第八話「音声認識システムっていざ使ってみると恥ずかしい」
クソッ、クソッ、クソッ!
灯り一つついていない執務室の中で、支部長は一人毒づきながら床を蹴りあげた。
実はあの人間達をこの中に放り込んでから、アンドロイドが反乱を起こす事も、その反乱の中に人間が混じっているだろう事も、支部長は既に予測していたのであった。寧ろ、あの人間達――均衡を崩す異分子が入った事によってアンドロイド共の心が揺れ動き、我慢の限界を越えて反乱を企てるという流れが来るのを期待してさえいた。
支部長にとっては、それが一番『理想的な』シナリオであったからだ。黙らせる数が増えるだけであって反乱を鎮圧させる事そのものは難易度が上がる訳ではないし、上手く行けば雇い主の意向に沿う事だって出来た。
だが支部長の描いた脚本の中にジャケットは入っていなかった。
敵は最強の白兵兵器を駆って現れたのだ。もう滅茶苦茶である。
「なぜだ、この近くに、あれが隠されていたとでも言うのか!?」
濁声で叫び、地団駄を踏む。丸太のような短足が高級な絨毯を何度も踏みつけ、膨れ上がった腹を大きく上下に揺らす。
これまで、そしてこの時も、アンドロイド達が住んでいた小屋の中を調べようと言う発想は彼らの頭の中には欠片も浮かんで来なかった。例えあれらの小屋が『最初からあそこにあった』物だったとしても、だ。
そんな骨の折れるような事、誰が好き好んでするものか。
彼らは個人の人格だけでなく、組織としても『終わって』いたのだ。
「……そうだ」
と、そこで支部長が顔を上げて呟く。そこには晴れやかな、そして悪知恵に満ちた歪んだ笑みが広がっていた。
「まだだ。まだあれがあった」
自分達の住まう屋敷の地下に置かれてあった『それ』を思い出し、会心の笑みを浮かべながら支部長がひとりごちる。
頭の中で脚本が急速に書き換えられていく。そしてすぐさま自分専用のデスクに駆け寄り、無線を開いてそこに出てきた男に向けて一息にまくしたてる。
「おい! あれを用意しておけ! すぐにだ!」
そして言うだけ言って、無線受取人の返事を聞かないまま無線のスイッチを切る。その後顎に手を押し当てて、動こうともしないでその場でそれの到着を今か今かと待ち構える。
「くく……もうすぐだ。もうすぐでこんな所とは……」
足元から何かがせり上がってくるような音が響く。その音の高なりを感じながら、支部長は一人ほくそ笑んだ。
支部長が新しく書きなおしたシナリオの中に、自分以外の生存者は一人もいなかった。
ライチ達別働隊がその二人と出会ったのは、暴れ始めたジンジャーを迎え撃たんと動いた敵集団を背後から攻撃していたその時であった。自分達が寝泊まりしていた小屋――そして例の地下通路に繋がっていた小屋――の中から、執事と軍服姿の男がひょっこり顔を出してきたのだ。
この時攻撃に参加していたのは、レモンを含む地下にいた全員と、その行動に同調して他の小屋の中から飛び出してきた勇敢な名も知らぬアンドロイド達であった。まあ、実際に出てきたのは四、五体程度で、他のアンドロイド達は小屋の中で沈黙を守っていたのだが。
しかし、アンドロイド達がいきなり四方八方から飛び出して攻撃を加えてきたので、当然敵の反撃も広範囲に広がっていく。銃弾とロケット弾が乱れるように飛び交い、怒号と爆発が花火のように吹き上がる。今やフェンスに囲まれたその領域全体が、小さな戦場と化していた。
火線が分散する分戦いやすくはなるのだが、同時に流れ弾の危険性も増えていく。そして自発的に戦いに赴いた自分達や件のアンドロイドとは違い、彼らは明らかにこの戦いに『巻き込まれた』と見てよかった。
と言うか、銃声と爆発にめげること無く身を低くして辺りを駆け回りながら「若姫さま! 若姫さま!」と叫んでいる時点で、その線で確定だった。
