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魔法少女は悪魔のシモベ  作者: 夏目狐鳥
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変身の代償(前)

   1


 まず、僕は男だ。

 完全に、男だ。

 間違いなく、男だ。

 しかし、鏡に写った僕の姿は、まるで少女のような外見をしている。

 試しに声を出してみた。

「秋山湊人。僕は男だ」

 どちらとも言えない、中世的な声がした。

 認めたくないが、これが僕だ。可愛いなどと言われる度、背筋が凍っていく。

 このコンプレックスの原因を見つめ直しているのには、理由がある。

 明日は、高校の入学式である。中学生までとは違い、将来のことを考えなければならない年齢になったのだ。そう思うと感慨深い。

 僕は新しい制服に袖を通し、ボタンをかける。ネクタイはうまく締められなかったので、後で結び方を調べておこう。姉さんなら、結び方を知っているだろうか。

 小柄であることは自覚しているのだが、少しは大人っぽくなっただろうか。

 鏡を見てみる。流石に制服程度で男らしくなるとは思っていないが、そろそろ男装少女と言われるのだけは勘弁して欲しいところだ。

 だがしかし、残念な結果がそこに写っていた。どう見ても男装少女である。

 気合をいれて髪をバッサリと切ったのに、それでも女の子に見えてしまうのは、もはや顔から作り変えないとダメなのだろうか。

 僕は大きくため息をついて、制服を脱いだ。一応、男子生徒の制服を着ているのだし、女子には間違えられないだろう。楽観的かもしれないが、変に不安を持つのはいけない。

 無論、僕が姉のお下がりを着ていた事を知っている人物が現れれば、厄介な事になるだろう。しかし、その辺は抜かりがない。

 わざわざ、周りで受験する人が少ない学校を選んだのだ。受験は大変だったけど、おかげで理想の高校生活が送れそうだ。

 パジャマに着替え、ベッドに入る。

 明日は、入学式だ。

 高校生活初日。どんな人と出会い、どんな風に関わっていくのだろう。

 僕は期待を胸に、心地よい眠気に身を委ねた。



 翌日。入学式そのものは、特筆することもなく無事終了した。ああいう式典の場では、僕たちは特別な存在じゃない。誰もが同じで、誰もが要素の一つだ。難しい言い方をするなら、個ではなく群の中の一部であるという事。僕たちは新入生、先輩方は在校生という風に、役割の中で動いているのだ。

 特別なものではない事の安心感はあるけれど、やっぱり、少し窮屈でもある。そういった事を受け入れるのも、大人になるという事なのだろうか。

 式が終わった後、僕たちは自由時間を与えられた。その間に、体育館のロビーのような場所に設置されている掲示板で、自分が所属するクラスを確認しておかなければならない。どうせ早めに行っても混んでいるだけだろうと考え、僕はしばらく校舎の中を見て回る事にした。

 こういう時、僕はまず高いところへと向かう。一番上の階からの眺めを見るのが好きなのだ。

 この校舎は四階まであり、屋上へは上がれなかった。その代わり、四階に屋外に出られる場所がある。この階だけ下の階より部屋数が少なく、その分が屋外になっていた。

 カラカラと、鍵のかかっていない引き戸のガラス扉を開け、屋外に出る。

 学校の敷地内が一望できるその場所は、お弁当でも持って来れば、いい休憩場所になりそうだ。

 しばらくそこからの景色を堪能し、僕は校舎を上の階から探索し始めた。


 三階の端、理科準備室の前を通り過ぎようとした時、部屋の中から妙な音がした。まるで何かを倒したような、あるいは、何かが落ちたような音だ。

 僕はその音に、ちょっとした不安を感じてしまう。金属やガラスみたいな硬いものじゃなくて、人が倒れたような音に思えて仕方がないのだ。

 その音の少し後、人の話し声のような音が聞こえる。まさか、やっぱり人が倒れたのだろうか。

 正直、僕はこの扉は開けたくない。けれど、もし誰かが倒れていて、助けを求めているのだとしたら……。

「だ、誰かいるんですか……?」

 意を決したわりに、情けない声しか出せなかった。こんな事ではいけない。もっと男らしく、勇気を出さなければ。

 僕は音がした部屋、理科準備室の扉に手をかけ、少しだけ躊躇してから、ゆっくりと扉を開く。

 まず、床を見た。人が倒れているなら、そこにいるハズだ。

 けれど、なにも倒れていない。それどころか、何かが落ちた形跡すらない。

 ただ、床に描かれている変な模様が気になって、それを凝視してしまった。よく知らないけれど、漫画や映画に出てくる魔法陣というやつに見える。

「あ……ああ……」

 女の子の声がした。僕じゃない。これは本物の女の子の声だ。

 視線を上にあげる。その魔法陣らしき模様の奥に、こちらにつま先を向けて立っている人物が見えた。

 おそらくこの人物が、さっき声を出した女の子で間違いないだろう。その子はこの学校の制服に身を包み……あれ?

 色白の肌が眩しい。それに対比するように映える長い黒髪が瑠璃色の光沢を放ち、上品さを感じさせる。あまり凹凸のない身体つきは残念だが、それでも十分な魅力を……って、なにを言ってるんだ僕は。

 いや、そんな事を考えている場合ではない。目の前にいるこの女の子は、おそらくここの生徒なのだろう。どう見ても教師には見えない。だが、彼女は制服を着ていない。それどころか、彼女は下着さえ身につけておらず、つまり、その……。

 彼女は、何も着ていない。本当に、素っ裸で棒立ちになっている。

 うわ、なんかヤバイ汗が出てきた。

「……ひ」

 かなり時間が経ってから、彼女は顔を歪める。口元は歯を食いしばるような形に変化して、

「ひあああぁぁぁ!」

 とても可愛らしい悲鳴が部屋に響いた。



「全く……。部屋に入る時は、ノックをするのが当たり前でしょう」

 ブツブツと文句を言いながら、彼女は制服を着る。僕はこの部屋から出た方がいいんじゃないかな。

「ご、ごめんなさい……。人が倒れたのかと思ってしまって……」

 と、言い訳のように呟く。彼女はそれきり黙ってしまい、部屋は沈黙で充満した。

 僕は部屋の扉の前で、扉の方を向いている。誰かが入ってきても、奥へ行かないように止めるためだ。外にいると逆に人目に付くため、中から見張っているのだ。すべて彼女から提案してきた事だが、反論できずに従う事になった。

 何も喋らず音を立てないでいると、布が擦れたりする音が響いてくる。

 き、気まずい……。なにやらいけない想像をしてしまいそうな気分になる。

「ねえ、新入生。学校見学は楽しかったかしら?」

 と、彼女は僕に声をかける。新入生だと分かったのは、見慣れない顔だったからだろう。ここは高校にしては生徒が少ないし、おそらく一年も通えば、同級生の顔くらいは覚えてしまえるのかも。

 ともかく、彼女の質問に答えよう。学校見学……え?

「あなた、学校の中を見て回ったんでしょう? 部室棟は……ああ、閉まってるのかな。それか、屋上から見えたから、それで満足したのかしら」

「ど、どうして……?」

 僕は思わず振り返ってしまった。彼女の白い肌よりさらに白い生地を纏った胸元が視界に入り、慌ててドアの方に向き直る。

 姉の下着は洗濯機の中にいるのを何度か見ていたが、全くの他人の物で、しかもそれが身に付けられているところなど、初めて見たような気がする。

 ……だ、だからどうしたというのだ。忘れなきゃ。

「……全く。上履きのかかとに黒い汚れが付いてるわ。ほんの僅かだけれど。その汚れは、この学校の敷地内では屋上でしか付かない。しかも上履きは新しいもので、今日初めて使用した。だから、あなたは屋上にいたのだとわかったのよ。入学式直後のタイミングで自分の教室に行かずにそんなところに出入りするのは、学校見学をしてたからよ。そんな時間があるということは、あなたは新入生。そうでしょう?」

 彼女は得意げでもなく、淡々とでもなく、当たり前なことを改めて説明するような面倒臭さを感じさせる声で言う。

 この人、何だか怖い……。

 何が怖いって、上履きに付いた汚れを見ただけでそこまで見抜いた事ではなく、それを当たり前のようにやって見せる事だ。この特殊な能力みたいな物を「やればできる」ではなく「できて当たり前」と扱っている。

 どんな環境で育てばこんな事になるんだろう。

 何となく、勘違いや細かい間違いすら指摘されそうで、どうやって会話をしようか迷ってしまう。本当は関わらない方がいいんだけれど、時既に遅し。それどころか、僕は彼女の……は、裸を見てしまったのだ。

 同じ学校の生徒である以上、赤の他人として振舞う事もできないだろう……。ああ、入学初日から大変な事になってしまった……。

「さて、もうこっちを見てもいいわよ」

 着替え終わったらしい彼女が声をかける。なにやら緊張してきた。振り返るだけなのに、体が固まってうまく動かない。

「ちゃんと服は着てるから、安心しなさい。それとも、私が怖い?」

 怖いです。

 と正直に言えたら楽なんだけど、そんな事ができるならそもそも怖がったりはしないだろうな……。

 ともかく、このまま逃げるわけにはいかないし、振り返るだけでいいんだ。ゆっくりと上半身を捻り、チラリと後ろを伺う。そこには普通に制服を着た少女が堂々と構えていた。

 体ごと振り返り、彼女と向き合う。

 陳腐な表現だが、こうしてみると彼女はすごく美人だった。同じ制服でも、入学式の時にいたその他の生徒とは見え方が違う。まるで高級な着物を着付けたかのように、礼儀正しさと伝統美を感じさせている。かといえば、おそらく彼女そのものの個性なのだろう、底が知れないミステリアスな雰囲気が漂う。

 制服とは、完璧に着こなすとこんなにも魅力的なものなのか。

「……どこか変かしら」

 訝しげな表情を浮かべる彼女。

「い、いえ……」

 彼女の容姿に圧倒されて、うまく声が出せない。とりあえず謝ろうと思っていたのだが、それすら忘れてしまうほどに、彼女は美人だった。

 彼女は僕を見定めるように凝視している。一体何を考えているのか、不安になってきた。なにしろ、相手は上履きに付いた汚れだけで僕の行動を言い当てた程の頭を持っているのだ。プライベートまで見透かされてしまいそうで、正直、怖い。

「まるで男装した女の子ね。普段は姉のお下がりで女性用のジーンズを履いている。お尻の部分が窮屈そう。ベルトも緩めてるみたいだし、カッターシャツのズボンへの入れ方も、シャツが綺麗に伸ばされてて、スカートを履いたら綺麗な形になるように着ている。幼少期に女性のような服装チェックを受け続けたが経験あるわね。ネクタイの結び目が逆になってる。母親じゃないなら、お姉さんかしら。上着のポケットの膨らみはティッシュね。取り出しやすい場所に二つ、風邪の可能性もあるけど、この季節なら花粉症か。その他の持病はなさそうね。腕時計の趣味から、ちゃんと両親には愛されてるけれど、留守がちなのか会話はほとんど無い。家事をしているような手ではないから、姉がやってるのね。お姉さんは大学生かフリーター。それから……」

「ちょ、ちょっと……」

 本当にプライベートを見透かされ、僕は動揺した。予想が当たったのに、全く嬉しくない。流石に止めないと、どんどんプライバシーが侵食されて行く……。

 なんなんだこの人。向き合って数秒程度しか見られていないハズなのに、どうしてそこまで言い当てられてしまうのだろう。最後の方など、家族構成まで知られてしまった気がする。

 ナニコレ。

「あ、あの……僕、そろそろ時間が……」

 一刻も早くこの場所から離れなければならない。まだ自分のクラスを確認していないという事もあるけれど、この人と関わり続けると、僕のプライバシーが知られてしまう。

「それなら大丈夫よ。遅刻したとしても、私と一緒に行けば問題ないわ」

 物騒な物言いにしか聞こえない。まさか、彼女は教師の弱みまで握っているのだろうか。

「自己紹介がまだだったわね。私は黒藤神楽。この学校の二年生で、生徒会長をしているわ」

 黒藤神楽……。変わった名前だ。しかし、そんなところに感想を抱いている場合じゃない。

 生徒会長だって? 確かにそんな雰囲気はあるけど、この人を会長にしちゃって大丈夫なんだろうか。学校の見えちゃいけない部分が色々と暴かれて行く気がする……。

「ところで、あなた、ポケットの中に大事なものが入っているなら、今のうちに出しておいたほうがいいわよ。その大事な腕時計もね」

 と、彼女は残し、そばにあったバケツを部屋の中央に置いた。水と雑巾が入っており、どうやら床に描いた魔法陣を消すための準備だったようだ。

 これを消すのを手伝えという事だろうか。僕はポケットからティッシュと財布を取り出し、近くのテーブルの上に置く。ついでに、腕時計も外し、同じくテーブルに置く。

 そのすぐ近くに、彼女はアルコールランプとマッチをその辺の棚から取り出し、置いた。

 彼女は床に膝をつき、雑巾を絞り、床を拭き始める。思いのほか簡単に消えるらしく、作業そのものは素早く終わりそうだ。

「後始末は大事よね」

 まるで悪い事をしてるみたいだ。どう返答していいかわからない。

 僕は空いている方の雑巾を手に取ろうと手を伸ばす。しかし、手にとったそれは雑巾ではなく、少し厚手のタオルのようだ。

「ああ、あなたはジッとしてて。手に取ったものも、元の場所に戻しなさい。やった人の責任なのだから、私がやるわ」

 ん? それじゃあ、どうしてポケットの中身を外に出させたのだろう。

 おおよそ十分ほどの後、彼女は立ち上がって服を整えた。

「これで良し。痕跡は残さないに越した事は無いわね」

 彼女が床掃除を終え、使用した雑巾をなぜか床に放置したままバケツに手を伸ばす。

「さて、一応女の子の裸を見たわけだし、事故だから仕方ないとはいえ、何のお咎めもなしというのは、あり得ないわ」

 嫌な予感がする。彼女の手にあるバケツが、その後の僕の姿を物語っていた。

 ああ、だからポケットの中身を出せと言ったのか。

 ……ん? え? 本気で?

