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第三話「覚悟を決めてもらおうか」

 ニュースをお伝えします。

 五十分ほど前、ロウアー居住区第十四区域において、ジャケットの墜落事故が発生した模様です。

 当機体を背後から見ていた同ジャケット部隊員の目撃情報によりますと、『緑の日』のために当該区域内を飛行していたジャケット部隊の一機が突如失速。背部フライトユニットとジャケットの接合部分から爆発を起こし、そこから煙を吐き出しながら一軒の家屋へと向かって急降下、激突した模様です。

 この事故によって、墜落地点にあった家屋に住んでいたロウアー労働者、ライチ・ライフィールドさんは意識不明の重体となり、すぐさま第六区域にある総合病院に搬送されましたが、まだ意識は戻っていないようです。

 事故発生時、全ての家屋の窓と玄関口には種子防御用の硬質シャッターが下げられており、これによって被害者は逃げ遅れ大怪我を負ったものと推察されています。

 当局は既に墜落したジャケットの回収及び調査、墜落したジャケットの搭乗者や同部隊に所属していた関係者への事情聴取など、調査を始めている模様です。

 では、次のニュースです……





 ライチ。ライチ。

 自分の名前を呼ぶ声がする。

 誰だろう。

 声だけはハッキリ聞こえるのに、目の前は真っ暗で何も見えない。

 目だけじゃない。口も、鼻も、肌の感覚も無い。死んだように何も感じない。

 体が闇の中に溶けた――いや、闇が自分そのものとなったような気分だった。そしてその中で、『耳』の機能だけが元気だった。

 ライチ。ライチ。

 誰が呼んでいるんだろう。とても気になる。

 気になるんだけど、凄い眠い。

 そう、眠い。何もかも投げ出して、このままグッスリと眠ってしまいたい気分だった。

 だけど。

 ライチ。ライチ。

 眠ってしまいたい気分なのに、どうしても寝つけずにいた。

 この声が気になるから? うん。多分そうだ。

 じゃあちょっと確認しよう。確認したら、その後で改めてグッスリ寝よう。


 そう考えた直後、闇の一部が凝集して肉体となり、その肉体の腹に縄を括りつけられて目一杯引き上げられていくような、急激な浮遊感に襲われた。

 普通にビックリする。左右に激しく首を回すが、何も見えないし何も感じない。体も止まらない。

 そんな高速で引き上げられていく感覚に見を包まれていたその時、不意にその闇の向こうに一筋の光があるのを見た。そして同時に、体がその輝きの一点に吸い寄せられていっていると言う事も理解した。

 ライチ。ライチ。

 近づく程に光はその強さを増していく。やがて直視できないほどに眩しく、熱くギラギラと光を放つようになっていく。それでも体は止まらない。寧ろ接近スピードが上がってさえいた。

ライチ。ライチ。

 光の向こうから声がする。ああ、あそこが発信源なのか。

 視界を白で満たされながら、どこか安堵した気持ちを覚えていた。光の輝きが不安を全て消し去ってくれるかのような感じがして、とても体が軽くなっていく気がした。

 ぐんぐんと近づいていく。

 もはや躊躇いは無かった。

 ライチ。ライチ。

 光と体が接触する。

 ラ――

 意識が覚醒した。





「ラ――」


 カリンは絶句した。

 それまで手を握っていても反応の無かったライチが――死んだのかと言うくらい静かに眠っていたライチが――自分の目の前でいきなり目を開け、そしてゆっくりと上体を起こしたからだ。


「……あ」


 カリンが震えた声を出す。だがライチは自分の置かれた状況が飲み込めないでいたのか、それに気づかないままに未だ眠そうに目を細めながら首を動かし、天井を、そして窓側の方へと視線を動かしていった。

 やがてライチがゆっくりとこちらを向く。

 二人の視線が絡み合う。


「……ッ」


 ライチが生きてる。

 生きてることを実感する。

 心の箍が外れる。

 ライチが生きてる――!