「……あれ、どうする?」
小屋の一つの影に隠れてその様子を見ながら、ライチと行動を共にしていたエムジーが困ったように尋ねる。
「放っておいても良いようにも思えるんだけど……」
「うーん……」
ライチが困惑気味に唸りながらその方を見る。エムジーもそれに続く。
執事と軍服の二人が、自分達のすぐ傍で起きた爆発を前に揃って腰を抜かす。更に追い打ちをかけるかのように周囲で断片的に巻き起こるロケット弾の発射音を前に完全に竦み上がる。それでも両手で頭を守るようにして中腰の姿勢になり、めげること無く『若姫さま』を探し当てようと戦場を駆けまわる。
「……なんだろう、ほっとけないなあ」
その健気というか、決して諦めない一本気な所が、ライチにはとても眩しく見えた。
そしてそれは、エムジーにも動揺に見えたようだった。
「格好いい……」
「うん……」
「おい、助けるのか助けないのか早くしてくれ!」
と、背後から飛んできた怒声によって二人が意識を現実に引き戻す。敵から奪った銃を連射しながら、エドが続けて銃声に負けないように叫んだ。
「どうすんだ!? 助けるのか!?」
「……!」
その催促が、結果としてライチの背中を押すことになった。一度唾を飲み込んでから、顔を引き締めて真っ直ぐに二人を見据える。
「行ってくる。エムジーはここにいて」
「ええ、わかった」
エムジーが素直に頷くのを見た後、ライチは一息に駆け出した。
止まったら死ぬ。そんな事を一心に思いながら、風のようになって道を駆け抜ける。
走り出してから目標地点に到達するまでの間、流れ弾が一発も来なかった事がライチにとっては幸運だった。
そして今現在、ライチが保護した二人は彼らと行動を共にしていた。ちなみにこの時、それまで小屋で見を守っていたアンドロイドの殆どが外に飛び出して戦い始めていたために、フェンスの内側では大規模な乱戦が繰り広げられていた。
その以前より怒号と爆発が五割増しになった戦場の只中で、ライチは保護した二人と名前を教えあっていた。
執事はギュンター。軍服の男はヤーボと名乗った。
「……なるほど。そしてここでは今まさに、反乱が起きている真っ最中であると言う訳ですな」
目を鋭く光らせ、ここで起きている事についてのおおまかな流れを聞いたギュンターがライチに聞き返してくる。
嘘ではないのだな? その猛禽の如く鋭く光る目を前に、ライチは小動物のように肩を竦めて小さく頷くしかなかった。
「別に共闘して欲しいとは思ってないわ。無駄な人死にが見たくなかっただけなんだから」
その手に敵から奪った拳銃を持ちながら、ライチの横にいたエムジーが言った。その言葉にギュンターとヤーボが同時に頷く。
「助けてくれた事には感謝している。だがこちらとしても、これ以上この面倒事に首を突っ込むつもりはない。我々にもやる事があるのだ」
「さっきからやってたアレの事? 人を探していたように見えたんだけど」
エムジーの言葉に二人が再度頷く。
「我々は若姫さまと共に、この地までやってきたのです。しかし若姫さまはこの地に入れらた直後、こちらの進言を無視して名もわからぬ洞窟の中へ一人で入ってしまわれたのです……」
「若姫さまは我々にとって無くてはならない大切な存在。その御身に、例え少しでも傷をつける訳にはいかないのです」
遠くで爆発が聞こえる。ジャケットが体を動かす際に発する、女性の甲高い悲鳴にも似た金属音が響いてきたのをライチの耳が感知した。
ギュンターに続くようにヤーボが言葉を続けた。
「それ故に、我々はこうして若姫さまをお探ししている次第なのです。洞窟……恐らく世界戦争時に作られた地下通路の先にあったのがこの場所でしたので、もしやと思い探していたのです」