「あの……、生徒会長さん……?」

 彼女はニヤリと笑った。

「安心しなさい。タオルはここにあるし、着替えも用意するわ。そこのアルコールランプは使っていいわよ。あまり暖かくは無いでしょうけど、暖を取る事はできるわ。濡れた服はバケツの中に入れて置いて。生徒会室で干しておくから。下着類は代えがないだろうから、なるべく濡れないように努力するわ」

 本気ですか。

 彼女はバケツを両手で抱え、振りかぶる。

 本当にやるつもりだ。逃げてもいいのかな……。

 理科準備室を水浸しにしてでも、僕に水をかぶせるつもりらしい。常識など軽くすっ飛ばして、本当に実行するつもりなのだろう。

「じゃあいくわよ」

 まるで消しゴムでも借りるような気軽さで彼女は言い、次の瞬間、僕は全身ずぶ濡れになっていた。


 全身ずぶ濡れになった割に、確かに下着はほぼ無事だった。上半身はひどい濡れ具合だが、下向きにかからなかったおかげで、下半身への被害は少ない。ある意味すごい技術ではあるが、被害者から言わせてもらえば、ここまでする必要があったのかと……。

 上着とカッターシャツをバケツに放り込み、タオルで頭を拭く。彼女が残した良心らしい、アルコールランプに火を付けると、見た目だけは暖かくなった。……実際の効果は皆無だ。

「ほら、これが着替えよ」

 と、彼女はそばにあったジャージをテーブルに置く。なんでこれがここにあるのだろう?

 広げてみると、中にもう一枚、白い生地の服があった。右胸のあたりに小さく、『黒藤神楽』と書かれている。そうか、シャツも濡れてしまったから、体操着も渡したのか。

 と、もう一枚、小さい布があった。三角形に近い形の五角形、赤紫の布だ。面積が若干違い、狭い方の面の向かって左側に、体操服と同じく名前が書かれている。

 マジマジと見なくてもそれが何であるかは理解したが、想定外すぎて思考が付いていけず、結果的に凝視してしまったようだ。

 一応断っておくが、僕はこういうのを見て喜んだりする趣味はない。

「何をジロジロ見てるのよ。下は無事だったんだから、それは返してちょうだい」

 と、顔を赤らめた彼女がそれを引ったくる。

 とにかく、これに着替えなければ。濡れた服を着るわけにはいかないし、このままでは風邪をひいてしまう。

 普段、姉のお下がりを着ているおかげで女性に服を借りるのは抵抗はないが、妙に緊張する。

「それじゃあ、その服は明日返してくれればいいわ。私は制服を干してくるから、着替えて待ってなさい」

 と彼女は残し、濡れた制服が入ったバケツを手に理科準備室から出て行った。

 しかし……。

 こんな形とはいえ、女性の体操着か……。

 いいや、何を考えているんだ僕は。

 意を決して袖を通す。少し窮屈で、苦しくない程度に締め付けられる感じがした。下はそのまま下着の上にジャージを履くしかないだろう。ズボンはバケツに放り込んだため、彼女に生徒会室に運ばれてしまった。

 下は下で、また違った意味で緊張する。せめて自分の体操着があれば良かったのだが、残念ながら今日は運動するような予定がなかったため、自宅においてきた。そもそも、今日は式だけだったために、カバンすら持ってきていない。

 着替え終わり、改めて自分の姿を見直す。若干小さいが、似たようなサイズだったようで、僕でも着る事ができた。

 流石にジャージなら、女物の服とは言い難い。スカートやフリルの服なんて出てこよう物なら、濡れたままで構わないから教室に走っていたところだ。

「着替え終わったようね。それじゃあ、あなたの教室にいくわよ。場所はさっきわかったから、私に着いてきて」

 戻ってきた彼女は、なぜか僕の教室へ案内すると言い出す。

 いつの間に確認したのやら。というか、名乗ってなかったハズなのだけれど。

「秋山湊人、って、そこに置いた学生手帳に書いてあったわ。教室は体育館前の掲示板以外に、一年生の教室前にも張り出されるから、そこで見てきたのよ」

 本当に、この人はどういう頭をしているのか。

 ちなみに、準備室の水浸しになった部分は、彼女がついでにかき集めたらしい雑巾が積まれた。よく見ると、彼女は靴下を履いておらず、上履きがずぶ濡れになっていた。一体何をしていたのだろう?



 彼女に連れられて、僕は自分のクラスらしい教室の前へやってきた。中には既に人がいて、簡単な説明が始まっている。

 ああ、結局遅刻してしまうなんて。初日からついてないなぁ……。

 教室へは彼女が先に入り、教師に事情を説明した。彼女が困っているところに僕が偶然通りかかったため助けを求め、うっかりバケツの水をひっくり返してしまった事で僕がずぶ濡れになり、着替えさせていたという話にすり替えられている。

 事実を見抜くのが上手いだけでなく、嘘まで見事だ。別の部屋ではなく理科準備室で水をかけたのも、自分の上履きを水浸しにし、靴下を脱いでいる事も、今の話を本当の事のように見せかけるための準備だったのだろう。

 あまりにも完璧にやりすぎると疑われるが、適度に準備し、それを吹聴する事なく、自然に振舞う。相手に疑う余地を与えないギリギリを狙って、事実に手を加える。だから相手は疑うきっかけを失い、嘘を嘘と思う事ができなくなるのか。

 彼女を敵に回すのはやめた方が良さそうだ……。

 今の話に納得したらしい教師は、僕を席につかせる。席は男女混同で五十音順に並んでいるようで、あまり統一感がないように見えた。

 僕は通路側の端の列、前から三番目だった。廊下側の窓がちょうど途切れて壁になっているところで、少し残念な気分になる。

 机の上には小さなカードのような物が置かれており、そこには僕の顔写真と名前などの情報が書かれていた。

 生徒手帳とは別に、学生カードというのが配られると聞いていたが、これがそうなのか。この学生カードは校内の端末で認識すると、成績や出席状況、所属する部活動を参照する事ができるらしい。学内活動で登録が必要になる場合、このカードの番号が必要となるようだ。

 要するに、部活動の入部届けのような物は、この番号が必要という事だろう。後で確認しておこう。

「それでは私は失礼するわ。干した制服を取りにくるのを忘れないで」

 と残し、彼女は教室を去っていった。あまりこんな事を言ってはいけないけど、肩の荷が下りた気分だ。


 今日は授業などがあるわけではなく、配られた学生カードの使い方の説明だけで終わりである。その後の時間はクラスメイトの交流に使われる。一応、日程終了後の時間であるため、すぐに帰宅する生徒もいる。

 見たところ、すぐに帰った生徒は数人だ。やっぱり、学校で友達を作るために大事なのは、最初の交流時間だろう。こういう時に積極的に動けないと、すぐに一人ぼっちになってしまう。

「ねえ、秋山さん。さっきの人って、知り合いなの?」

 さっそく、隣に座っていた女子が話しかけてきた。それに続いて、何人かの女子が僕を囲んで話を始める。そりゃあ、一人だけあんな風に目立てば、こういう事もよくある。できれば男子生徒と話がしたかったのだけれど、こうなった以上、簡単には開放されそうにない。

 面倒とは思わないけれど、女性とあまり話をした事がない僕にとって、この状況は苦痛だ。

「秋山さん、髪綺麗だね。コンディショナーとか、何使ってるの?」

「肌白い。羨ましいなぁ」

「ミナトって変わった名前だよね。どんな漢字を書くの?」

 エトセトラ。まるで転入生のような扱いだ。

 しかし、何かおかしい。女子ばかりが僕の周りに集まっているのは、おそらく僕の周りの席に女子が多いからだろう。そうじゃなくて、その女子たちが僕に話しかけている事がおかしいのか。

 いやいや。普通に会話できるかは置いておくとして、僕は不審者じゃないんだから、女子に話しかけられても不思議じゃない。

 何かがおかしい。何がおかしいのか。

「秋山さんって、恋人とかいないの?」

 と、誰かが言った。残念ながら僕に恋人はいない。それどころか、姉以外の女性とあまり関わった事がなく、付き合うどころか会話すらままならないのが現実だ。我ながら情けない……。

「か、彼女とか、僕には無理です……」

 緊張して、ずっとこんな調子で返答をしている。

 しかし、この返答を聞いた何人かの女子が、首をかしげた。中には、僕に疑いの目を向けてヒソヒソと声を潜める子もいる。

 僕、何かおかしい事を言ったかな?

「あの、秋山さんって、もしかして……そっちの人?」

 と、誰かが言った。

 そっち、というのはどういう意味だろうか。

「秋山さんは、彼氏作らないの?」

 慌てたように、誰かが言った。心外だ。確かに少女のような外見ではあるけど、まさか、そんな風に見られているなんて。

 ここはしっかり言わなければ。

「僕はそんな趣味はないよ!」

 思わず力が入り、軽く叫んだような感じになってしまった。予想外の反応だったのか、彼女たちが後ずさる。

 そこで、僕は気づいてしまった。今の僕の服装は、上下ともジャージだ。この学校のジャージは男女で同じデザインであるため、それでは性別はわからない。それはつまり、男子が女子にジャージを借りても、女装とは思われないということ。そして、その逆もまた然り。

 入学式は、文字通り式典だ。その中で僕たちは、新入生という役割を与えられた、式典の中の一部である。つまり、そこで僕の容姿を見ていたとしても、印象に残らない事が多いのだ。

 彼女たちにとって、これが僕との初対面の場と言ってもいい。つまり……。

「秋山さん、女の子……だよね?」

 心の片隅で、あの生徒会長がニヤリと笑うのを感じた。

「ち、違うよ! 僕は男だよ! ほ、ほら、カードにも……ってあれ!?」

 とっさに手にとった僕の学生カードに、性別の情報が書かれていなかった。どうやら、この学校は男女を分け隔てなく扱う校風らしい。しかも、その学生カードの顔写真は髪を切る前のもので、服装も見ようによっては女子の制服に見えてしまう。