「ライチッ!」


 その瞬間、カリンは自分でも意識しないままにライチに飛びつき、その体を強く抱きしめていた。


「ライチ! ライチ!」

「……え、ちょ……ええっ?」


 その時の衝撃で目が覚めたのか、ライチは自分の置かれた状況に気づくと同時に目を白黒させた。


「カ、カリン!? どうしたの、そんなに泣いて!?」

「ライチ……うっ、ひっく……馬鹿ぁ!」

「ええ!?」


 恋人に突然泣き顔で罵倒され、ライチが更に怯む。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、抱きしめる力を更に強めてカリンが畳み掛ける。


「ううっ……どんだけ……私がどんだけ心配したと思ってんのよ! この馬鹿! 大馬鹿!」

「そ、そんなに馬鹿馬鹿言わなくても」

「うるさい! あんたなんか馬鹿で十分よ! 馬鹿ぁ!」

「うう、そんな……」

「馬鹿! 馬鹿……! 馬鹿……」


 やがて罵倒一辺倒だったカリンの言葉から勢いが無くなっていく。


「……」

「……カリン?」


 カリンが言葉を切る。それまでの勢いが嘘のように押し黙る。


「カ――」

「……良かった……」

「え?」

「良かった――!」


 生きてて良かった。

 そしてそれまでとは語調を一転させ、うわ言のように弱々しく呟きながら、カリンがライチの胸に顔を埋める。


「カリン……」

「ううっ、うっ……ひぐっ……」

「……ごめん」


 そんな自分の胸の中でしゃくりあげるカリンを、ライチは――彼女がしたのと同じように――無意識の内に自らの手で抱きしめ返し、その頭を優しく撫で付けた。


「……ごめんね」

「う、うあ」

「ごめん」

「うあああ――」


 直後、ライチの暖かさを全身で感じたカリンが堰を切ったように号泣し始めた。その間もライチは自分の服が濡れる事も構わずに、カリンが落ち着くまでその体を抱きしめ頭を優しく撫で続けた。





 それから数分後、ライチはようやく泣き止んだカリンから、ここがどこで自分がどうしてこんな所にいるのかを全て知る事になった。

 祭りの途中でジャケットの一機がライチの自宅に落下したこと。

 家は全壊。それに巻き込まれたライチも重症を負い、大急ぎでこの病院に運ばれた事。

 今が緊急手術から一夜明けた午前六時過ぎだと言う事。

 そうした事の一つ一つを聞いていく内に、あの時自分の身に何が起きたのか、ライチは段々と思い出していった。そして記憶と同時にその時感じた恐怖をも思い出して体を小刻みに震わせたが、それを察したカリンが――最愛の人が自分の手をそっと握ってくれていた為に、恐怖に押し潰され泣き崩れるような事にはならずに済んだ。

 別れの時間はあっという間に訪れた。それまで二人は無事を祝うかのようにじっと互いの体を抱きしめ合っていたが、やがて名残惜しそうに体を離し、「また来るからね」と言い残してカリンが個人病室から去っていった。

 一人になると同時に寂しさが彼を襲いはじめた。とにかく心細かった。

 話し相手が――いや、付添い人が欲しかった。誰でもいいから、一人になりたくなかった。

 ライチはこの時、自分の親がいないというのがどれだけ寂しく辛いのかを痛いほどに知った。泣く事は無かったが、それでも彼の心は心細さによって今にも八つ裂きにされそうであった。

 ジンジャー・バーリィが花束を持ってその病室に現れたのは、その数分後の事だった。





「済まなかった」


 入ってくるなり、ジンジャーは真っ先に頭を下げた。ライチは他人に謝られると言う経験が皆無だったので、許す許さない以前に彼女の行動に対して大いに戸惑った。

 彼女に殺されかけたという実感が沸かなかったのもそれを助長した。とにかく、怒りや憎しみと言った物がてんで沸かなかったのである。


「ま、まあ、とりあえず立ったままって言うのもあれなんで、座って話しませんか?」


 だからライチはごく自然な態度でそう言って、自分のベッドの横にあった丸椅子を手全体で指し示す事が出来た。そんなライチの態度――まるで恨みを感じさせない態度を見て、今度はジンジャーが戸惑う番だった。