「……それで? あんたらは何しにここに来たんだよ」
ヤーボの説明が終わるのを見計らって、ジト目でピックがぼやく。それに対して、ギュンターが懐の白いハンカチで額を軽く拭い――そこが暑かったからであって、決して後ろめたい事があったからではない――、そしてはっきりとした口調でその場にいた全員に聞こえるように言った。
「それはもちろん、仕事のためでございます」
「仕事?」
ライチが首をひねる。前方から罵声が響く。ピックとシェリーが体半分だけ小屋の外に晒し、前もって奪っていた突撃銃をその方へ向けて連射する。
そんなライチの反応に気づいたのか、その方を向いてヤーボが言った。
「我々はニューヨークに本部を置く地球耕作部隊『ソウアー』からこの地へ派遣されてきた者です。ここで行われている緑化活動を手伝うために」
「緑化って……」
ライチとエムジーとエドが顔を見合わせる。ピックとシェリーは未だ戦闘を続けていた。
「ここ、まともにそう言う事やってないんだけど……」
「え……あれ……?」
そしてエムジーにそう指摘され、従者二人が辺りを見回す。
申し訳程度に耕された地面。遠方に広がる砂漠地帯。フェンス。爆発。アンドロイド。
ギュンターが顔をしかめる。
「そういえば……おかしいな……」
「ブリーフィングで渡された光景とかなり違いますね」
「いや、今更かよ」
エドが小声で突っ込む。銃を撃ちまくっていた二人も同じ気持ちだった。
「計画と違う。ここはどこなんだ?」
「誰か、ここの正確な地名を知っている者はいないのか?」
「い、いや、僕も来たばかりなんで地球の地理はちょっと……」
焦りまくりの顔で詰め寄る二人に、ライチが引き攣った顔で応える。それに代わって空になったマガジンを交換するために身を引っ込めたシェリーが二人に言った。
「ここはトウキョウよ」
「トウキョウ?」
「ええ。トウキョウのシンジュクって言う所。私の頭の中にあるGPSがイカれてなければ、の話だけど」
「それは問題ない。こっちも同じ地名を指してる」
自分の頭を軽く指で叩きながらエドが言った。
「ここはシンジュクだ」
「……シンジュク……?」
そんな彼らの目の前で、二人が目に見えるようにがっくり肩を落とす。それを見たエムジーが戸惑いの色を見せる。
「え、なに? シンジュクだと何か不都合でもあるの?」
「シンジュク……まさか……そんな事が……」
だがそんなエムジーを無視してギュンターは俯かせた顔を真っ青にさせる。
「ここまで来たと言うのに……若姫さまのため、慣れない海図や船と格闘してここまで来たと言うのに……」
ライチもアンドロイド達も彼がそうなった経緯を知らなかったが、それでもそうして地面にうずくまり、さも悔しそうに地面を叩くギュンターを見て、一種の生暖かい同情めいた感情を抱き始めていた。
「全て……全て無駄足だったと言うのか……? ここは……」
その時、ギュンターが人目を憚る事無く大声で叫んだ。
「ここはオキナワでは無いと言うのか!?」
直後、それを見下ろすアンドロイド達の視線が一気に『冷めた』物に変わったのを、ライチが肌で感じ取った。
見てるこっちが空寒くなる程の、馬鹿を見下す冷たい視線だった。
「……お前それギャグで言ってんの?」
小屋の影に身を隠してきたピックが投げ遣りに言った。
「あれはギャグのつもりでやってるんだろうか?」
「本人は真面目にやってるつもりなんでしょうねー」
正面モニターに映るその光景を見てジンジャーが呟き、どこからかコクピットに伸ばしてきた映像受信用ケーブルを介してそれを網膜に直接映し出していたレモンが同じように呟く。
ギュンターが地面を叩いて呻いていたのと同じ頃、二人の眼前には屋敷の屋根を吹き飛ばして現れた一機のVTOLが、この場所から逃げおおせようと上昇を行なっている姿が映っていた。