 周りの女子たちは、ますます不思議な物を見るような目で僕を見た。まずい。これは非常にまずい展開だ。どうしよう……。

 制服さえ着ていれば、まだ誤解は少なかっただろう。けど、今の僕は、認めたくないが、どう見ても女子生徒だ。

 周りを見回しても、知り合いはいない。もしや、あの生徒会長はこういう事態を想定した上で僕に水をかぶせたのだろうか。いやいや、そこまでは考え過ぎかもしれない。

 ともかく、そんな事を考えている場合ではない。どうにかして彼女たちに僕が男だと伝えなければ……。

「えーと……あの……」

 全く良い手が思い浮かばず、狼狽する。

 この騒ぎのせいで、クラスのほぼ全員が僕の方に注目していた。余計に緊張して、頭が回らない。

 どうしてこうなった……。

「あの……その……。ご、ごめんなさい~!」

 とうとう、この状況に耐えきれなくなって、僕は教室から逃げ出した。

 明日からどんな顔して学校に通えばいいんだ……。



 逃げ回ったところで、どうせ行く場所は一つしかない。制服を回収しなければならないのだから、否が応でも生徒会室に顔を出す必要がある。

 またあの生徒会長と顔を合わせなきゃいけないのか……。なんだか、気が重い。

 理科準備室での前例があるため、僕は扉を開ける前にノックをする。

「開いてるわ」

 と、中から声がする。どうやら彼女一人だけらしい。

 僕は少しだけ扉を開き、中の様子を伺う。

 うん。大丈夫。床に変な模様が描いてあったり、素っ裸で仁王立ちする女の子がいたりしない。部屋の中央に二つの長机が置いてあり、四つの椅子がその机を囲んでいる。普通の生徒会室だ。

 たぶん今年はまだ使われていないだろう、真っ白なホワイトボードが窓から射し込む光を反射している。綺麗に並べられた赤と黒のペンがくっついていなければ、それが白い壁なのか、ホワイトボードなのか、わからなくなりそうだ。

 ゆっくりと扉を開き、僕は生徒会室の中に足を踏み入れた。

「友達はできなかったみたいね。それどころか、女子生徒と誤解され訂正しようにも男である証拠が提示できず、ここまで逃げて来た。そんなところかしら」

 この言葉で、さっきの誤解は彼女が仕組んだのだとわかった。裸を見られた事、よっぽど根に持っていたのだろうか。

 彼女は数枚の紙をクリップで留め、対面の席に置いた。この部屋には彼女しかいない。これから集合するメンバーのための資料だろうか。

「制服は乾いてないわ。ドライヤーもないし、暖房器具はこの時期はスイッチが入らないようになってるの。諦めてちょうだい」

 と、彼女は言う。ああ、僕が扉の前でボーッとしてるから、制服を探していると思ったのか。

「そうじゃなくて、なんというか、僕、ここにいていいのかなって……」

 彼女はキョトンとした顔でこちらを見る。あれだけ色々と見抜けるのに、想定外の事には弱いのか。

 その間抜けな顔を、うっかり可愛いと思ってしまう。

「あ、ああ、それもそうね。普通は無関係な生徒は入室できないようにしているわ」

 すぐに冷静さを取り戻した彼女は、学生カードに似たカードを紙束の上に置く。

「そこに座って」

 笑顔で僕を正面の席に招く。その紙束とカードは、僕に用意したものらしい。

 招かれるままに、僕はその席に座った。紙束の表紙には「生徒会規則」と書かれている。カードの方はサインペンで僕の名前だけが書かれていた。

「あの……これは?」

 ここまで用意されていれば僕でもわかるが、一応、理由を聞いてみる事にしよう。

「あなたは、理科準備室の扉を開けた理由を、『人が倒れたのかと思った』と言ったわね。見て見ぬ振りをすればいいのに、あなたはわざわざ自分の目で確かめようとした。好奇心旺盛なだけとも考えられるけど、床の魔法陣を消すのを手伝おうとしてくれたところを見ると、ただのお人好しだわ。それに……」

 彼女は僕の全身を見るように視線を下に動かし、

「可哀想な境遇に同情した、かもね」

 何か含みを持たせたような顔で言った。

 誰のせいですか。

 と言いたくなるのを抑え、僕は黙り込む。彼女なりに僕の今後を気遣ってくれているのかもしれないが、それならどうして僕から制服を引き剥がしたのか。そのせいで、クラスメイトには僕が女の子だと思われているのだ。

 彼女はそんな僕の心中を推し量ることもなく、淡々と続けた。

「ともかく、私はそんなお人好しのあなたを歓迎するわ。ぜひ生徒会の役員として活動して欲しいと思ったのよ」

 なるほど。僕を女子だと間違えさせるのが目的じゃなくて、ここに呼び込むための準備だったのか。

 僕の制服を人質に僕を生徒会室に招き、その間にあらゆる準備をする事で逃げられなくしようとしたのだろう。水をかぶせるという行動一つで、ここまで想定していたらしい。

 普通に生徒会に勧誘しても逃げられる上に、裸を見た代償で勧誘するのは不自然すぎる。だから、彼女は僕が自分からここに足を運ぶように仕向けたのだ。

 無理やりすぎないか……?

「ちなみに、既に生徒会役員として登録してあるから」

 サラッと笑顔で言う。

 あれ、学内活動の登録は、学生カードの番号が必要なんじゃなかったっけ……。などという疑問は、彼女の前では無意味だ。なにしろ、僕の名前も何時の間にか知っていたくらいだ。どうせ、教室で僕のカードを見たのだろう。

 もはや逃げようという気も起きず、僕は目の前の紙束をめくった。

 生徒会規則というのは、いわゆる生徒手帳に書かれた校則よりも細かい規則や、生徒会役員特有のルールのことらしい。とはいえ、この紙束の中身は校則を省略した内容らしく、枚数は少ない。

 カードの方は、白紙の厚紙に名前が書いてあるだけであり、特になんの変哲もない紙切れにも見える。カードの背面には、何やら見慣れない模様が印刷されていた。ここの校章とは違う、奇妙な模様だ。

「それは私の個人的なものよ。理科準備室の床の模様を見たでしょう?」

 僕は素直に頷いた。

「見ての通り、あれは魔法陣と呼ばれているわ。黒魔術とか、悪魔召喚とか、そういったものを行う時に使われる模様ね。私は魔法の存在は否定しないけど、そう簡単にできるものじゃないと考えているのよ」

 は、はい?

 彼女は立ち上がり、得意げなポーズで話を続ける。

「そこで、私は歴史あるいは自然現象から魔法の痕跡を探索し、研究する事にしたのよ。実際に文献に残っている魔法や魔術の儀式を実行してみたり、歴史上の事件などから、超常現象が発生したらしい痕跡を探ってみたり、ね」

 生徒会長という肩書きを持っているとは思えないような発言に、僕は混乱した。

 自信に満ち溢れた美人は、見た目にはとても魅力的に映るのだろう。その魅力が現実離れしているほど、こんな風に僕たちとは違う世界に生きている事が多い。例えば、どこかの社長令嬢だったり、役者だったり。

 確かに彼女の第一印象もそんなように感じていたが、まさか、こんな不思議電波を受信していようとは。

「あれを見られてしまった以上、あなたも関係者。だから、私はこの活動を部活動として扱って、あなたをメンバーに迎え入れる事にしたのよ。学外の活動だから、部室も学外に用意するわ」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 えーと、あれ、というのは理科準備室の一件の事だろう。それを見てしまった以上、僕も関係者。それから、そういった活動を学外の部活動として扱う。部活動という事は、当然部員もいるわけで。

 僕の手には、奇妙な模様と僕の名前が書かれたカード。

 登録こそしていないけど、既に僕は部員として数えられているらしい。

「さっそく今日、第一回目の活動をするわ。ただ、準備があるから、帰宅後に連絡を入れるまで待ってちょうだい」

 無理やり生徒会に入れたついでに、無理やり得体の知らない部活動にまで入れられたようだ。

 やっぱり拒否権は無いよなぁ……。

「拒否権はあるわ。ただしその場合、私はもっと非情な手段に出る必要があるわね」

 それは、遠回しに拒否権は無いと言っているようなものではないだろうか。

 具体的な方法は聞きたくない。彼女なら、弱みくらい簡単に握ってしまえるだろう。非情な手段に訴えるような事になれば、この学校に居られなくなってしまうかもしれない。

 ……想像するのは恐ろしい。

 しかし、こんな妙な部活動で人生の大事な時間を消費してしまうことに、僕は抵抗があった。

 どう返答するかを迷っていると、彼女は口元に手を当てて、目を細めた。

「そういえば、今日の部活動の時に、その服を返してちょうだい。洗ってなくてもいいわ。どうせ元から使用済みだし」

 ……なんだって?

 いやいや、そりゃあ確かに一年間使っていた物で間違いないだろうけれど、使用済み、という表現はおかしい。

 僕が着たからという意味だろうか? あるいは、もっといかがわしい……げふんげふん。

「今日の入学式の後、体育館の椅子などを片付けて掃除したのよ。授業がないから運動部だけの参加だけど、私は生徒会長としてそこに混ざったのよ。ほんの少しだけどね。制服では汚れてしまうし、スカートでは動きにくいから、その格好で。ちなみに、あなたが理科準備室に来る直前まで着ていたわ。あの儀式、実は着替えのついでにやってたことなのよ」

 その情報を聞いて、僕は顔から火が出たように感じた。

 つ、つつつ、つまり……僕がこれを着たあの時、この服は……。

「あなた、私の脱ぎたてを着ているという事ね。みんながこの事を知ったら、面白くなるわ」

 彼女はニヤリと笑った。

 大急ぎで服を脱ごうとしたが、そういえば僕の制服は水浸しのまま乾いていない。その他の着替えは無し。

 やられた……。既に非情な手段に訴えているじゃないか。脱ぎたて、などという表現も、使用済み、という表現も、すべて僕にそういう想像をさせるために、わざと言葉を選んだのだ。

 絶対にわざとだ。わざといかがわしい言い方をして、僕にそういう自覚をさせようとしている。思えば、生徒会室に自分から足を運ばせるというのも、僕が自分からここへやって来たという自覚をさせるためなのだ。

 そういう事か。僕は生徒会や部活に誘われたのではなく、あらゆる意味で彼女に逆らえなくなってしまったのだ。

 どうする事もできない僕は、見事に彼女の手のひらで踊っていた事を自覚した。途端にめまいがして、視界がぐるぐる回るような錯覚に陥る。

 ふと彼女を見ると、すごく楽しそうな顔で笑っていた。その笑顔の理由さえ知らなければ、うっかり恋に落ちそうな魅力的な笑顔だ。

 理由を知ってる僕には悪魔のように見えたけど……。

 彼女は僕の視線に気付いたらしく、こちらを向いてニッコリと笑う。


「これからよろしく。可愛い変態さん」


 高校生活初日。

 僕は、悪魔に捕まった。




   2


 トボトボと家に帰り、大急ぎで自分の服を持って、脱衣所へ向かう。改めて僕が着ている服装を見てみると、再び顔が熱くなった。

 女の子の体操着に、ジャージの上下。僕が着る直前まで、本人が着ていたらしい。

 ……正直、今後は彼女の顔をまともに見られる自信が無い。

「おっと、湊ちゃんお着替え中だったか」

 と、楽しそうな女性の声がした。これは僕の姉だ。名前は初香という。

 よく「二十日」とからかわれていたが、自分から「毎月二十日は私の日」などと笑いながら豪語した姉御肌である。現在、ギリギリ十代だと公言しているが、実際は自分の誕生日にワインを買ってくるような年齢だ。

 本人に怒られるので口には出さないが、恋人はいないハズ。ほとんど家にいるおかげで家事全般をこなし、なぜかネクタイの締め方まで一通りこなせる。そういった努力をしているのは、いつか恋人ができた時のためらしい。一体いつの話になる事やら。

「そのジャージは?」

 ビクッと、体が反応する。余計な事は言わない方が良さそうだ。

「色々あってずぶ濡れになっちゃって。借りたんだよ」

 詳細は聞かれるまで話さない方がいい。嘘は言わず、いらない事は喋らない。

 悲しいかな、あの生徒会長の教室でのやり取りから、上手な嘘のつき方を学んでしまっていた。

 姉さんは妙な詮索もせず、このジャージが友達から借りたものであると勘違いしてくれたようだ。

「そう。洗うなら、洗濯機の中に放り込んどいて。まとめてやっちゃうから」

 この姉は、生徒会長ほどではないにしろ、普段は嘘は通じない。観察力が優れているのではなく、精神的に追い詰めてくるのだ。ある意味、女性と話す時に緊張する原因は、この姉だろう。

 姉という存在は、それだけで畏怖すべき存在なのだと実感する事もある。なにしろ、年上で、女性だ。兄ならば遠慮なく距離を縮めても問題がなさそうだが、姉は女性であるため、下手に距離を縮めようとすると、踏み込んではいけない間合いに踏み込んでしまいそうで、どうしても遠慮がちになってしまうのだ。

