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太陽にノックされて

作者: mako_rena

1人暮らしの入山壮人(いりやままさと)は山奥生まれだ。

長野県松本市の中心部から1時間以上離れているこの集落は、曲がりくねった幹線道路から山の中腹へと続く道を上った先にある。

昭和40年代にダム開発で周りの集落はダムの底へと沈んだが、この場所だけはそれより遥かに高い場所にあったためにそのまま残った。

よって、この集落以外には付近に人が住む場所は殆ど無い。

ダム湖から吹き抜ける風が夏は心地いい場所ではある。

しかし、逆を言えば遮るものがあまりないので、冬は季節風が寒さを助長する。


人よりも野生生物の方が多いという場所。集落の道には昼は猿で夜は猪、狐、狸...挙げ句には時折熊が現れる。

夜になれば様々な動物の鳴き声が聞こえてくる。そのどれもが都会にはいない生物である。

確かに星は綺麗だが、それ以外の売りはほとんどない。

店はおろか自販機すらなく、高齢者が免許を返納すれば1日数本しかないのに予約しなければバスが来ないという現況では即生活できなくなるリスクがあるような場所だ。

余所者が来るような集落ではないので迷いこめば、山菜やキノコの盗人か泥棒扱いであっという間に不審者になる。

数年前までインターネットすら使えなかった場所だ。


そんな場所で生まれ育ったので、都会への憧れは半端なものではなかった。

それこそ、「暇さえあれば」都会に行っていた。

そして、その都会=東京と決めつけて事ある毎に通う日々。

しかし、運命のイタズラは頭の中の空想を答えにしてはくれなかった。


転職で大手企業の派遣社員になったと同時に都市圏に配属が決まった。

それは嬉しかったのだが、行き先は名古屋市。

青天の霹靂(へきれき)でしかなかった。

「なんで名古屋なんだよ…」

そう思うのも無理もない。東京に引っ越す前提でいろんな付き合いをして知人を東京に増やしてしまい、名古屋には知人がいなかった。

完全な1人ぼっちである。

人付き合いがそこまで無い山奥で育ったのも災いして、1からコミュニケーションを取って会話したりというのは正直言うと苦手である。はっきり言って東京で知人が増えたこと自体、奇跡的だろう。

そんな人間がいきなり1人きりでの新生活。

分かりやすいまでに浮いてしまうのは、時間の問題。

それは自分でも分かっている…

「せめて、今の趣味以外で何かを見つけて一人ぼっちを解消しなくては」

そうは思ってみても、当たり前だが容易く見つかるわけがない。

「やっぱりダメか」

そう思うのも当たり前だ。と、言うよりその程度の発想で見つかる方があり得ないだろう。

そのまま、お手上げ状態で車を売った資金を元手に市内の南東よりにある瑞穂区のさして交通の便もよくない安いアパートに移り住んだ。


しかも、悪いことが続くときというのは続いてしまうものである。

あろうことか、大手企業との派遣契約はわずか1ヶ月で早々に切れてしまった。

企業の単年度赤字決算がその理由とされたが、同意できるものではない。

しかしいきなり「明日から来ないで下さい」と言われてしまっては反論する隙すらなかった。

「どうすればいいんだよ…」

心からの声である。


「ひとまず、アルバイトでも探すかな…あとは新しい趣味…」

アルバイトはすぐに見つかった。こんなに早く見つかるとは不幸中の幸いだった。内容は夜間のコンビニ。

こんな都会生活をしたくはなかったが、こうなってしまった以上は仕方ない。

これでも、時給だけなら山の中のスキー場のリフト係員より高時給。文句のつけようは無かった。

「あとは1人きりで居ないようにするために、新しい趣味と新しい音楽...あっ!これいいかも!聞いてみよう!」

たまたまめくった雑誌にいたのは人気アイドルグループの乃木坂46だった。


乃木坂46...それ自体を知らないわけでも無かった。

壮人は元々邦楽が好きで、ジャンルを問わずにラジオ等で聞いていたので名前だけはよく知っていた。

しかし、実際にはとなると全くの未知でしかない。

大体、CDショップまで行くのに車で数十分かかるような山奥育ちには新しい音楽はハードルが高すぎる。

レンタルCDは車で片道1時間以上だった。もはや一仕事である。都会なら思い立ったらすぐ行けるのに、山奥ではどうしようもない。

そんな生活だったので、新しい歌手の曲をレンタルCDするのはとても勇気のいる事である。

しかも、集落へのインターネットの回線導入が遅く、配信で入手する事とは無縁だった。

それ故に名前だけは…が文字通り、山のようにいるのだ。


雑誌の乃木坂46のページで気になった壮人だが、なかなか次には進めずにいた。

やはり山奥生活の癖は簡単には変えられないらしい。

それでもと、頑張ってレンタルCDの店に行き、ネットカフェのパソコンで音楽プレーヤーに取り込んでみた。(自宅にパソコンが無いのでこうする以外に手段がなかった)

ひとしきり作業を終え、初めて聞いた音源には、確かに今まで聞いたこともなかったアイドルの曲が入っていた。

「やはり冒険しすぎたなぁ」

それはある意味正しい感想だろう。

何事もいきなりではうまくいかないのである。

元々好きな音楽はゆずやミスチルなどで、中でも最近のお気に入りはいきものがかり。

いきなり聞くには曲調があまりに違いすぎたようだ。


日常的にうまくいかない事は生活にも現れていた。

毎日の食事は幸いにして自分で作れるので困らないのだが、何せあとのことはさっぱりダメ。

荒んだ生活が続く一方でしかなかった。

就職活動とアルバイトの両立しながら1人暮らしは想像以上に厳しいものだった。

しかも、知人もいなければバイト先での話し相手すらなし。

「孤独になっちゃったな…」

そう思っても仕方ない。

こんな時は焦るだけ無駄だと分かっているだけでかなり違う。

元々の趣味を活かして図書館に通って読書に没頭したり、軽く出歩いてみたり…

これでも気は紛れた。

しかし、せっかくだったらやっぱり何か行動を起こしたいな…

毎日の暮らしは相変わらず単調なのに、気持ちだけは意識する。

我ながら変わったなと感じていた。

もちろん、まだ1人ぼっちだったが。


そう思うように変化してきていた春の終わり…

テレビを見ていてある発見をする。

TV「握手会会場の安全対策について…」

どうやらあるアイドルの握手会会場で事件があり、握手会の安全対策が見直されるらしい。

「何やってるんだよ…でも、握手会って?」「もしかしたら、自分を変えるきっかけになる?