「ジャケットの機動性能をまるで知らないようですねー。無知って恐ろしいですー」
彼我の距離はおよそ百十メートル。ジャケットの能力を以ってすれば、この程度の距離は一足飛びで簡単に飛び越える事が出来る。レモンの言う通り、無知ほど恐ろしい物は無かった。
「まあ、馬鹿な分だけやりやすいとも言える。こっちにとってはラッキーな事だ」
「ですねー。じゃあジンジャー様、かるーくピョーンと跳んじゃってください」
「いや、一応スキャンをかけておく。罠って事も考えられるからな」
そう言うなり、ジンジャーはキーボードをいじってスキャンモードを起動させる。スキャンモードとはメインカメラの機能を一時的にストップさせ、赤外線カメラや暗視カメラ、X線照射型カメラなどの幾つかの特殊な機能を持ったカメラを使って対象のデータを調べる形態の事である。
ただし、これはあくまで簡易的な調査であるので、相手のことが何でもかんでも判るわけではない。装備している武器が何か、とか、中に人がいてどれ位いるのか、とか言った程度であり、細かい弾数や人相まではわからないのである。
だが今回に限って、そのスキャンはジンジャーに大変重要な情報を齎した。見落としていたら確実に酷い事になっていただろうそれを見つけ、ジンジャーは額から嫌な汗を流した。
「ナパームだ」
「ナパーム……焼夷弾ですかー?」
「あの戦闘機、後部ハッチの近くにナパーム積んでやがる」
「あー……私達を纏めて焼き尽くそうって魂胆ですねー」
イヤですねー。熱そうですねー。などと呑気にのたまうレモンの声を努めて右から左へ受け流しながら、脚部と腰部に装着されたブースターのご機嫌を確認する。
損耗率二パーセント未満。エネルギー変換効率九十九パーセント。
楽勝だな。
だがジンジャーがそうほくそ笑んでエンジンに火を点けようとしたその時、後ろからそれを制止する間延びした声が聞こえてきた。
「あのー、少し待っていただけないでしょうかー?」
「なんだ? 今度は何を考えてるんだ?」
苛立ち紛れに返してくるジンジャーに、レモンは相変わらずの声で言った。
「あれの相手は私にさせてもらいたいのですけれども、いいですかー?」
「あれの……? お前が直接出て戦うのか?」
「うーん、それもやぶさかでは無いんですけれどー……でもこれ以上戦っても埒が明かないと思いましてー。それで一度力の差と言うやつを見せつけて、一気に降伏に持ち込んだ方が良いかと思ったのですよー」
「出来るのか、そんな事が」
「はいー。正確にはやるのは私ではないのですけれどもねー。いいですかー?」
「……」
一体何をしようと言うのか? ジンジャーは不審がって否定も肯定もせずに黙っていた。そしてその後の五秒ほど、背後から「いいですかー? いいですかー?」としつこく何度も同意を求めてくる声が響いてきた。
実際の所、興味はあった。レモンの言う『力の差を見せつける手段』と言う奴を見てみたい気もするのだが……。
「すいませーん。いいですかー? やっちゃっていいですよねー? ねーねーねー?」
「……ッ」
さっきから後ろで巻き起こっていたウザすぎる催促が彼女の背中を押した。
もういい。もう沢山だ。
ジンジャーは決意した。
「――ダメだ。私がカタをつける」
「え、ええー?」
心底残念そうな声。ジンジャーは苛立ちを隠そうともせずに言った。
「ダメったらダメだ。とにかく、お前はそこでじっとしていろ。これは私の仕事だ。お前は黙ってろ」
「ううー……わかりましたー……」
やがて不満の色を隠すこと無くレモンが呟く。そしてその答えを受けて満足したように頷きながらジンジャーが操縦桿を握ったその時。
