第八十五話「歯車が動く」
入り口の反対側の壁一面に嵌め込まれたガラス窓の向こうから高層ビルの乱立する摩天楼の光景が窺える薄暗い部屋の中で、一人の男がそのガラス窓をバックにして高級な回転椅子に深く腰掛けていた。背中にある摩天楼は夜闇の帳の中に身を預けており、その表面から豆粒のような光を、窓越しに何百も灯していた。
「ふうむ」
そんな幻想的な夜景には目もくれず、男は溜息交じりに言葉を漏らす。そして耳に嵌めていたイヤホンをおもむろに取り外し、そのイヤホンが繋がっていた機械――目の前の木製デスクの上に置かれていた箱のような機械――についていたボタンの一つを軽く押し込んだ。
「やれやれ、全部ばれてしまったか」
そう面白くも無さそうに呟く男の頭の中ではこの後自分が取れる行動の全てがリストアップされ、その内どれがベストな選択であるか取捨選択が始まっていた。
穏便に済ませるか? 金に物を言わせるか? それとも力でもみ消してしまうか?
「……」
選択は数秒で終わった。即断即決もまたリーダーにとって必要なスキルである。
「……」
男は無言のまま件の機械を脇にどかし、そしてデスクの上にめり込むように置かれていたコードレスタイプの受話器を手に取った。そして裏面に規則的に配置されていたボタン群を慣れた手つきで押していき、終わってから普通に電話をするように受話器を顔の横に近づけて口を開く。
「私だ。ジーン・ウィートフラワーだ。忘れた訳ではあるまい」
男の名前を聞いた瞬間、受話器の向こうにいた相手は酷く狼狽した声を出した。まるで血に飢えた殺人鬼が目の前に立っているかのような怯えようであったが、実際ジーンの話し相手は彼に首根っこを掴まれているに等しい立場にあった。
「お前をその地位に座らせるのに、こちらも随分と心を砕いたものだ。その私の投資分、今お前に埋め合わせをして欲しいと思っているのだが。問題は無いか?」
ジーンが冷たい声で言い放つ。元より話し相手に拒否権は無く、彼はただか細い声で肯定の意思を伝えるだけだった。
「よろしい」
嬉しさを欠片も見せない声でジーンが言い放ち、淡々とした声で続ける。
「私がお前にお願いしたい事は、地球に鎮圧部隊を差し向けるよう手配してもらいたいと言う事だ。なに、難しく考える必要は無い。敵やその罪状、大義名分といった物全てはこちらで用意してある。お前はただ、それを私に代わって政治家連中に伝えればいいのだ」
言い終えると同時に懐から掌に収まるサイズの携帯端末を取り出し、液晶画面を直接タッチして操作していく。そして操作を終えると同時に意識を受話器に向け、相変わらず感情のこもらない静かだが高圧的な声で言った。
「情報は全てそちらに送った。後はお前次第だが、別に苦戦することでも無いだろう。今のお前の地位ならば、議会に働きかける事は容易いだろうからな」
俺がお前をその地位に入れてやったことを忘れるな。そう無言で言い聞かせながらジーンが続けた。
「それとお前に限ってあり得ない事だろうとは思うが、私の期待に添わないような行動は取らんでくれよ。私はいつもお前を見ている。忘れないことだ」
釘を刺すことも忘れない。話し相手はなけなしの良心とプレッシャーの板挟みを食らって、満足に呼吸も出来ていないだろう。ジーンはそう考えていたが、憂慮する気は無かった。
「言いたいことは以上だ。わかったな? ならば迅速に動け。時間は無駄には出来んぞ」
一片の慈悲も感情も交えず、淡々と物事を処理していく。
地球も火星も人間も家族も、この男にとって全ての事柄はビジネスの対象でしか無かった。
暴れ狂うリリーはオートミールの要請で隊員が持ってきたロープで体を簀巻きにする事で解決した。この時隊員がロープを持ってきたのはそれまで外で聞き耳を立てていた男がそこから立ち去った後であり、二人がかちあう事は無かった。
「くそ、これじゃどっちが悪者だかわかりゃしねえよ」
「だったら大人しくしてろ。お前が暴れるからいけないんだ」
簀巻きにされて体の自由が奪われたからか落ち着きを取り戻したリリーが毒づくが、アロワナに言い換えされて結局押し黙る。
「……さて、話の続きといこうか」