ひょんなことから握手会というワードを知った壮人。

「そうだ。あの雑誌のグループのイベントがあるのだろうか?」

気になると調べたくなる(さが)。調べだしたら止まらなくなる。

すると…あった!それも同じ市内。

港区のポートメッセなごやという場所の第二展示場が会場だ。

土地勘が全くない場所になるので、困って地図検索を実行してみた。

~所要時間 1時間13分~

「えっ!?同じ市内なのに?冗談キツすぎだ」

壮人は何も知らないのでそう思ったのだろうが、名古屋駅構内の外れから出るあおなみ線という都市の市内を走るとは思えないような電車に終点まで乗って24分かかる。いくら乗り換え時間にやたらと余裕時分を取る地図検索とはいえ、部屋からは遠いのだ。

「名古屋駅から岐阜より時間距離が遠いじゃないか!」

禁句だが言われても仕方ない。と、言うよりJRで名古屋から高速の快速列車で約20分の岐阜と鈍足の各駅停車で24分のあおなみ線終点の金城ふ頭。そもそも比較対象にすること自体が間違いである。

それでも、気付けばあっさりとお気に入りのメンバーを決めていつでも行ける状態にしていた。

行けるのはいつかなぁ…

就職活動と組み合わせることに終始するのだった。


大島さゆりはOL1年生。

これまで、成績優秀のマジメすぎるお嬢様と言われてきたのがコンプレックスだった。

小さい頃からずっと「マジメなお嬢さん」で生きてきた。

親の方針で純金(愛知県の金城学院の系列だけで大学まで進学すること)を貫いたため、余計に周囲からの印象も「お嬢さん」である。

「別にお嬢さんじゃないのに…」

そう本人が思ったところで、残念ながら周囲の見る目は変わらない。

女子校ばかりで生きてきた上に不要なお嬢様扱いでお高く見られるのも災いして、恋愛は未経験。

「恋の1つや2つはしてみたい…」

そんなことばかり考えている。


家は名古屋の隣町の春日井市にある。

名古屋地区の鉄道路線の中で最も混み合うJR中央線の最混雑区間を通学させる事に躊躇いを感じた両親が、学校に一番近い駅まで朝は送り届けるという、過保護なまでの箱入り娘生活。

最寄りの駅まで僅か数分で着く距離なのだが、毎日続いた。

ある時「どこまでお嬢様扱いさせるの?」と反発してはみたが、ドア2ドアで学校に行ける楽々生活が身に付いてしまい、自分自身でもそのままでいいと思っていた。

自分では望んでいないつもりだったのに、いつの間にか癖で身に付いてしまっている。

自分への怒りも込み上げてくる中で、「お嬢様じゃない」自分を意識したくて、音楽の世界にのめり込んでいった。

最初は何を聞けばいいのかすら分からなかったのだが、気付けば様々な音楽を聞いている。

SEKAI NO OWARI、YUI、aiko...中でも最近気になっていたのは、同じさゆりという名が2人もいる乃木坂46と切ない恋を歌うbank number、等身大の女子の気持ちを歌ったものが多いmiwa、そして「泣き笑い切なポップス」というキャッチフレーズでデビューして以来活躍し続けているいきものがかりだった。


「1度くらいは何れかのイベントに行ってみたいなぁ」

そう思ったさゆりだったが、あの箱入りを望む両親の許可が出るはずもなく、学生時代はついに1度も行けなかった。

OLになり就職した会社は駅からは近かったが、自宅近くのJR中央線とは違う路線だった。

春日井市にはJR中央線と名鉄小牧線が通っているが2つの鉄道路線を横に結ぶ交通手段がかなり欠落している。

そうなると移動は車に頼ることになるので、免許を取得して自動車通勤することになった。

そうして自由に動けるようになるとさすがの両親も拒めず、ついにライブやイベントへデビュー出来る事になった。

憧れが現実になると同時に、お嬢様からの卒業を図るには最高のものになるだろう。

さて、デビュー戦はどのイベントになるのだろうか?

そう思い調べてみると、SOLDOUTの文字ばかりであった。「やっぱりダメか…」

しかし、1個だけ自分にも行けそうなイベントを見つける。

「乃木坂46全国握手会?」

CDを買えば参加OKというそのイベントはデビュー戦にはもってこいだった。ミニライブも見れる。

会場のポートメッセなごやは就活のイベントで何度も行っているのでよく分かる。もうこれは行くしかない!さゆりはここに行くと決めた。

「これで推しメンのさゆにゃん(乃木坂46の井上小百合)に会える!」

同じ名前から始まった推しへの思いを届けられると興奮が止まらないのだった。


アイドルという太陽にノックされ、気付いたら2人共に今までにない冒険をすることになっていた。


そして、2人にとって初めての握手会の日を迎えた。

天気は快晴。8月、真夏の強い日射しの中でそれぞれが歩み始める。


先に出発したのは壮人だった。

部屋からは地下鉄桜通線で名古屋駅に出て乗り換えとなる。

地下鉄なのに本数が少ない桜通線はボヤッとしてるとあっという間に平日は8分に1本、土日に至っては10分に1本にまで減ってしまう。休日の日中はJR中央線や名鉄名古屋本線よりも本数が少ない。

