えっと……、これには深いワケが……」
困った時の定番の言葉が、口を突いて出てきた。相当焦ってるな、僕。
と、とにかく、天音さんにもちゃんと伝えておかないと……。
「あらかじめ予想していたとはいえ、実際に見てみるとなかなか面白い光景ね」
もう一人、知った声が僕の後ろから聞こえた。どこか元気がないように聞こえたのは、おそらく気のせいではない。
振り返ってみると、意外な顔がそこにあった。
人物は予想通り、神楽さんで間違いない。特に妙な服装をしているわけではなく、ちゃんと制服を着ている。男子の制服ではなく、昨日と同じ女子の制服だ。
問題はその表情だ。うつむいている事が原因なのだろうか、どこか影を含んだように暗い。徹夜するとこんな表情になる事もあるけど、それだけじゃない気がする。
ずっと調べ物をして、本にかじりついていたのだろうか。あるいは、泣き止んだ直後のような、そんな顔だ。
「ちょっと、気になる事があって、家の資料を読み直していたのよ。気がついたら朝だったわ」
聞かれもしないのに、神楽さんはそう言った。
明らかにそれだけじゃない何かがありそうだけど、あまり深く突っ込まないほうがいいのだろうか。
「一応、制服は男子でも女子でも校則違反にはならないけれど、生活の面で不便になる事はあるわ。何かあったら、私を訪ねてきなさい。力になるわ」
なんでもないような顔で歩きつつ、神楽さんは小さく言った。ああ、この姿になってしまった事に対して、責任を感じているのか。まあ、確かに魔術の実験に巻き込まれたせいでこうなったのは事実だし、あまり責めるつもりはないけれど、彼女のこの対応は頷ける。
昨日の事を思い出す。
……あれ? そういえば、あの魔術の儀式は一体なんの意味があったのだろう。
よく思い出してみると、僕が魔法陣の円の中に入った時、神楽さんは服を脱ごうとしただけで、特に何か、呪文を唱えたりはしていなかったように思う。
もしかして、ただ触れただけで効果があるモノだったのだろうか。それなら、なぜ神楽さんは服を脱ごうとしたのだろう。
「ねえ、神楽さん。昨日の魔法陣の事なんだけど……」
「それ以上は口にしないでちょうだい」
ピシャリ、と、彼女は僕の言葉を遮った。目の下のクマのせいで、彼女の目に恐怖を感じる。
理由はわからないけれど、この話はしないほうがいい。彼女が再び前を向いて歩き始めるまでの数秒間で、僕は無意識にそう決意した。
教室に入った瞬間、クラス中が凍りついた。そりゃあそうか。昨日は男子の制服を着ていた僕が、今日は女子の制服を着ているのだから。
クラス中が混乱し、ざわめき、好奇心の塊を放つような目で僕を見る。
気にしちゃいけない。とにかく、自分の席へ移動する。
「お、おはよう……?」
隣に座っていた女子が、恐る恐る僕に声をかけた。視線が怖い。睨んでいるのではなくて、まるで得物を見つけた猫にように光っている。
視線は一つではなく、クラス中が彼女のような目で僕を見ていた。これはまずい……。入学式の日、昨日と続いて、また今日もこの流れになってしまった。
この後はやっぱり……。
「今日はどうしたの? むしろ、昨日は何で男子の制服を着てたの?」
「やっぱり女の子だったんだぁ」
「どっちが正しいのかな。脱がせて確かめてもいい?」
エトセトラ。今日で三回目だというのに、楽しそうな彼女たちの勢いは止まる気配がない。
このまま放っておいたら、いつか僕は彼女たちにどうにかされてしまうかもしれない。
「こ、これには事情があって……。僕は女の子じゃ……」
一応、言い訳はしておいたほうがいい。元に戻った後で困ってしまいそうだ。
「うそだぁ。女子の私だって、こんなに綺麗に制服を着るの難しいのに」
誰かが言った。
「どう見ても女子なのに、本当は男の子……。うん。イケるわ……」
誰かが言った。
この二人が議論を始めて、結局授業が始まるまでの間、僕が男なのか女なのかという話題がクラス中に飛び火した。
挙げ句の果てに、脱がして確かめるなどという物騒な案が実行寸前まで進行中らしい。
……お願いだから、もうほっといてくれないかな。
教室でお弁当を食べるのは不可能だった。昨日の一件でそれを学習した僕は、特に用事があるわけではないけれど、自然と生徒会室に足を運んでいた。
ここなら事情を知っている二人しかいない。落ち着いて、ゆっくりと食べられそうだ。
扉に鍵はかかっておらず、引き戸は何の抵抗もなく開く。
「あ、湊人くん」
生徒会室には、予想通り天音さんと神楽さんがいた。他には誰もいない。
神楽さんは机に突っ伏して眠っているらしく、僕が入ってきた事に気がついていない。天音さんはなるべく音を立てないようにしていたらしく、文庫本を手にしているのが見えた。
お邪魔だったかな。
「入ってこないの?」
天音さんが僕を手招きした。
入り口で突っ立っていた僕は音を立てないように扉を閉め、天音さんの隣に座る。彼女にことわってからお弁当を開け、音を立てないように食べ始めた。
「昨日の事、聞いたよ」
天音さんは静かに言った。
昨日の事、とは、やっぱり僕の事だろう。
女の子になってしまったのは、彼女の魔術が原因だ。いくつか気になった事はあるけれど、魔術の儀式の結果によって、僕はこのような姿になってしまった。
責任を追求するつもりはないけれど、神楽さんは自分のせいで僕が女の子になったと思っている。そんな気がした。
だから、彼女に対して、どこか後ろめたい気持ちになる。目の下にクマを作るほど、彼女に負担をかけてしまったのも事実だ。
「神楽ちゃんの事、あまり責めないであげて」
なぜか、天音さんは泣きそうな声を出した。
僕は頷く事もなく、黙り込んでしまった。どう反応していいのかわからないというのが素直な気持ちだ。気にするなと言えるほど軽い事じゃないし、責任を取れなどと言えるわけがない。
責めるつもりもないけれど、このまま黙っていていいわけがない。
僕はどうすればいいのかわからなくなって、黙り込む事しかできないのだ。
お互いに黙り込んでしまって、空気が重くなる。
「ねえ。湊人くん」
重い空気に耐えらてなくなったのは、天音さんも同じだったようだ。
泣きそうな声のまま、彼女は僕に問いかけた。天音さんのほうを向くと、やはり泣きそうな目で、僕のほうを見ていた。
「神楽ちゃんはね、ただ、家族が欲しいだけなの。家族じゃなくてもいいから、それくらい仲のいいお友達が欲しいだけなの」
予想外の話題に戸惑い、僕は少し遅れ気味に頷いた。
頷いた理由はわからない。僕は腕時計に目をやる。この時計を見て、彼女は僕が寂しがっているのではないかと疑った。
『両親には愛されているけれど、会話が少ない』
『可哀想な境遇に同情した』
これは、僕の事だけじゃない。彼女自身の事でもあったのかもしれない。
「神楽ちゃんには、いないの」
あまりに端的に発せられたその言葉は、まるで重さを感じない。けれど、話の流れを考えてみれば、それはとても重い言葉だ。
いない。
誰が?
父親か、母親か。あるいは、両方。
ともかく、彼女には、理解者と呼べる誰かがいない。僕から見れば天音さんは神楽さんと仲がいいと思えるのだが、きっと、そういう事ではないのだろう。
「ちっちゃい頃から、ずっと椿さんと二人きりで過ごしてて……。小学校の時から、ずっと寂しそうにしてた。きっと、誰かに理解してもらった経験が無いんだと思う。何でも言い当てちゃうから、気味悪がられてた」
僕の昔の記憶に、神楽さんの姿が重なった。
気味が悪い。気持ちが悪い。
子供なのに、大人に見える。男なのに、女に見える。
他の誰にも当てはまらない特徴は、多くの人にとって、タダの的だ。突出しすぎて、誰にでも簡単に射抜くことができてしまう。
彼女は僕と似たような境遇で、似たような扱いを受けた事だろう。けれど、僕には両親がいて、姉がいて……。
神楽さんには、両親がいない。姉はいるけれど、きっと、彼女の近くには、いなかった。
「私じゃダメだった……。神楽ちゃんの気持ちがわからないの……。でも、湊人くんなら、って。同じような境遇にいた子なら、って。神楽ちゃんは、入学式の日の夜に、私に楽しそうに話してくれた。昨日だって、湊人くんと一緒に魔術の研究がしたくて、急いで来客用のお部屋を用意して、研究用の部屋も準備して……。学校なんかより、湊人くんと一緒の部活を優先しちゃうくらい、楽しみにしてたの……」
僕の事を色々と見抜いた時、同時に、神楽さんは僕の境遇に『同情した』したと言った。実際は同情ではなくて、同調だったのかもしれない。共感して、自分の事を理解してくれるんじゃないかと期待したのかもしれない。
あの日、僕は女子に間違われてしまった。昨日も、そして今日も、教室に居づらくなった僕がたどり着いたのは、この生徒会室だ。
神楽さんは強引に僕をここに引き入れたけれど、本当は、僕の拠り所を作ろうとしたのかもしれない。もし入学式の時、何の問題もなく男子の制服で教室に居たとしても、やっぱり僕は、奇妙な目で見られてしまった事だろう。
彼女は、僕の居場所を作ろうとして、ここに引き入れたのだ。
天音さんは、そこまで言って、話を区切った。生徒会の話も、僕のためにやった事なのだと、神楽さんの本音を僕に告げた。
……お人好し。
何が、僕のようなお人好しを歓迎する、だ。彼女の方こそ、お人好しの極みじゃないか。
こんな事をして、余計なお世話と言われてしまったらどうするのだろう。まるで、やらなくてもいい賭け事のように、自分の評価をテーブルに投げるような真似をするなんて。
「だから、羽目を外し過ぎて失敗しちゃった……」
ほとんどため息のように、僕はそう呟いた。
弁当箱を彼女の方に寄せる。彼女は涙を拭って、おかずの真ん中を飾っていた卵焼きを口に運んだ。
「思い過ごしかもしれないけど、僕がお昼にここに来るから、神楽さんと天音さんは生徒会室にいたんですよね」
天音さんは目を丸くした。この反応は、当たりだったようだ。
昨日の今日だ。昼休みの時間、自由に会話ができる時間に、僕が質問攻めにあって逃げ出すという構図は、あらかじめ予想できる。僕は体験してからじゃないとわからないけれど、神楽さんなら、昨日の段階で予想しているはずだ。
そして、僕のために居場所を用意した、なんて話を聞かされれば、この時間に彼女たちがここにいる理由は、想像が付く。
チラリと、神楽さんに目をやる。まるで悪魔のような人だと、最初は思っていたのだけれど、理由がわかった今は、そんな風には思えない。
なんて事はない。彼女はただ、頭が良くて、数学的で、照れ屋なだけだったのだ。
「そろそろ昼休みも終わっちゃうし、また、放課後に」
僕はそう残して、お弁当箱を片付ける。ほとんど食べてなかったけど、何だかお腹がいっぱいで、今はこれで満足と思えてしまった。
天音さんは、昨日のようにニコッと笑って、またね、と手を降った。
授業中は、特に何も起きなかった。確かに探偵のような先輩は知っているけれど、そうそう事件なんて起きないものだ。
問題は、その探偵にような先輩が、助手を呼ぶような形で教室に乱入してきた事だろう。ホームルームの後、担任の教師と入れ違うように入って来た神楽さんは、カバンに教科書を詰め込んでいた僕に近づき、
「捜査再開よ。昨日の調査依頼の結果を聞いたら、私の家でいろいろ説明するわ」
と、僕を急かした。
まだ教室にはたくさんの人が残っていたために、クラス中からの視線を感じる。
あまり目立ちたくないんだけどなぁ……。
「天音はもうアトリエにいるわ。あの子がカンバスに吸い込まれる前に、正気に戻してあげないと」
なんだそりゃ……。
今朝はあんなに沈んでいたのに、妙に元気になったかと思えば、こんな冗談を口にするなんて。
僕は急いで準備をする。カバンのボタンを留めて、取っ手の役割をする硬い部分をしっかりと握った。
その動作を確認した彼女は、僕の腕をつかんで引っ張った。少し遅れて、軽い痛みが腕に走る。
「あなた……これ……」
神楽さんの目は、僕の左手首を捉えていた。何かを見つけたのか。僕も慌てて彼女と同じ場所を確認した。
左手首の外側、ちょうど、腕時計の文字盤に隠れるところだ。そうか、姉さんが着替えさせたから、僕はそこをしっかり見ていなかったのか。
腕時計は一日中付けっぱなしにしていて、外していない。だから、これを見る事ができる機会はなかった。たまたま時計がズレなければ、きっと家に着くまで気付かなかっただろう。
「まさか……、シンボルが成長して……? でも、昨日は確かに……」
シンボル?
