1試験
もし異世界に生まれたらよかったのに。
俺は、そんな風に思う。勇者がいて、美少女の魔法使いがいて、猫耳だか狐耳だかの獣人がいて金髪の美しいお姫様がいる。夜には酒屋で冒険者たちが報酬を分け合い、火山のドラゴンを倒すため王国軍が行進を始め、運の良い勇者はベッドで可愛い女の子たちとイチャイチャする。
悪くない世界だ。勇者も魔法も化け物もその存在を認められる。
そんな世界なら、俺はどんな身分でも受け入れただろう。例えば、なんの力もない村人Aだったとしても。
でもそうじゃない。俺の暮らすのは現代社会の日本であり、そして現実の世界だ。
俺こと、黒羽かおるは勇者ではない。魔法使いでも冒険者でもない。通学中はスマホで暇を潰し、授業中は居眠りをして、放課後は友達と雑談する。勉強を始めるのはテスト前。そんなこんなで毎度赤点ギリギリで試験をパスする。表面上、俺はいわゆる模範的な高校生の一人だ。探さなくても俺に似たような奴はたくさんいる。それ別に不幸だと感じることはない。もちろん、誰からも認められる才能があれば良かったけれど、ないものをねだったところでしょうがない。俺は俺なりに幸なのだ。
それでも、不幸があるとするなら、それは現代社会に生きながら、俺は異能者として生まれ、血みどろの運命を背負ってしまったことだろうか。
場所は六文神社、その裏手にある開けた一角。夏だというのに虫の声一つ聞こえない。あたりは黒々とした木々が覆い、まさに現代社会から隔離された裏の世界といった風情だ。
「相変わらず醜いものですね」
結城鏡花は美しい顔をわずかに歪めて、目の前に佇む化け物を見やる。
黒い肌、剥き出しになった牙、月を映す鋭い爪、悪魔のように曲がった角。そして3メートルはあるだろう筋肉質の巨体。悪魔にも似たそんな化け物が殺意を剥き出しに立ちはだかっている。
それは俺たちが『鬼』と呼び忌み嫌うものだ。
「そういうものですからね。鬼というのは」と神職衣装に身を包んだ痩身の男が言う。
男の俺でもドキリとする端整な容姿。知的な瞳と、聡明さが伺える落ち着いた声。
「久しぶりだね。霧島さん」と俺は言った。
この化け物を連れて来た張本人であり、彼もまた俺と同じ異能者の一人だ。
「久しぶりですね。かおるくんに、鏡花さん。ええっと、一ヶ月ぶりでしょうか?」
「父の葬儀以来ですから、まあそんなもんですね」
鏡花はぶっきらぼうに言って、彼から一本の太刀を受け取る。そして、迷わず鬼の前に立ち、鋭い目で睨みつけた。鬼は急に向けられた敵意に低い声で唸り対抗する
「鏡花さんは話が早くて助かりますよ」
「父から言い聞かされていたことですからね」
「説明は不要みたいですね」
「刀一本でこの鬼と殺し合えばいい。勝てば私は父の役目を継ぐことになる。負けたら死ぬ。一度聞いたら忘れられないほどにシンプルですから」
まったくバカバカしい話だ、と心の中で毒づく。なにが鬼だ。なにが殺し合いだ。今は21世紀、科学社会なんだぞ。自動車がコンクリートジャングルを縫うように走り、飛行機が空を飛び、さらにその上では宇宙開発が始まろうとしている。
これじゃあまるで不出来なファンタジーじゃないか。思わず笑いそうにすらなる。
でも、誰も笑わない。化け物を連れてきた霧島さんも、試験という名目で今から化け物と殺し合いをする鏡花も。彼らは真剣なのだ。真剣にこのシステムを信奉している。
「 本当は鏡花さんでもさすがに怖気付くものだと思っていたんですが。ちょっと意外ですね」
「まさか」と彼女は答える。「私の父が越えた場所でしょう? なら私にできないわけありませんから」
「藍より青し、ですか」と霧島さんは呟いた。
鏡花はゆっくりと太刀を抜く。