「でも無理♪ やっぱり見せびらかしたい♪ ジンジャー様ごめんなさい、やっちゃいますねー♪」
異変は明るい声と共に始まった。
「――なッ」
操縦桿が動かない。
それだけじゃない。
いくらキーボードを叩いて命令を飛ばしても、背部のブースター群はうんともすんとも言わないし、自動リカバリーも起動しない。
「おい、どうした。電池切れか?」
片手で操縦桿を握り、もう片手でキーボードを弄りながらジンジャーが不安げに呟く。返事がない。
「おい!?」
そして不安な心を隠すようにそう怒鳴りつけ、電池残量や機体の破損状況を調べようと今度はキーボードを両手でいじってモニターを見つめる。
直後、事態は更に悪化した。
彼女の眼前で突如として正面モニターに激しくノイズが走り、彼女が手を置いていたキーボードから勢い良く火花が噴き出したのだ。
「うわっ!」
驚いて両手で顔を守る。その隙にそれまでモニター一面に映されていた歪んだ砂嵐が一瞬でブラックアウトする。
更にそれに呼応するかのようにコクピット内に満ち満ちていた照明類が次々消えて行く。狭いコクピットを満たしていた光が全て消え失せ、その中は死んだように静けさを湛えていった。
だが外部スピーカーと繋がるマイクの感度を告げるメーターだけは元気に光っていた。のみならず、そのメーターの針は彼女の目の前で独りでに最大値に向けて上昇していたのだ。
「これは……!」
止まらない。こちらがどれだけツマミをゼロの位置に戻そうと捻っても、マイクの感度は一向に下がらない。操縦桿も相変わらずビクともしないし、モニターも死んだままだ。
背後からレモンの声。
「あー、あー、もしもし? もしもーし? テステステス」
マイクテストをする声だった。自分は――『自分は』マイクはいじっていない。
「まさか――!」
ジンジャーは戦慄した。壁一枚隔てた所で呑気にマイクテストをするレモンを凝視しながら、この時ジンジャーはその頭の中で一つの推論を描き出していたのだ。
残念ながらそれは当たっていた。
「申し訳ありません、ジンジャー様。今より暫くの間、この機体の制御系統、頂いちゃいますねー♪」
レモンがシステムを乗っ取ったのだ。
「安心して下さい、ジンジャー様ー。借りると言ってもほんの数分の事ですー」
ジンジャーが異変に気付いたのを察知したのか、レモンがマイクテストを中断し、クスクス笑いながら言ってきた。
ジンジャーは背後で笑っているこの女を一瞬殺してやろうかとさえ思った。だが当のレモンはそんなジンジャーの一瞬の殺意に気づく事なく、感度最大にしたマイクを使って外部と連絡を取ろうとしていた。
「……これがお前の行っていた力の差か?」
そんなこみ上げる怒りを紛らわせるためにも、ジンジャーが努めて平静を装った声でレモンに尋ねた。そしてすぐさま、予想通りの返答が返ってくる。
「まさかー、そんな訳ないじゃないですかー。私が用意してるのはもっと巨大な物ですよー」
「じゃあ何を呼ぶつもりなんだ? 怪獣か?」
「怪獣ですかー。面白い事言いますねー」
「……ッ」
耐えろ。今は我慢だ。
腸の煮えくり返る思いを散々味わっていたジンジャーだったが、その怒りの感情はすぐに払拭される事となった。
「カモォーン! カサブランカァー! カモォーン!」
マイクがハウリングを起こすくらい強烈な大音量で、いきなりレモンが叫び出したのだ。
「カサブランカァー! カサブランカァー! カモォーン!」
ノリノリである。心底楽しそうであった。
だがそのお陰でジンジャーは、それまで抱えていた負の感情を全て投げ出して、耳を押さえ鼓膜を守る事にせざるを得なくなったのだ。
「――!」
激痛である。耳を閉じていると言うのに、冗談でないくらいの激痛、音の暴力である。あまりの痛さに叫ぼうとしたが、口を大きく開いただけでもはや声も出なかった。