仕方なく早々と出てはきたが、朝食抜きで行けるようなイベントではない。予定時刻を見る限りはかなりの長丁場だ。

「せっかくだから、モーニングでも食べてから行こうかな」

あれほど孤独で辛いと言い続けた名古屋の文化をちゃっかり受け入れている。

素直に喜べないが、良いことではないかと言い聞かせて地下街の喫茶店に行くのであった。


一方、さゆりはゆっくりと朝食を食べてから、いつもの数倍の時間を費やして化粧をし、更に万が一に備え日焼け対策を万全にして家を出た。

「あれっ?今日はどうしたの?」と聞いてくる母親には「楽しいことがあるの」とだけ伝えてきた。

いつもは朝に歩くことの無い道を少しだけ歩き、最寄り駅でさほど多くない人と列を作ってとりあえず来た電車に乗る。

学生時代にその混雑故に箱入り娘扱いのきっかけを作った中央線も、土曜の朝ともなれば快適なものである。

「いつもこの位に空いていたら人生が変わったのかな?」と複雑な思いを抱きながら、名古屋に向かった。


2人はそれぞれの過ごし方をしているうちに、同じ時間の金城ふ頭行に乗ることになった。

これは偶然でしかないが、壮人は乗り遅れてしまったのだ。

あおなみ線は名古屋駅の隅の改札から入り、ホームまでさらに歩く必要がある。

その遠さは相当なもので、壮人が居た地下街からだと、最低でも9分近くはかかる。

その構造を知らなかったが為に、歩いているうちに電車が行ってしまった。

「こんなに遠いとは…ガッカリだ」

調べてこいよと自分に言い聞かせつつ、ホームドアの前で次の電車を待つ。

やがて入ってきた電車は折り返しで大量の人を乗せて発車を待つ。何故か隣に1つの空席を残したまま…


さゆりは電車の時間を全く調べずに名古屋駅に着いた。JRからあおなみ線の乗り換えは専用の乗り換え改札があるので楽々だが、遠いことに変わりはない。

ただ、ちょっと走れば発車間際の電車に何とか間に合いそうだ。

急ぎ足で車内に入れば間際に乗ったのに、よく見れば1つだけ空席がある。

いつもの電車なら躊躇うが、あおなみ線の電車は座席が1人分ずつ独立している。

これなら座れるはずだ。

「ラッキー!これは座れる!」

そこは壮人の隣の席だった。

運良く座れた2人が乗る満員に近い電車は市内から湾岸部へ24分かけて走る。


電車が終点の金城ふ頭に到着すると皆が一斉に立ち上がり、それぞれの目的地に歩き出す。

こういう日に金城ふ頭まで乗って来た人は主に2つの行先に別れることになる。

1つはJR東海が運営するリニア・鉄道館に行く人。

日本でも有数の規模を持つ鉄道の博物館でここの集客力は凄まじいものがある。

中には首都圏や近畿地方からわざわざここ目当てで来る強者もいて、来場者は休館日でない限り、午前中の電車に乗れば必ずと言ってもいいくらいにたくさんいる。

もう1つが握手会の会場、ポートメッセなごやに行く人である。

その人数が多ければ、この握手会が人気かどうか分かるのだ。

この日は予想最高気温38℃という猛暑日の予想が出ている。開場の12時半まで野外で待つのは地獄と言っても問題にはならないだろう。

だから、壮人は人数などそこまで居ないだろうと思い込んでいた。

ところがその予想は崩される。

改札を出てすぐに、リニア鉄道館へ行く人は左に進む。その人数が壮人の予想より大幅に少なかったのだ。

「なんでこんなに人が多いんだ?」

思わず口に出すほどに直進の人数は多かった。

「そういえば、隣の女性も乗り通してきたし行くのかな?女性の参加者居るんだな。」

事実、乃木坂46の握手会は女性の1人参加者も多いイベントではある。

さゆりも思っていた。

「隣の人も握手会か。男性だらけなのかな?1人で何にも考えずに来たのは失敗だったかな?」

駅を出て、通路を歩き誘導に従いながら会場に行く。

歩くスピードはみんなバラバラではあるが、似たようなペースで歩く。

会場に着いたのだが、そこには驚愕の光景が待っていた。

「おいおい!何人いるんだよこの行列…」

そう言いたくなるほどに長い行列が出来ていた。

先に歩いてきた壮人は辛うじて日陰の最後尾に並ぶ事が出来た。

日陰といってもそのうちに日向になってしまうが、それでも気分的に違う。

「えっ!?ちょっと待って!日陰で待ちたいのに!」

後ろから来ていたが僅かしか日陰にスペースがなくしか思わず走り出したさゆり。

際どい場所に息を切らして滑り込む。恐らくギリギリアウト。

どうしよう…こんな場所しかないなんて…日焼け対策はしてあるけど、今日に限って日傘忘れちゃったのに…

ついてないな…そんな時だった。

「良かったらこの場所と変わってもいいですよ」

前方から声がかかる。

ふと見るとさっき電車で隣だった男性が、すぐ前の日陰から声をかけてきた。

どうしようかな?そこは快適そうだが悪い気もする。

「あっ、自分は対策グッズ持っているので」

「そんな…迷惑かかるので申し訳ないですよ…」と口を開きかけたさゆり。

「気を使わなくても、大丈夫ですよ。日向は慣れてるので」

と、止めを刺される。

壮人にしてみれば、山奥の実家の畑で農作業することを考えたらこれ位は大したことない。そう思っていた。最も、恐ろしいまでに湿気を含んだ炎天下では脱水症状が怖いので水分補給だけは出来るように備えてきてあるのも理由だ。

