3日常
「遅いですよ」
部屋を出るなり、鏡花は俺に詰め寄って、頬を膨らます。あまりに近くにある顔に、俺は目をそらす。
そんなに時間はかかってないはずなのだが。しかし、そう言う間もなく鏡花はまくし立てた。
「だいたいかおるはいつも遅いんですよ。出かけるときの待ち合わせしてもそう。私はね、いつも10分前には到着してるていうのに、あなたはギリギリ。レディを待たせるのは、男として情けないとは思いませんか?」
至極真っ当な意見に、返す言葉もない。
「悪かったよ。次から気をつけるから」
「前と同じこと言ってます」
あからさまに肩を落とし「これだからかおるは」なんて鏡花は愚痴る。
「今日が期日の数学の課題持ってきましたか?」
「持ってきた」
「ハンカチとティッシュ」
「あるよ」
「それから……」
「あのな、俺だって子供じゃ無いんだよ。課題はやるし、ハンカチもティッシュも忘れない」
「私からしたら、いつまで経ってもかおるはまだまだ子供なんですよ」
あんたは俺のおかんかよ、とそんな突っ込みを入れたくもなる。毎日毎日こんなことを聞いていればウンザリする日もあるのだが、今日は彼女のお節介もどこかありがたい。鬼を目の当たりにしたばかりだからだろうか。当たり前の日常から少しでも離れると、その温かみを嫌でも感じることになる。
俺たちは並んで歩き出す。コツコツと革靴が床を鳴らす。
「なあ、もう一人暮らしには慣れたか?」
エレベーターを待ち俺は鏡花に尋ねた。一ヶ月前に鬼に父親を殺された鏡花は、俺と同じように一人で暮らすことを選んだ。どうしてなのか、はっきり言ってよく分からない。彼女を引き取ってくれる人間ならきっといるだろうし、何より霧島さんの言うことを素直に聞くとも思えないのだけど。
「もう、しばらく経ちましたからね」
「俺さ、一人暮らししたばっかりのときさ、洗濯機のまわし方とか料理とか分からなくて大変だったんだよ。たまに霧島さんが様子を見に来てくれるから、なんとかなってるけど」
「お父さんといるときから、家事は私の仕事でしたから。むしろ量が減って楽なぐらいですよ」
「そうなの?」
「お父さん大変そうでしたから。ここ最近、現れる鬼はみんな凶暴で、明け方近くまで帰ってこない日も多くて。いつもくたくたな人にそんなこと押し付けられるほど、私も無神経じゃありませんよ」
悪いことを聞いてしまったかもしれない。なんと返していいのか悩んでいると、鏡花はまぁ、でも、と笑った。
「ここで暮らすのも悪くはないですよ。学生の身分でかなりいい部屋に泊まれるし、クーラーは壊れてないし、一人で静かに勉強できる。気楽です。それに何より、隣の部屋にはかおるがいますしね」
「それって、いつでも荷物持ちを用意できるってこと?」
「よくわかりましたね」
アハハ、と渇いた笑いが漏れる。
いつか賃金でも要求しようかと真面目に考えながら、俺たちはやってきたエレベーターに乗り込みボタンを押した。鏡花は身を屈めて備え付けられている鏡で前髪を整える。そんなに気にしなくても十分可愛いのに。
鏡越しに彼女の傷ついた手が、また目に入った。
「大丈夫か。それ」
「ん? ああ、これですか」
彼女は包帯に巻かれた手を握ったり開いたりしてみせる。
「ちょっと大袈裟に見えるだけですよ。傷も深くないですし、それほど痛みも感じません。ペンをうまく握れるかどうか怪しいけど、そのうちに治りますよ」
「それならいいんだけど」
「問題はこの傷をどう言い訳するかですよね」
確かにそうだ。まさか刃を手で握ったなんて言えないし、言ったところで誰も信じない。
「まあ、適当に考えておきますよ」
エレベーターが止まる。俺たちは広いエントランスを抜け、自動ドアをくぐり外に出る。鏡花は太陽に向かってグーッと身体を伸ばした。ヒマワリみたいだ。
二十分ほど歩いて俺たちの通う中津高校に付く。
グラウンドからは朝練をする野球部の声が聞こえる。朝の弱い俺からしたら、まったく逞しいものだと感心せざるをえない。
全校生徒は一学年三百人程度の1,000人弱。