そして視線をマクラーレン姉妹の父親に向けてアロワナが言葉をかける。それと同時に全員の視線が父親に向けられる。父親は何か観念したように溜息を吐き、そして再び口を開いた。
「私とジーンとの関係は十年くらい続いた。しかし関係を続けて十一年くらい経った所で、私の交渉相手が代わった」
「誰に?」
「ジェイクね」
カリンが震える声で言った。その言葉を聞いた父親が一瞬驚いた顔を浮かべてカリンの方を向き、そしてそんな顔のままカリンに言った。
「知ってるのか?」
「ええ」
「なぜ?」
「私の弟だから」
父親が、そしてその場の全員が息をのむ。ライチは無意識のうちに、カリンを庇うように彼女の前に立つ。
「彼女は関係ない」
「わかってる。落ち着け」
声を荒げるライチをなだめるようにジンジャーが声を掛ける。そしてその場の全員が意識してカリンから目線を外して父親へそれを向け直した所で、再度父親が口を開いた。
「そうだ。私の新しい交渉相手は、そのジェイクという男に代わった。本人は一人前になるためのテストとして父からこの交渉を任されたと言っていた。あの男にとっては、私も他の連中と同じくただの『使える駒』であったと言う事だ」
「今更同情を誘おうってつもりか?」
「そうではない」
リリーの厳しい言葉に父親が頭を振って答える。
「実のところ、私は他の連中とは違うと思っていた。組織の黒幕となって、この世界を上から見下ろせる存在になれていたと思っていた。だが、違った」
「裏切られたと思った?」
「絶望したのかい」
「疲れたんだよ」
イナとオルカの質問に対し、父親が投げやりに返す。
「疲れたと思ったのはもうずっと前の事だ。自分も駒でしかないと、ある時ふっとこう、『悟った』のだ。その後、もう全てにやる気が起きなくなった。今までの自分が費やした時間はなんだったのかと思う事も無かった。ただ疲れたんだ。だから」
「だから?」
リリーが座り込んだまま問い詰める。父親がそれに答える。
「連中とは縁を切った」
「……なんだって?」
「ついでに青空の会も解散することにした」
「いやだから待て!」
アロワナが声を荒げる。
「さっきから一人で話を進めるな! それでさっきの話は全部本当の事なのか!」
「そうだ。火星の奴らとは縁を切り、青空の会のメンバーには解散するよう伝えた。何か問題があるのか?」
「大ありだ!」
アロワナの語勢は止まらない。なおも怒りの感情を見せたままだった。それがライチとカリン、そしてジンジャーやモブリスらに恐怖を覚えさせた。しかしイナやオルカやパインと言った『勘の鋭い』者達は、アロワナと同じく怒りを滲ませた苦い顔を浮かべて父親を睨みつけていた。
「なに? なにがまずいの?」
カリンが声を殺してライチに尋ねる。それを聞きつけたベラが静かに二人に近づき、同じくひそひそ声でそれに答える。
「彼は、青空の会を撲滅した訳でも、火星人の地球での活動を抑えつけた訳でも無い。ただその全てに関する責任を放棄しただけ」
「どう言う事?」
「そうですね……例えて言うなら、それまで飼育していたどう猛な肉食獣の管理を放棄し、その上で飼育場の柵を開けてそれらを野に放った、と言うべきでしょうか」
ベラの言葉にライチとカリンが揃って頭の上に『?』を浮かべて首を傾げた瞬間、その部屋のドアを蹴破る程の勢いで一人のソウアー隊員が室内に飛び込んできた。
「司令! 隊長!」
隊員の男がそう叫ぶよりも速く、オートミールとベラが同時にその男へ視線を向ける。そしてベラが目を細め、刃物のように鋭い声で隊員に言った。
「ここは関係者以外立ち入り禁止の筈ですが。どうかしたのですか?」
「しッ、失礼しました! しかし、緊急の事態がは、発生したのでしてッ、我々だけでは対処出来ずッ……」
「わかった。怒らんからまずは落ち着け」
オートミールがなだめるような声で男に話しかける。そしてそれを聞いて深呼吸を繰り返し、やり過ぎて激しく咳き込んでから男が言った。
「ちッ、鎮圧部隊ですッ」
「鎮圧部隊?」
「火星政府直属の鎮圧ジャケット部隊がッ、今こちらに向かってきているとの事ですッ!」
火星にはジャケットがどれくらいあるんだ?
二十五万。
うんごめん。聞かなきゃ良かった。
ライチはこの時、思い出さなくても良い過去の言葉――自分が吐いた言葉を、おぼろげながら思い出していた。