「いいんですか?ありがとうございます」

結局、譲って貰うことにした。

「本当にありがとうございます。助かります。」


お礼を伝えて前後を入れ替わると譲られた場所の地面にはあるものが落ちていた。

「あの…これって?」

急に声をかけられ慌てて見てみれば、壮人が今まで誰にも見せていないものがさゆりの手に握られていた。

「えっ!?」おどけた声がつい出てしまう

「これ、そうですよね?」

そこには丁寧にクリアケースに入れられた乃木坂46若月佑美の写真があった。鞄から落ちたらしい。

「そう…だね。ありがとう!」

それを渡そうとしたさゆりは裏返して、思わず笑ってしまった。

そこには今度はバラエティーでも活躍し、かずみんと呼ばれている高山一実のコンビニキャンペーンの写真が挟まっていたからだ。そして思わず一言こう言った。

「あれ!?単推しじゃないんですか?」

まさかの返しがきた。想定外だ。

単推しとは数多くいるメンバーの中の1人だけを推している事である。

「えっ!?」

思わず動揺した壮人を見たさゆりは後悔した。

(何を聞いちゃってるの!私のバカ!)

しばらく無言の後、こう切り出した。

「みんなかわいいから1人に絞れなくて…情けない。」

乃木坂46はかわいいと言われるメンバーが多い。

白石麻衣、西野七瀬、橋本奈々未、齊藤飛鳥などが雑誌モデルとして活躍。更に生田絵梨花、衛藤美彩、秋元真夏などの人気のあるメンバーは数知れず…故に単推しは簡単ではない。みんなが好きで選べない「箱推し」と言う人まで居る程である。


それを聞いて「みんなかわいいですよね。私も最初はそうでしたよ」と返すと、壮人の顔をじっと覗き込んだ。

(この子、積極的だな…)

「最初はって事は今は違うの?」

聞いてほしかった所に聞いてくれた!そう思ったさゆりは、自分の事を語りだしていた。

「私、ずっとお嬢様って言われていて。それが嫌で…そんな時に同じ名前で活躍するさゆにゃん(井上小百合)に出会ったんです。さゆにゃんってあんなにかわいいのに、その中にも正義感がすごくあって…何だろう。女の私から見てもカッコよくて...あんな女性になりたいなって...」

そこまで言うと我に帰り、「いきなりこんなに語っちゃって…ごめんなさい‼」と謝った。

聞いていた壮人はもっと聞きたいと思っていた。

「続けてくれていいよ?自分でそこまで思いを語れるって凄いなって思ったし、俺はそこまで自分を語れないから...」

一瞬は遠慮しなきゃと思ったのだが、壮人が持つ話しやすい雰囲気に呑まれていた。

「私、本当はこんなに喋れないのに...なんでこんなに語っちゃったんだろう…びっくりしました。」思わず本音が出た。

「そうなんだ…こんな自分に語ってくれてありがとう。」

壮人はそう言うと名古屋に来てから初めて思いを語る。

「俺、君が人生で見たきたと思うどの場所よりも田舎の生まれでさ。同年代より下なんて居なかったし、機会がなくて…乃木坂46はついこの前知ったようなにわか者なんだけどさ…」

「にわか者じゃないですよ!」そう割って入るさゆり。

「えっ?」

「ここまで来てるんですから、にわか者じゃないです。折角なんだし、楽しみましょ!」

「そうだね!ありがとう。そう言えば誰と握手するか決めてるの?」

(それをさゆりに聞くか!とは思ったが一応である。)

「もちろん!さゆにゃん一択!!」

「さすがだね!他の子は行くの?」

「あとは…全部で3枚持っているけれど、まだ悩んでます…」

「そうなんだ…さゆりんご(松村沙友理)とかは?さゆり繋がりだし!」

「あっ!?」

(しまった!いくら名乗ったからって名前言うとかアホかよ…)