シンボルって、あの、魔術師が掲げている、あのシンボルの事だろうか。
改めて、僕は自分の左手首のそれを見る。アザ、だろうか。昨日までなかったはずの何かが、左手首に傷のようについていた。
その形は、神楽さんにもらったカードに描かれていたモノとは違っていた。少し似ているけれど、所々、追加されている部分があるように見えた。
あるいは、これが正しいのか。彼女そんな事を呟いて、僕の腕から手を離した。
「……予定変更よ。今日は生徒会の仕事はキャンセルだわ」
彼女は時計を見る。まるで、何かに追われているような錯覚を覚える。
「急ぎなさい」
足早に立ち去る彼女の背中を、僕は慌てて追いかけた。
午後五時半、日没まではまだ時間がありそうだ。
昨日と同じく、彼女は本屋に行く。習慣になっているのか、必ず一冊の本を買って行くらしい。今日は自己啓発の本なのか。いや、あれは心理学の本、かな。
ともかくなんでもいい。彼女は本を一冊、必ず毎日読むようにしている。下校途中に本屋に立ち寄って一冊の本を買い、帰宅してからと、次の日の学校で読む。これを毎日繰り返しているらしい。こうする事で、彼女は自分を見失う事なく魔術という非日常に身をおく事ができるのだという。
魔術師は自分が掲げたシンボルと共に、ルールを遵守する。自分の身を守るためで、自分の精神を守るためだ。
自分たちは世間の常識から外れている事を自覚していて、ちょっと気を抜いただけで、世間を混沌に陥れてしまいかねない力を持っている。だから、必ず習慣を持ち、その習慣を守り、自分を保つのだ。
……と、彼女はバスの中で呟いた。買ったばかりの本のページをめくりながら、僕の左手の時計をチラと見る。
もしかしたら、僕の左手首のアザを見たのかもしれない。これは、一体なんなのだろう。
昨日は無かったのに、今日になって現れたのだとしたら、やっぱり、僕の体に起きた変化と関係があるのだろうか。
チラリと、彼女が読んでいる本の中身に目をやる。さりげない仕草や言い回しが、その人のすべてを表す、と書いてあるのが見えた。
さりげなく僕の様子を伺うのは、やっぱり僕の変化を気にしているのだろうか……。
バスから降りて、十分ほど歩く。昨日と同じ道に、昨日と同じような人たち。まるで世界は変わってないのに、不思議な世界に迷い込んだアリスの気分だ。
性別が変わってしまってから、初めて街を歩いている。朝と違って人も多く、けれど誰も僕の変化に気づかない。この世界から、僕だけが取り残されてしまっているような感覚になる。
今の僕は、何になってしまったのだろう。ただの人間だった僕は、昨日のあの時、何に変わってしまったのだろうか。
「その感覚よ。昨日も言ったけれど、やっぱりあなたは魔術師の才能があるわ。その感覚は、魔術師には必要なモノ。自分という存在に疑問を持たなければ、世界なんてモノに興味は持てないわ」
僕の様子を伺った神楽さんは、そんな風に言った。自分という存在を疑って、その比較として世界を考える。だからこそ、世界という存在にすら向き合える。
それが、本当の意味で理解するという事なのだと、彼女は言った。
「着いたわ。時間もないし、すぐに終わらせるわよ」
昨日と同じ、ロマネスクという建築様式の建物を見上げる。
入り口の木の扉の鍵を開けた神楽さんは、そのまま乱暴に扉を開いた。
扉に向こうにはまた扉があって、そこをくぐり抜けると、大きな空間に出る。
昨日と同じように、そこには三人が揃っていた。
「あ、神楽ちゃん。今日は早かったね」
カンバスに向かっていた天音さんが声をかけた。
絵の具だらけになった、割烹着のような服がそばに放ってあり、たった今、絵が完成したような顔を浮かべている。
後の二人は、昨日とは違って、落ち着いた格好をしていた。神楽さんの言うとおり、昨日のゴスロリはただのコスプレだったらしい。
片方、城崎さんは、青い長袖のシャツを着て、ズボンを履いていた。銀のような白い長髪と肌以外に白は見当たらず、彼女は白い色にこだわっているわけではないらしい。
もう片方、椿さんは、昨日と同じく黒い服を着ていた。ゴスロリではなく、花の刺繍がある着物だ。その刺繍がなければ、喪服と間違えてしまいそうな色をしていた。
「来たわね。依頼通り、ちゃんと調べてあるわよ」
「……調べたのは私だけどな」
椿さんの言葉に付け足すように、城崎さんが言葉を重ねた。
そういえば、昨日、資料を見ただけで「調査する」と言っていたけれど、一体なんの調査をしたのだろう。
椿さんは机の横に備えられていた書類棚から大きい封筒を出し、神楽さんに手渡した。その場で中を確かめた神楽さんは、想像とは違う何かがあったようで、少し間抜けな顔になる。
中身は、紙一枚だけだった。
「……これだけ?」
「ええ。それだけよ」
神楽さんと椿さんのやり取りを、天音さんは心配そうに見ていた。多分、あれが調査依頼の結果なのだろう。確かに、紙一枚程度で報告と言われても、納得がいかないのはわかる。
神楽さんは頭を抱え、たった一言、
「ショハン、ねぇ……」
と呟いた。
初版? いや、たぶん初犯の方だろう。
それは、どういう意味なのだろう。初犯という言葉の意味は知っているけれど、それが沢村さんの相談とどうつながるのかがわからない。
「わかったわ。それじゃあ、報酬も紙一枚でいい?」
神楽さんは封筒に紙を戻し、ポケットの中に乱暴に突っ込んだ。
椿さんは、クスクス、と笑った。
「もっとキラキラしたのがいいわね」
神楽さんはニヤリと笑ってテーブルの上に五百円玉を置き、
「時間がないから、これで失礼するわ。行くわよ、天音、湊人君」
と、残して去って行った。
天音さんは絵の道具を片付けて、急いで神楽さんを追った。
椿さんはテーブルの五百円玉をしばらく眺め、ため息をつくように笑った。
「気にしなくていいから、妹ちゃんのとこに行ってあげなよ」
妹ちゃん、とは、神楽さんの事だろうか。
椿さんの様子を伺う。報酬がどう、というのではなくて、妹にそんな扱いを受けている事をどう思っているのか、僕は気になった。
妹、神楽さんは両親を失って、椿さんと二人で寂しい思いをしていた。天音さんの話を聞く限りでは、神楽さんだけが寂しい思いをしていたように感じるのだけれど。
でも、姉妹二人きりで過ごしていたというのなら、椿さんだって寂しい思いをしていたはずだ。
椿さんは、どう思っているのだろう。
「神楽のところに行ってあげなさい。今のあの子には、私よりあなたが必要よ」
五百円玉を手のひらの上で遊ばせ、書類棚の引き出しから封筒を出して、その中に入れた。
「律子さん、いつものに計上しておいて」
城崎さんはその封筒を受け取って、鍵付きの引き出しの中に封筒のまま丁寧に入れ、また鍵を閉じた。
それを確認した椿さんは、楽しそうに手帳を開き、何かを書き込んだ。
「時間も無いし、状況だけ伝えておくわ」
神楽さんはそう前置きし、バスの中で僕と天音さんに話を始めた。
「まず、今回の相談と問題点について。たぶん、二人ともこれが厄介な問題だという把握をしていないでしょうし、これだけはハッキリさせておく必要があるわ」
沢村さんからの相談の資料を広げる。僕たちは、まずその相談内容と調査の結果をおさらいした。
二ヶ月前に起きたバイクとの接触事故で、沢村さんの恋人である柊悠樹という人物が瀕死の怪我を負い、突然回復したかと思ったら、事故前と性格が変わってしまっていて、沢村さんに対して攻撃的な言葉を口にするようになった。相談内容は、入院前と比べて攻撃的な性格なってしまった柊さんを元の温和な性格に戻したい、という内容だ。
一応、神楽さんの推測では、入院中の柊さんに対して沢村さんが何らかの魔術を使用し、それを気味悪がった柊さんが沢村さんに辛く当たっているという結論が出ている。しかし、まだ元の性格に戻す方法はわからないままだ。
「これだけを見ていれば、単純に沢村灯里の本性を知った柊悠樹が、彼女を嫌悪しているだけに思えるわね。けれど、なぜか柊悠樹は別れる事なく、嫌悪しているはずの沢村灯里と付き合い続けている。最初にこの資料を見た時に言ったけれど、気に入らないのなら別れてしまえばいい。そこが最初の矛盾で、この相談が事件への引き金である証拠とも言えるわ」
神楽さんは周囲を警戒し、声を抑える。周りに聞かれてはまずい話なのだろう。
「嫌悪している可能性については、理由はもう言ったわね。沢村灯里が魔術師で、柊悠樹を治療するのに魔術を使用したから。つまり、一般人ではない沢村に対して、柊は嫌悪を抱いている。けれど、この二人は未だに恋人として、互いの関係を守っている。その理由は、沢村灯里が使用した魔術が原因で柊悠樹に何かが起こり、その変化を元に戻すためと考えられるわ。原因そのものである沢村灯里なら、変化してしまった何かを元に戻せると考えている、あるいは、その責任を取らせるためにつきまとっていると言い換えてもいいわね」
