第五十二話「怒ると怖い人」
マレット三姉妹がカサブランカの艦橋で『何か』を発見してしまったのと同じ頃。
カリン・ウィートフラワーはガチガチに緊張していた。
「えー、ではさっき言った通りに作業を行っていきますので、皆さんもしっかりついてきてください」
そのカリンの様子に気づくこともなく、彼女の横に立ったアンドロイドがのんびりした口調で言った。このアンドロイドは白い半袖のシャツの上から青いオーバーオール――ここで働く労働者全員にソウアーより贈与された撥水性の高い特注品――を着て、足には黒いゴム長靴を履いていた。そしてカリンと、彼女を挟むようにして隣に立っていたライチも、それと同じ服装をしていた。
「えー、実を言いますとですね、この作業は本来この時期に行うべき物ではないんですけれども、今我々が入っているこの中では温度や湿度と言った要素を自由に変更する事が出来まして、それによってこの――」
アンドロイドが顔を上下に動かしながら、のんびりした口調で解説を続ける。そのアンドロイドに合わせてライチとカリンも頭を動かし、視線を頭上から足下へ向けていく。
目を頭上に向けた時、そこには白い半透明の屋根が見えた。中央に向けて上向きに膨らんだ、ビニールのような質感を持った屋根だった。そしてカリン達が立っているこの場所は屋根と同じ材質の壁で四方を囲われていた。
目線を上から下に動かしていき、目線が地面と水平になった時、遠方にメーターやスイッチが規則的に配置された四角い機械が見えた。それは向こう側に見える天井と同じビニール製の壁の近くに据え付けられており、機械の下部から太いパイプを数本、断面を剥き出しにしたまま地面に伸ばしていた。
視線を下に向けると、今度は足下に四角く区切られた泥たまりが見えた。十分に濡れて表面に水の浮き出ていたそれは自分達の立っている所から縦長に広がり、水自体は澄んでいたがその底は見えなかった。
「ねえ、ライチ」
その泥たまりを視界に収めた後、なおも何事かをのんびり話し続けているアンドロイドを無視して、カリンがライチに尋ねた。
「……本当に、この中に入るの?」
「え?」
それまでアンドロイドの話を聞いていたライチが、その言葉を受けて意識をカリンの方に向ける。足下に広がる人工的に作られた泥のプールを見つめながらカリンが続けた。
「これ、この……あんまりキレイじゃない中に、本当に足を入れるわけなの?」
「……僕も初めてやるからよく判らないけど、あの人の話を聞く限りじゃそうらしいよ」
「この格好で?」
「制服で泥だらけになりたくないでしょ?」
「あうう」
ライチの言葉を受けてそれまで着ていたブレザータイプの制服で泥の中に足を踏み入れる姿を想像して、カリンが眉をひそめる。その様子を見て肩を叩きながら、ライチがカリンに言った。
「まあ、なんとかなるって。自分から汚れに行くのに抵抗あるのは判るけど、それでも一回やってみれば緊張も解れるからさ」
「う、うん。そうよね。やる前から嫌がるんじゃなくて、まずはやってみないとね」
カリンが小さく頷き、生唾を飲み込む。だがそう力強く言い終えた後の彼女の顔はなおも強張っており、震えを外に出さないように腕でもう片方の腕を抱いていた。
「おちつけー、おちつけー……ああもう、全然だめ」
『自分から泥の中に入る』と言う自分の価値観からして全く非常識で汚れたその行為を想像し、額から嫌な汗を一筋流していった。自分から「やってみたい」と頼んだ事とは言え、いざそれを前にした彼女の心情は、リラックスとはほど遠い状態にあった。
と、それまでその二人の反応を無視して自らの解説に没頭していたアンドロイドが、満足げに笑みを浮かべながら締めの言葉を述べた。
「――という訳でありまして、今回我々の行うこの『田植え』と言う行為は、かつて日本で行われたのとほぼ同じ環境下で行う事が出来るのです。つまりその――」
