第七十七話「用件は簡潔に」
一人で寝るには大きすぎるサイズのベッドの上に寝転がり、そのふかふかした感触を背中越しに味わいながら、ライチはぼんやりと天井を見つめていた。
「これからどうなるんだろう……」
呟かずにはいられなかった。ニューヨークに来た途端に訳もわからず犯人扱いされ、かと思ったら事情聴取の席では打って変わって賓客級の応対を受け、挙げ句の果てに今こうして個室と言うには豪華すぎる寝床まで用意してもらっている。予想外の展開の連続で、ライチの情報処理能力はパンク寸前であった。
「はあ……」
この部屋に入ってから何度目かもわからないため息を吐く。ライチはこのまま寝てしまおうかとも考えたが、目を閉じてもちっとも眠たくはならなかった。不安と緊張によってギンギンに高揚していた己の精神が、肉体の休息を頑なに拒んだのである。
「寝れない」
目を開けて寝返りを打つ。全然心が静まってくれない。意識して気持ちを落ち着けようとすればするほど心臓の拍動が速さを増し、そして体内から聞こえてくるそれが精神を更に昂ぶらせる起爆剤となってライチの意識を平穏からますます遠ざけていく。
「……ああもう」
ままならない自身の精神状態に対して恨めしげに言い放ちながら再び仰向けになり、左腕で目元を覆う。視界は闇一色になったが、その神経は相変わらずドリンク剤一ダースを一気飲みした直後であるかのように覚醒を保っていた。
このまま目をつぶって強引に寝てしまおうか。ライチが本気でそう思ったその時、個室の出入口であるドアが外から軽く叩かれた。
「ライチ、いる?」
続けざまにカリンの声が聞こえてくる。だが彼女の声が聞こえてきた時にはライチは既に行動に入っていた。ベッドから跳ね起きて全速力でドアまで走り、勢いよくドアを開けて外で待つ者に渾身の笑顔を見せる。
「やあカリン」
「ライチ、いたのね」
呼んでるんだから返事くらいしてよ。そうライチの方を向いて口を尖らせながら、カリンが自然な動作でライチの割り当てられた個室の中へと足を踏み入れる。ライチもそれを咎めようとはせず、自分から脇にどいて彼女の到来を歓迎する。
何をしにきたのか。それを尋ねる気はライチには無かった。愛しい人と同じ空間にいられる、それだけで満足だったからだ。もちろんライチはそんな気持ちは臆面にも出さなかったが、カリンが来てくれたことに対して心の中では狂喜乱舞していた。
そしてそれはカリンも同じだった。そもそも『なんとなく寂しかったからライチに会いに来た』だなんて、恥ずかしくて口が裂けても言えなかった。
「デザインはどこも一緒みたいね」
「そっちもなんだ」
表面上は冷静に言葉を交わしつつカリンを先頭にして狭く短い通路を越え、広々とした空間へ出る。そこでカリンはベッドに腰掛け、ライチは冷蔵庫の所に向かい中身を物色する。
「ねえ」
「ん?」
ライチが適当に選んだ瓶――ラベルに『SODA』と書かれた瓶とグラス二個を自分のすぐ横にあるテーブルの上に置いた所で、カリンがライチに話しかける。
「私達、この後どうなるのかな?」
「どうって?」
「いろんな意味でよ」
そのカリンの問いかけに答えるよりも、ライチは手元の作業を優先した。まず冷蔵庫の横に掛けられていた『栓抜きの使い方』という一枚の紙を手に取り、それと同じ場所に掛けられていた銀色の物体――栓抜きと呼ばれている物を手に取る。そして中に書かれてあるやり方に従って伸びた部分を片手で持ち、先端にある穴を瓶の栓の縁に引っかけ、やり方に従っておっかなびっくり押し上げる。
「固いな、この――」
固かったので少し力を入れた途端、ぽん、と軽い音を立てて栓が抜ける。
「出来た」
「ナイス」
今まで一度も使ったことのない物を上手く使えた事に対して思わず安堵のため息を漏らし、次いで背後からのカリンの声に思わず苦笑をこぼす。そして露わになった注ぎ口から中身の液体を慎重にグラスに注ぎはじめた段階で、ようやっとライチが口を開いた。
「まあ、大丈夫なんじゃないかな」
「どうしてそう思えるの?」
「それは、その……」
ライチが一旦言葉を切る。そして泡立つ液体の入ったグラスを二個手に持ってカリンの隣に腰掛け、一方をカリンに手渡した所でライチが言った。