ちょうど、僕と神楽さんの関係に似ている。彼女が原因で僕は女の子になってしまい、元に戻るために彼女の研究を手伝うような感じだ。
……僕は責任を取らせるなんて事は考えていないけれども。
柊さんは交通事故で重体になった。そんな状態を治療する魔術となれば、確かに何らかの異常があってもおかしくない。僕の体に起きた変化以上に、重大な変化を起こしていそうだ。
僕の場合は女子のように振舞って一時をしのいでいるけれど、もし重大な変化があったのだとしたら、隠し通すのは難しい。まるで爆弾を抱えているような焦りが攻撃的な性格へ変化した原因だと考えれば、この相談内容にも頷ける。
「沢村灯里から魔術の事を知ったのなら、柊悠樹の交友関係の範囲にいる魔術師は、今のところ沢村灯里本人しかいない。それなら、彼女と一緒にいた方が元に戻れる可能性がある。だから、嫌悪していても恋人のままなのよ。けれど、沢村灯里は魔術師として未熟だった。事故から二ヶ月もたってようやく魔術を使用し、しかも突然回復するような不自然な方法で柊悠樹を治癒したのがその証拠ね。おそらく、柊悠樹が事故で病院に運ばれた時点では、彼女はまだ一般人だったのよ」
神楽さんは先ほど椿さんから受け取った封筒を取り出し、中の紙を開いた。
履歴書のように枠が仕切られていて、たった一行、『前歴なし』とだけ書かれていた。
「これは、姉さんと城崎さんが調べた魔術の軌跡、要するに、魔術師の履歴書のようなものよ。魔術の実験やある程度以上の儀式の実行を行った場合、その痕跡が必ず残る。隠したり偽装する事はできるけれど、おおよそ魔術の使用痕は必ず残るものなのよ。歴史上の事件だったり、異常な現象だったり、ね。少なくともこの付近で沢村灯里が魔術を使用したのは、柊悠樹の病室が初めて。それ以前は使用した痕跡が見られない。城崎さんの調査では、そういう結果が出たようね」
この結果を信じるなら、沢村さんは、恋人の事故がきっかけで魔術に手を出し、治療は成功したけれど問題が起きてしまったという事か。
大切な人を守りたい一心で行動し、こんな結果になってしまったなんて……。
かわいそう、という言葉では足らないくらい、沢村さんを不憫に思う。たぶん、神楽さんも同じように思っただろう。
何としても解決して、楽にさせてあげたいものだ。
「さて、ここまでが過去の話。正直なところ、ここまでの経緯は、この通り解決済みよ。問題になるのはこれからの話。どうやって柊悠樹を元に戻すか。これがわからなければ、本当の意味での解決とはいかないわ」
神楽さんは資料をカバンにしまい、時計を見た。そろそろ、彼女のマンションの近くだ。
続きは、マンションの中でという事だろうか。彼女たちはそれきり黙り、僕もそれに従った。
「早速だけど、腕時計を外してちょうだい」
神楽さんは、僕を昨日の客間に案内する。天音さんも神楽さんも荷物を端に寄せ、神楽さんは昨日僕に読ませようとした本を取り出した。
僕は言われたとおり腕時計を外し、テーブルに置いた。
「昨日、あなたが巻き込まれた魔術は、悪魔そのものを召喚し、魔法に作用する力を行使する類のモノよ。広い意味では召喚魔術に分類されるわね」
召喚魔法って、ゲームに出てくるアレだろうか。モンスターみたいなのを呼び出して、敵を攻撃するところを想像してみる。
まさか、召喚した悪魔が僕を女の子にしてしまったのだろうか。
「……何か、変な想像をしているわね。別に悪魔があなたを女の子に変身させたわけじゃないわ。そもそも、召喚という魔術自体を勘違いしてそうね」
神楽さんは本のページをめくり、目的のページを開いて僕に渡す。
召喚魔術という見出しが付けられ、いろいろと絵や記号を交えて解説が書かれていた。
「十九世紀末に存在した秘密結社、ゴールデンドーンという組織の系統の魔術では、召喚とは、自身の内側に降霊、もしくは降神する事としている。わかりやすくいえば、精神だけを呼び出して、器になるべき人間に憑依させる魔術なのよ。あなたが思い描いた悪魔そのものをここに呼び出す行為は召喚ではなく、喚起と呼ばれているわ。日本語ではまとめて召喚と訳してしまっているけれど、この二つは別の魔術として扱われているわ」
要するに、ゲームの召喚魔法は召喚じゃなくて、喚起という別の魔術という事か。そして、本当の召喚は降霊術のようなモノなのだろう。
「ともかく、この召喚魔術が原因で、あなたの精神のどこかに悪魔か、あるいは悪魔の力が入り込んだ。だからそんな姿になってしまったのよ」
……つまり?
「……こんな説明では理解してもらえそうにないわね。いいわ。わかりやすく漫画で例えてあげる」
神楽さんは少し考えるそぶりを見せ、
「今のあなたは魔法少女で、変身するきっかけはあの魔術。その時に魔法の力を授かったのよ。そして変身の解き方がわからなくなっている」
意味不明な言葉を吐いた。言った彼女も混乱しているようだ。
何? 魔法少女? 変身?
えーと、つまり?
「前に、魔術師は自分の流派が信仰するシンボルを身に纏うって言ったわね。要するに、信仰に値する悪魔の形を真似て、同じ力を扱うのよ。あなたの場合は、シンボルが体の中に埋め込まれたと考えればいいわ。そして、まず心が変化して、それに呼応する形で体が変化した」
何となくわかってきた。
僕はあの魔法陣の中で、悪魔の力を授かった。その悪魔の力を使うためには、その悪魔の姿をしていなければならない。だから、僕の体が力を使う事ができる形、つまりその悪魔の姿に変化した。
たまたま、それが少女の形だった。だから、僕は少女になってしまった。
そういう事なのだろう。
神楽さんは僕が納得したのを見届けて、息を吐いた。肩の荷が下りた、という表情を隠していないのは、魔術の知識がない僕に理解させるのがどれだけ難しいかを感じさせる。
そんなにも複雑な事が起きていたのか。僕は頭が痛くなった。
それと同時に、元に戻すのは難しいのだろうと感じた。きっと、時間も手間もかかる。そして何より、難しい。
「……理解が早くて助かるわ。あなたが思ってるとおり、難しいのよ。元に戻すより、そのまま隠し通した方が楽なくらいだわ。まあ、方法は検討しているけれどね。……ともかく、昨日の儀式が原因でそうなった。そして、その儀式を行ったきっかけは、この相談よ」
神楽さんはカバンから、沢村さんの資料を取り出し、テーブルの上に置いた。
……まさか。
「沢村灯里が行った魔術によって、柊悠樹に何かが起こった。その変化がもし、あなたと同じ事だったのだとしたら……。あなたは体に異常はなかったし、服までしっかり着ていたわ。だから服装と見た目の変化で済んだ。けれど、柊悠樹は事故によって重体。二ヶ月たってある程度は回復していたかもしれないけれど、体にも心にも傷跡を残していた。もし、そこにシンボルが埋め込まれたのだとしたら……」
僕はそこまで聞いて、血の気が引いた。
悪魔の力が体に入り込んだ。僕と同じように。
つまり、柊さんの体も同じようなことになる。悪魔の力を使うために、適した形になる。
僕の場合は体にも異常はなく、服と、少しだけ体が変化しただけだ。けれど、柊さんは怪我をしていた。大きな怪我を。
二ヶ月も重体のまま。もしかしたら、意識もなかったかもしれない。沢村さんが魔術でそれを治療したのだとしたら、もっと大きな変化があったはずだ。
そして、意識不明の体に悪魔の力が入り込んだとしたら、心も体もその力に飲み込まれてしまうかもしれない。
それこそ、悪魔になってしまうほどに……。
客間に残された僕は、腕時計で隠れていた左手首のシンボルに目をやる。
神楽さんはここにはいない。昨日の魔術の部屋で、何かの準備をしているらしい。
天音さんが僕を心配そうに見つめる。
「僕は……、女の子じゃなくて……」
彼女は僕の口に人差し指を立てた。
泣きそうな目をしていたんだと思う。彼女は僕を抱きしめて、耳元で、大丈夫と囁いた。
腕時計は、テーブルの上だ。今は僕の左手にはない。
テーブルに手を伸ばすと、彼女は僕の手をつかんだ。手のひらに、彼女の手のひらが重なる。左手の全部を、彼女は両手でしっかりと包み込み、自分の胸元に引き寄せた。
手首のシンボルを抱き寄せるような仕草に、僕は思わず見とれてしまった。
「大丈夫。湊人くんは、悪魔なんかじゃない。ただの可愛い女の子だよ」
とびきりの笑顔で、彼女はそう言った。
天音さんの中では、僕は完全な女の子として扱われているらしい。
「いや、だから女の子じゃなくて……」
顔が近い……。
思わず目を逸らし、ドアのところに立っていた神楽さんと目が合った。
怒っているわけではないだろうけれど、なぜか不機嫌な顔をしていた。ため息をついた彼女は、昨日と同じようなゴスロリ……、いや、礼装を身に纏って静かに佇んでいた。
「……お楽しみのところ、邪魔したわね。準備ができたから、こっちに来なさい」
彼女はそれだけ言って部屋から去る。
……本当に怒ってないよね?