「に、濁ってるなあ……」
だがその長話を右から左へと受け流しながら、視線を泥たまりの中へと釘付けにしてカリンが弱々しく呟く。その様子を見て、ライチが頬を掻きながら苦笑する。
『田植え』という初めてだらけの活動を前に、カリンはガチガチに緊張していた。
カリンが『田植え』をしたい――正確には『畑仕事』がしたいとライチに言い出したのは、アロワナ達がカリン以外の火星人に外出許可令を出した二日後の事であった。
その時、二人はカサブランカの食堂で揃って昼食――たくあんと具無しおにぎり三個と大根の味噌汁――を食べていた。正午を少し回った所であった。
「畑仕事が?」
「ええ」
「いきなりどうして?」
「ちょっと気になったのよ。ライチがこっちに来てから始めた、その『畑仕事』って言うか、『農業』って言うのがどんな物なのか、って」
そしてそんな恋人のお願いを聞いた後、戸惑いながらもおにぎり片手にそう尋ねたライチに、カリンが微笑みながら答えた。その目は期待に輝いていた。
「ねえ、お手伝いでも何でもいいからさ、どこか人手を探してる所って無いかしら?」
そこまで言って、カリンがたくあんの一つにフォークを突き刺す。そしてそれを口の中に入れた後、フォークをスプーンに持ち替えて横倒しにしたおにぎりの一部を削り取って口に入れる。ライチはその隣で味噌汁を啜りながらそれを聞き、その後で難しい顔を浮かべてそれに答えた。
「ううん……今のメルボルンはかなり滅茶苦茶になってるし、復興するのにかなり難儀してるって聞くし……探せばあると思うよ」
「そうなの? じゃあ早速――」
「だけどカリン、こっちの仕事はどうするのさ」
が、機先を制するように放たれたライチの言葉に、それまで意気軒昂だったカリンの心が一瞬にして萎んでいく。そしてその言葉に導かれるままに今現在自分達が行っている作業の事を思い出し、その顔から輝きを消して力なく項垂れていった。
この時、ライチはそれまで行っていたアンドロイドやジャケットの整備に続いて、この町に来た本来の目的であるカサブランカの修理にも携わっていた。そしてカリンもまたその作業を手伝うために彼と同じ仕事場に就いており、それが終わる気配は当分無さそうであったのだ。
「……暫くはお預けってことね」
「そうなるね」
残念そうに呟いたカリンの横で、ライチも語調を落としてそれに答える。だがカリンは、ライチに対してそれ以上食い下がることはしなかった。
ライチの言い分の方が正しかったからだ。自分達にはまだ仕事が残っている。いくらやりたい事があると言っても、自分達がそれまで請け負っていた仕事をほっぽり出してそっちをやり始めるのは無責任という物だ。カリンはそれを重々承知していたからこそ、ライチに詰め寄ろうとしなかった。
「はあ……」
だが、それでも残念な事に変わりは無い。ひょっとしたら、ライチなら自分の我が儘を通してくれる、という身勝手な希望的観測を抱いていたのも事実だった。そしてそう言った落胆の色をしっかり隠し通すことが出来るほど、カリンは大人ではなかった。
「そうかあ……駄目なのかあ……」
ねだる訳でも駄々をこねる訳でも無く、単純に無念さを噛みしめながらカリンが暗い顔を浮かべて項垂れる。だがその後ろめたさのない姿が、逆にライチの良心を強く揺さぶった。
「……そんなに、やってみたい?」
ぽつりとライチが漏らす。意図していなかったその言葉に、カリンが思わず目をぱちくりさせる。
「え? できるの?」
カリンが明るい声色で聞き返す。ううん、と小さく唸った後で、自分の皿に目を落としながらライチが答えた。
「話が通るかわからないけど、一応話はしてみるよ。ちょっと時間を空けてもいいかってさ」
「本当にいいの? そんな無理しなくても」
「いいんだよ。僕がしたくてする事なんだし。それに上手く行くとは最初から思ってないし」