 しかも、この姉は内気な性格でもなんでもなく、その辺の男よりも男らしい部分があるため余計にたちが悪い。この姉のせいで、男らしさと女らしさの境目がわからなくなる事もしばしばある。

 小学生の頃からずっと僕を妹のように扱っているおかげで、姉の友人の中には僕が女の子だと思っている人もいるらしい。ちゃんと説明して欲しいものだ。

 姉さんは畳んで置いてある僕の私服に目を向けて、

「また男装するの?」

 いつも通り、意味不明な事を口にした。

 高校生にもなってこんな扱いを受けるなんて……。そろそろ止めてほしいんだけどなぁ。

「残念。僕は男の子です」

 およそ十年くらいからかわれ続けているせいで、返答もぞんざいになるのも仕方が無い。よく飽きないものだと、最近では感心するようになってきた。

 とはいえ、特に仲が悪いわけではない。今のやり取りは、僕らの間では挨拶のようなものだ。おはようの代わりに、こんなやり取りをする。姉さんは僕が本当に嫌がることはしないし、なんとなく、僕のコンプレックスを長所だと捉えているように見えるだけで、基本的には普通の姉だ。

「ところで」

 姉さんは何かを企むように、ニヤリと笑う。あまりいい予感はしない。

「お姉ちゃん、あんたの高校の女生徒の制服持ってるんだけど……」

 そうきたか。というか、卒業生でもないのに、なんで持ってるのさ。

「僕、女装とか興味ないんだけども……」

 突っ込むのも面倒なので、軽く返してやることにした。どうせこの後の姉さんの反応もいつも通りだろう。

「えぇー。こんなに可愛いのにー」

 やっぱり……。さっきも説明したとおり、姉さんは僕の女の子みたいな顔や声を、まるで長所のように扱うのだ。

 今日の事を思い返す。……どう見ても短所だと思うんだけどね。

 ともかく、早く着替えてしまおう。この格好を長く続けていたくないし、いつ連絡がくるかわからないのだから、準備をしなければ。

 僕は体操着の右胸の部分に書かれている名前を隠すようにジャージを脱ぐ。

 まるで恥ずかしがって体を隠して着替えているように見えたのだろう。その様子を見ていた姉さんは、なぜか顔を赤らめてこちらを凝視していた。

「……何?」

 どうせまた妙なことを考えているんだろうな。などと思って声をかけてみたら、

「なんというか、グッと来るわね……」

 僕は背筋が凍っていくのを感じた。


 今にも襲ってきそうな姉さんから逃げ、僕は結局自室で着替えることにした。脱衣所で着替えた理由は借りたジャージなどをすぐに洗濯したかったからだが、まるで見ていたかのようなタイミングで生徒会長から連絡が入ったため、急ぎではなくなってしまった。

 まさか、部屋にカメラとか仕掛けてるんじゃ……?

 彼女は事務的な声で、

「諸事情で、今日の部活は中止するわ。それと、明日は私は学校を休むから、体操着は副会長に渡しておいて」

 と言った。

 詳しく理由を聞こうとしたが、その前に電話を切られてしまい、理由は不明のままだ。

 もしかして、病気がちだったりするのだろうか?



 翌日、ようやく僕は制服でみんなの前に現れる事になるわけだが、昨日の事が原因なのか、僕を不思議な物を見るような目で見る子達が大勢いた。

「秋山さん、どうして男子の制服を着てるの?」

 隣の女子が僕に話しかけた。

 意外に思うかもしれませんが、男子なんです。

 予想通りの質問に、当然のように答える。ああ、また変な子だと思われて、距離を置かれるんだろうなぁ。

 と、思っていたのだが、

「こんなに可愛いのに、なんで男なの?」

 と、逆に僕に興味を持ち、その子の知り合いだろうか、何人かが僕の周りに集まってきた。

 みんな目がキラキラしてる……。なにこれこわい……。

 結局、昨日のような人だかりができてしまい、再び質問攻めに合う。このクラスが特殊なのか、高校生ともなると当たり前な事なのか、よくわからない物に興味を持つ人が多いらしい。

 今までは「変わった子」として距離を置かれていたために、こんな時、どういう対応をしていいかわからない。

 しかも、みんななぜか、妙に目を輝かせて興奮している。背筋が寒くなってきた。

「女装とか興味ある?」

「女の子より可愛いね」

「本当は女の子じゃないの?」

 エトセトラ。また女子が僕を囲んで話を始め、僕は自分の席から動く事ができなくなっていた。

 よく見ると今日は男子の姿も見える。自分でいうのもなんだけど、よくもまあ、こんなものに群がれるもんだ。

 まるで狩りをするような目をした女子たちに群がられ、僕は若干恐怖を感じる。

「おーい! 秋山湊人くん! いますかぁ~?」

 と、突然誰かが僕を呼んだ。少し遠くの方からだったようで、僕の周りにいた全員が一斉にそちらを見る。

 僕も立ち上がって声の主の姿を確認してみると、無邪気に手を振ってこちらに向いている女の子がいた。

 それにしても、この人数に見られて堂々としていられるなんて、よほど肝が座っているのか、あまり気にしない性格なのか。

 逃げ出すように、僕はその女の子に近付く。クラス中の視線を集めているようで、正直むず痒い。

「君が秋山湊人くんかぁ……」

 その子は甘い声を出しながら、僕の足元から順番に全身をくまなく眺める。身長は僕より頭半分ほど低いくらいだろうか、僕と目が合うと、若干上目遣いになる。

 あの生徒会長とは別の意味で緊張する相手だ。いや、もしかしたら昨日のあの人のように、彼女もほんの少しの手がかりで、僕の色々な情報を読み取ってしまったりするのだろうか。

 いやいや、あんな人が他にもいてたまるか。

 彼女は僕の顔を見て、ニッコリ笑う。まるで子供のようなあどけなさが残る、とても可愛らしい顔だ。

 ドキドキしてきた。

「神楽ちゃんが言ってたとおり、女の子みたいだね」

 と、彼女は言った。神楽ちゃん?

 神楽ちゃん、とは、生徒会長の事で間違いないだろう。という事は、彼女は生徒会関係者なのか。

「初めまして。生徒会副会長の比良坂天音でっす!」

 と、勢いよく敬礼する彼女。

 赤茶色に近い薄い色のロングヘアに、灰色の目をしたその子は、まるで日本人には見えなかった。ハーフか何かだろうか。

 つられて僕も敬礼しそうになるが、周りの視線を思い出し、踏みとどまった。

 敬礼したまま首を傾げる彼女。まるで仔犬のような仕草に思わず見とれてしまった。

「君も生徒会役員だよね?」

 と、彼女はキョトンとした声を出す。

 無理やり入れられたとは言えず、はい、とだけ短く答える。

 途端に彼女はニッコリ笑って、僕の手を取った。

「入学したてで分かんない事ばかりだろうけど、一緒に頑張ろうね!」

 顔をググっと近付けて、彼女は言う。近い近い近い。

 彼女、比良坂さんは全く気にしてないようだけど、たぶん僕は顔を真っ赤にしてたんだろうなぁ。

 思わず目を逸らすと、僕たちを見ていた数人と目が合った。中には、顔を真っ赤にしている子もいる。

「あ、あの、ひ、ひ、比良坂さん。か、顔が近いです……」

 さすがに耐えきれず、僕は彼女から逃げるように後ずさる。

 彼女には警戒心が無いらしい。まるで仔犬みたいな人だ。

「ああ、ごめんね。それじゃあ、また放課後に!」

 そう残して、彼女は走り去って行った。ああ、びっくりした。

 気を取り直して、僕は自分の席に戻ろうと振り返り、クラスメイト全員がこちらを向いているのに気がついた。

 あれ、なんか変な汗が出てきたぞ。

 今のを見られていただけならまだしも、ウットリした目でこちらを見ている人もいる。

 あれあれ、なんか寒気がしてきたぞ。

「白い花が咲いてるわぁ……」

 小声で誰かが言った。

 ……本当に、勘弁してください。



 初日の授業は散々だった。中学校の時も似たような事があったので、もはや恒例行事になりそうだ。

 掻い摘んで言えば、担任教師から始まって、全部の教科の教師にこう言われたのだ。

「そこの女子生徒。今すぐ自分の制服に着替えてきなさい」

 中学の時は、みんなにクスクスと笑われた。小学校からの知り合いばかりだから、僕の事をからかうのが当たり前になっていたのだろう。

 もっとも、ちゃんとみんなに説明してもらって、僕が男子生徒だと証明できたからいいのだが。

 今回はさらに酷かった。

 なにしろ、クラス中の主に女子から、女子の制服を着て欲しいと懇願されたのだ。いじめのようなモノなら相談する事もできたのだろうけど、悪気がないんだもの。

 一応、教師はその様子で、僕が女顔なだけの男子生徒だと悟ったようだったけれど……。

 昼休みは昼休みで、また今朝と同じような状況になってしまい、せっかく作ってきたお弁当も食べられず仕舞い。初めて学校で食べるお弁当だったから、楽しみにしてたのになぁ。


「大変だねぇ」

 と、僕の隣で話を聞いていた比良坂さんが、甘い声を出した。

 今は放課後、場所は生徒会室で、僕と比良坂さんの二人だけ。生徒会も初日で仕事もなかったので、そんな話をしていたのだが、感想はそれだけらしい。

 いいや、おそらく比良坂さんは冷たいのではなく、おおらかで前向きなんだろう。もし似たような状況になっても、大変とも思わずに楽しそうにクラスメイトと喋っていそうだ。

 僕は昼に食べそびれたお弁当をつつく。物欲しそうな目でそれを眺める比良坂さんは、やっぱり仔犬のようだ。僕は弁当箱を彼女の方に近付けて、好きなのをどうぞ、と、声をかけた。

 嬉しそうに目を輝かせて、彼女はおかずの真ん中を飾っていた卵焼きを口へ運ぶ。尻尾が生えていたら間違いなく千切れんばかりに振っていそうな顔をした。

「これ、湊人くんが作ったんだよね。湊人くん、料理もできるなんてすごいね。いいお嫁さんになれるよ~」

 と、彼女は楽しそうに言う。たぶん褒めたんだろうけど、その褒め方は僕には辛い……。

 しかし、ただお弁当を食べるだけのためにこの部屋を使っても良いモノかと、少し不安になる。いくら初日とはいえ、生徒会にはそれ相応の仕事があるはずでは無いだろうか。

「あの、比良坂さん。生徒会の仕事って、どんな事をするんでしょうね」

 僕は素直に聞く事にした。

「うーん、私はあまり仕事してた記憶が無いからなぁ」

 と、彼女は答えた。

 どうやら、彼女は去年も生徒会役員だったようだ。しかし、仕事をしてた記憶がないって、どういう事なんだろう。

「一応、神楽ちゃんのお手伝いはしてたんだけど、書類整理とかお金の計算とか、それくらいしかなかったと思うよ」

 ああ、つまりあの人がほとんどの仕事をしてたのか。

「うちは小っちゃい学校だし、問題を起こす人も全然いないし、そこまで大きなお金も動かないから、ほとんどは会議か書類整理かなぁ。あ、でも、神楽ちゃんと前の会長さんは、生徒の悩み相談とかやってたよ」