「神楽ちゃんが呼んでるよ」
天音さんは僕の手を離し、神楽さんを追いかけて部屋から出た。
僕も慌てて後を追いかけた。
「そろそろ日が落ちる時刻ね」
腕時計に目をやる。しかし、腕にはついていなかった。
そういえば、さっきの部屋に置きっぱなしだ。
僕の視線の先には、左手首にしっかりと刻まれたアザがあった。神楽さんがくれたカードの裏側の模様とは少し違う。
先ほどの神楽さんの話から考えて、このアザが僕の精神に取り憑いた悪魔の象徴なのだろう。これが消えない限り、僕の体はこのままだ。
「そのままシンボルを見てなさい」
言われたとおり、僕は左手首を凝視した。
神楽さんの様子をチラリと伺う。赤と青の付箋が貼られた古い本を右手で抱くように抱え、左手に持った懐中時計を凝視していた。
天音さんは部屋の外にいて、開けっぱなしの扉の向こうでこちらの様子を伺っている。
昨日と違って床の魔法陣は消えている。部屋の壁にはまた星座のようなマークが描かれていたが、昨日見たモノとは違って見えた。
床の魔法陣がなかった事は安心した。しかし、また彼女が何かをしようとしている事は不安になる。
魔術というのは、魔法陣を描いて儀式を行う事だけではないはずだ。
しかし、神楽さんは何かをする様子はない。時計を確認したあと、その時計を閉じて懐に入れ、こちらの様子を伺っているだけ。
嫌な予感がする。
彼女はこの部屋に入った後、日が落ちる時刻だと言った。そして、シンボルを見ろと言った。
日が落ちた後、僕の体に何らかの変化があるのか。あるいは、日が落ちると、このシンボルに何か変化があるのか。
「あの……これって一体……」
僕は彼女に目を向け、ほんの少しだけ、左手首から目を離した。
その瞬間だった。
突然、昨日と同じように僕の周りを不思議な色の光が覆い、左手首のシンボルが光るのを感じ、同時に神楽さんが何かを叫んだように聞こえた。
昨日と違い、自分の意思で動く事ができる。けれど、周りの状況がわからずに、僕は棒立ちのままだ。
軽い衝撃が僕の体に走った。左手が熱い。握られているような痛みを感じ、僕は思わず手を引っ込める。
「意識はあるわね。それじゃあ、ここから逃げるわよ」
突然手を引っ張られる。転びそうになったのを何とか持ち堪え、引っ張られる方へと走った。たぶん、神楽さんが僕を部屋の外へ連れ出そうとしているのだろう。
「天音!」
神楽さんが叫ぶのと、周りの光が晴れるのは同時だった。僕たちはあの光の外へと逃げ出したようだ。
バタンと大きな音がして、天音さんがドアを閉めたのだと気付く。
「びっくりしたぁ。二人とも飲み込まれちゃったかと……」
不自然に言葉を区切り、天音さんは僕の姿を凝視した。
神楽さんは僕の手を離し、そのまま凍りついたように僕を見ている。
あれ、そういえば妙に体が軽い……?
「初対面の時の仕返し……ってことで、いいかしら?」
神楽さんの言葉に、僕は自分の姿を見下ろした。
素肌の上に白い布がかぶさっている。妙に面積が小さくて、ぴっちりしていた。
これは……水着? にしては、防水加工のがされていないように思える。
いやいやいや……。まさか……。
けれど、うん。これはそういう事なのだろう。頭が事実に追いついたところで僕は全身が震える。
嫌な汗がでてきた。顔も熱い。涙が出そうなほど目に熱がこもる。息を吸う動作と吐く動作を同時に行おうとして、苦しくなる。
この気持ちは、アレだ。家の鍵を閉め忘れたのを、電車に乗ってから気付いたような気分だ。
これ以上ないほどの焦りを感じて、体の自由が聞かない。
「……あなた、本当は女性になりたかった……とか?」
そんな馬鹿な。そんなこと、あるわけがないじゃないか。
「こ、これは……姉さんが……無理やり……」
思わず泣きそうな声が出てしまった。
天音さんは顔を真っ赤にして、手で顔を覆う。しっかりと指の間からこっちを見ているから、覆った意味はあまりない。
「と、とりあえず、部屋の状態を確認するわ。もうアレは収まってるでしょうし、今回は制服も元に戻っているはずよ」
扉を開け、神楽さんは部屋の中に入った。確かに光は収まっているらしく、部屋からは何も感じない。
僕はその場にへたりと座り込み、自身に起きた事態を確認する。
たぶん、走って逃げている間に、昨日と同じことが起きたのだろう。パシン、パシンと、体に軽い衝撃が走り……。
「やっぱり、あったのは制服の方だったわ。下着姿で外に出るわけにはいかないし、着方がわからなければ手伝うわよ」
神楽さんは目を逸らしたまま制服をこちらに差し出す。顔が真っ赤だ。
僕は慌ててその制服をひったくり、体を隠すようにしながら、部屋に逃げ込んだ。
恥ずかしさのあまり卒倒しなかったのは、昨日からの進歩だろうか。
しかし、女性の下着を身につけていた理由を理解してもらえるまで一時間ほど説明を必要とした。そりゃあ、女の子になってしまった次の日に下着まで身に着けていたとなれば、喜んで女の子の生活を満喫しているのだと勘違いされてもおかしくないのだ。
初対面の時に姉のお下がりで女性用のシャツやジーンズを着ていると見抜かれてしまっていた事や、女性のような服装チェックを受けていた経験がある事も見抜かれていたのが災いし、『スカートも含めて』姉のお下がりを普段から着ていると誤解されてしまったのだ。
必死になって今朝の話や普段の格好を説明する。
なんとか誤解を解いた時点で、すでに夜の八時を回っていたように思う。これ以上は深夜徘徊になってしまうため、沢村さんの相談の件は明日に回し、今日の部活は終了した。
……主に、天音さんが今にも襲いかかって来そうな目をしていたことが怖かった。明日から、彼女たちとまともに向き合える自信がない。
しかし、これはどうにもならないのだろうか。
「大丈夫よ。蔑んだりしないわ。これは順応性があるという事、だものね……」
神楽さんは目を合わせてくれない。頭を抱えて、なにやらブツブツとつぶやいている。
天音さんはキラキラした目で僕を見ていた。何を考えている事やら。
「そ、それじゃあ、また明日……」
神楽さんの引きつった顔に見送られ、僕は帰路についた。
……もうそろそろ、泣いてもいいかな。
4
普段から女装趣味がある変態だと誤解されてしまった。
昨日の夜の一件を簡単に説明するなら、そんなところだ。
間違いなく僕は彼女たちの中で、女性の下着を着る事に抵抗がないと思われている。
しかし、実際は違う。
昨日の夜、帰った後、まるで着せ替え人形の気分だった。女装とかそういうレベルじゃなくて、本当に完璧な女の子の格好を教え込まれたのだ。
そして今日の朝も姉の襲撃に逢い、抵抗虚しく完全な女の子の格好をさせられ、恥ずかしさで顔から火が出そうになるのを必死に抑えて登校しているわけで……。
「お、おはよう……」
無理やり作った笑顔で僕に挨拶する神楽さんの反応は、さすがに失礼な気がするんだけども。
しかし、神楽さんの気持ちは僕にもわかる。
……そんなに完璧に着こなしてるのかな、僕は。神楽さんでさえ、着慣れていないという事を見抜けなかったなんて。
「き、昨日はごめんなさい……。そ、その、まさか初日から下着まで女性用を身につけてくるなんて、思ってなかったから……」
彼女はこちらを凝視する。
「今日も、着てるのね……」
……その通りです。
僕は思わず目を逸らした。あまりジロジロ見られると、やっぱり恥ずかしい。
「おはよーう……。湊人くん……」
突然後ろから抱きつかれ、思わずよろめきそうになった。
声を聞く限りでは、これは天音さんだ。抱きついてくるなんて予想外だった。
……すごく眠そうだ。
なんとなく、僕は身の危険を感じた。
「……湊人君、天音に食べられないように気を付けなさい」
神楽さんは疲れたような顔で目を逸らし、そのまま行ってしまった。
追いかけようにも、天音さんが離してくれない……。
「あの、天音さん。そろそろ離し……」
「いただきまーす……」
かぷ。
彼女の歯が僕の首筋に触れた。全く痛くないけど、なんとなくかじられた気になって、僕は慌てて彼女の顔を遠ざけた。
「お肉~……」
間違いなく寝言だろう。彼女は夜更かしでもしたらしく、寝ぼけて僕をかじったのか。
昨日は神楽さんで、今日は天音さんが寝不足か……。二人して何をやっているんだか。
僕は天音さんの手を引いて、学校までの道を急いだ。
あいかわらず昼休みは気が休まらず、僕は珍しく教室で弁当箱を開けた事を後悔した。
隣の席の子が早速僕のお弁当に興味を持ち、詳細は省くけど、気が付くとみんなのお弁当になっていた。
まあ、おかずを分け合ったから、取られたとは意味が違うけれど。
後悔したのはその事じゃなくて、昼休みに生徒会室にいかなかった事だ。たぶん、二人は昼休みにここに来て、僕を待っていたに違いない。
放課後に生徒会室に来てみると、天音さんは机に突っ伏して眠っていた。正面には神楽さんが座っていて、昨日読んでいた本を手に、沢村さんの相談の資料を机に広げていた。
昨日と逆の状態だ。今度は天音さんが眠っている。
「来たわね。今日はこっちに座りなさい」
神楽さんは隣の椅子を引き、僕を招いた。
誘われるままにそこに座り、机の上の資料に目を向ける。
ただの恋愛相談が、とんでもない変化を遂げた。まさか、悪魔になってしまっていたなんて……。
僕も似たようなものか。見た目こそ人間のままだけど、悪魔の力のせいでこうなったのだから。
「今だから言うけれど……」
神楽さんは読んでいた本を閉じて、目を伏せた。
「私は、あなたが羨ましいわ」
羨ましい……?
