ハチドリに恋して~ルコント・ド・リール~
私はハチドリに恋をしています。いや、恋・・・じゃないですね。なんていうんだろ。変?変かもしれません。
実際に会ったこともないのに、ずっと恋焦がれているなんて、健気だなぁと自分のことを思うのですが、私とハチドリとの出会いは、イメージでしかないのです。
私がハチドリをそれと意識したのは、院生時代のことでした。
論文の題材として候補になったのが(ルコント・ド・リール詩の)コリブリだったのです。ハチドリのことをフランス語でコリブリと言います。ただ詩ですから、ハチドリとは訳されずに「蜂雀」と訳されるのが普通です。
出だしはこうです。
Le vert colibri, le roi des collines,
ル ヴェル コリブリ、ル ロワ デ コリーヌ
緑色の蜂雀、丘の王よ
と、歌い出します。
私はこの出だしを読んだときに、私なりの「丘の王」を想像しました。どれだけ気高く、どれだけ美しいのだろうと。ハチドリが鳥だということは知っていましたが、見た事はなかったので、想像の中だけでハチドリが形作られていきました。丘の王は偉大で、きっと大きくて美しいのだろうと勝手に想像したのでした。
ところが、ハチドリというくらいで、蜂のようなその鳥は、鳥の中でも一番小さなものだということが分かりました。小さくても、丘の王ということは、ダイヤモンドのように煌めくものだと思うと、さらにハチドリが愛おしくなりました。
多くの芸術詩は、愛や恋について描かれています。コリブリもその例に漏れていません。ルコント・ド・リールのコリブリの始めは、蜂雀の美しさ気高さをほめたたえ、また南の国のむせ返るような色とりどりの花や植物を語るのですが、最後にそれを恋人同士の口づけになぞらえるのです。詩ですから、抒情的に美しく語られ、そうと思わなければ分からない表現ではありますが、まあ、だいたい詩というのはそういうもの、なのですね。
だけど、当時の私は(実は今もですが)恋愛に疎く、その最後の部分をバッサリ切り捨てて、論文を仕上げました。
教授陣から大ブーイングを受けました。
せっかく、そこまでうまくまとまっていたのに、どーしたの、と。
でもですね、分からないものは分からないし、書けないものは書けないのです。それより私は、その前の節の、
Qu’il meurt, ne sachant s’il l’a pu talir !
キル ムール、ヌ サション シ ラ ピュ タリール
死んでしまえばいい、飲みつくしてしまう前に
の部分が衝撃で、もう、そこについて語ることが論文の意味でもあったのです。バカなことしたな、と分かっています。教授にも「まだ青いな」と言われました。
だけど、今なら分かります。今もまだ、青いんです。これが私なのでしょう。二十歳越えてそれだったら、何年経っても青いままだって!
ということで、論文は違う題材になってしまいました。それは置いといて、ハチドリの話に戻ります。
それから、私は随分とハチドリについて調べました。生物的学的なことを読んでも、さっぱり分かりませんが、やっぱりこの鳥はこの詩の中で語られていることが、私にはしっくりくるのです。
だって、丘の王様ですよ!?
ただ、フランス語の詩をそのまま読んだ方が言葉のイメージは残ります。どうしたって、日本語にすると野暮ったくなりますから。
私は最初に読んだ時に「緑色の蜂雀、丘の王よ」と(脳内自動翻)訳しました。ところが、日本語訳になっているものを見ると、たいてい「緑色をしたハチドリは、丘の王様」と書いてあるのです。・・・イメージ違う―!
で、発音と意味と私のイメージするところを熱く語りだすと論文になってしまうのですが、ここはエッセイなので、それは避けまして。
初めて蜂雀に出会ってから、もう長い年月が経っているのに、私の頭の中ではそのイメージは変わることなく、いつも鮮やかなのです。若い葉が茂る丘に、赤く映える大輪の花を愛おしむ蜂雀。掴まえようと手を伸ばしたときには、もういなくなっている、儚さにも似た冷たい機敏さ。どういうわけか、私は恋焦がれていて、今もずっと蜂雀を思うと切なさを覚えるのです。
恋愛を語れないのに、会ったこともない鳥に恋するとは、変以外の何ものでもありません。あ、もしかして、そういうことを書けばよかったのか?
ただ思うのは、見た目で人を好きになる、以外のこともあるのでしょう、きっと。
とにもかくにも、ルコント・ド・リールの詩が読める方は、ぜひ原語でお読みいただきたい。原語で読めない方は、エルネスト・ショーソン作曲のコリブリをお聞きください。5拍子の美しいメロディにきっと、私の感じた切なさを分かって頂けると思います。
原語でcolibriを全文入れようかと思ったのですが、無駄なのでやめました。
読もうと思って探せなかった方はメッセージくだされば、お送りします。