「あのベラって人があんなこと言ってたからかな」
「どんなこと?」
「『自分達は火星が嫌いだ』って」
「ふうん」
面白く無さそうに相槌を打った後でカリンがグラスに口を付ける。中の液体は無味無臭、舌を刺すような刺激が口や食道に広がるだけの不思議な代物だった。
「なにこれ。初めて飲むけど、なんかパチパチする」
「飲み物変える?」
グラスから口を離し、顔をしかめて感想を述べたカリンを心配するようにライチが問いかける。首を横に振ってカリンが答える。
「開けちゃったんだから最後まで飲みましょうよ」
「……それもそうか」
納得した様に頷いて、ライチもまたグラスに口を付ける。口内に受け入れたのはほんの一口。しかし少量を口の中に含んだ瞬間、彼の理性はその刺激を受け入れる事を拒んだ。
「うぷっ」
舌の上で火花が散るような感覚。そのあまりの刺激に全ての液体を口から噴き出したい衝動に駆られたが、頬を膨らませて必死に耐えた。そのまま頭を真上に向け、それを強引に喉の奥に流し込む。
「げほっ、げほっ」
口の中が空になった後でライチが頭を倒し俯いた姿勢で激しく咳き込む。そして咳が治まった後も心配そうに背中をさするカリンに「ありがとうね」と無理に取り繕った笑顔で感謝の意を述べた後、ライチは向かい側のテーブルの上にある、それまでその液体が入っていた瓶を睨みつけた。
「なんなんだよあれ。毒物?」
「毒だったらもう死んでるよ」
「毒じゃないにしても酷いよこれ」
顔の高さにまで上げられたグラス――正確にはまだグラスに半分以上残っている透明な液体に視線を移しつつ、ライチが苦い顔で言った。
「人が飲める物じゃない」
「そう? 私は結構好きかも」
ちょっと甘めの方が良いかな。そんな事を言い始めたカリンを、信じられないと言いたげな目でライチが見る。その視線に気づいたカリンが不満げに顔をしかめ、ライチを見返しながら言った。
「いいじゃん別に。人の趣味は人それぞれよ」
「いや、わかってるけどさ」
「ならいいじゃない。ケチつける必要ないじゃん」
「ぐっ」
二の句が継げずに渋面を浮かべるライチに対し、カリンが勝ち誇った表情を浮かべて相対する。非常にどうでもいい事で言い合いを始めた二人だったが、それは口論や喧嘩というよりも子猫がじゃれ合っているような感覚に近い物であった。現に一つの決着がついた後、二人はどちらからとも無く笑みをこぼし、照れくさそうに笑い合っていた。
とても幸せそうであった。
出入口のドアをノックする音が聞こえてきたのは、まさにそんな時だった。
「はい。どちらさまで?」
「ベラです」
簡潔に自分の名前を述べたベラが、これまた簡潔に用件を伝える。
「件の火星人の一件において、あなた方の処分が決定しました」
しかしその簡潔な内容が、緩んでいた部屋の空気を一気に引き締める。
「場所はこちらで誘導します。来ていただけないでしょうか?」
断る理由はなかった。むしろこちらとしても早く結論が聞きたかった。願ったり叶ったりである。
「ライチ……」
だが怖いのも事実だった。そうして怯えるように自分の手を握ってきたカリンの手を、ライチは優しく握り返した。
「大丈夫だよ」
優しく答え、空いた手でカリンの頭をそっと撫でる。その手の暖かい感触をカリンは目を細めて受け入れ、小動物であるかのように嬉しそうに喉を鳴らした。
「準備はよろしいでしょうか?」
ドア越しにベラの言葉が再び響く。頭を撫でる動きを止め、ドアの方を真っ直ぐ見ながらライチが答えた。
「ああ、大丈夫だよ。今行く」
「全員無罪、終わり」
ベラに先導される形で会議室に集められた被疑者全員を前にして、オートミール・オートバーンは机の上で頬杖をつきながら億劫そうに答えた。その直後、彼とベラ以外の全員が、揃って鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見せる。
「えっ?」
「えっ、聞こえなかった?」
前方の何処からか聞こえてきた呆けた声を受けてオートミールが小首を傾げる。
「何か、俺変な事言ったかな?」