意外な言葉に、僕は戸惑った。
悪魔の力を取り込んだ事だろうか。けれど、実際には悪魔の力によって変化してしまったのだから、取り込まれたが正しい。
悪魔に魅入られた事を羨ましいと思ったのだろうか。
神楽さんは視線を落としたまま、沢村さんの相談資料を手にとった。
震えたような字で、柊さんの事が書いてある。柊さんの事をどれほど好きなのか、素直な気持ちが溢れている。震えた字が、悲しい気持ちを増長させるほどに、沢村さんの文章は恋人への想いが込められていた。
神楽さんはその紙をしばらく眺め、目を閉じた。
「……二日前、あなたが気を失った後、あなたのお姉さんと話したの」
ゆっくりと、神楽さんは話を始めた。
落ち込んでいるのか、眠っている天音さんへの配慮か。神楽さんは声を抑えている。
「……良いお姉さんね。あなたの事を心配してたわ。塞ぎ込んだりしないか、人を恨むような人間になったりしないか……。これが原因であなたが人間不信になってしまったら、私は彼女に申し訳が立たないわ」
神楽さんらしくない。泣きそうな声だ。
彼女の言葉で、ふと、僕は気がついた。
なぜ昨日と今日、姉さんが僕を無理やり着替えさせたのか。
僕が腕時計を外したら、そこにはシンボルの形をしたアザがある。これを見つけてしまえば、僕は自分の体が女の子になったのではなく、魔法の力による変化をしたのだと気付いてしまうかもしれない。そして、最初に魔術の話を思い出し、僕の中にいる何かの正体に気付く可能性もある。
例え気付かなくとも、このアザを見る度にストレスになり、そのうち神楽さんに辛く当たってしまうかもしれない。
腕時計を着ける度、それは目に入る。見ないふりなんてできない。だから、姉さんが無理やり着替えさせる事で、僕の目をそこから逸らしていた。
もう一つ、天音さんも含めて、僕を女の子として扱っていた。悪魔になってしまった可能性に気付かないように、僕を誘導していた。
たぶん、昨日の朝から神楽さんが寝不足のような状態になっていたのは、僕に悪魔の事を気付かせないような計画を立てていたからだ。
きっと彼女の理想の中では、僕が悪魔に気付く前に元通りになっていたはずだ。でも、それが難しいとわかって、僕に事実を教えた。
今日は天音さんが寝不足の状態だ。昨日の夜、僕が帰ってから天音さんと神楽さんが何かをやっていたのだろう。僕を元に戻すのは難しいから、隠し通せなくなる前に事実を教えて、何かあったら、神楽さんではなく天音さんがフォローする。
原因である神楽さんでは火に油を注いでしまうから、天音さんや、姉さんに声をかけたんだと思う。
神楽さんの昔話は、天音さんなりの心遣いだったのだろう。昨日、僕がここに来た時に泣きそうになりながら話してくれた事を思い出した。
「柊さんは、元に戻るために沢村さんと一緒にいるんだよね」
資料の一枚を手に取る。柊さんの退院後の記録らしい。
突然回復して、学校にも復帰して、今まで通りの生活をしている。
ある意味、事故によって変化した状況が変わって、元通りになった。けれど、それによって変化したものもあった。
完全に元に戻るには、沢村さんが必要だ。だから嫌悪しつつも、別れようとしない。
「沢村さんは、どう思ってるのかな。やっぱり、悪い事をしたって、思ってるんだろうか」
神楽さんはキョトンとした顔で僕を見た。意味がわかっていないらしい。やっぱり、彼女は想定外の事には弱いのだろう。
「助けるためにした事なのに、結果が悪かっただけで悪者にされてしまったら、辛いよね」
神楽さんはまた目を伏せて、今度こそ泣きそうな声で、「でも、あなたは……」とつぶやいた。
決定的な言葉は口にしていない。彼女だって、僕が何になってしまったのか、認めようとしていないじゃないか。
僕はゆっくりと、彼女に囁いた。
「僕は、心まで悪魔になったわけじゃない。それに、確かにあの魔術が原因でこうなったかもしれないけど、おかげで僕が何者なのかを考えるきっかけになったよ」
周りから見て、僕は普通じゃない。女の子に見えるのに、中身は男の子。出る杭は打たれると言うけれど、この特徴は飛び出しすぎて、的にされていた。
でもそれは間違いだった。僕は普通の人間で、例え性別が変わってしまったとしても、それを表にさえ出さなければ、誰も的になんかしなかったんだ。
見た目は変わらないけれど、自分の態度で見え方は変わる。
僕を特別な存在と扱っていたのは、他ならぬ僕自身だ。女子の服装を着ていようが、僕は秋山湊人でしかあり得ない。
秋山湊人が何者なのかは、これから考えればいい。けれど、少なくとも僕は、未だに僕のままなのだ。
「それに、ほら、神楽さんは必死に僕を元に戻そうとしてくれてる。だから、それでいいと思う」
僕は腕時計を外して、アザのように刻まれたシンボルに目をやった。
姉さんたちは隠そうとしていたけど、もうその必要はない。これを見てストレスになることは、多分無いだろう。
このシンボルは、僕が知る限り一番頭が良くて、一番寂しがり屋で、一番のお人好しに出会えた印なのだから。
僕は彼女に笑いかけ、彼女も僕に笑いかけた。
その笑顔は、最初に出会った時と同じ、うっかり恋に落ちそうな魅力的な笑顔だった。
神楽さんは机に散らばった資料をまとめ、順番に並べた。
まだ解決していない。悪魔になってしまったらしい柊さんを元に戻すまで、沢村さんへの態度は変わらないのだろう。
あるいは、沢村さんと和解させなければ。
「そういえば、沢村さんも魔術師なんだよね」
柊さんを治療するために、沢村さんは魔術を使用した。それなら、彼女も魔術師と扱っていいのだろうか。
「ええ。彼女も魔術師で間違いないわ。とはいえ、彼女が魔術師になったのは最近だけど」
前歴なし。
城崎さんが調査した、沢村さんの魔術師の履歴を思い出した。
神楽さんの言葉を借りるなら、柊さんの一件は沢村さんにとって初犯だ。初めての魔術がこんな事になってしまうなんて、沢村さんは今、どんな気分なんだろう。
僕はチラリと、自分の腕のシンボルに目をやった。もし沢村さんが罪悪感を感じて柊さんを元に戻そうとしているなら、彼女の方が先にどうにかなってしまうかもしれない。
慣れない魔術の影響を元に戻さなきゃいけない。知らない事を知らなきゃいけない。おまけに、恋人は自分に冷たい態度を取るようになって……。
……あれ?