さゆりが話し出すまでの数秒が長く感じた。

「そうですね!いいかも!同じさゆりだし!あと…お名前聞いていいですか?私だけ名乗っちゃったので。こんなに話しやすい人、初めて出会いました!」

そう言われて壮人は驚いた。自分は話しかけられないタイプだと思っていたし、話しやすいと言われたことは人生で一度もなかったから。

「俺は入山壮人。こんな俺で良ければ何でも言ってね。よろしく」

「ありがとうございます!私も改めて…大島さゆりって言います。よろしくお願いします!」

なぜにこんな場所で自己紹介しあっているんだ?それはお互いが思っただろう。

それでも別の企画で会場内でミニライブがある関係もあって周りの音に消され、周囲から冷やかされなかったのは幸運である。


眩しく強い夏の陽射し。その光はまるで乱反射するかのごとく地上を照らす。

その中で2人はあの山奥のような狭い気持ちや箱入り娘の呪縛...1人きりで閉じ籠っていた心から飛び出し解き放たれたのだ。

太陽に誘われるようにして出会った2人は、この空の下で自由に関係を始めようとしていた。

こんな機会は最初の1回だけ。自分を取り巻く何かを変えるいいきっかけだろう。

新しい扉を今、開こうとしている。


「壮人さん…まささんって呼んでも大丈夫ですか?」

さゆりは今まで男性とまともに話した事がないからこそ、こうなったら一気に勢いで話そうとしていた。

「いいよ。俺、あんまりニックネームつけられたこと無いから嬉しいな。」

壮人はグイグイ来るさゆりに戸惑いを感じながらも、この状況に喜びを感じもっと話したいと思うようになっていた。

「俺は何て呼ぼうかな…」

「何でもいいですよ。あっ、さゆにゃんとさゆりんご以外でお願いしますね(笑)」

「それはさすがにね(笑)じゃあ、さゆちゃんでいい?」

「わぁ!嬉しいです!やった!」

素直な子だな。こんな子に出会えるなんて、来た甲斐があった。

壮人は心からそう思った。その勢いのままに「LINE交換したいな」と言ってみた。

「いいんですか?嬉しい!」

さゆりは壮人がLINE交換したいと言ってくれるとは思っていなかったので、嬉しくなっていた。

なんで今日はこんなにグイグイいってるんだろう。いつもの自分じゃない。嬉しいような、我を忘れているような…

不思議な感覚だった。

でも悪い気はしない。それに人を見る目には自信がある。だからここまで気を許したのだ。

LINEの設定が終わると今度はお互いの目を見て会話を始めた。

「じゃあ、改めて…まささんのお気に入りってどのメンバーさんですか?」

「まだ言ってなかったね。俺はかずみん(高山一実)、若様(若月佑美)、蘭世(らんぜ)(寺田蘭世)かな。」

「へぇ!もう決まってるんですね!若様かぁ…」

「若様は何と言うか…真面目なんだけど面白いし、気になるんだよね…」

「そっかぁ…と握手かぁ!かずみんとらんぜも、もちろん行くんですよね?」

「そのつもりだよ。もちろん、レーンが一緒のかりん(伊藤かりん)とちーちゃん(斎藤ちはる)、かなりん(中田花奈)もどんな子か見てきた。かりんは将棋の話をしようかな?(伊藤は将棋番組のMCを担当)ちーちゃんはアメフトで(斎藤ちはるの父親はアメフト選手の経歴を持つ)。3枚だから、有効活用しないとね。」

「さすがですね!と言うか3枚って同じだ!」

偶然の一致である。

「本当だ!初めてだとこの位から始めるのが気楽だしね。と、言うか…誰と握手するか決めた?」

さゆりは井上以外はまだ決めていなかった。

「あっ!決めなきゃ」

「まだ決まってないの?」

「さゆにゃんしか決めてないんです…」

「そうなんだ!ホームページにレーン表出てるからさ。それ見ながらでいいと思う!」

乃木坂46の全国握手会は開催直前にホームページに当日、誰がどのレーンに入って誰とペアを組むかが掲載される。壮人はこれを確認済だったが、さゆりは見ていなかった。

「そんなのがあるんですね!見てみなきゃ!」

スマートフォンを取り出そうとすると横から画面が出てきた。

「はい、これ見なよ。画面の明るさを調節しておいたから。」

(凄い!気遣いがこんなにしっかりしてるなんて!)

さゆりは嬉しくなって、笑顔で画面を見つめた。

「あっ、さゆにゃんは川後P(川後陽菜(かわごひな))と一緒なんだ!予習してない…どうしようかな。あとは…さゆりんごも行ってみようかな!」

「おっ!同じ名前で行くんだ!さゆちゃんがそう言ったら喜んでくれそうだね。」

「そうだといいな!あと…」

何故か妙な間が開く。

「んっ?どうしたの?」

「私も若様のレーン行っていい?まささんと一緒のタイミングで。」

!!!

今度こそ驚いた。一体何をしたいのか?壮人には分からなかった。

「一緒?連番って事!?」

連番とは仲のいい人同士やカップルが続けて入ることを言う。

「はい!私先に行くんで続けて来て下さい!ダメですか?」

一瞬、迷ったが答えはすぐに出た。

「いいよ。さゆちゃんがしたいことなら何でもしていいし、何でも言っていいって約束したから。」

「ありがとう!若様もカッコいいし、女子高出身だし…私見てみたい!」

若月は舞台『ヴァンパイア騎士(ナイト)』で主役を務めるなど、乃木坂46の中でもかなりの演技派である。その役はショートカットの彼女らしい、強くたくましいキャラクターが目立っていた。そして、その割には女子高出身というギャップがある。

しかし、その若月のレーンで何故に連番なのだろう?壮人の疑問は深まるばかりだ。

「あっ、さゆりんごは絢音ちゃん(鈴木絢音)、若様はちーちゃんと一緒だよ。何言うか考えないと…」

「そうなんですね!どうしようかなー?」

そう言いつつもさゆりは井上との握手に加えて若月との握手で何を言うかで頭が一杯になりつつあった。

壮人はこの時、まださゆりの狙いが分かっていなかった。

(連番でさゆちゃんが先?どうしたいんだろうか?)

さゆりはここまで来たらグイグイ行ってしまおうと思っていた。

(仲良くなりたかったらいけるだけいくしかない!)

それぞれの思いが入り乱れ、様々な感情が交錯していく。


そうこうしているうちに開場の時間になった。

このイベントは中に入ってからも長い。

1時間半、ミニライブが始まるまで待たねばならないからだ。


今回は壮人の提案で一緒に入ることになった。要は2人組という体だ。

さゆりはそうして欲しかったので、何の抵抗もなかった。というより、抵抗するわけがない。

Cゾーンと決していい場所ではないが、ちゃんと最前列を取れたのでよく見える。

CDを買っただけで入れるライブだ。贅沢は言えない。

それにさゆりはこれが人生初のライブだ。

「ドキドキしてきちゃったね。まささんは?」

「俺もちょっとドキドキする。さゆちゃん初めてだから、見ているだけで分かるくらいに緊張してるね。」

中に入るまであんなにグイグイ引っ張っていたさゆりだが、いざミニステージを見た瞬間にライブの緊張感に包まれた。

「どんななのかな?ライブ楽しみ!」

好奇心と不安と期待。ライブを待つ時特有の気持ちだ。それはミニライブであっても変わらない。

「まだかな?緊張する。」

「もうすぐだよ。落ち着いて。」

ドキドキの中で会場が暗転し、影ナレーションからOVERTURE(ボーカル無しのライブ開始を知らせるような曲で、更に言うと全国ツアー等の際には同名ながらまるで別物の曲が流れる。)、そして今回のシングル曲と進んでいく。

