プロローグ : 蛍
あの日の夜も満月だった。
山間の坂を登った先にあるそのトンネルは、今も変わらず、ぽっかりと静かに口を開いている。
隣町に抜けるの唯一の道である為、日中は多くの車がそのトンネルの薄暗闇の中に消え、出てくるのだが、草木も眠る時間である為か、交通は皆無だった。
何処からか列車が走り抜けていく乾いた音が聞こえてくる。1時間に1本しか列車が走る事のない片田舎の鉄道は、日付を跨ぐ前に終電を迎える。回送列車だろうか?
トンネルの脇には舗装されていない砂利道が月明かりでぼんやりと浮かび上がり、その先にある森の木々達が生温い風に吹かれ、ザワザワと鳴いている。
あの夜もそうだった。
記憶が無意識の内にじわじわと脳内に滲み出してきているのが分かる。
あの日、肝試しに行こうと言い出したのは誰だっただろうか?トンネルの上の白い家に行こうと言い出したのは誰だっただろうか?
僕は、地面が剥き出しになっている砂利道に歩みを進める。
8月初旬という事もあり、道端に生える雑草は伸び放題となり、青々とした独特の香りが鼻腔を刺激する。この道を歩いていると体がどんどんと若返り、縮み、8年前に戻った感覚に陥るのだ。
白百合涼子が死んだ日。
白百合涼子が消えた日。
彼女はその日、殺害され肉体を消した。
手品師が、一瞬で手の中からコインを消す様に。
その行方は、神すら知り得ないと思える様に。
歩みを進めるにつれ、足元に伝わるゴツゴツとした石を踏みつける感覚から、芝生の上を歩く様な柔らかなものになる。虫の声が一層強くなるのが分かる。
月明かりを頼りに辿るのもいよいよ限界か、持参した懐中電灯のスイッチを押した。
阻む様にのさばっていた目の前の漆黒は一瞬で消え去り、緑を敷いた1本の道と、左右に自分の背丈ほどもある草の壁が現れる。
当時はその酷く大きな雑草達が、誰から食べてしまおうかと品定めをしている怪物の様に思えたが、今となっては、弱々しく僕を見つめる下等な悪魔に見えてくる。
あの時は、6人でこの道を通ったね。
記憶が、語りかけてきた。
同級生の綾部君と石原と夏海ちゃん、1つ年上の海原君と、僕。
そして、白百合。
誰もが抱く、子供ならではの好奇心と冒険心。
自分は宛らゲームの主人公にでもなった様な探究心と使命感に突き動かされ、僕達は迷いなく歩みを進めたのだ。
最悪のエンディングが待ち受ける。
当時の、幼すぎた僕達にそんな結末を想像させるのは不可能だった。
歩くたびに茹だるような熱気が身体中に纏わりつき、大粒の汗が頬を通り、地に落ち、染み込んでいく。
彼女がいなくなってから、この道を歩くのは今回が8度目だ。僕は毎年、地元の小さな花火大会が開催されるこの日に、あの家へ足を運ぶ。
白百合が一足早く、帰ってきているんではないかと。
当時の、白いワンピース姿に、美しく伸びた黒髪に百合の花の髪飾りを付け、眠る様にしてあの場所に横たわっているのではないかと。
突然、手に持った懐中電灯がチカチカと点滅を始め、消えた。故障したのか電池が切れたのかは分からない。
重苦しい暗闇が戻ってくる。
予備は持参しておらず、夏の夜特有の粘っこい熱気に体力を奪われた僕に、もはや新しい懐中電灯を取りに帰ろうという考えは浮かんでこなかった。
困り果てていると、目の前に至極小さな、蛍光緑の光が浮かび上がり、ふらふらと宙を彷徨った。
蛍だ。
そっと右手を胸の位置まで上げ、人差し指を伸ばすと、蛍は指先に留まり、呼吸をする様に尾の発光器を点滅させる。
夢の中にいるのではと思わせるほど、とても優しく儚い光だった。
「もうすぐだよ。」
耳元で微かに聞こえた、幼さを含んだ囁きは、白百合の声だった。
やがて僕の指先で羽を休めていた蛍が飛び立ち、再び僕の目の前を彷徨った後、森の中の、夜の闇へと消えてゆく。
懐中電灯に再び明かりが灯った。
白百合が呼んでいる。
止まっていた足が自然に前へ、前へと進みだした。
彼女が残した最後の言葉、正確には言葉ではないのだけれど。
その言葉を、文字を、頭の中で反芻した。
「8年後に会おうね。」