「あ、うん」
そう他人事のようにさらりと言ってのけたライチを前に、それまで彼に対して抱いていた後ろめたい気持ちが一瞬で瓦解する。そんな色々な意味で残念そうな顔を見せるカリンを見て苦笑を漏らし、そしてすぐに真剣な顔になってライチが言った。
「大丈夫だよ。ダメ元で話してはみるけど、ふざけてやったりはしないから」
「まあ、それは判ってるけどさ。ライチは手抜きとか嫌うタイプだし。思ってたよりずっと真面目」
「それを言うならカリンだって、気配りも利くし度胸も据わってる。なんか格好いいよ」
カリンはライチの性格について、この二日間の共同作業の中ではっきりと知る事が出来ていた。ライチもまた同様で、二人は仕事を通してこれまで以上に互いを良く知る事が出来たのだった。
「そういうわけだからさ。ちょっと僕に任せといてくれないかな? 話せるだけ話してみるから」
「ええ、わかった」
たくあんを口に放り込んでそう告げるライチに、音を立てないよう味噌汁を少しずつ飲みながらカリンが答える。そしてその後は互いに黙々と食事を進めていき、食べるのを終えたのは二人同時だった。
「じゃ、聞いてくるよ」
「今から行くの?」
「早いほうがいいでしょ?」
そう言って立ち上がり、トレーを持って歩き出したライチの背中を、カリンは暫くの間ぼうっと見つめていた。だがすぐに思い出したかのように立ち上がり、早歩きでその背中に追いついた。
「私も一緒に行く」
「え、でも」
「言い出しっぺは私なんだから」
こうなったら梃子でも動かない。呆れたように笑みをこぼしながら、ライチはカリンの好きに任せることにした。
時間が欲しいと言う交渉は数秒で終わった。
ライチの選らんだ話し相手がイナだったからだ。
「なるほど、デートですね? こちらで調整しておきますので、どうぞどうぞ」
違うと言ったらまたややこしい事になりそうなので、顔を赤くするカリンの横でライチはだんまりを決め込んだ。ついでに言うと、次の日に入っていたはずの二人のタスクを全て無くしたのもイナで、人手の欲しがっている農家の一覧から適当な相手を見つけて先方と約束を取り付けたのもイナだった。それらを終わらせた結果を彼らに提示したのもイナだ。それら全て、デートと早合点してから0.7秒後に実行した事である。
「あの人、イベントが好きなんだよ」
帰り道、トントン拍子に話が進んで呆然としていたカリンに向けて、苦笑しながらライチがフォローした。
「ま、ラッキーだったと考えようよ」
「いろんな人がいるのね」
そしてこの地球での生活を経て、カリンはまた一つ神経を図太くしていった。
そして今に至る。
先述の通りカリンの願望は何の障害もなく通ってしまった訳だが、その一方で、いざ実際にやろうと言う段階に入って、カリンは完全に尻込みしてしまっていた。計画は何事も練っている間が一番楽しいのだ。
「……ッ」
泥の中に足を突っ込む、と言うおよそ清潔とは言えない非常識な行為を前にして、カリンが生唾を飲み込む。足下に広がる人工の田んぼ――足首よりちょっと上が埋まる程度の深さしかないその泥池は、今の彼女には沈んだら二度と戻って来れない底なし沼のように見えた。
そんな彼女の様子を知る由も無く、ついさっき話し終えたばかりの件のアンドロイドが彼女の顔を覗き込み、実にやりきった満足そうな表情を浮かべて言った。
「では、実際にやってみましょうか」
「えっ、うええっ?」
アンドロイドから不意打ちに近い攻撃を仕掛けられ、カリンが奇声を発して思わず後ずさる。そしてそんな予想外の反応を見せられて、アンドロイドもまた驚いたように彼女から距離を離す。そのアンドロイドと上半身を縮こませてしまったカリンの様子を交互に見て頭を掻きながら、ライチが彼女に言った。
「だから大丈夫だって。別に死ぬ訳じゃないんだからさ」