 悩み相談……。前に生徒会長だった人がどんな人物かは知らないが、あの人が関わっているとなると、かなり複雑な相談を請け負っていたように思えて仕方がない。

 あまり思い出したくはないけど、僕は単純に生徒会に誘われたのではなく、彼女に弱みを握られた上で、助手を命じられたようなものだ。

 その悩み相談とやらも請け負うことになるのだろう。ああ、これからどうなることやら。

「それはそうと、湊人くん」

 と、比良坂さんは不意に真面目な態度になり、僕に顔を向けた。

 思わず息を呑む。とても真剣な目で、彼女は僕を見つめている。

「私の事、名前で呼んで欲しいな……」

 囁くように、彼女は言った。言葉の意味や内容よりも、その音に反応して、僕は体が震えた。

 甘い、甘い。とても甘くて、喉が渇いたように、息が重くなる。この比良坂天音という少女の音が、この部屋に満たされていくようだ。

「ねえ、湊人くん……」

 ゴクリ。

 僕は息を潜めた。この雰囲気を吸い込んでしまったら、体の中まで彼女に侵されそうな気がする。

 これが雰囲気に飲まれるという事か。たぶん彼女は無意識のうちに、周囲を意のままにしてしまう事ができるのだろう。

 この人はこの人で、ある意味、怖い人だ。もちろん、わざとやっているわけではないだろう。この人は、天然の小悪魔なのだ。

 昨日出会った黒藤神楽が理屈で人を掌握するのなら、比良坂天音は雰囲気で人を操るのか。一度でも雰囲気に飲まれてしまえば、もはや彼女のワガママに従うしかない。

 比良坂さんは僕に近付き、にっこりとほほ笑んで、手を握る。優しく笑顔を向ける彼女の顔を、僕は反射的に視界から外す。

 僕は視線を逸らし、なるべく彼女をまっすぐ見ないようにした。この天然の魔性の少女に魅了されたら、僕はもう、どうなってしまうことやら……。

 沈黙が甘い匂いを押し付ける。

「私、湊人くんともっと仲良くなりたいな」

 うっかり勘違いしそうな笑顔で、彼女は囁いた。


 ちょうどその瞬間だ。

 生徒会室の扉が音を立てる。誰かがノックしたようだ。

 おかげで我に返った僕は、思わず席から立ち上がった。

「ひゃあっ」

 比良坂さんが僕の手を握っていたのを思い出した。彼女は僕が立ち上がった勢いに引っ張られ、まるで押し倒すような格好で僕の方に倒れこんできた。

 さすがに支えきれず、盛大に椅子を蹴飛ばして倒れててしまった。大きな音がしたことで、外にいる誰かが慌てて扉を開けたらしく、さらに大きな音が部屋に響いた。

「……お楽しみのところ邪魔したわね」

 その声に、僕は背筋を冷たくした。

 床に仰向けに倒れた僕に被さって、比良坂さんが抱きつくような姿勢で倒れている。この状況だけ見れば、彼女が僕を押し倒したようにも見えるだろう。

 しかも、その声の主を確認したところ、

「あれ? 神楽ちゃん、今日お休みするんじゃなかったの?」

 考えうる限り、一番いて欲しくない人物がそこにいた。

 まさか、さっきのやり取りを聞いていたんじゃ……。

「予定では今日一日かかるハズだったけど、半日で終わってしまったのよ」

 と、その人物は淡々と言った。

 僕の上に倒れていた比良坂さんは素早く起き上がると、今度は彼女に飛びついた。

「天音、今朝は早かったみたいね」

 彼女は飛びついて来た比良坂さんの頭を撫でながら、そう口にした。また昨日のように、何かしらの痕跡から、比良坂さんが今朝、早くから生徒会室に来た事を見抜いたのだろう。

 僕は全く気づかなかったけれど、何か変わったところがあったのだろうか。

 よほど間抜けな顔をしていたのだろうか、僕の態度を見透かしたらしい。彼女は僕をチラリと見てから、面倒臭そうに早口でまくし立てた。

「机に対しての椅子の位置、備品棚の様子、ホワイトボードのマーカー、あとは天音の性格。このくらい情報があれば、何をしていたかはわかるわ」

 そう言われて、僕はホワイトボードや備品棚を見てみた。

 ……全くわからないんだけど。

 彼女はため息をついた。

「まず、乱雑な状態の備品棚。天音は背が低くて好奇心旺盛だわ。知らない相手にも自ら会いに行って、握手まで求めてしまうほどに。この子にとって、備品棚は宝の山ね。くまなく探索して、宝探しを楽しんだことでしょう。だから、備品棚の上側の物をよく見るために、踏み台代わりに椅子まで引っ張り出す。手にとって見るにしても、それが何かを目で見て確認くらいはするわね」

 生徒会長の話を聞きつつ、その場面を想像する。備品棚の物を楽しそうに物色する比良坂さんの姿が思い浮かんだ。

「それでも時間に余裕があって、天音はホワイトボードに落書きをしてたのね。マーカーの黒と赤が、別々の場所に移動してる。今日が生徒会の最初の集まりなら、最後に掃除した時にまとめて置いてある状況から変わってないはず。昨日、あなたは私と一緒にここにいたんだから、あなたにだって情報を得る機会はあったわね」

 な、なるほど。確かに、昨日は副会長の比良坂さんもいなかったし、普通、一年の最後に集まるとしたら掃除をするものだ。掃除をすると、ほとんどの場合は邪魔になるマーカーペンはまとめて別の場所に移動し、掃除が終わったらまとめてボードの下の受け皿みたいなところに置く。二本まとめて。

 言われるまで、そんな事は考えた事もなかった。そして、昨日、そんな細かい部分に注意をするなどという事は考えもしなかった。

「そんな余裕があるくらいには、天音は早く学校に来たという事ね。放課後はあなたの方が先に来た。でなければ、副会長の椅子に座ったりしないわ。昨日そこに座ったから、他の椅子より安心して座れる椅子として、あなたは無意識にそこを選んだのね。そして、食べ損ねた弁当を食べながら天音を待っていて、天音はあなたが食べている弁当に興味を持って隣に座った。おかずを分けたら懐かれて、名前で呼んでとでも言われたのね。私が扉をノックした音に驚いて立ち上がり、手を握られてたあなたは天音を引っ張ってしまい、さっきのように倒れた。こんなとこかしらね」

 ああ、聞いていたわけではないのか。しかし、よくそんなところまで読み取れたものだ。

 僕は誤解を受けていなかった事にホッとしたのと同時に、彼女の観察力に感心した。

 言い終わった彼女は、比良坂さんの頭をポンと軽く叩くと、昨日と同じ椅子に座った。

「一つ謎なのは、どうして名前を呼ぶくらいで躊躇したのか。別に名前くらい呼んであげればいいじゃない」

 何かの資料をめくりながら、会長は事も無げに言う。

 そんな簡単に言われても、僕にそんな勇気はない。あの雰囲気で彼女の名前を呼んでしまったら、引き返せないところに足を踏み入れてしまいそうだ。

 正直、会長とは違う意味で彼女が怖い。知られたくない事を知られるのも怖いけど、自分が自分じゃなくなってしまうのも怖いのだ。

「大げさね。確かに天音は時々、怖いくらい人を魅了するけど、本人は物騒でも何でもないわよ」

 おっと。思わず口に出していたらしい。不思議なものを見るような目を向けられた。

 比良坂さんはニコッと笑って、僕の手を取る。そして、最初に会った時のような笑顔を僕に向けた。

「お友達になったら、名前で呼ぶんだよ。だから、私の事は天音って呼んで欲しいな」

「それなら、私の事も神楽と呼んでちょうだい。ぜひお友達になりましょう、湊人君」

 ニヤリと笑う会長と、ニッコリ笑う副会長が僕を見る。これ、何のフラグですか……。

 二人はそのまま僕の方を見つめて、何かを期待しているように見えた。ああ、つまり今、彼女たちを名前で呼べと。

 僕の心臓が大きな音を立てる。女性が苦手だという事もそうだけど、何となくこの笑顔の向こう側に何かがあるように見えて仕方がない。

 まさか、二人して僕をどうにかしようとしているんじゃ……。

「どうしたの? ミナト君?」

 一音ずつはっきりと、会長は僕の名前を呼ぶ。やっぱりこの人、悪魔だ……。

 ニヤリと怪しい笑顔を浮かべる。隣に無邪気な笑顔があるおかげで、会長の笑顔が余計に怪しく光るように見えた。僕は反射的に、彼女から目を逸らす。

 こうして見ると、彼女たちは対象的だ。

 情報から事実を読み取って、その事実を元に相手を追い詰めていく。

 相手を魅了し意のままに操って、相手が自分から従うように仕向ける。

 ……どちらも敵に回したくない。

「あ、天音さん……」

「なぁに? 湊人くん」

 片方が飛び切りの笑顔で僕の手を握った。よほど嬉しかったらしく、声が跳ねている。僕は思わず視線を逸らした。

 もう一人の笑顔が視界に入る。ああ、やっぱりこっちも言わなきゃダメかなぁ。視線を戻すと、比良坂さんもそれを期待するような目で僕を見ていた。

「あら、私とはお友達になれないのかしらね。ミナト君」

 その言い方が気に入ったのか、彼女はわざとらしいほどハッキリした口調で僕の名前を呼んだ。

 覚悟するしかない……。 

「か……」

 できれば距離をおきたい相手の名前だ。あまり発音したくない。

 そんな僕の事を見透かしたか、彼女はゆっくりと言った。

「そういえば、私は生徒会長だけど、今はただのお友達なのよね。さらに言えば、お友達に先輩も後輩もないわ」

 読まれてる……。本当は会長と呼びたかったし、それが叶わないなら、先輩と呼ぼうと思っていた。

 仕方が無い……。ここまできたら覚悟しなければならない。僕はこの学校生活、最低でも彼女たちが卒業するまでの二年間、彼女たちと関わり続ける事になる。名前を呼ぶだけで、まるで悪魔との契約を交わすような錯覚が、僕を支配した。

「か……神楽……さん……」

 なるべく目を見ないように、僕は契約の儀式を終わらせた。

 彼女は、ニヤリと笑った。



 生徒会の仕事は、来週の生徒総会で会長の挨拶を行ってから始まるらしい。

 それまでの間は親睦を深めるという名目で、雑談する程度の活動が中心となる。もちろん、全く仕事がない訳ではないけども。

 天音さんは細かい仕事が好きなようで、生徒会の仕事のうち、掃除や日誌記帳のような雑務は天音さんがこなしている。

 僕は……何をすればよいやら。

 ふと会ちょ……神楽さんを見ると、何やら難しい顔で、何かの資料を睨んでいる。

 触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだが、僕はあまりにも居心地が悪い状況をどうにかしようとして、彼女に話しかけてしまった。

「それも生徒会の資料ですか?」

 彼女はしばらく考えるそぶりをして、僕にその資料を渡した。

 それは、生徒会の資料というより、警察の捜査資料のように見えた。しかし、内容は全く違う。

 一枚目は、よくある質問箱に入れるようなものだった。クラスと名前と内容を書いて、生徒会室前の箱に入れると、誰かが相談に乗ってくれるというものだ。

「生徒会は、教師に相談できない内容の悩みを聞いてあげる場でもあるのだけど、どうにも解決が難しいものが多いのよ」

 僕は彼女の意外な言葉に驚く。まさか、彼女の口から「解決が難しい」なんて言葉が出てくるなんて。

 何でも見抜いてしまう彼女にも、苦手な分野があったりするのだろうか。

 改めて資料をよく読む。

 相談者は、現在二年生の女子。名前は、沢村灯里さんというらしい。内容は、「付き合っている彼氏が別人みたいになってしまった」というもの。

 ……ああ、なるほど。確かに、神楽さんはこういうのは苦手そうだ。

「恋愛は納得できるし理解もしてるけど、興味が持てないわ。相手の変化が受け入れられないなら、素直に別れてしまえばいいのに」

 さすが数学的な頭をしているだけあって、恋愛も数式になってしまっているらしい。

 確かに、こういうのは彼女には難しそうだ。かと言って僕が得意かといえば、そんな事は全く無いのだけれど。

 資料のページをめくる。二枚目以降は、神楽さんがその件について調べた結果の報告書のようなものだった。

 丁寧に日付や時間がまとめられていて、昨日の部活動が突然中止になったことや、今日、神楽さんが今まで学校に来られなかった理由が判明した。

 学校をサボってまでやる事なのかな、これは。いや、あるいは彼女は学校では特別な待遇になっているのかも。

 彼女椅子から立ち上がり、部屋の中をうろうろしながら僕に話す。

「その子の恋人、柊悠樹は、二ヶ月前に交通事故に遭って入院していた。しばらく生死の境をさまよったようだけど、事故の規模の割には回復が早く、三日前に退院。今朝も顔を見せていたわ」

 資料の二枚目、彼女が調べたらしい内容を見る。交差点での接触事故のようだ。傷ついたバイクと壊れた自転車の写真が添えられていた。

 柊悠樹の両親と事故を起こした青年は、事故当時は少し揉めたそうだけど、資料を見る限り、バイクの運転手側の過失という結果に収まったらしい。

「事故についての揉め事は解決してるし、バイクの運転手は彼らとは全く無関係の人物よ。事故が起きてしまったことに対しては何の不審点もないけれど、この事故の前後で、例の男子生徒の性格が変化した。大人しくて優しかった彼が、攻撃的な事を口にするようになってしまったようね」