学力は、下の上。有り体に入ってしまえば、頭の悪い部類に入る。水泳部だけが有名で、それ以外に特に誇れるようなことは何もない。更に言ってしまえば、風紀も決して良いとは言えない。目立った暴力はないが、影ではイジメもちらほら目にする。なんでそんな高校に入学する羽目になったかと言えば、それはまあ俺が入れる高校はそこぐらいしかなかったということだ。悲しいことに。
授業中、俺はそれでも真面目に勉強する。一番後ろの席だから授業の時は眼鏡をかけて、カリカリと、ほとんど惰性で黒板を写す。カリカリ、カリカリ……
中には机の影で漫画を読む者や、堂々と寝る者もいる。俺はそんなことはしない。そうする度胸がない。
不意に聞こえる小さな寝息に、俺は手を止め顔を上げた。前の席では鏡花が突っ伏して眠っている。クーラーの風に吹かれて気持ちよさそうだ。
教師が俺たちの横を通る。眠る彼女に目を止めた教師は、少し迷ってから何も言わずに通り過ぎた。
そりゃあ、そうだよなと俺は内心呟く。
鏡花はテストの度にほぼ満点近い点を取る。もちろん学年トップの成績だ。提出物の期限は守る、無遅刻、無欠席。これほど優秀な生徒も他にいないだろう。ときどき授業中に居眠りをすることを除いて、ということだが。
俺は鏡花を起こそうと、ボールペンで背中を突きかけ、けれど途中で手を止める。
昨夜の出来事が頭をよぎる。日常から遠くかけ離れたことをしていたのだ。誰が彼女を咎められるというのだろう。
昼休みになり、俺と鏡花は連れ立って教室を出る。
最上階、将棋部に使われている備品置き場で俺たちは昼食を取る。友人から教えてもらった穴場だ。誰も来ないし、うるさくもない。大きく開かれた窓からは遠慮なく太陽の光が入ってくる。
俺はコンビニ弁当を食べ、鏡花は購買で買ったパンをもふもふと齧った。彼女はいつも昼をパン一つでやり過ごす。
「家事が出来るとか言ってる割に、弁当は作らないのな?」と俺は聞く。
「一人分だけ作るっていうのも、量の割になかなか手間なんですよ」
「じゃあ俺の分も作って来てって言ったら作る?」
「かおる。それマジで言ってますか?」
「んー。そこそこマジ」
鏡花はパンを食べ終えると、ゴミを捨て、机に突っ伏す。
そして、予鈴が鳴ったら起こしてください、と告げる。いつものことだ。
あまりに平和な時間にあくびが漏れる。
「授業中寝てたな」と俺は言った。
「昨日はあまり眠れなかったんです」
「先生に見られてたぞ」
ふふっ、鏡花が笑う。
「かおるは偉いですよ。周りに流されないで真面目に授業受けてて」
「別に真面目なわけじゃ無いよ。俺、頭良くないからさ。鏡花みたいに居眠りしてたら、勉強に付いていけなくなる」
「私は生まれつき頭が良いですからね」と鏡花は冗談めかす。
実際に、鏡花は昔から頭が良かった。だから中学受験のとき誰しもが彼女は進学校に進むのだと考えていた。だから、鏡花が俺と同じ高校を受けると聞いたとき、なんとなく察してしまったのだ。それはおそらく、霧島さんか鏡花の親父さんの意向だったのだろう。
代々結城家は、カゲウチのトップである黒羽家に力を貸すことが求められてきた。黒羽家が受け継ぐ異能は使用者の寿命を簡単に削りとってしまうから、結城の人間が守る必要があるのだ。それに鏡花は誰の目にも頼もしく映る。俺が変に暴走しないためにも、彼女をなるべく近くに置いておきたかったのだろう。
一人の女の子の人生をそんな風に決めてしまうなんて、馬鹿な話だ。けれど、それと同時に仕方の無いことだとも思う。俺たちの他に、鬼を止められるものはいないのだ。
俺は椅子から立って、窓を開ける。縁に腰掛け、中庭を見下ろす。
ある生徒はベンチで談笑し、ある生徒は空き缶を的にボールを投げている。彼らの笑顔に、強い妬みを覚えることがある。彼らは、化け物のことを考える必要も無いし、自分の寿命が理不尽に減っていくのを感じることも無い。もしも、例えば一つ隣の家に生まれてたら、今の俺の人生はどうなっていたのだろう。もう少し、明るいものになっていたのでは無いのだろうか。
でも、そんな仮定は考えるだけ無駄で、どう抵抗するべきなのかわからない現実に、俺はいつも辟易とする。