その瞬間に夜の闇は一層深くなった気がした。刀身の不吉な輝きに俺は息を飲んだ。
「なあ、どうしてもやらないとダメなのか?」と俺は霧島さんに聞く。
「決まりですからね」
彼は呑気に答える。
決まり。まったく便利な言葉だ。
鏡花は感覚を確かめるように夜闇に刃を何度か振り下ろす。その度に、ハーフアップに結った長い髪が揺れる。品の良いロングスカートがはためく。美しい横顔は今から殺し合いを始めるようには到底思えない。
「心配しないでください。かおる」
「別に心配なんかしてない」と俺は言う。
嘘だ。心配しないはずがない。鏡花は俺の幼馴染で、俺にとって大事な友人だ。その友人が今、化け物と命を懸けて戦おうとしているのだ。平然としている方が無理に決まっている。
「私は大丈夫ですから」
鏡花は微笑み、俺は思わずそっぽを向く。
「霧島、さっさと始めてしまいましょう。私たち明日も学校なんですから。寝坊するのは嫌ですよ」
「鏡花さんは相変わらずですね」
やれやれと首を振った霧島さんは、鬼の背後に回り手を添える。その瞬間、鬼は解き放たれたように咆哮を上げた。唐突に吹き荒れた風があたりの木々をごうごうと揺らす。
「かおるくんは下がっててくださいね。躾はしてありますけど、万が一ということもありますから」
「あぁ」
鏡花が剣先を鬼へと向けた。怨嗟の声にも似た鬼の咆哮は続く。
「鏡花さんはこの鬼を殺してください。制限時間は一刻。手段は問いません。鬼を殺すことさえできれば、我々は鏡花さんを結城の当主として認め、またカゲウチの一員として歓迎しましょう」
霧島さんは続ける。
「それから念のために確認しますが、鏡花さんに何があっても私たちが手出しすることはできません。私たちがその鬼を処分することになるのは、鏡花さんが死んだ場合のみです」
鏡花は何も言わない。彼女は全てを受け入れている。いや、違うか。受け入れる他に、選択肢などないのだ。彼女は結城の家に生まれた時からそう宿命づけられていた。
霧島さんは俺の方にやってきて一本の短刀を預けた。見た目の割にずしりと重い。
「何これ」
「どうして私が鏡花さんだけでなく、かおるくんもここに呼んだかわかりますか?」
「俺は黒羽の当主で、それでカゲウチのトップでもあって、だから結城の当主継承の試験には同席する義務がある、でよかったよな」
「まあ、それもあるんですがね。鏡花さんが負けてしまったら、鬼は我々の手で処分しなければなりません。あの状態になってしまったら、もう私でも抑えられませんからね」
「もしものときの後始末役?」
「そういうことになりますね」
俺は鬼と対峙する鏡花を見る。
「彼女は私たちと違って結局はただの人間ですから」
「鏡花なら大丈夫だよ」
ほとんど自分に言い聞かせるように呟く。
「随分と信頼してるんですね」
「そんなんじゃねぇよ。ただ、あいつが何かに負けるところが想像できないだけで」
霧島さんは含み笑いを浮かべる。俺は目を逸らした。
霧島さんは時計を確認すると鏡花に近づき声をあげる。
「今より結城家当主継承の試験を開始する」
霧島さんが手で印を組むと空間が歪み、そこからガラスの破片のような光の塊が降り注ぐ。やがてそれらは形を変え繋がり合い鏡花と鬼を囲う障壁になる。あらゆるものの干渉を許さない強固な結界だ。
霧島家が受け継ぐ不干渉の力。
これでもう、俺が鏡花の手助けをすることも、鏡花が逃げることもできない。
「始め!」
合図と同時に動いたのは鏡花だった。彼女の振るった太刀は鬼の首元を的確に捉えていた。
鈍い音がする。刃が宙に舞い、月の光を反射させる。何があったのか、すぐには理解できなかった。彼女の振るった太刀が鬼の爪に阻まれ、根元から折られたのだと認識したときには、その爪に彼女の身体は引き裂かれようとしていた。