 それからジンジャーはどうするべきか迷うように視線をライチと丸椅子に交互に運んでいたが、やがて観念したように丸椅子へと進み腰を下ろした。


「……私に、何かして欲しい事があるのか?」


 そして慎重に言葉を選んでジンジャーが話しかける。それに対してライチは恥ずかしそうに頭を掻きながら、言葉を濁すようにしどろもどろな返答を返す。


「ああ、いえ、えっとそのですね」

「? どうした?」

「その……話し相手になってもらいたい……んですけれど……」

「――ああ」


 それくらいならお安いご用だ。断るような立場にいる訳でもない。理由は聞かずにジンジャーが頷く。そしてジンジャーが自らの提案を了承したのを見て、ライチは安堵の表情を浮かべた。


「ああ。良かった」

「しかし、私でいいのか?」

「はい。よろしくお願いしますね」


 敵意など欠片も抱いてないと言うのがありありと判るその態度を見て、ジンジャーの抱いていた警戒心や負い目と言った物もまた徐々に氷解しつつあった。


「ああ、いや、こちらこそよろしく」

「ど、どうも。よろしくお願いします」





 それから暫くの間、二人は他愛もない会話を交わした。それも最初はどこかぎこちなかったが、その雰囲気はお互いに自らの半生を教えていく中で次第に変化していき、最終的には被害者と加害者と言う関係がウソのような親密さの中で語り合うようになっていた。

 その雑談を通して、お互いに共通点が多いと言う事に気付いた――ロウアー出身である事。幼い頃に両親を失った事。緑に対して強い憧れを抱いている事など――のも、二人の親密さを増す要因の一つとなった。異なる点といえば、ライチは両親を失ったあと他のロウアーと同じように工業エリアでの労働――ジャケットの整備・修理を始めたのに対し、ジンジャーはそのジャケットに乗る道を選んだ事であった。

 大した違いではなかった。寧ろ同じジャケットに関係している仕事に就いていると言う点で、二人は更に親しみを増していったのだった。





「それで、ジンジャーはこれからどうするんですか?」


 ついにはライチが年上であるジンジャーを呼び捨てで呼べるまでに仲を進展させていた。最もこれは、話を進める中で彼女の方から「さん付けはやめてくれ」と苦笑交じりに言われたからであった。

 そしてそんな踏み入った質問に対しても、ジンジャーは嫌な顔ひとつせずに答えるのだった。


「ああ。島流しだよ」

「島流し?」

「火星追放」


 訂正。とんでもない事をさらりと言ってのけたのだった。驚きのあまり息を呑むライチに、カラカラと笑いかけながらジンジャーが言った。


「まあ、年に二度だけ行われる行事の中で、あれだけの事をしたんだ。死刑にならなかっただけ儲け物だよ」

「でも、追放された後で何処に飛ばされるんですか?」

「地球だよ」


 地球での無期限強制労働。ジンジャーが事も無げに言ってのける。


「タダ働きって奴だ」


 『タダ』と言う単語に対してジンジャーが顔を顰める。困るのはそこじゃないだろうと言いたかったが、ライチはじっと我慢した。


「地球での自給自足。流石にタダは無いよなあ」


 ライチは代わりに当たり障りない質問を投げかける。


「地球に行く事自体に抵抗はないんですか?」

「地球に? それはない」


 ジンジャーが即答する。


「何せ私が向こうでやる事は、緑化活動だからな」

「緑化活動? 例の?」

「ああ。何百年も前から火星政府が推し進めている例の計画だよ。君も聞いた事くらいあるだろう?」


 ジンジャーの言葉に、ライチが黙って頷く。それは火星に住む人間なら知らない者はいない程に有名で壮大な計画だったからだ。

 地球緑化計画。戦争と環境破壊によって汚染された海と砂漠と廃墟だけになった地球――生物の住めない死の星と化した地球に人為的に植物を植えていき、地球にかつてあった緑を取り戻していくと言う一大計画である。