 僕は話を聞きながら、さらにページをめくる。入院中の事はわからないが、毎日見舞いに行っていた沢村灯里の話では、退院前日まで変わった様子はなかったという。

「詳しい部分は省くけど、彼は入院中、行動がかなり制限されてたわ。ただでさえ外出ができないのに、まともに動く事ができなかったの。性格が変わってしまったのは、そのストレスによるものと考えられるわね。だから、性格の変化について、原因はすでにわかってるのよ……」

 神楽さんはため息をついて、つまらなさそうに机に突っ伏す。

 要するに、彼女は原因の調査は完璧にこなしたが、恋愛相談としての解決ができないままなのだ。確かに、原因を特定できたとしても、どうすればいいのかを提示できなければ意味が無い。

 どうすれば。こう言っては失礼かもしれないけれど、それは本人たちが解決すべきであって、他人に相談すべき事じゃ無い気がする。

 その感想をそのまま口にしたところ、

「全くその通りだわ」

 と、返された。



 結局、その相談の内容は保留となり、ひとまず原因調査の結果だけを伝えに行く事になった。

 相談者の女子生徒は文芸部に所属しているらしく、部室棟と呼ばれる、校舎とは別の建物に居るそうだ。そう言えば、昨日、屋上から学校の敷地を眺めた時、校舎とは違う建物が見えた。昨日は足を運ばなかったが、こんな形で向かう事になるとは。

 部室棟の二階、文芸部の部屋を見つけると、神楽さんは扉を叩く。

「生徒会です。沢村灯里さん、少しお時間よろしいかしら」

 部室には女子が一人しかいなかった。彼女が相談者の沢村さんらしい。

 本来、こういうのはプライバシーを尊重し、周りに相談内容を漏らさない配慮がされる。今回は報告だけという事と、部室に彼女しかいない事をふまえて、ここで話をする事になった。

 僕は扉の近くに立ち、彼女らの話に耳を傾けていた。

 沢村さんは、まず神楽さんから渡された資料に目を通し、頭を抱えた。事故の写真というわけではないが、壊れた自転車が事故の状況を物語っている。自分の恋人がそんな風になってしまった事を思い出したのか、あるいは、改めてその状況を想像してしまったのか。

 ともかく、原因調査の結果は報告し終えた。ただ事件を解決するだけの内容であれば、ここで解決とするところだろう。

 しかし、今回は事件の捜査ではなく、あくまでも恋愛相談なのだ。こんな事では解決しない。

「やっぱり……失敗しちゃったんだ……」

 つぶやくように沢村さんが言った。そして、チラリとカバンについていた、変わった形のキーホルダーに目をやった。お守りか何かなのだろうか。

 神楽さんは両手の指先を顔の前で合わせ、両手の人差し指を口元に添わせる。何かを見つけたのか、不思議な物を見るような目で沢村さんを凝視した。

「あなた……悪魔に誓いを立てたのね……」

 沢村さんは体をビクッと震わせる。

 この反応は、明らかに何かを知っている反応だ。けれど、彼女は何も言わず、うつむいたまま黙り込んでしまった。

「言いたくない事なら言わなくてもいいわ。話したくなったら、生徒会室までいらっしゃい」

 そう残し、神楽さんは席を立つ。沢村さんは始終うつむいたままで、まるで何かに怯えているようにも見えた。

 悪魔って、サタンとかデーモンとかの悪魔の事だろうか。誓いを立てたとは、どういう事だろう?

「出るわよ。要件は終わったわ」

 神楽さんは僕にそう言って、部室の扉を開いた。慌てて追いかけ、僕も彼女に続いて部屋を出る。

 ふと、沢村さんをチラリと見てみると、まるで何かに怖がっているように、頭を抱えて震えていた。



 生徒会室に戻ると、留守番をしていた天音さんは既に帰ってしまっていた。ホワイトボードに落書きが大量に残され、端に小さく伝言が添えられている。

「……相変わらず芸術的ね」

 と、神楽さんは感想を洩らす。確かに、ある意味で芸術的な落書きだ。可愛らしいイラストが無秩序に並べられ、全く統一性がない。一つ一つはかなり上手いのに、全体で見ると、本当に何の法則もない、可愛らしさの無法地帯としか言いようがないのだ。

 しかも、僕と神楽さんが部室棟に出かけていた時間は、長く見積もって二十分程度だろう。そんな時間に、ホワイトボードが埋め尽くす程のイラストを描いたのだ。

 どんなトリックを使えば、そんな短時間でこんな事ができるというのか。

「あの子は時々、理解不能なところがあるのよね……。私を二度も出し抜いた事があるのは、今のところあの子だけよ……」

 と、神楽さんは狼狽した。多分、出し抜いたというより、振り回したが正解なのだろうけど……。

 端の方に書かれた伝言はたった一言。「アトリエにいるよ」とだけ書かれていた。

 彼女は画家か何かなのだろうか、アトリエを持っているらしい。

「ちょうどいいわ。湊人君、これから買い物に付き合いなさい。昨日できなかった、第一回目の部活動を行うわ」

 神楽さんはその伝言から、部活の事を思いついたようだ。そういえば、彼女は魔法を研究するとかいう不思議な部活を立ち上げたんだった。

 もしかして、沢村さんに言った「悪魔に誓いを立てた」という話に関係があるのだろうか。



 神楽さんの買い物は、何の変哲もない普通の本屋で済むらしい。てっきり、悪魔だの魔術だのという内容通りの奇妙な店に行くのかと思っていたために、正直、拍子抜けしてしまった。

 まさか、普通の本屋に魔術道具が置いてあったりするのだろうか。

「鷲の羽やライオンの牙が置いてあるわけではないけど、参考文献ならここで揃えられるわ」

 なるほど。本屋に魔術書が置いてあるとは思えないが、普通に哲学書のような感じのものなら置いてありそうだ。

 彼女はそれらしい本が並んだ場所に立ち、しばらく本棚を眺める。

 普段はこんなジャンルに目を向ける事がないせいで、全く知らない場所のように感じてしまう。本屋という空間事態はどんな店でも同じはずなのに、まるでそんな風に感じない。

「異界に連れて来られたような顔をしてるわね」

 などと、彼女は不思議そうな声で言った。

「どうせ印刷された紙の束よ。襲ってきたりしないわ。まあ、人格に影響が出る事もあるし、捉え方によっては、人生そのものを変えかねないけどね」

 ああ、僕が本と無縁の生活をしていると思っているのか。

 一応、僕は学校の図書委員と知り合いになる程度には、本は読んでいる。単純に、悪魔だの魔術だのに触れる機会がなく、いわゆる一般的なモノばかり読んでいたというだけだ。

 普通は、悪魔だの魔術だのを解説した本なんて読む人の方が珍しいと思うんだけど。

 神楽さんの手には、いつの間にか二冊の本があった。タイトルはここからではよく見えないけれど、どうせこの棚から探したのなら、そういう系統の本だろう。

 もう一つ、普通の付箋を持っているのも見て取れた。

「必要なモノは揃ったわ。時間も惜しいし、次に行きましょう」

 彼女は僕を置いてけぼりにして、スタスタとレジに向かった。

 え、次があるの?



 次に向かった場所は店ではなかった。

 オフィスビルが立ち並ぶ近代的な都会の街という風景に、明らかに時代錯誤な建物があった。時代錯誤どころか、建てる場所を間違えたようにも感じるほど、その建物は周りから浮いている。

 まるで凝縮した教会、と言えばいいのか、周りにある四角いブロックを組み合わせたようなビルとはまるで違う。レンガのような模様の壁に、オレンジの屋根を斜めに組み合わせ、木製に見える大きな扉が壁に空いた入り口にはまっている。屋根の上に十字架でもついていたら、誰もが教会と間違える事だろう。

「ロマネスクよ。相変わらず、いい趣味してるわ」

 口ぶりから察するに、神楽さんもここへは初めて来たらしい。ロマネスクというのは建物の建築様式の事のようで、教えてくれた神楽さんは、最後に「骨董品」と感想を漏らした。

「さあ、入りましょうか。入り口が腐ってるかもしれないから気をつけて」

 あからさまに嫌そうな顔をした神楽さんは、木の扉を乱暴に叩いた。ただの皮肉かと思いきや、本当に扉が腐っていないかを確かめたらしい。

 扉は物凄い音を立てはしたものの、まだまだ現役なようだ。鍵穴には錆び一つなく、手入れがよく行き届いているようだ。

 大きくため息をついた神楽さんは、ポケットから鍵を取り出すと、その扉の鍵を開けた。

 あれ、鍵を持ってるって事は……

「ここは姉の仕事場なのよ」

 神楽さんは当たり前の事のように言った。そりゃあ、ほとんど初対面の相手に家族構成なんて言うわけがないし、僕にも姉はいるのだから、神楽さんに姉がいてもおかしくはない。

 しかし、なぜか僕は、彼女が姉という言葉を発音しづらそうに言った事が気になった。強調するような、あるいは、自分と異なる存在として隔離しようとするような言い方だったのだ。

 何か嫌な思い出でもあるのだろうか。

「どうせ会えばわかるから、先に言っておくわ。私が湊人君の服装や行動から色々な事を言い当てたのを憶えているかしら?」

 神楽さんはわざわざ僕に向き直ってから訊ねた。

 あれほど衝撃的な出会いも、そうは無いだろう。僕は当然の事のように、首を縦に振る。

「じゃあ、天音と二人きりになった時、うっかり操られそうになった経験も、ちゃんと憶えてる?」

 同じく、あんな風に詰め寄られたら、たいていの人は天音さんのワガママを聞いてしまうだろう。だって、その……。僕も健全な男の子ですし。

 神楽さんは僕の反応を返答として受け取ったらしく、再び建物の中に向いた。そして、ただ一言、

「二つを合わせたら姉になるわ」

 とても嫌そうな声で言った。


 見た目に反して、建物の中は広い。入り口からすぐのところにもう一つ扉があり、そこを入ると、開けた空間があった。外観と合わせて考えると、ここ以外に部屋はなさそうだ。

 その広い空間に、天音さんがいた。彼女は描きかけのカンバスに向かって、絵の具と格闘している。なるほど。生徒会室のホワイトボードにあった「アトリエ」とは、ここの事らしい。

 アトリエには、その他に二人の女性がいた。片方は雪のように白い髪に、これまた雪のように白い肌をした女性だ。見事に真っ白な印象が強く、本当に人間か疑わしいほど綺麗な人だった。

 その白い女性と対比するように、もう一人の女性は黒い印象が強い。黒い髪を赤い花の飾りで留め、白い人とはまた別の意味で人間離れした容姿をしている。おそらく、この人が神楽さんの姉だろう。どことなく似ている。

 その二人の見た目に圧倒された理由は、なにも現実とは思えないほどに綺麗だったからだけではない。彼女らは示し合わせたように、同じデザインの服を着ていたのだ。僕はそういう知識は全く無いが、たぶん、ゴスロリとかいうやつだろう。布がたくさん折り重なった、目にも気分にもよろしくない服装だ。

「ごきげんよう、神楽」

 黒い方が言った。

「……私に喧嘩を売っているのね」

 神楽さんが言った。

「だから辞めておけと言ったんだ」

 白い方が言った。

「……言うだけじゃダメですよ、この人は」

 神楽さんが言った。

 黒い方が姉のようだ。神楽さんは黒い方を睨みつけると、天音さんに近寄ってカンバスを眺める。本人はまだ絵の具と格闘し、気に入った色になるまで試行錯誤をしているようだ。

 隣に神楽さんが立っていても気付いていないらしい。すごい集中力だ。

「ああなった天音はダメね。話はできそうにないわ」

 諦めたように、神楽さんは肩をすくめた。

 ふと、視線を感じた。周りを見回すと、黒い方が僕を凝視しているようだ。両手の指先を顔の前で合わせ、両手の人差し指を口元に添わせた格好が、神楽さんにそっくりだ。

 この姉妹共通の癖なのだろうか。

「……あなた、可哀想な境遇で生きているのね」

 黒い方が、哀れむようにそう呟いた。

 そういえば、神楽さんも僕にそう言った事がある。姉妹そろって、可哀想なモノを見る目で見ないで欲しいんだけど……。

「大丈夫よ。お姉さんも、ご両親も、ちゃんとあなたの事を愛してるわ」

 ……え?