「い、いや、判ってるけど、いきなりこの中に入れって言われたらそりゃ……」
「わかった、わかった。じゃあ僕が先に入るから、後から来てよ。大丈夫だから」
怯える子供を説得するように柔らかい口調で言った後、ライチが躊躇いもなくその田んぼの中に足を突っ込む。足が何の抵抗もなく泥の中にズブズブと沈み込んでいくが、それを気にする事無くライチが片足を入れたまま、もう片方の足も泥の中に沈めていく。
「ほら、大丈夫でしょ?」
そうして人工の田んぼの上に二本の足でどっしりと立ち、腰を捻って背後を見やりながらライチがカリンに言った。
「ちょっと足入れた時にひんやりするけど、それだけだからさ。毒とか入ってる訳でも無いんだし、ほら、根性見せて」
この時、アンドロイドも既に片足を泥の中に沈めていた。ここまで来たらもうやるしかない。こうまで引っ張っておいて自分一人だけ出来ず終いと言うのは余りにも格好悪い。
「よ、よし……やってみる」
ついにカリンが腹を括った。一足先に中に入って心配そうに見守るライチとアンドロイドを尻目に、何度か深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。
「大丈夫、私は出来る、大丈夫よ……」
そう自分に言い聞かせながら田んぼの縁へと歩み寄り、そこで立ち止まって右足を浮かせ、泥の真上にそれを置く。そしておっかなびっくりと言った調子で、小突くように足裏で表面を叩き、ぬちゃぬちゃと水音を響かせる。
そうして何度か泥を叩いた後、その動きを止めて大きく深呼吸する。
「――ええいっ」
そして勢いよく言葉を放ち、カリンが一息に右足を泥の中へと沈めた。
中はびっくりするほど冷たかった。
「ひゃっ、ちょ、まっ」
それはまさに首筋にいきなり氷を押し当てられた時と同じ衝撃で、カリンはその顔を驚愕に強張らせて「ひっ」と声を漏らした。さらに足を入れた泥の層は本当の底なし沼のようであり、そこに接地したカリンの足を何の抵抗もなくズブズブと飲み込んでいった。
「うわっ、わっ、わっ」
「か、カリン! 大丈夫?」
「む、むり! だいじょばない! これ、ひい!」
想定外の事態の連続にカリンは軽いパニック状態に陥っていた。そして右足を引き上げる事もままならないまま――むしろ引き抜こうと力を込めれば込めるほど、余計にオーバーオールの裾を激しく汚してしまう。いや、ほんのちょっと動かすだけでも汚れが酷くなってしまうので、もはやカリンに無傷で脱出する術は残されていなかった。
「もう、ちょ、いい加減に……」
一切の抵抗を許さない泥の沼。だがその一方的な展開が、却ってカリンの心に平静を取り戻させた――言い方を変えれば、彼女をヤケクソにさせた。
「――ええこんちくしょう!」
カリンが吼えた。
そして『汚い』とか『あり得ない』とか言うマイナスの気持ちを纏めて踏み潰すかのように、カリンがキレた声を上げながら左足を高々と掲げ、真上から一気に泥の中へとぶち込んだ。
「なめんじゃねえぞクソがァ!」
派手な破裂音を立てて泥の飛沫が四散する。それは天井に届くほどの強烈な物であり、そしてそのうちの幾つかが彼女の服や顔にかかるが、カリンはそれを気にする素振りすら見せなかった。
彼女の怒りは、そことは別の方へ向けられていた。
「はあ、はあ、はあ……」
額から汗を流し、肩で息をしながらカリンが前に立っていたライチとアンドロイドを睨みつける。その切れ味鋭い眼光の前に思わず背筋を伸ばした二人に向けて、カリンがぞっとするほど静かな声で言った。
「……次は?」
「へ?」
「だから、次」
素っ頓狂な声を出すアンドロイドを射殺すように見つめながら、カリンが声のトーンを変えることなく言った。
「田植え。次はどうすればいいのよ?」
この時、ライチはカリンの事をもっと深く知る事が出来た。