 これは火星政府設立当初から政府が声高に宣言していた物であり、そして計画完遂には早くても二千年はかかると言う壮大にも程がある計画であった。


「これを動かす歯車になると言う事だ」

「本当に抵抗ないんですか?」

「ああ。前にも言ったが、あれだけやって生き残ってるだけでもラッキーなんだ。これ以上嫌がるのは贅沢という物だ。それに――」

「それに?」

「生の植物が見られるかもしれないだろう?」

「ああ」


 それもあるか。ライチは素直に頷いた。同時に、それならそれも有りかもしれないな、と心の中で僅かに思ったりもした。それ程に二人にとって――いや今の人間にとって『天然』の自然は貴重で有り難い物であるのだ。


「ああ、それはそうと」


 と、そこでジンジャーが思い出したように言った。


「さっき話した火星追放なんだが、実はもう一つ席が空いてるんだよ」

「もう一つ?」

「ああ。私の乗ったジャケットを整備した奴だよ」


 小さく笑いながらジンジャーが続ける。


「元はと言えば、そいつが中途半端に整備をしたのが原因なんだ。だからそいつが地球に落とされるのも道理というものだ」

「まあ、それはそうですね。でもどうしてそんな事を僕に?」

「いや、ひょっとしたらと思ってね」

「?」


 頭にクエスチョンマークをつけて首を傾げるライチにジンジャーが言った。


「私の機体は軍から支給されてきた物なんだが、それを整備した奴が――もしかしたら君なんじゃないかと思ってな」

「な!」


 突然の事にライチが顔を引き攣らせる。背筋が凍る思いを味わうライチに、ジンジャーが笑いながら立ち上がる。


「冗談だよ、冗談。確証も無しに、面白半分でただそうなんじゃないかと思っただけだ。真に受けないでくれ」

「も、もう、驚かさないでくださいよ」

「悪い悪い。まあそれが判るのも時間の問題だけどな――それじゃあ、私はこれで」

「何かあるんですか?」

「地球に降りるのにも色々と手続きがいるんだ。それじゃ」

「はい。こちらこそ、僕の都合に合わせてくれて、ありがとうございました」

「――本当に君は不思議な奴だな。加害者を前にして怒る事すらしないとは」

「今更それですか?」

「そうだな。今更だな」


 そう言い合ってお互いに軽く笑った後、改めてジンジャーがドアを開けて病室から出ていく。


 ――そういえば、あの人と会うのはこれで最後なんだな。


 その姿が完全に消えた後でライチはその事に気づき、何処か寂しさを感じたのだった。





 ライチの病室に彼の勤める作業場の工場長がやってきたのは、ジンジャーが帰った数時間後に出された病人食を食べ終えた後の事だった。

 裾口の狭い水色の作業着姿で、脇に書類の束を抱えていた。

 その顔は険しかった。


「あの、どうしたんですか?」


 その安穏としない雰囲気を肌で感じとり、ライチが不安気に尋ねる。だが工場長は何も言わずに丸椅子に座り、抱えていた書類を自分の膝に置いた。

 そのままの姿勢で顔を俯かせ、眉根に皺を寄せる。再度ライチが尋ねようとするよりも早く、工場長が口を開いた。


「MARIA-EG-375」

「……?」

「お前の家に突っ込んだ奴の識別番号だ」


 識別番号がどう言う奴かはお前も知ってるだろ? 工場長が顔を合わせないまま言った。言葉を漏らさずにライチが小さく頷く。

 識別番号とは、言うなればその機体を別の機体と区別させるための名前のような物である。識別番号はアルファベットと数字の組み合わせによって作成され、どのような番号がつくのかは機械によってランダムに決定される。


「その識別番号が、どうかしたんですか?」


 おずおずと聞くライチに、工場長が書類の束の中から一枚を抜き出し、それをライチに手渡した。


「これは?」

「ここ一ヶ月の間に、お前が俺の所で整備・調整したジャケットのリストだ」


 淡々と工場長が返す。どこか不安な気持ちを抱きながら、ライチがその資料に目を通し始める。

 そこには最上段にライチの名前と彼の住民コードが記載されており、そこから下にはライチが整備したジャケットの識別番号とそれの面倒を見た日時の一覧が――じっと見ていると目が痛くなるほどの細かさと密度で――横三列にズラリと並んでいた。