「姉さん、あまり余計な事をしないでちょうだい」

 と、神楽さんは遮るように言った。

 もしかして、可哀想な境遇とは、僕の家族の事を言っていたのだろうか。

 前に神楽さんに色々と見抜かれてしまった時、僕の腕時計を見て、「両親とあまり会話をしていない」と言っていた。確かに、僕は両親とあまり会話をしない。けれど、死別したわけではなく、単純に共働きで帰りが遅いだけなのだが。

 可哀想……なのかな。

 神楽さんはそっぽを向いて、なにか含みのある顔をしていた。彼女も、僕の家族の事を考えたのだろうか。

 ……あるいは。

「とりあえず、私の事は椿と呼んでちょうだい」

 神楽さんのお姉さんはそう名乗る。椿と呼べ、などという言い方をしたのは、本名じゃないからだそうだ。

 本人からも、神楽さんからも、彼女の本名は教えてもらえなかった。名乗りたくない理由でもあるのだろうか。

「私は城崎律子。椿のマネージャーみたいなモノと思ってくれればいいよ」

 白い方が名乗った。マネージャー、ということは、仕事仲間なのだろうか。

「とにかく、今日は姉さんに調査の依頼をしに来たのよ」

 神楽さんは、椿さんが僕に話をしようとするのを遮るように、自分の用事を口にした。椿さんは途端に真剣な目つきになって、神楽さんの様子を伺う。

 ある意味、とても怖い目つきだ。神楽さんもそうだけれど、綺麗な人の怒った顔って、なぜか寒気を感じるほどの恐怖に包まれる気がする。椿さんは怒ったわけではないけれど、品定めするような目がとても冷たい印象を与えた。

 なるほど。僕を見ただけで家族の事を知るほどの頭を持ち、周りの雰囲気を掌握するような魅力を持つ。神楽さんと天音さんを足したような人、という表現は、間違いではなさそうだ。

 神楽さんはカバンから、沢村さんの相談の資料を取り出し、椿さんに渡した。資料をパラパラとめくり、椿さんはため息をつく。おおよその事情を察したようで、神楽さんにその資料を返した。

「いいわ。請け負いましょう。本当は、可愛い妹を危険な目に合わせたくないのだけれど……」

 物騒な視線を引っ込めた椿さんは、手帳とにらめっこを始めた。予定を合わせようとしているのだろう。

 ブツブツと何かをつぶやき、ページを指差しながら難しそうな顔をしている。ゴスロリな服装と合わせて見ると、なんとなく、呪文を唱えているように見えた。

「明日まで待ってくれれば、なんとか時間取れそうね。サボっていいなら今からでもやるけど……」

「締め切り過ぎてるんだから、早く書いた方がいいと思うよ」

 椿さんの言葉を遮って、城崎さんが釘を刺す。

 もしかして、椿さんは小説家か何かなのだろうか。こんな格好でここにいるという事は、このまま取材しに行くような事もないだろうし、ジャーナリストなどではなさそうだ。

 神楽さんは手帳に予定をメモし、別のページに何かを書いて、切り離した。

「城崎さん、天音が正気に戻ったら、これを渡しておいてください。あと、武器を使わなければ、姉には何をしても構いませんので」

 そう残し、彼女は僕に手を引いて、部屋を出た。

 ……武器を使わなければって、それはひどいんじゃないかな。



 次で最後、と、神楽さんは別の場所に僕を連れて行った。

 その場所は、ごく普通のマンションの一室だ。居住スペースとして扱っていいのか、まるで生活感のない部屋だ。テーブル、冷蔵庫以外の家具が見当たらず、キッチンは使用した形跡が見当たらない。時計の音がとても大きく聞こえる。

 しかし、この部屋がそうなっているだけで、その他の部屋はいろいろな目的で使用されているようだ。彼女曰く、マンションのこの階は、すべて自分の部屋になっているらしい。ワンフロア全てを借り切ってしまえるなんて、もしかして、どこかのお嬢様だったりするのだろうか。

 今ここには神楽さんはいない。とりあえず客間に僕を押し込んで、自分は準備があるとかで、別の部屋へ向かって行ったきり、そろそろ三十分くらい経った気がする。

 ちなみに、彼女は僕をこの部屋に押し込んだあと、さっき本屋で買った二冊の本のうち一冊を僕に渡し、「退屈だったら、悪魔でも呼んで時間を潰してて」と言い放った。

 ようするに、この本を読んで時間を潰せという事なのだろうけど、暇つぶしで悪魔なんて出てこられたら、たまったものじゃない。

 僕は適当に本をめくる。今までこういう系統の本を読んだ事がなかったが、読まなくて正解だったと確認するくらいしか感想が出てこない。

 その本の中には、人間の精神と魂と肉体に関する内容が書いてあった。肉体も精神も個人を形作るただの道具で、人間が人間でいるために重要な部分は魂である、とかなんとか。

 どうやら魂を別の体や物体に移し替えると、精神と肉体を魂から切り離せるらしいのだが、こんな現実離れした内容にまったく興味が持てず、こんなモノに彼女が惹かれた理由が知りたくなるほどだ。

 仮に魔法がこの世にあったとして、僕は今までそれに関わってこなかったわけで。これから先も関わる気もないし、神楽さんには悪いけれど、魔法なんてモノがこの世にあっても、僕には関係のない話だ。

 そんなわけで、早々にやる事がなくなってしまい、僕は床の上に倒れ込み、真っ白な天井を見つめた。

 ……本当にやる事がない。このままでは眠ってしまいそうだ。

 そういえば、と、僕はカバンから資料を取り出した。沢村灯里さんの相談の資料だ。

 この資料を読んだのは、神楽さん、沢村さん、椿さん、そして僕の四人だ。そのうち沢村さんは本人だから省くとして、僕以外の二人が、何かを感じたらしい。椿さんに至っては、「妹を危険な目に合わせる」ような何かが待っているとまで読み取った。

 ただの恋愛相談が、まるで犯罪組織に立ち向かうような事件になってしまったらしい。巻き込まれた僕は、さしずめホームズに出てくるワトスンのようなものだろう。……医学の知識なんて全くないけれど。

 そうすると、ホームズは神楽さんだろうか。とても論理的とは思えない世界に足を踏み入れてる彼女がホームズなら、犯人は本当に悪魔かもしれない。

 いいや、よそう。そもそも事件が起きていない。推理とか、捜査とか、そんな事をする必要がそもそもないのだ。やっぱりこれは恋愛相談で、事件ではない。ただの恋愛相談ではないのだろうけど、事件と呼ぶような物ではないのだ。

「待たせたわね。その資料の中身のことも説明してあげるけど、とりあえず部屋を移動するわよ」

 いつのまにか、ドアのところに神楽さんが立っていた。

 さすがは姉妹と言ったところか、先ほど出会った椿さんと、見た目がそっくりだ。まさか、彼女までゴスロリな服を着る趣味があったとは。

「言っておくけど、姉のはただのコスプレ。私のは本物の魔術師の礼装。学校の制服のようなモノと思ってくれればいいわ。たぶんゴスロリと勘違いしてるのでしょうけど、自分の流派が信仰するシンボルを身に纏うと言えば、わかりやすいかしら」

 つまりゴスロリではなくて、彼女の宗教みたいなモノの正装が、そんな形をしていたということなのか。

 彼女いわく、それが十字架をシンボルとしているなら神父のような衣装となり、日本の神を信仰するなら巫女服となるらしい。

「まあ、宗教と違って、どちらかと言えば礼儀作法に近いわね。ほら、学校だったら、我が校の名に恥じない振る舞いをしなさいって、よく言われるでしょう」

 なるほど。いわゆる校則を服装にしたような感じだと思えばいいわけだ。

「とにかく、ついて来なさい」

 神楽さんは僕の手を掴んで、強引に部屋の外に連れ出した。歩きながら、彼女は僕に問う。

「沢村灯里の件だけど、どこまで理解できたかしら」

 どこまで、という部分は自分でもよくわからないけれど、これが普通の恋愛相談とは言えないという事は理解している。

 沢村さんはこの資料を読み、失敗してしまったという言葉を口にした。それを聞いた神楽さんは、悪魔に誓いを立てたのかと発言し、沢村さんはその言葉に反応した。

 つまり、沢村さんが悪魔と関係のある何かを行い、それが失敗してしまったと捉えていいだろう。この時点で、すでに僕が知っている日常とはかけ離れた何かであることが明白だ。

 けれど、基本的な魔法の知識がない僕には、ここまでしかわからない。どんな魔法を使ったとか、どんな悪魔が出て来たとか、そもそも悪魔に種類があるのかということさえわからないのだ。

 素直にそれを口にすると、神楽さんは楽しそうに笑う。

「普通は得体の知れない何かを受け入れたりしないモノだけど、あなた、少し変わってるわね」

 それは、確かに……。

 昨日、彼女に出会ってから一日半、不思議な現象は一度も発生していない。この時点では、まだ僕はウサギの穴に転げ落ちたりしたわけではない。

 魔法だの悪魔だのという不思議な世界の存在を信じるような要素はどこにもなく、普通の世界が普通に存在しているだけである。それなのに、僕はなぜだか、沢村さんが悪魔と関わりのある何かを引き起こしたのだと信じてしまっているのだ。

 我ながら、たった一日程度でだいぶこの人に毒されたと自覚する。

「やっぱり、あなたを誘って正解だったわ。知れば知るほど、あなたは魔術師の才能があるもの」

 彼女は目をキラキラさせてこちらを見る。

 知れば知るほど、なんて、彼女の口からそんな言葉を聞くと、少し寒気がするのだけれど……。

 それに、魔術師の才能があるだって? そんなライトノベルでしか生活できなさそうな職業を目指すつもりはないし、そもそも、半ば脅される形で無理やり連れて来られたのだ。

 被害を受ける前に、彼女とは関わるのを辞めた方がいい。僕には僕の人生があるのだ。


 連れてこられた部屋は、さっきまでの殺風景な見た目とは全く違っていた。

 部屋の四つの壁には、星座のマークのような物が描かれている。床は理科準備室で見たような魔法陣が描かれ、中央に小さな円を描くように四本のロウソクが立てられている。向かって右側のテーブルの上には、人間と同じくらいの大きさの人形がおかれていた。

 彼女は部屋の奥へ進み、床の魔法陣の外側から扉の方を向いた。壁の模様と道具がなければ、理科準備室で見た光景とそっくりな形をしている。

 彼女はその魔法陣の中央付近にあるロウソクに火を付け、部屋の明かりを消した。

「さて、まずは根本的なところから説明しましょうか」

 ロウソクの炎が怪しく揺れる。臭いが強い。まるで洗脳されるような、強烈なロウの臭いが鼻を突き、僕は思わず咳き込んだ。

「まず、魔術師の研究の目的。目的もなしに研究なんてしないわ」

 彼女は部屋の奥の本棚から大きな本を取り出し、ページをめくり、挿絵を僕に向けた。ちょっと古いけど、いろんな記号が枠で仕切られた中に整列し、番号がふられていた。

 ……周期表、かな。理科の教科書に載っているアレとそっくりだ。

「魔術師の目的は、そのほとんどが世界の姿を正しく理解する事に行き着くわ。例えば、物質から世界を理解するために錬金術を研究する人もいる。誤解を恐れずに言うなら、世界を理解するための研究を行う全ての者は、魔術師としての活動をしている事になる」

 飛躍が過ぎる、というのは言い過ぎだろうか。いいや、世界を理解するための、というのがどれだけの規模なのか分からないし、そもそも、世界ってどういうモノを指すのかが分からない。

 地球の事を世界というのか、人類が作った文明や生活空間の事を指すのか。

 ……って、僕はなんでこんな哲学的な事を考えているんだろう。

「とにかく、魔術師は世界の姿、本質を正しく理解する事を目的としているわ。では、世界とは何か」

 彼女は大きく息を吸って、本の別のページを開いて見せた。

 綺麗な湖や森、虹がかかっていそうな空……。まさに天国が描かれているらしい。

「ここに描かれているのは、神が創ったとされる世界の想像図よ。これを見て、私たちが生きている現実の世界と同じと考える人はいないでしょうね。まるで雰囲気が違うし、そもそも、この挿絵と解説には人間が描かれていないわ。つまり、現実の世界は神が創ったモノとは違う。神が創ったこの世界を真似て、何か他の存在が創ったモノと捉えられる」

 ……それは、どうなんだろう。

 とはいえ、僕は神様の存在を信じているわけではないから、この意見に反論しようとも思えない。

「誰がこの世界を創ったのか、その目的は何なのか。それを解き明かす事こそ、魔術師の研究の本質と言えるわね」

 まるで魔術師が、世界を創るという犯罪を犯した誰かを追い詰める探偵のような言い方だ。

 世界には当然、自然現象や物理現象が存在する。つまり、そこに何かの痕跡や法則があれば、そこから世界を創った誰かの目的がわかるという事なのだろう。あるいは、その誰かの正体を掴むきっかけになる、という事か。

「話が逸れたわね。とにかく、この世界は神ではない何者かによって創られた。昔の魔術師はその創造主を」

 彼女はいったん言葉を止めて、本を閉じた。真剣な目つきで、僕をまっすぐ見る。

「悪魔と名付けた」

 ……え?