「カモォーン! カモォーン!」
「が――やめ――!」
災難だった。
それまで死んだように静かになっていたコクピットの中に突如轟く大爆音。外の情報を完全にシャットアウトされていた事もあって、ジンジャーは完全にそれに気を取られてしまっていた。目を瞑り耳を閉じ、ベルトでシートに固定させたまま体を丸めて音の余波を和らげようと尽力する。
だからこの時、ジンジャーは幾つかの事を完全に失念していた。まずレモンの声はジャケット内部のみならず、その外にまで容赦なく広がっていた事。
その『自らを呼ぶ声』を何者かが感知した事。
そしてその何者かが、シンジュクに向けて海の上を全速力で進んでいた事。
最初に『それ』を見たギュンターは目玉が飛び出るくらい瞳を、そして顎が外れるくらいに口をあんぐりと開けたままその場に立ち尽くしていた。ヤーボは困り果てたように顔を両手で覆った状態で空を見上げ、ライチ達はおとがいを上げたまま何も言わずにその場に立ち尽くした。驚愕の度合が精神の許容量を凌駕し、まともな反応をする事が出来なくなっていたのだ。
虐げていた人間も虐げられていたアンドロイドも、今は揃って蜘蛛の子を散らすようにして逃げ惑っていた。
支部長は『それ』が何なのか知る事もないまま、搭載されたナパームと一緒に飛び立ったばかりのVTOLごと『それ』に轢き潰された。
ナパームが爆発し、それがVTOLのボディに飛び火して盛大な赤黒い花火をあげる。その爆音と衝撃がライチ達を正気に戻した。
「――逃げろ!」
集団の中の誰かがヒステリックに叫ぶ。言われなくてもそうするつもりだ。屋敷を踏み潰し、地面の砂を左右に撒き散らして迫ってくる巨大な『それ』に背を向け、全力で走る。
が、『それ』の侵攻自体は屋敷を踏み潰した段階で既に終了していた。そこから急ブレーキをかけたかのように急激に失速し、暫く低速で滑走を続けた後に最後にダイナマイトが吹っ飛んだような音を立ててそこに停止する。
やがて残された者達がよろよろと、おっかなびっくりと言った体で『それ』に近づく。ライチ達も倒れた体を起こし、唖然として『それ』を見つめた。
「あれはなんなんだ!?」
エドが泣きそうな声で言った。今まで予想を超える事ばかり続いてきたから、その気持ちは痛いほどわかった。
エドが更にまくしたてる。
「なあ、あれは……あれはどう見ても、あれだよな!?」
だが頭が混乱していて、満足に言葉を伝える事が出来なかった。他の者も同様で、いきなり現れていきなり停止した『それ』を明確に言い表す名詞をド忘れしてしまったのだ。
その物体の形状は短い方の辺を下向きにした台形をベースにしていた。そしてその上部には前方に出っ張った滑走路らしき物が据えられてあり、更にその右側には司令塔のような直方体状の構造物が屹立していた。またその上部には、正方形ないし長方形の白い枠が、互いに干渉し合わない様に規則正しく幾つも描かれていた。そしてその底部にはキャタピラのような物が船首から船尾にかけて二列になって並んでいた。
それとその物体はとにかくデカかった。隣に立った人間が米粒に見えてしまうくらい巨大であったのだ。
「……カサブランカだ」
その時、彼らの中に交じっていたヤーボが不意にそう漏らした。ライチ以下事情を知らない者達の視線が一斉にヤーボに突き刺さる。ギュンターはその輪の中には入っていなかった。
「カサブランカって……あれの事?」
エムジーが少し震える手で前方のそれを指差す。ヤーボが頷く。
「水陸両用強襲揚陸艦カサブランカ」
そしてそう言ったヤーボの隣に立ったギュンターが、披露から来る今にも掻き消えるようなか細い声で言った。
「我々が使ってきた船です」