 嫌な予感がした。


「これが――これがどうかしたんですか?」

「とりあえず見てくれ」


 だが縋るような口調で放たれたライチの質問を一蹴するかのように、工場長がつっけんどんにそう返す。ライチは闇の中に一人取り残されたような気分になった。

 落ち込んでもいられない。今は上司の指示に従うのが筋だ。ライチはそう考え、不安で高鳴り始めた心臓を抑えつけながら、そのリストを左上から順番に、慎重に見ていった。

 視線が一番左下まで進む。

 目の動きが止まる。


「……」


 ライチは資料の一点を見つめたまま、石のように固まってしまった。工場長はその様子を見てバツの悪い顔を浮かべながら言った。


「MARIA-EG-375」


 ライチの手が――全身がガタガタと大きく震える。

 工場長が力任せに頭を掻き、さも嫌そうな口調でライチに死刑宣告を下した。


「お前がいじった機体だ」


 ライチの目の前が真っ暗になる直前、ジンジャーの顔が彼の脳裏をよぎった。





 それから一週間後、すっかり回復したライチの立場は悲劇の被害者から祭りを台無しにした犯人の片割れへと急落した。

 そして彼は周囲から恨みと同情がないまぜになった視線を浴びながら第一区域にある居住区監督局に向かい、そこで簡単な書類整理と身辺整理を済ませた。

 それは簡単に言えば、住民登録の抹消であった。火星からライチがいた痕跡を完全に消すのである。消すと言っても書類とコンピュータの中にある彼の身元を示す全データを消すだけだったので、それをされた所で自分はもう火星に住めないのだと言う実感は余り沸かなかった。


「明日には宇宙ドックに向かってもらいます。よろしいですね?」

「はい」


 何の感動も覚えないままにライチが頷く。火星に対して自分はこれと言って愛着を抱いていなかったのだと、ライチはこの時初めて自覚した。これが監督局に来た際の一番の収穫であった。


「……」


 それでも全ての作業を終えて監督局から出た時、ライチはどこかアンニュイな気分になった。体が軽くなりすぎて逆に不安な気持ちになったのだ。

 その日の夜は徹夜作業をする際などに使われる宿泊施設に泊まった。これが最後の火星の夜なのかと少しだけ感傷に浸った後、感慨深く思い出を走馬灯のように脳裏で駆け巡らせることも無く、ぐっすりと眠ってしまった。





 個人情報抹消をした翌日。火星時間午後三時。

 ライチは地球に向かう白いシャトルの中にある、窓側の座席の一つに腰を下ろしていた。シャトル自体は機体後部にデルタ翼を具え、底部に耐熱素材を敷き詰めた簡易な作りの機体であった。窓には壁と同じ色合いの耐熱カバーがかけられており、外の様子を伺うことは出来なかった。

 ライチの右頬は不自然に赤くなっていた。


「まさか私の予言が当たってしまうとは……」


 そんなライチの横で、同じく地球送りとなっていたジンジャーが苦笑した。このシャトルの乗客はライチとジンジャーの二人だけだった。だが息苦しさは全く無かった。

 そしてもはや完全にわだかまりの無くなった様子で、ジンジャーがライチに言った。


「向こうに降りたら、占い師にでもなろうかな」

「本気ですか?」


 そしてそんなジンジャーの言葉を受けて、ライチも自然な語り口で返す。彼女のせいで死の淵を彷徨った事に対しては、ライチは今は何の恨みも抱いていなかった。


「占い師って、言うほど楽な仕事じゃ無いと思うんですけど」

「この世の中に楽な仕事があると思うか?」

「……無いですね」

「そうだろう、そうだろう」


 ライチの言葉にジンジャーが大仰に頷き、そして二人揃って小さく笑い声を上げる。だが少し笑った後で顔を背けて表情を曇らせたライチに、ジンジャーが気に掛けるように柔らかい口調で言った。


「……やっぱり、辛いか?」

「――はい」


 素直に頷き、そのすぐ後にライチが言葉を続ける。


「でも、辛いって言うのは火星で暮らせなくなるからじゃなくて、その……彼女と」


 カリンと離れ離れになる。ライチが言った。

 カリンと離れ離れ。ライチがそれに気づいたのは、この日の早朝にカリンに会いに行った時であった。カリンからそれを指摘され初めてそれに気付いた時、ライチは己の迂闊さを呪った。