今回のシングル「太陽ノック」はまさにアイドルが歌う夏の王道曲といった感じの爽やかな曲だ。

そんな曲のミニライブが初めて見る乃木坂46のライブ、さゆりに至っては人生初ライブである。これで集中しない方がおかしい。

場所取りに成功したからだろう。久々のセンターを務める生駒里奈の姿がはっきり見える。

しかし、2人はそれだけではなく推しメンを見ようと必死になっていた。

壮人の推しメンの1人の若月佑美とさゆりの推しメン、井上小百合は3列目である。

場所が良くてもそうそう見えるものではない。

「見えない!」どちらともなくそう言う感想が出かかったが辛うじて、井上は一瞬見えた。

「やった~!」

素で喜ぶ姿に壮人は思わず、ステージではなくさゆりを見てしまっていた。

そういう感情を抱きながらの4分はあっという間に過ぎる。

そして、その後の曲間のトークでは驚きが待っていた。

通常仕切るはずのキャプテン、桜井玲香が体調不良で欠席してしまった為に代わりを若月が担当することになったのだ。

これは驚きでしかなかったが、壮人にとってはレアシーンを見ることになり興奮が隠せなかった。まさかの事態だが、想定外であると同時に大活躍の姿が見れるという嬉しさが頂点に達していた。

さゆりも壮人が好きな若月を見てみたかったので喜びを感じていた。ましてや連番宣言をしたのだ。

ここで見ておかないと、何を言っていいか分からず大変なことになりかねない。

(こんなイメージなのね。若月さんは…)

それぞれに違った見方をしているうちに、駆け抜けるようにミニライブは終わった。

さすがは「ミニ」である。50分程度しかない。

「俺はアイドルのライブなんて初めてだったけど、ミニでもやっぱりライブだな。熱量が半端なかった!」

「私は人生で初めてのライブだったけど、楽しかった!」

感想が思わず飛び出した。と、ここで重要なことに気付いた。

「お昼どうしよう?」

金城ふ頭駅の周辺には飲食店が皆無である。駅の高架下にコンビニエンスストアが1つとこの会場、ポートメッセなごや内に喫茶店とレストランが1つずつあるだけ。近くの大型家具店にも飲食スペースはあるが、入りにくく躊躇われた。

この暑さの中でミニライブを見た為に2人は空腹になり、疲れはてていた。


「私、いい方法知ってます!会場を一旦離れても大丈夫ですか?」

「本当に!?大丈夫だよ」

今の時間は14時40分。本番の握手会の開始時間は16時で19時に最終入場、20時に終了だ。

時間に余裕はある。

「はい!金城ふ頭の駅から一旦離れますけど、絶対にこの方がいいですよ。」

妙に自信のある言葉で伝えるさゆり。こんな場所には来たことすらなく、戸惑うのみの壮人にはこれに乗る以外に手段はなかった。


来るときとは対照的にのんびりした雰囲気の電車に揺られること9分。

荒子川公園の駅でさゆりは立ち上がる。「ここです」

と言われて、涼しい電車内でうとうとしていた壮人は慌ててついていく。

改札を出て、高架下を抜けるとそこには大型商業施設があった。

映画館も入るこの施設は、地元民にも愛される沿線有数の商業施設だ。

「よくこんな場所知ってるね!」

「私、就活のイベントの時はここでご飯食べてたんです。」

そう言うと少しはにかみながら、フードコートに歩を進める。

「何を食べたいですか?」

「ご飯物かな」

「私は、麺類がいい」


それぞれの食べたい物をオーダーして、テーブルに向かい合う。

「まささん、さっきのライブ凄かったですね!」

「何と言うか、熱量が凄かったね。」

「初ライブ、感動しました!あと若さ…」

ブーブーとバイブレーションする番号呼び出し機に邪魔をされ、一度は会話が途切れる。

「ごめんなさい!途中でしたね。」

「いいよ!若様がどうし…」

またしてもブーブーと番号呼び出し機がバイブレーションして邪魔をされる。

(何でこうも邪魔をされるんだよ)

ここで連続とは間が悪すぎだ。まるで狙ったようである。

壮人が戻ると、さゆりは待っていてくれた。

「さゆちゃんのは麺類だから冷めちゃうし、先に食べていてくれても良かったんだけど、待っていてくれたの?」

「なんか、待っていたかったんですよね。いただきます!」

美味しそうに食べ始めたさゆりを見て、壮人も食べ始めた。

「いただきます。うん、これで良かった。」

「美味しい!」

疲れているからか、何を食べても美味しく感じるものだ。

ここで聞いてみた。

「さゆちゃんはどの曲がお気に入りなの?」

さゆりには絶対に外せない曲がある。

「『あの日 僕は咄嗟に嘘をついた』です!何と言ってもさゆにゃんがセンターなので。もう最高です‼」

この曲は10作目の『何度目の青空か?』にカップリングで収録されており、同時にファーストアルバム『透明な色』にも収録されている。

「まささんはお気に入りはありますか?」

「そうだねぇ...『せっかちなかたつむり』かな。かずみんも他のメンバーもかわいらしい感じで好きなんだ。」

こちらは3作目の『走れ!Bicycle』にカップリングで収録されており表題曲よりも人気があるとさえ言われている曲だ。センターはもう1人のさゆり、松村沙友理。もちろん『透明な色』に入っている。

「そうなんですね。今度、じっくり聞いてみます!」

さゆりは感想と言うと同時に笑顔だ。

「ここなら涼しいし、ゆっくり休めるし。ありがとう!」

「いえいえ。ここに来て良かった!」

2人でゆっくり話ながら食事を終えると4時近くなっていた。

「そろそろ戻らなきゃね。」

握手会開始が近づいている。いよいよ本番が始まるからと電車で戻る事にした。


荒子川公園の駅で電車を待つ。

この先に大きな団地や住宅が少なくなるためか、この駅から金城ふ頭行に乗る人は少ない。賑わう対面の名古屋行ホームとは対照的に人影はまばらだ。

人の少ないホームでさゆりは思いきって壮人に両手を差し出した。

「えっ!?どうしたの?」

いきなり差し出されて驚く。

「握手会の練習。まささんとやりたくて。ダメ?」

ビックリしたが趣旨を聞いて納得した。

「いいよ。誰と握手する前提がいい?」

「さゆにゃん!あとは…」妙な空白がドキドキさせる。

「若様は内緒だからパス!」(内緒って何だよ…)