そういえば、沢村さんは恋人を拒絶したりしないのかな。
こういう言い方はいけないけど、嫌になって逃げようと思えば、やり方はいくらでもある。
沢村さんが魔術を研究している理由は柊さんだけど、その柊さんからの冷たい態度が嫌で、相談を持ちかけたはずだ。
どうして、彼女は未だに一緒にいるのだろう。
神楽さんの言葉通り、嫌なら別れてしまえばいい。そういうわけにもいかないのだろうか。
……って、まるで神楽さんみたいな事を考えるようになってきた。人の気持ちはそんな簡単にはいかない。好きな人と一緒にいるために、あえて辛い選択をする人だっているんだ。
きっと、沢村さんはそういう人なのだろう。それだけ柊さんの事が好きなのだ。あるいは、責任感が強いのか。だから、自分で元に戻そうとしている。
神楽さんに目をやる。
彼女は僕のシンボルに目を向け、何かを考えていた。両手を顔の前で突き合わせて、悩むような目をしていた。
「……逆、だったのね」
神楽さんは立ち上がって、まとめた資料を再び机にばらまいた。
その衝撃で、天音さんは目を覚ます。目をこすって、机の上の惨状を見下ろした。
「あの……逆、って?」
僕の問いに、神楽さんは机の資料を指しながら、静かに答えた。
「魔術師は沢村灯里じゃない。柊悠樹の方だったのよ。最初に沢村灯里に会った時、彼女のカバンにシンボルがついていたけれど、状況から考えてみればおかしな話だわ。だって、初めて使用した魔術によって恋人が変化したのなら、原因を作ったその魔術を嫌悪するはず。そんなモノをカバンにつけて、身近な場所に置いておきたいはずがない。あれは、魔術師のシンボルじゃない。恋人のシンボルだったのよ」
たった今、僕が気付いた神楽さんの気持ちをそのまま当てはめたような回答だった。
僕の腕にあるシンボルは、僕の体が変化した証拠だ。もし自分が悪魔になってしまったのだと知らされたら、このシンボルを見るたび、嫌な気持ちになる事だろう。それがストレスとして積み重なり、攻撃的になったり、塞ぎ込んだりしてしまうかもしれない。
それは僕だけじゃなく、神楽さんだって同じのはずだ。自分のせいでこんな事になってしまった相手と関わり続ければ、気を使いすぎておかしくなるかもしれない。シンボルを見ただけでも、そういったストレスは感じるはずだ。
だけど、沢村さんはカバンにそれを着けている。毎日それを見続けているのだ。
そんなふうに自分の過ちを毎日確認していたら、普通ならおかしくなってしまう。
神楽さんはさらに続けて言った。
「おそらく沢村灯里は、柊悠樹に魔術を教わった。今まで一度も魔術を使った事がないにもかかわらず、沢村灯里は瀕死の恋人を治療するほどの魔術儀式を発動できた。そして、その魔術は、彼女にとっては成功した。まるで二次方程式を習っただけで大学に合格するようなものだわ。きっと沢村灯里は一つの魔術しか使えないし、根本的な部分を理解していない。だから、この魔術による影響の対処法や、そもそも本当に成功したのかがわかってないのよ」
魔術については未だによくわからないけれど、つまり、沢村さんは柊さんから教わった魔術しか行うことができず、その魔術を使うとどういうことになるのか、本当の意味ではわかっていない。
例えば、治療する魔術だと教えられて使ったのに、別の結果になってしまった場合、それが成功して正しい結果になったのか、失敗して間違った結果になったのかがわからないのだ。
「湊人君も知ってるとおり、沢村灯里が行った魔術は本当の意味で成功すれば悪魔の力を召喚するわ。けれど、彼女にとっては逆だった。おそらくこの時は悪魔の力は現れず、柊悠樹の治癒だけが行われた。彼女にとっては成功だった。だから、柊に冷たい態度を取られる理由がわからずに混乱して、失敗したのかもしれないと疑ったんだわ」
思えば、彼女に初めて会ったとき、『やっぱり、失敗した』と言っていた。つまり、あの時点ではまだ失敗したのかどうかがわからずにいたのだろう。
全て逆だったのだ。沢村さんではなく柊さんが魔術師だった事、相手と別れられないのは柊さんではなく沢村さんの方だった事、そしておそらく、柊さんが悪魔になっていない事。
最初に神楽さんが立てた仮説は、数学的な人間なら正解だったのかもしれない。けれど、沢村灯里は人間で、魔術師として未熟だった。
これは事件ではない。魔術師が起こした異変でもない。
人が人を好きでいるだけの、ただの恋愛相談だったのだ。
「そうとわかれば、話は簡単よ。おそらく柊の目的は悪魔の力。つまり魔法の力を欲しがっている。魔術師として、私が柊と話すわ。それで解決できる」
自信たっぷりに話す神楽さんだったが、どうやら焦っているらしい。両手の指先を顔の前で合わせ、目を閉じた。
そして、困ったような目で僕を見る。
視線を横にそらすと、天音さんが散らばった資料を整理していた。僕に笑いかけ、神楽さんに視線を向ける。
「大丈夫だと思うよ、神楽ちゃん。湊人くんは、ただの可愛い女の子だから」
天音さんは諭すような声で言った。
いや、あの……。
「……そうね」
神楽さんが笑いながら言った。
だから、僕は女の子じゃなくて……。
いや、今はそんな事を考えている場合ではない。
「湊人君は、沢村灯里をお願い。魔術に巻き込まれた者同士、何か通じるところもあるはずよ」
沢村さんも、巻き込まれた事になるのだろうか。確かに、魔術のせいで普通じゃなくなってしまったのは、僕も彼女も同じだ。
それに、この恋愛相談は柊さんを説得するだけでは不十分だ。沢村さんの心の負担も取り除いてやらなければならない。
「沢村灯里はこの間と同じく、部室棟二階の文芸部の部室にいる可能性が高いわ。まずはそっちに行きましょう」
神楽さんは制服のポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認して、再びポケットにしまい、生徒会室を後にした。
「行こう、湊人くん」
天音さんが僕の手を引き、僕たちは神楽さんの後を追った。
文芸部室に来るのは二度目だ。前は沢村さんが魔術を使ったとは知らなかった。
大丈夫だとは思うけれど、なぜか緊張する。
「生徒会です。沢村灯里さん、少しよろしいかしら」
沢村さんはビクッと体を震わせ、ゆっくりと神楽さんの方を見た。
カバンに目をやると、先日と同じく、変わった形のキーホルダーがついていた。
「単刀直入に言うわ。柊悠樹の怪我の治療以外には何も起こっていない。だからあなたが行った魔術は厳密には失敗したことになる。柊の態度が変わった原因はそこよ」
神楽さんの言葉を聞いて、沢村さんは驚くと同時に視線を落とす。
僕は数日一緒に行動していたおかげで、この答えに行き着いた経緯を知っている。けれど、沢村さんから見たら、この数日でそんな事まで見抜いたのかと驚く事だろう。
「確かに……、そう……ですね」
やっと口を開いた沢村さんは、それだけ言って、再び口を閉じた。
なんとなく、神楽さんが僕に沢村さんと話をするように言った理由がわかってきた。
つまり沢村さんは、自分のせいでこんな事になってしまったのだと、自分を責めている。きっと、魔術が失敗した事に関して、全て自分が悪いのだと考えているのだ。
自分のせいで。
神楽さんも、ついさっきまでそんな様子だったように思う。自分のせいで、僕がこんな目にあった。そう考えてしまっていた。
僕は彼女を責めなかったし、責任を追求する事もなかった。いわば、被害者である僕から赦されたようなものだ。
だからこそ、沢村さんに言葉をかけるのは、神楽さんより僕の方がふさわしい。今の沢村さんに必要なのは、被害者である柊さんに赦される事なのだ。
神楽さんはチラリと僕に目をやる。何かを言おうとして、彼女はその言葉を飲み込んだ。
「でも、もういいんです。もう……手遅れだから」
沢村さんは、笑顔と泣き顔を足したような顔で、力なくそう言った。
5
結果から言えば、僕の出番は無かった。沢村さんの発言の後、割って入った神楽さんが柊さんの居場所を聞き出し、血相変えて部室を飛び出して行ったのだ。
僕は慌ててその後を追い、天音さんは念のための部室に残った。
「何かあったの?」
追いながら、僕は神楽さんに話しかける。
「手遅れ、と彼女が言った。その意味は何だと思う?」
歩みを止めず、振り返ることもせずに神楽さんは言う。よほど焦っているのだろう。
手遅れ、というのは、元に戻せない状態になった何かがあるということだ。専門的に言えば、不可逆な事象が発生した、という。
「楽観的に考えるなら、沢村灯里と柊悠樹が別れた事を、彼女が大げさに話しただけでしょうけど、それにしては彼女の様子がおかしい」
様子がおかしいとは、どういう事だろうか。
「あくまでも見立てだけど、沢村灯里は恋愛で頭がいっぱいになるタイプじゃない。もっと打算的で現実的な人間よ。でなければ、恋人がバイク事故にあった時点で、もっと冷静さを欠くはず。約二ヶ月もの間、意識が戻らない相手に魔術の儀式を行うなんて、できる事じゃない。となれば、彼女が発した、手遅れ、の言葉の意味として最も適切なのは、柊悠樹から教わった魔術の儀式をもう一度実行して、今度こそ成功した、が正解と考えられる。要するに、柊悠樹は……」
そこから先は、聞かなくてもわかる事だった。
最初に部室で沢村さんと話した後、彼女は自分の魔術が失敗したから、柊さんに冷たくされたのだと気付いた。
そして、恋人のために、もう一度魔術を使う事にした。今度こそ上手くいって、柊さんの望む結果を与えられるように。
結果、その願いは叶った。そして、柊さんの体は、僕に起きた変化と同じように、人間ではない何かに変わってしまったのだ。
問題なのは、柊さんの体がどこまで変化したのかという事だ。仮に僕と同じ程度なら、性別が変わったように見えるだけに過ぎない。僕の場合は顔などの見た目までは変化しなかったのだから、同じ程度であれば、服装でいくらでもごまかせる。
けれど、沢村さんの言うような、手遅れになるような変化があったのだとすれば、きっと僕以上に悪魔に近い存在になっているだろう。僕のような中途半端な変化ではなく、もしかすると、完全に悪魔になってしまった可能性もあるのだ。
◇◇◇
僕が入学してすぐ、校内を見て回った時に立ち寄った、四階の端に着く。この階だけ教室の数が少ないため、屋上のような形で外に出られる場所だ。
流石に金網で囲まれているため、転落の危険は少ない場所だったのだが、今はその金網は一部分が切り取られ、人が一人通過するには十分な穴が開いていた。
その穴の奥に、男子生徒が立っていた。今にも飛び降りそうな格好ではあるが、体はこちらを向いている。
「柊悠樹さん、話は全てお伺いしています」
神楽さんが、その男子生徒に声をかける。
その声に反応しないまま、男子生徒はこちらの様子を伺っていた。
「なるほど、そういうこと。やっぱり、あなたは二ヶ月前の時点で、既に柊悠樹じゃなくなっていたのね」
と、神楽さん。さらに続けて言う。
「二ヶ月前、柊悠樹は事故で意識不明の重体。バイクの運転手と彼の両親の間で話し合いがあった時、少し揉めたそうね。けれど、結果はバイク側の過失。日本の法律では、自転車の方が事故死の可能性が高いから、事故があった場合は優先的に保護される。この流れは当然の結果と言えるわ。問題はそこじゃない」
神楽さんはいったん言葉を区切る。さりげなく、この男子生徒が柊さんではなくなったと言っていたが、どういうことなのだろう。この人は柊さんじゃないのだろうか。
「続けるわよ。今回の件で重要なのは、いつ沢村灯里が魔術の手順を知ったのか。それも、リハーサルもロクにせず、どうしていきなり恋人に魔術をかけたのか。普通、大事な場面で失敗することを恐れて、まずは別の人や生物で試すはず。けれど、沢村灯里は初めての魔術を、よりにもよって恋人に向けて使用した」
神楽さんのお姉さんの調査で、初犯という結果を聞いたのを思い出した。
沢村さんは以前に魔術を使用した形跡がなく、神楽さんの言葉を借りるなら、リハーサルをしないまま舞台に立ったのだ。だからこそ、自分の魔術が成功したのかどうかが分からないというのも、よく考えればおかしい話だ。普通は、どんな結果になるのかが分からない物なんて、怖くて触れない。ましてや、魔術などという得体の知れないものなら、なおさらのこと。
リハーサル無しの舞台で、結末を知らずに演じるなんて、どんな役者でも震え上がる事だろう。
「考えられる可能性は二つ。一つは、沢村灯里が魔術を教わった時、目の前で見ていたというもの。わかりやすく言えば、沢村灯里は恋人や友人に魔術を習い、その時におおよその結果を見ているというもの。それなら初犯でも納得できるし、結果が分かっているなら、リハーサルなんて必要もなく魔術を使用しても不思議じゃない」
つまり、沢村さん自身が初犯でも、他の人の手伝いをしていれば、経験は積んでいるということだ。
だから、初めて魔術を使用する事になっても、多少は心構えができているのだ。
けれど、僕にも、この仮説は間違いであると分かった。もしこの仮説が正しいのなら、沢村さんと最初に会った時、あんな反応をするはずがない。
「沢村灯里と初めて会った時、やっぱり失敗した、と発言した。つまり、それまで結果がわからなかったという事。誰かを手伝って魔術の経験を積んでいたのなら、人に言われるまで結果がわからないなんて事はあり得ない。つまり、沢村灯里は恋人が事故に遭うまで、魔術の存在を知らなかったのよ。だとすれば、可能性は一つしかない」
沢村さんは、柊さんが事故に遭った後、恐らくは柊さんの件で初めて魔術に触れたのだ。
だとすれば。
「魔術を使用したのは柊悠樹。沢村灯里は、その現場に偶然居合わせて、恋人のために手伝いを申し出たのよ」
ようやく、男子生徒は口を開いた。
「いつ気付いた?」
何に、とは言わないあたり、まだこちらの様子を伺っているらしい。核心に触れる事は言いたくないという態度が見て取れた。
「あなたの正体は、事故の資料を読んだ時にだいたいわかったわ。普通の人間が、二ヶ月も意識不明の重体から突然回復だなんて、どう考えてもおかしいもの」
資料を読んだ時って、あれ、じゃあ最初から?