「……」


 ライチが顔を俯かせ、その表情を悲痛で歪める。

 ジンジャーは何も言えなかった。人の色恋にずけずけと踏み込めるほど、彼女の神経は図太くは無かったのだ。

 場を気まずい空気が支配する。物悲しさと重圧で息苦しくなる。


「それではこれより、シャトル『フラッグ』発進します。ブースター点火の際多少揺れることがありますが、ご了承ください」


 そんな沈黙を破ったのは、そんなパイロットの形式張った注意勧告とその直後に二人を襲った軽い振動であった。

 ベルトで固定された体が僅かに浮き上がり、一瞬の浮遊感を味わった後にすぐさま座席に戻される。そしてその後も小刻みな振動が座席を通して体に伝わり、やがて揺れが完全に収まると同時に窓を覆っていたカバーがずり上がるのを見て、そのシャトルが完全に離陸を終えたのだと言う事を認識する。


「どうやら出発したようだな」


 窓の向こうに広がる暗黒の宇宙空間に視線を向けながら感慨深げにジンジャーが呟く。そしてその視線をライチの方に移し、小声で囁くように言った。


「……大丈夫か?」


 反応がない。少し逡巡した後、その肩に手を置く。その自分の肩に置かれた手を優しく片手でどかし、ジンジャーの方に向き直ってライチが答える。


「大丈夫ですよ。大丈夫」


 その顔はやはり沈痛な面持ちだったが、それでも最初に見せた物よりかは幾分か痛ましさが和らいで見えた。


「何も一生会えなくなるって訳じゃないんですから。全然大丈夫です」

「……本当か? 無理してるんじゃないだろうな?」

「無理してませんよ。ちゃんと理由があるんです」


 ライチがはっきりとした口調で言葉を続けた。


「カリン――僕の恋人なんですけど――が通ってる学園で、今から二ヶ月後に社会見学があるんです」

「ほう。それで?」

「それで、その社会見学では伝統として、地球に降りる事になっているんです。そして地球の中で比較的緑化の進んでいるエリアを見て回るって言う事になってるんですよ」

「君の恋人からの情報か?」


 ジンジャーの問いかけにライチがしっかりと頷く。その目は輝き、希望の光が灯っていた。


「ええ。だからその時に会えるチャンスがあるって事なんです」

「なるほど。それは期待大だな」

「ええ。だから私がいないからって向こうに行ってもウジウジするなって、彼女に怒られちゃいましたよ」

「ああ、だから片方の頬が赤いのか」


 ジンジャーの指摘に顔をハッとさせて、頬を手で隠して慌てて顔を背ける。後の祭りだった。


「弱音を吐いてひっぱたかれたか。君の彼女は強いんだな」


 ケラケラ笑ってジンジャーが言った。対するライチは気恥ずかしさで顔を真っ赤にし、そして反論をしようと再びジンジャーの方へ顔を動かして――そこで一気に顔色を青ざめさせた。


「? どうした?」


 不審に思ったジンジャーがライチに尋ねる。完全に恐怖に怯えた様子で、ライチは一言も発しなかった。

 否、その視線はジンジャーに向けられてはいなかった。その後方、ジンジャーの背後へと向けられていた。

 ジンジャーが体を動かし、その方向へと向き直る。


「なんだ? 何が――」


 そこまで言いかけてジンジャーもまた体を硬直させる。無理もない。

 振り向いた自分の鼻先に拳銃が突き付けられていたからだ。


「動くな」


 フルフェイスマスクをつけた男――声質は男だった――が反射的に両手を上げた二人を冷ややかに見つめながら、冷たくドスの利いた声で脅してきた。


「お前たちの事は知っているぞ。ジャケットのパイロットと整備士だな」


 銃口を交互に向けながら男が尋ねる。二人は黙って首を縦に振る。


「俺は『青空の会』の者だ。一緒に来てもらうぞ」


 反論は許さんと言いたげな口調で男が言った。

 いや、このように銃をつきつけられた状態で、どうして断れようか。

 シャトルの航路が予定のコースから外れている事に気づく事無く、二人はその要求に黙って従う他なかった。


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