「練習させてください。」そう言ってさゆりは肩までの髪が風に(なび)くなか、一礼した。

「はい。分かりました。じゃあ、さゆにゃんに何を話したいのか練習で伝えてみてね。」

壮人も両手を差し出す。その時、反対側に電車が来た。

「ちょっと待って!これが行ってからにします!声が聞こえにくいと意味が無いですし。」

さゆりは実は本当は恥ずかしいと思っているだけだったりする。もちろん内緒だ。

数十秒の停車で名古屋行の電車はホームを離れていった。これからは2人が乗る電車まで6分ほど時間がある。

「じゃあ、始めるよ!」

恥ずかしそうに両手を差し出すさゆりを壮人が両手でしっかりと握る。

「さゆにゃんだと思って話してみてね。」

「初めまして!同じ名前でずっと推しメンです!」

仕方ないので壮人も井上になりきって対応する。「ありがとう!嬉しい!」

「いつも憧れてて…これから通います!」

「…今、何秒位だった?」

「今ので7秒くらいかな…」

「良かった!でも…勢いでやっちゃってごめんなさい。」

「いいよ!さゆちゃんが練習したかったら何度でもいいからさ。」

そのまま、しばらく空白が続いた。

「そろそろ手を離そうか?」

「あっ!?ごめんなさい!」ゆっくりと手を離す。

(大きくて温もりがあって…もっと握っていたかったな…)

そう思ってしまうさゆりだった。


キラキラと光輝く夏。しかし、やがて夏は過ぎ去る。

その時に寂しくなってしまうのではないかと、一歩踏み出すことに臆病になってしまうことさえある。

しかし、今が未来への一歩を踏み出すときかもしれない。

そのチャンスを見逃したりするわけにはいかないのだ。

さゆりはその一歩を踏み出した。では壮人はどうなのだろうか?


「あのさ…!俺も練習していいかな?」

さゆりは嬉しくなってにやけてしまう。「誰の練習ですか?」

「う~ん…かずみん!」

「じゃあ、もう1回握手してください。」

さっきより素早く握手すると早速始めた。

「かずみん!初めてきました!」

さゆりは笑顔で高山になりきると「おっ!ありがとう~!」と返す。

この時、電車が来るまであと僅かに迫っていた。

2人はこの練習に夢中でまだ気付いていない。

「かずみんは本当にかわいくて最高です!」と言い終わると同時に金城ふ頭行が入ってきた。

「さすがまささん!見事に8秒!」笑顔のさゆりがそう伝えた時に、ホームドアも電車のドアも開いた。


夏の太陽はみんなを照らしてくれる。

それは不安なときも切ないときも変わらないはず。

そう信じて、2人は今からチャンスをつかみにいくのだ。

どちらともなく「行こう!」と声をかけると、片方だけ放した状態で目の前の電車に歩を進めるのだった。


半ば慌てて車内に入ったので、手を握ったままだったのを忘れていた。

2人とも恥ずかしいという思いはなかった。離したくなかったのと握手会に間に合わないと困るとの思いが強かったからだろう。

また少し、距離が縮まった。


朝、乗ったときよりもかなり空いている電車からは、終点の金城ふ頭の手前で名古屋港と名港(めいこう)トリトンと呼ばれる3つの橋の一部が見える。この橋は伊勢湾岸自動車道で日本の高速道路の大動脈の一翼を担う道であり、橋の下を通る区間はあおなみ線で1番景色のいい場所だ。快晴なら遠くに三重県の山まで見える。

「俺、山の中生まれでさ。例え港の中であっても、海が見えると興奮しちゃうんだよね。さっきも見ておけば良かったな。こんなに綺麗ならね。」

内陸部出身には海は堪らないものだ。ありがたみがあったりする。ましてや壮人の場合はもはや秘境に近い地域の生まれで見る機会も少なかったので、感慨もひとしおである。

「今日の海は本当にきれい!こんなに綺麗なのは珍しいんですよ。」

さゆりが就活で乗ったときに見た海よりも今日の海は光輝き綺麗だった。

「なんか、穏やかに見れる気がしますね。」

今までとは違って見える海だ。

「これで着いたら本番だね。あぁ、ドキドキするなぁ。」

緊張感が高まる中で2度目の到着になった。

2人で話した末に問題の連番は一番最後と決まり、回る順番は壮人は寺田/中田→高山/伊藤かりん→若月/斎藤ちはる、さゆりは井上/川後→松村/鈴木→若月/斎藤ちはるになった。

連番をするために2組目が終わった時点でLINEで連絡を取り合うことも決まった。


会場に戻ると大勢の人がそれぞれのレーンに並んでいた。

この握手会では人気主力メンバーは1人、それ以外は2人一組となりレーンに来たファンを出迎え、各メンバーにつき6~8秒程度の握手と短いことばを交わせるというものだ。

先程の荒子川公園での練習で秒数を確認したのは、一歩間違うと言いたいことが全く伝わらずに終わってしまうリスクがあるためだ。

言いたいことが言えなかったり、何を話そうか忘れてしまって失敗した場合は事故と表現される。

この事故を防ぐために、ファンたちは内容を必死になって考えてくるのだ。

2人もそれだけは避けたいと考えがある。


壮人の行きたいレーンのうち、最初にいった寺田/中田レーンは幸いにしてそこまで混んでいなかった。

ここでは初めて来たことをメインに伝えるはずだった。

ところが、本人を前に何を言おうとしたかさっぱり分からなくなり「初めて来ました」としかまともなことを言えずに終わってしまった。

大事故である。

悲しいくらいに何も言えなかったのだ。ある程度の予想はしていたが、やはり残念でしかない。


一方のさゆりは井上、川後レーンに並んだ。こちらもそこまでの混雑はなく難なく進んだ。

先が川後、あとが大本命の井上、それが分かると緊張してきた。

しかし、先が川後だったのが幸いしたようだ。

あの後必死に考えたことを聞くと、そのまま本命の井上に対面することになった。

緊張はあったものの「ずっと同じ名前のさゆにゃんと会いたかったです‼」と切り出すとそのまま無事に乗りきった。

(練習しておいて良かった!)