思わず質問をしそうになったが、僕は敢えて口を挟まず、神楽さんが喋るままに任せる事にした。
下手に質問すると、あの男子生徒に弱みを見せる形になる気がしたからだ。
男子生徒は言う。
「そこに気付けたなら、俺の正体も大体予想できているんだろうな。もともと隠す気は無かったから教えてやっても良かったんだが」
「いいえ、できればあなたの口から説明してほしいわね。流石に、今のあなたが魔術に成功して悪魔になったのか、失敗して別の何かになったのか、判別がしづらいわ」
男子生徒は金網の穴からこちら側の足を踏み入れた。けれど、影から這い出る事を拒否するかのように、光が当たる位置を避けて、彼は立ち止まった。
「お察しの通り、俺は悪魔にはなれなかった。魔術そのものは成功したが、人間の体では限界があるらしい。悪魔になるどころか、呼び出した悪魔に魂を掴まれて、人間ですらない人形に成り下がった」
男子生徒は静かにそう言うと、なぜか僕に向いて、続けた。
「そこのお前も似たような存在だろう。見ればわかる。俺よりは幾分か症状が軽いようだが」
神楽さんが苦い顔でこちらに視線を送る。気持ちは分からなくもないけれど、僕はその視線に何も返そうと思わなかった。
自分自身の写し身、それも、現在の問題が取り返しのつかない状態になった自分自身。いずれ訪れるであろう、悪い意味での未来の自分のような男子生徒を目の当たりにして、僕は焦りと怒りと、それでも神楽さんを恨む事が出来ない自分の弱さが混じって、自分がどんな気分なのかがわからないのだ。
「……治る見込みは、無いんですか?」
やっと絞り出した言葉が、それだった。
神楽さんが俯くのが、視界の隅に映った。
「あいつ、灯里から聞いてないか? もう、手遅れなんだ。一度悪魔に魂を掴まれたら、絶対に放してはもらえない。ゆっくりと精神を蝕まれて、いずれ俺は俺で無くなる。そうなる前に死ぬ以外、解決する方法はない」
淡々と、彼は言った。そして、もう一度、金網に空いた穴から出ようとして、立ち止まった。
ちょうど金網の手前のところで、神楽さんが彼の上着の裾をつかんだのだ。
「死なせないわよ。まだ希望はあるはずよ。あなたは全ての方法を試したわけでは無いのでしょう?」
男子生徒は振り返る事なく、かといって、神楽さんを振り払うこともなく、ただ一言、「あんたはどうなんだ?」と、低い声で言った。そして、やはり振り返る事も、振り払うこともせず続けて言う。
「そこのツレのお嬢さんが、いつ俺と同じ事になったのかは知らないが、そいつが元に戻っていないところを見ると、あんたもまだ元に戻る方法を知らないって事だ。あんたは頭がいいし、俺なんかよりずっと魔術に詳しいだろう。そのあんたが、そのお嬢さんを元に戻せてないのだから、元に戻るのが難しいか、そんな方法は存在しないかのどちらかだ」
神楽さんは彼の上着から手を離し、力無くうなだれた。
無理もない。彼の言葉を要約するなら、神楽さんがここを訪れなければ、あるいは僕の姿を見ることさえなければ、まだ彼には希望があったのかもしれないからだ。
同じ状態になって、元に戻れずにいる誰かが居て、しかもその誰かは自分より優れた知能と知識を持つ誰かと一緒にいる。そんな状況を目の当たりにすれば、誰だって思うだろう。
この人が無理なら、自分にも出来ない。
きっと、彼は僕たちがここへ来る前、一度は死のうとしたのだろう、金網を破り、あとは飛び降りるだけという状況で、やっぱり死ぬのが怖くなったのだ。元に戻れる可能性が僅かにでもあるのなら、それにすがりたいと思ったのだ。
けれど、その幻想は打ち砕かれた。希望なんて存在しないと、僕たちの姿を見て悟ったのだ。
彼が金網の外に出たら、今度こそ躊躇はしないだろう。きっと、何も言わずに飛び降りることだろう。
神楽さんにもそれは理解できただろう。自分のせいで、彼はここから飛び降りてしまう。だからとっさに止めたのだ。けれど、だからこそ、今度は止められない。
もう、どうしようもないのか。
男子生徒は、一歩、金網へ近付く。
神楽さんはもう一度彼を止めようとしたが、伸ばした手を引っ込め、下を向いた。
「あ、あの」
僕は必死に声を出した。僕には彼を止められる自信はなかったけど、ひとつだけ、彼に聞きたい事があったのだ。
「引き止めても無駄だ。俺はもうーーー」
「どうして分かったんですか?」
彼に被せて、僕は言った。
「……なんのことだ?」
「僕が同じ目に遭っているって事を、です」
彼は怪訝そうな顔をして、こちらに向いた。
僕はどうしても、納得がいかないのだ。僕を見れば同じ目に遭っているというのが分かったと、彼は言ったけれど。
けれど、彼は僕の事を、お嬢さんと呼んだのだ。
つまり、彼は僕を女性だと思っている。元々男性だったのに女性になってしまったと知っているなら、僕をお嬢さんとは呼ばないはずだ。
なのに、僕をお嬢さんと呼んだのは、最初から女性だと思い込んでいるからだ。おまけに、僕の左手首のシンボルは腕時計に隠れている。シンボルで判断するのは不可能なはずだ。
僕の変化は彼よりもかなり小さく、外見からは人間以外の何物にも見えないはずなのだ。だからこそ、こうして普通に学校へ通っているし、多少のことはごまかせる。
外見で判断できないなら、一体何を見て、僕が同じ目に遭っていると分かったのだろう。彼は僕に対して、見ればわかる、と発言した。僕はどうしても、そこが気になって仕方がないのだ。
ふと、神楽さんを見る。もしかしたら、神楽さんにも僕が普通の人とは何かが違うように見えているのかもしれない。
もしそうなら、きっと神楽さんも怪訝そうな顔をしているか、表情に変化がないかのどちらかのはずだ。
けれど、そのどちらでもなかった。神楽さんはこちらを凝視したまま、顔の前で指を付き合わせ、何かを思考しているようだった。
彼に向き直り、彼の姿を観察してみた。もし彼が僕を見て何かが分かるのなら、僕が彼を見ることで、何かが分かるかもしれない。
目を凝らし、よく見る。
「か、神楽さん、これって……!」
僕は驚愕した。なぜ気付かなかったのだろう。
彼の姿に重なって、確かに、悪魔に取り憑かれたとしか言いようのない痕跡が見えたのだ。
「見えたか? 俺の体から噴き出る悪魔の痕跡が。それがお前にもあるんだ」
彼の脇腹あたりにある霧のようなものがそうなのか。
「どう見える?」
神楽さんが僕に尋ねた。
「彼の脇腹あたりから、濃い色の霧みたいなのが出てる」
と、僕は答えた。
神楽さんは何かを閃いたように、口の端を吊り上げた。
「聞きたい事はそれだけか? ならーーー」
「待ちなさい。湊くん、確認するけれど、脇腹なのよね。全身や心臓ではなく、脇腹、なのよね」
神楽さんが、ニヤリと笑いながら、そう言った。。
男子生徒をなんとか説得し、神楽さんは僕たちを連れて、再び文芸部室へと戻った。
意気消沈していた沢村さんと、彼女を励ましていた天音さんは驚いて、その男子生徒を凝視する。
「悠くん……」
特に沢村さんは、まるで死人を見たように真っ青な顔で、彼の名前を呼んだ。
「まだだ、灯里。この人が気付いたという最後の希望を試して、それでダメなら、やっぱり飛び降りる事にする」
険しい表情のまま、男子生徒が言った。
神楽さんは部室に鍵をかけ、並べられた机を端に寄せ始めた。何を企んでいるかはわからないけれど、僕は彼女を手伝おうと、机に手をかける。
「そういえば、最初に出会った時も、あなたは何も言わずに私を手伝おうとしたわね」
神楽さんが言った。
「今回の件も、あなたの一言のおかげで助かったわ。ありがとう」
それだけ言うと、神楽さんは部屋の隅にあった水性マーカーを取り、床に何かを描き始めた。今まで似たような模様が床に書いてあるのを何度か見たが、これまでのとは少し形が違っていた。
「ねえ、どちらか、大きめのナイフを持ってないかしら」
と、神楽さん。とても生徒会長とは思えない発言だ。
そんなものを学校に持ってくる生徒が居ると思っているのだろうか。
「カッターナイフでいいなら」
と、沢村さん。
「それだと形が違うわね……。器には使えそうにないわ」
器に使う、とはどういう事だろうか。
「まあいいわ。別の物で代用しましょう」
そう言って、神楽さんは遠慮なく部屋の棚を物色し始める。
床に魔法陣を描いた時といい、この人には遠慮や躊躇というものが無いのだろうか。
「何をする気だ?」
男子生徒が言った。
神楽さんは手を止める事なく、これから行う、恐らくは魔術の説明を始める。
「さっき屋上で話してた内容を思い出して。柊悠樹さんの体の、傷の部分に悪魔の痕跡が見えると言っていたわね。それって、つまり魂ではなく、体の方に悪魔が取り憑いたって事なのよ」
男子生徒は納得がいかない顔で続きを促した。