「あなたの緊張感がなさ過ぎて、どう反応していいか困ってるんですよ」
「事実を言っただけだ。それにそんなに肩肘張らなくてもいいだろうに」
ベラが彼らの気持ちを代弁したが、オートミールは反省しなかった。
「だいたい、なんでも威厳を保って言えばいいって物でもないだろう。神経張り詰めすぎてると却って寝込むことになるんだぞ」
「締めるべき時は締めるのも大事です。総司令閣下はどうやらそれをご存じないようで」
反省しないオートミールに対するベラの言葉も辛辣な物だった。しかしベラの言葉の剣を正面から受けてなお、オートミールは反省も自制もしなかった。頬杖を止めて代わりに組み合わせた両手の上に顎を置き、それまで通りの弛緩しきった口調で言った。
「まあ、こっちから言いたいことはそれだけ。君達の今後の処遇については明日くらいに改めて連絡するから。それまでは各自割り当てられた部屋でゆっくりしていってね」
「いいのかよそれで」
リリーが呆れた口調で言った。ベラが大きく肩を落としてため息を吐きつつそれに答えた。
「総司令は火星が、正確には火星にふんぞり返っているお偉方の面々が嫌いですからね」
「それはあなたもなんじゃないですか?」
ベラがはっとして顔を上げる。そして声のした方へ視線を向け、そこに立っていた一人のアンドロイド――ギムレット・ザザと目線を交わす。
二人の視線が交錯した直後、ベラの脳髄に電撃が走った。
「……なぜ、そうだと思ったのですか?」
目を細め、内に溜まる何かが爆発しないよう努めて平静を保ちながらベラが尋ねる。そして先方から発せられる刃物のように鋭い眼光を正面から受け止めながらギムレットが答える。
「勘です」
「勘?」
「あなたは、ぼくと同じ匂いがした。これと言って決め手は無いんですが、なんとなくそう思ったんです」
「なんとなく、ですか」
ベラの口から言葉がこぼれる。その直後、彼女の身に纏っていた気配が殺気に満ちた剣呑な物へと変わっていく。ギムレットは首筋に刃物を押しつけられたような気分になり、生きた心地がしなかった。他の面々もその彼女の発する殺気混じりの空気に中てられ、まるで喉に鉛を流し込まれたかのような痛みに似た息苦しさを味わっていた。その中にあってなお、オートミールは相貌を崩さなかった。
一方で口元と鼻を隠すように手を当てながら、ベラはギムレットを真っ直ぐ見据えていた。そしてその格好のまま、ニューヨークシティ警備部隊隊長ベラ・ベラドンナは己の覇気――歴戦の猛者だけが持ち得るプレッシャーを一点に収束し、そのはち切れそうな威圧の塊をギムレットに向けてまっすぐぶつけた。
「みくびられた物ですね」
「――ッ」
一瞬、自分の首が切り落とされたような錯覚を覚えた。しかしそのビジョンが見えたすぐ後に意識が現実へと引き戻され、ギムレットは腰砕けになりそうなのを必死に耐える。
ほう、耐えたか。ベラの『いたずら』に気づいたオートミールが、次いでそれを受けきったギムレットを興味深そうに見つめる。
「ですが」
と、ベラが己の発する気配を和らげながら切り出した。ギムレットが場の空気の突然の変化に戸惑いを感じていると、ベラが口元から手を離しながら言葉を続けた。
「自分の意見を真っ直ぐに伝える。その度胸と意思の強さは買いましょう」
直後、ギムレットはベラの顔に釘付けになった。彼だけではない。他のクルー全員が、彼女の露わになった顔面に視線を注いでいた。
「君は将来、いい指導者になれますよ」
冷静にそう告げたベラの両の鼻の穴から、赤黒い血液が盛大に流れ落ちていたのだった。それはもう、そのままいったら貧血起こすんじゃねえかって心配されるほどに。
さらにそれまでナイフのように研ぎ澄まされたその表情もまた、まるで溶鉱炉に突き落とされたかのようにどろどろに惚けた物になっていく。
「それにしても可愛い。食べてもいいですか? じゃない、あなたの生き方は嫌いじゃないですね。お持ち帰りしていいですか?」
一瞬だけ言葉と表情がクールなそれに持ち直したが、すぐに蕩けて駄目になった。
結局この集会は、ベラの暴走で張り詰めた空気がぶち壊されたと同時にお開きとなった。