それが何よりの本音だ。


壮人はその次の高山/伊藤かりんレーンで挽回し2名としっかり話すことに成功する。

2人とも話せたが特に高山はブログにコメントをしておくとしっかり読んで覚えていてくれるのが幸いした。

一方のさゆりは松村/鈴木レーンなのだがこちらはここで事故をしてしまう。

何せ、当日決めただけで来たのだ。あまりに適当に来たのでは分かるわけがない。

更に、よりによって鈴木絢音は極度の人見知りで一見さんとの会話が不得意。はっきり言ってどうしようもない。

ただ、幸いにして同じ名前である事によって後半の松村は何とか無事に乗りきれたのでそこまで大きな事故ではなかった。

これでそれぞれ握手が2組終わった。


ここからが問題の若月/斎藤ちはるレーンだ。

何故に連番をすることになったのか?

そこに隠された意味は?

壮人にはそれはまだ分かっていなかった。

このレーンは先が斎藤ちはる、後が若月祐美だ。

握手会での連番...

握手は1人ずつだが、先に入った者の会話を聞くのはほぼ不可能で後ろから連番で行くと内容確認は出来ないと思った方がいい。

しかも、先に入った者が後に入る者に何も伝えずにそのまま言いたい事をメンバーに伝えると、次に来た者はいきなりメンバーから伝えられる事がありえるという、ハイリスクな事態になりかねない場合すらある。

このケースでは先に入るさゆりが鍵を握る。

「連番なんて嬉しい!」と喜ぶさゆり。

「そうだねぇ」と返しながらもどうしようもない事が起きたらと戸惑う壮人。

このレーンが鍵を握るのだという事を、嫌でも実感し始めていた。


2人で並ぶが、さゆりはあえて何を話すかは伝えていない。

作戦としては先に握手する斎藤ちはるには一般的な会話をするつもりで、本番は後の若月祐美と考えていた。

ただ、どう伝えようか迷いがある。伝え方にパターンがある為だけに難しい。

うまく伝えられればいいのだが、8秒前後でどう伝えるか…

至難の技である。

真剣に考えるあまり、無言になりがち。

これが壮人の不安を余計に煽る。

どうなるのかを考えても仕方ない。

ひとまず、自分の伝えたいことだけを整理する。


遂にその時が来た。

まずはさゆりが入る。最初の斎藤ちはるにはあくまでも普通に接しよう決めていたから、そのまま話す。

そして問題の若月だ。

ちらりと見ればまだ壮人は来ていない。今だ!

「初めまして!後ろから来るまさくんが若月が好きだって言ってて、私も来ちゃいました!」

そう切り出すと若月は「おぉ!嬉しい!後ろはどんな人?」

狙ったかのような質問が来た。

そこで思わず「私の気になる人です‼」と答えていた。

「おぉ!じゃあ、次は進展して恋人で来てね」

若月にそう言われ、終わった。

壮人は今、斎藤ちはるだ。聞こえていないだろう。ラッキー!全部言えた。

さゆりは満足感に包まれていた。


一方の壮人は後からなのでドキドキだ。

斎藤ちはるの握手はアメフトの話で盛り上がれた。ここは何もなかった...

次が問題の若月。

切り出しで「初めて来たけど、推しです‼」というと喜んでくれた。

まるで子供のようなリアクション。それを見てテンションが上がる。

しかし、ここで衝撃の一言が飛び出す。

「前の子と一緒って聞いてるよ。次も一緒に来てね~」

それはさゆりが何を言ったかは別にして、若月に連番で何かを伝えたことを意味する。

何を言ったんだ?

気になる。しかし、掘り下げて聞くわけにもいかずにそのまま終わった。

不完全燃焼ではないし事故でもない。

ただ、何かもやもやが残るという妙な幕切れとなった。

でも、不満は無いし充実したものだったので後悔はない。

こうして初めての握手会は気付いたときには2人共に終わっていた。


終わってしまえば、後は帰るだけだ。

8月とはいえ陽も暮れ始めた夕方、2人は駅へ続く道を歩く。

「終わってみて、なかなか楽しかったね」

壮人の感想は第一にこれが出て来た。

「私も楽しかったです!そして、まささんにも出会えましたし」

さゆりの感想...1日が充実していたからこそ出てくるものだ。

そして2人がこうして出会えたこと。

これも奇跡だろうし、運命だろう。


暑かった会場から出て来た2人は汗を流していた。

この汗もきっと将来、夢のかたちの基になるものだろう。


「せっかくだからご飯食べに行こうよ」

壮人はいつの間にかもっと居たいという気持ちに変わっていた。

「いいですよ。1人で行こうか迷っていたんです。」

「どこがいいかな?」

「たまには名駅のお洒落なお店がいいかも!」

2人の会話は止めどなく続く。


夏の太陽に誘われ、青空のもとに飛び出した日。

その空の下は自由に過ごせる場所だった。


熱き情熱に誘われ、今までの殻を破って外に飛び出した。

そこは眩しい程に晴れ渡り輝く未来がある。

未来に向けて何かを始めるなら今がチャンスだろうし、いいきっかけになるはずだ。

真夏の暑い季節に熱くなった2人…さあ、扉を開けよう。

きっと、秋風が吹く頃でも続くであろうチャンスを掴むために…

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