「だから、魂ではなくて体に悪魔が取り憑いたのなら、いったん体から魂だけを取り除いて体を交換するか、悪魔が取り憑いた場所だけを切り取ってしまえば、これ以上悪魔に侵食される事はないわ」
さらっと、とんでもない事を言い出す。魂を取り除くなんて事もそうだけど、体を交換だの、切り取るだの。
「つまり、俺にもう一度、事故の時と同じ傷を負え、ということか」
彼が言った。
「そうじゃないわ」
神楽さんはそれを否定した。
彼は安堵したような表情になったが、まだ問題は解決していない。
いずれにしろ、いったん体から魂を取り除くなんていう作業をしなければならないのだ。
「具体的には、どうやる?」
彼は尋ねた。
神楽さんは作業の手を止めて、僕を見た。
「手伝ってちょうだい」
僕に向かって、彼女ははっきりとそう言った。
「悪魔の痕跡が見える人なら、悪魔が取り憑いた部分だけを切り取る事もできるはず。やり方は教えてあげるから、私の目と手の代わりになって欲しい」
さすがにもう驚く事もしなかったけど、神楽さんの突然の提案に僕は何も返せず、呆然とした。
その申し出が嫌だと思ったのではなく、何故だか、彼女がこうもあっさりと他人に手を借りる姿が珍しいと思ってしまったからだ。
自分の姉にさえ、手伝いではなく依頼という形を取っていたというのに。
僕は彼女に近寄り、彼女がこちらに向けて持っていた物を受け取った。
「何をすればいいの?」
「彼の傷口を広げてちょうだい」
前言撤回。僕は露骨に嫌そうな顔を見せた。
なんて事をやらせようとしているんだ。と、僕は思わず持っていた物を突っ返す。
「まあ、聞きなさい。今問題になっているのは、柊悠樹の傷跡に寄生した悪魔よ。魂に取り憑いているなら手遅れだったけど、体なら話は簡単。その傷口から悪魔を吸い出して、元いた場所に送り返してやればいいのよ」
楽しそうにも見える表情で、彼女は言った。
当の本人はどう思っているのか、彼の様子を伺う。
「……仕方がないだろう。悪魔に取り憑かれるよりはマシだ」
本人も不本意な様子だが、確かに言っている事はわかる。悪魔に取り憑かれたままより、いずれ治るであろう体の傷の方が、まだマシだ。
僕は突っ返しかけたソレを、改めて眺めてみる。少し大げさな形をしたペーパーナイフだった。こんな物で人を傷つける事は難しいだろうが、元々ある傷を広げるだけなら、これでも十分なのか。
「じゃあ、あなたは円の中へ。湊人くんも。それ以外は、円の外で待ってて」
僕と彼が、床に描かれた魔法陣の上に立つ。なんとなく、苦い思い出が蘇ってきた。
そういえば、僕がこの体になった翌日、似たような状況になったことがあったけ。その時と同じことが起きるんだとしたら、僕はまた、例のゴスロリ姿になってしまうのだろうか。
神楽さんの様子を伺うと、前と同じように時計を見て、何かを待っているようだった。
「……早すぎたかしら」
何かを待っている様子だが、やはり間違いないだろう。今が何時頃なのかはわからないが、おそらくは昨日と同じ時間になるはずだ。
僕は時計を見るため、左手をあげる。その時だった。
何色とも判別のつかない例の光が僕を包んだ。前と同じように、僕の体の表面に小さな衝撃がいくつも感じられ、光が収まる頃には、前と同じ、重さを感じないたくさんの布に囲まれていた。
「なるほど。そのシンボルがキーになっているのね」
神楽さんが僕の左手首を見た。今は時計に隠れているが、なるほど、その下にあるシンボルに何かが作用することで、いつでもこの姿になれるのか。
便利であるかのように表現してみたものの、冷静に考えればかなり迷惑な状態ではあった。
「まあ、それの検証についてはまた今度にするとして、とにかく今は、柊悠樹の体に取り憑いた悪魔を切り離すわよ」
神楽さんは僕たちの立ち位置だとか、手渡されたペーパーナイフの説明を始めた。
さっきはこのペーパーナイフで彼の体の傷口を広げるなんて言っていたが、実際に説明を聞いてみると、体を直接傷つけるわけではないらしい。
「今の湊人くんには、悪魔の痕跡が霧か何かのように見えていると思うけど、要するにその霧を掴んで、彼の体から引き抜くイメージをしてもらえればいいわ。その時、引き抜いた霧はこの魔法陣の力で、文字通り霧になって消えていくから、安心していいわ。悪魔が大きすぎて抜けない場合は、彼の体に切れ目を入れて、穴を広めればいい。あくまでもイメージだけどね」
まるで野菜の収穫みたいな事を言い出したが、そういう感覚でいいらしい。魔法陣の上に横たわった彼の体を見ると、確かにいくつかの箇所から、濃い色の霧が吹き出ているような状態が見て取れた。
僕はその中の一つにあった、小さい霧を掴む。掴むことができる霧というのも不思議な感覚だった。
すこしだけ躊躇してから、その霧を引き抜く。スルスルと抜ける感覚があって、その部分だけ、彼の体から霧が晴れたような形になった。
「痛くないですか?」
一応、彼に聞いてみた。
「大丈夫だ。そのまま続けてくれ」
我慢しているわけではなさそうな様子に、幾分か気は楽になった。
彼の体から出ている霧はあと二つ。そのうち小さい方を掴み、同じ要領で引き抜く。
あと一つ。さすがに体と同じ大きさというほどではないが、片手で引き抜くのは難しそうな大きさだった。
僕はナイフを床に置き、両手でそれを掴む。重さは感じないが、すんなりとは抜けてくれなさそうだ。
僕はもう一度ナイフを手に取り、彼の体の、霧が吹き出している箇所にあてがう。
あくまでもイメージ。実際に体にナイフを入れるわけじゃない。
僕はナイフを少し浮かし、まるで切るフリをするように動かした。
霧の吹き出し口になっていた部分が大きく広がり、少しだけ霧が濃くなった。
もう一度、両手でそれを掴む。そして、今度こそ、ソレを彼の体から引き抜いた。
6
「柊悠樹が意識を取り戻したわ。これで、彼はもう、悪魔にも命の危険にも晒されることは無いでしょう」
あの悪魔の摘出手術の翌日、僕と神楽さんは放課後に文芸部室を訪れ、沢村さんにそう報告した。
あの後、柊さんは僕たちに礼を言い、すぐに意識を失ったのだ。
神楽さんが言うには、手術後の疲労のようなものとの事で、後遺症などの心配は無いらしい。
沢村さんも安心したようで、笑っているのか泣いているのかわからないような表情で、僕たちに礼を言った。
報告を済ませた僕たちは、部室を後にし、天音さんが待つ生徒会室へ向かう。
「今回は大仕事だったわね」
道中で、神楽さんは僕に話しかける。
「いきなり巻き込んでしまって、ごめんなさい。けれど、おかげで助かったわ」
こちらに顔を向ける事なく、彼女は僕に礼を言った。表情こそ見えなかったけれど、彼女が焦っているように感じたのは、気のせいでは無いだろう。
今回の件、神楽さんが感じていた疑問は、僕にも納得がいく内容だった。
「柊悠樹は二ヶ月間、意識不明の状態だった。けれど、魔術の儀式の準備はできていた。つまり……」
沢村さんが最初から手伝っていたのではなく、まさに儀式の最中に偶然それを見かけたのだと、神楽さんは推理していた。なら、その儀式の準備は、誰が行なっていたのか。
柊さんが動けなかったのなら、少なくとも、もう一人、柊さんの魔術を手伝った人がいる。
意識不明から回復した直後の柊さんが、すぐにその人物に連絡を取れたとも考えにくい。そして何より、回復直後に魔術を使用したとしても、いくらなんでも早すぎる。
「おそらく、その人物は今回の事件の主犯。柊さんの記憶も曖昧で、もう一人の存在を忘れてるようだし、きっとまた同じような事件を起こすわ」
神楽さんは声を落とし、やはり振り返らずにそう言った。
僕は彼女の様子を伺う。その人物への明らかな敵意と、何かを迷っているような感じが見て取れた。
生徒会室の前に着いた彼女は、扉を開けるのを躊躇っているようだった。やはり、何か迷っているのだろうか。
「ねえ、湊人くん」
彼女は小さく僕を呼んだ。
「まだ、あなたは生徒会の正式なメンバーではないのだし、今日みたいな事件は、生徒会への相談という形で依頼されるかもしれない」
ここに居たら、また僕は巻き込まれるかもしれないと言いたいのだろう。
「もちろん、その体の事は、ちゃんと解決するわ。変化してしまった体の戻し方も調べるし、学校での生活のケアもする。けど……」
「だったら、なおさらここに居た方がいいのでは?」
僕は彼女の言葉に被せて、今の気持ちを口にした。
彼女はキョトンとした顔で僕の方を見る。
「本当にいいの?」
と神楽さんは言った。
僕は静かに首を縦に振った。
神楽さんは「そう」と一言だけ口にして、扉を開けた。
「改めて歓迎するわ。さっそくだけど、新しい相談の調査を始めるわよ」
彼女は楽しそうに言いながら席に着く。既に天音さんも席についていて、僕はその隣に座った。
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