「悪魔は神の世界を模倣し、この世界を創った。そして、当然その悪魔は自然現象なども模倣した。けれど、それは神の世界とは大きく違った性質を持っていて、多くの場合、災害という結果にたどり着いてしまった」

 ちょ、ちょっと待って……。

 よりにもよって、悪魔がこの世界を創ったって?

 一体何を根拠にそんなことを……。

 いや、あるいは、と僕は考えた。なにしろ、彼女はちょっとした痕跡から事実を見抜いてしまえるような頭を持っているのだ。そして、彼女はこう言った。「歴史あるいは自然現象から魔法の痕跡を探索」しているのだと。

 歴史なんていう膨大な情報があれば、あるいはそういう結論にも行き着くのかも知れない。

 しかし、決定的なモノがなければ、彼女だってそんな結論を納得する訳がないだろう。一体何を見て、彼女は創造主が悪魔だと納得したというのか。仮の名称だったとしても、悪魔が世界を創ったなどと言われて納得できるわけがない。

「私も含めて、魔術師はまずその事を理解しなければならない。そして、その認識を互いに確かめるため、その自然現象や、いわばこの世界の物理法則全般に名前を付け、こう呼んだ」

 再び、彼女は呼吸を整えた。

 そして、彼女が、あるいは彼女たち魔術師が到達した結論を口にした。

「悪魔の法則。すなわち、『魔法』、と」

 悪魔の法則……。悪魔が作り出した、世界の法則。その法則は魔法と呼ばれ、彼女たち魔術師が研究する対象、そして、その法則を作り出した誰かと、その目的を探るための痕跡として存在する。

 なるほど。彼女が悪魔が創造主だという結論を受け入れている理由は、この魔法という名前の由来を受け入れたからなのか。

「もっとも、これは日本語での訳だから、原典は少し違う表現をしているけれど、おおよそ同じ意味よ。私はそれを知った時、否定する要素は見当たらなかったわ」

 だから否定をしなかったし、拒絶する事なく、その仮説が正しいかを確かめようとしているのか。

「ともかく、魔法は使うモノではなく、理解し、研究するモノなのよ。だから、一介の魔術師程度では魔法を捻じ曲げることはできないし、新たに魔法を生み出すことなんてできないわ。それができるのは、魔法という自然法則を生み出した悪魔か、その力を受け継いだ何か。つまり、魔法を使役する存在でしかあり得ない。そういう存在を魔法使いと呼び、魔法を利用した技術を生み出したり、その技術を身につけた存在を魔術師と呼ぶ」

 魔法使いは自然現象を作り出す事ができて、魔術師は自然現象を利用する事しかできない。知らない人であれば同じような意味の言葉だけど、彼女たちにとっては明確に違うらしい。

 利用する方法が違えば、人によって魔術の形が変わってしまう。魔法というモノをどう捉えているのかによって、魔術という結果が変わる。

 もっと大きな目で見れば、世界というモノの理解が人によって変わるということなのだろう。

 彼女が言いたい事を要約すると、だいたいそんな感じだ。

「悪魔がどのような姿で、どんな存在なのかについては、見解が別れているわ。魔術師は自分が信じる仮説を信仰という形で絶対視していることが多い。だから、創造主たる悪魔をかたどったシンボルも、魔術師によって違う。たいていは、そういったシンボルを何かしらの形にして持ち歩いていたりするわ」

 私の場合はコレよ、と、彼女はカードに描かれた模様を僕に見せた。そういえば、彼女は今の服装を礼装と呼び、信仰するシンボルを身に纏うと言っていた。服装もそのシンボルとやらの一部なのだろう。

 彼女と初めて出会った日を思い出す。確か、僕はこの活動に参加することになった時、似たようなカードをもらった覚えがある。

 そうか。彼女がわざわざこの活動にカードを用意したのは、僕もこのシンボルを持ち歩けという意味があったのか。

「それを踏まえた上で、話を沢村さんの件に移すわよ。彼女はただの恋愛相談として生徒会に相談をした。けれど、実際に彼女の姿を見た時、彼女が魔術師のシンボルを持っている事がわかったわ。星やハートのような一般的な記号じゃないモノをいくつも持っているなんて、間違いなく魔術師である証よ」

 もしかして、と、僕は沢村さんの姿を思い出す。

 そういえば彼女はカバンに、変わった形のキーホルダーを付けていた気がする。あれが魔術師のシンボルなのだろう。

 その他にどこに身につけていたのかはわからないけれど、神楽さんは沢村さんの持ち物からそれを見つけ、沢村さんが魔術師である事を見抜いたのだ。

 つまり、沢村さんは魔術師で、恋人が事故で入院した時、何らかの魔術を使ったのだろう。そして、それが原因でその恋人とトラブルがあり、生徒会に例の相談をする事にした。

 僕がその事を口にすると、神楽さんは頷いた。

「沢村灯里は、柊悠樹の事故を知って様子を見に行った。そして、重体の彼を見て、魔術で傷を癒そうとした。けれど、不自然な回復の代償に、柊悠樹の身に何かが起きた。それが原因で沢村灯里を嫌悪し、邪険に扱うようになった。推測だけど、こんなところね」

 推測だけど、と言いつつ、彼女はその推測に自信を持っているようだ。確かに筋は通っている。なにしろ、魔術というモノに巻き込まれた場合、何が起こるかわからないのだ。

「彼女がどんな魔術を使ったのかについては、あなたにも読ませたあの資料にヒントがあったわ。生死の境をさまよう程の重体だったというのに二ヶ月程度で退院し、学校に登校できる程に回復した。ただ、徐々に回復したのではなく、ほとんどベッドから動けなかったのも事実。つまり、退院直前になって、突然完治したとかんがえられる。ここから考えられるのは、回復力の強化という類の魔術ではなく、怪我そのものを否定するか、怪我をする前の状態に戻す類の魔術と考えられるわね」

 彼女は本を棚に戻しつつ、部屋の中を指差す。

 理科準備室の床に描かれていたモノと似たような魔法陣に、さらにロウソクなどの準備がされている。おそらく、彼女が推測した、沢村さんが行ったらしい魔術がこれなのだろう。

「推測の域を越えないけれど、この部屋に用意した魔術は、沢村灯里が行った可能性が高い魔術儀式を再現したモノよ。誰かに怪我をさせるわけにはいかないから、事故で怪我をした柊悠樹の役は人形で代用。その他、細かいやり方は過去の資料で補うとして、儀式の結果を再現する。その結果や痕跡を調査して、柊の性格の変化の原因を探るわ」

 テーブルにおかれた人形は、柊さんの代わりだったらしい。

 彼女は魔法陣を見下ろし、準備ができていることを確認する。

 格好だけなら、理科準備室で見た光景と似ている。そうか、あの時聞こえた何かが倒れる音は、人体模型か何かを倒した音だったのか。その人体模型を柊さんの代わりとして扱い、今から行う儀式と同じことをしていたのだろう。もっとも、あの時やっていたのが同じ魔術かどうかはわからないけれど……。

 ……ん? ちょっと待てよ?

 あの時、確か彼女は……。

「じゃあ、始めるわよ。呪われないように、円の外にいなさい」

 彼女は首元のリボンを解き、上から順にボタンを外す。

 やっぱりだ。彼女は理科準備室の時と同じような事しているのだ。つまり、あの時見たままの格好になるというわけで……。

 このまま放って置いたら、間違いなく「あの格好」になってしまう。まずい……。むしろ、気まずい……。

「ちょ、ちょっと、神楽さん!」

 慌てて声をかけても、全く動じない。最初に出会った時は悲鳴をあげるほど恥ずかしがっていたのに、なんで動じないんだろう。

 既に上着は取り払われ、スカートをたくし上げて、ワンピースになっている部分を脱ぐ準備をしているのが見て取れた。僕は慌てて後ろを向こうとして、バランスを崩して……。

「あ、こら! 不用意に中に入ったら……」

 彼女の慌てた声を聞くのと、僕が魔法陣の円の中に入るのは同時だった。そして、それきり彼女の声が不自然に途切れ、周りの音が聞こえなくなった。


 視界は揺れ、何色かわからないような光が覆った。

 体の自由が利かない。勝手に動いているというより、まるで波に飲まれているような感覚だった。まるで自分じゃないみたいに、体の重さを感じなくなっていく。

 視界の端で、パシン、パシンと、僕の体の表面に衝撃が走るのが見えた。不思議な色の光が反射して、自分の体さえよく見えない。

 そのうち、体に何かが纏わりつくのを感じた。布のような感触なのに、まるで空気のように軽い。僕の体の一部のように、全く負担を感じない。

 次第に、何色か分からなかった光が形を作っていく。さっきまで見ていた風景に似た世界が、僕の視界を覆っていく。

「あ、あなた……その姿……」

 聞いたことのある声が僕の耳を突いた。そのおかげで、僕は正気を取り戻した。ロウソクの臭いが鼻を突いて、僕は思わず咳き込んだ。

「え……、あれ……?」

 僕は自分の姿を見下ろした。さっきまで着ていた制服は影も形も見当たらず、代わりに、神楽さんが着ているようなヒラヒラな衣装が、僕の体を覆っていた。

 な、なにこれ……。僕は、いつのまに着替えたんだ……。

 いや、そもそも、こんな布が多い服を着ているのに、全く重さを感じない……。これは、本当に服なのか……。

 真っ先に神楽さんを疑ったが、彼女も僕がこんな格好をしていることに驚いていた。つまり、彼女が着替えさせたわけじゃない。

 もしかして、この魔法陣に足を踏み入れたからなのか。いいや、そんなバカな。そんな現実離れした不思議な体験をしたなんて、信じられない。

 一体、何がどうなったというんだ。

「あなたがその魔法陣に足を踏み入れた瞬間、あなたの周りを光が覆ったのよ。何色か分からないような光だったわね。それで、しばらくして光が止んだら、あなたがその格好でここに立っていたわ」

 さっき視界を覆っていた光は、見間違いなどではなかったらしい。つまり、その光が僕をこんな姿にしたようだ。

 けれど、服装以外は全く変わらない。僕に体が変な風になっていたりしないし……ん? ちょっと待てよ?

 僕は今、神楽さんが着ているようなゴスロリな服を着ているわけで。どう見ても、これはスカートだ。という事は、やっぱり女性の格好をしているわけだ。

 僕は自分の体を確認した。もしかして、服装だけじゃなく、体まで女の子になってしまったのではないかと、不安になる。なにしろ、僕の頭では理解できないような現象が起きたのだ。

 胸は、ない。

 いいや、女性にも胸がない人はいる。胸がないからと言って男性だとは言い切れない。

 神楽さんが見ているという事も忘れて、僕はスカートの上から体を探った。よくわからない。感触がいろいろと混ざっていて、布なのか体なのかが分からない。

 スカートの中に手を入れ、直接体を確認する。

「な、何をしているのよ!」

 神楽さんは顔を真っ赤にして、僕の手をつかんだ。

 手を掴まれる前、僕は確かに、自分の体に起きた変化を確認した。

 ついて……ない……。

 あるはずのモノが、僕の身体から消えている……。

 つまり、僕は、男の子じゃなくなってしまったわけで……。

「ど、どうしよう……。僕……」

 口にしてしまっていいモノか、少しだけ抵抗した。

 いや、でも、これはそういう事なんだろう。もはや、認めるしかない。

 確かに、あるはずのモノが僕からなくなっていたのだ。


「僕……、女の子になっちゃった……」


 僕は間抜けな声で、はっきりとそれを口にした。

 さすがの彼女も、表情が凍りついていた。

 僕は、このままどうなってしまうのだろう……。

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