第百二十話「チェイス終了」
火星人達は疑心暗鬼の極みにあった。
自分と同じ火星人――それも自分達よりもずっと上の立場にいる人間達が、地球緑化計画などを通して『地球を大切にしよう』と標榜する一方でその地球を企業利益のために利用し汚していた事。そしてそこの利用価値がなくなったと判断して地球衛星軌道上に残る軍事衛星を乗っ取り、弾道ミサイルを使って関係者の口封じと証拠隠滅を狙った無差別爆撃を現在進行形で行っている事。そして件の火星人が使った物と同じミサイルが、今現在自分達の頭上から降り注いできている事。
これらが全て同時に彼らの前に現れ、その心を酷くかき乱していた。一部ではそれを聞いた強烈な地球信奉者達が集団で軍の倉庫を襲撃、練度の差を数で覆して格納されていたジャケットを奪い、それを駆って自分が見たリストの中にあった人物の経営している企業の本社ビルへ『直談判』に向かっているという話も立ち上っていた。証拠も何も無い非常に胡散臭い情報であったが、火の無い所に煙は立たないものである。
そしてそのような憶測混じりの噂や情報が、彼らの心を更に混乱へと突き動かしていた。
「乗せろ! 乗せてくれ!」
「金ならいくらでもある! 頼む! 乗せてくれ!」
そうして混乱の極みに叩き落とされた彼らの中には極限にまで追いつめられたがためにそれに比例して生存本能が最大限まで働き、結果的に刹那の閃きを見せる者もいた。そしてそんな閃きを見せた者達は現在、それぞれ最寄りの宇宙港――その各ドックごとに係留されていた宇宙船に殺到していた。
火星から脱出するためである。
「お願いします! せめてこの子だけでも!」
「私は会社の社長だぞ! 私から先に乗せろ!」
「ふざけんな! 前に並んだ奴から先だ!」
ある者は身分証明証を、ある者は札束を、またある者は自分で立てないほどに幼い自分の子供を両手に持って高々と掲げ、格納されたタラップの向こう、アームで上部から固定された宇宙船の側面にある堅く閉ざされた狭き門を開けるよう必死に懇願していた。警備員達はすでに人の波の中に飲み込まれ、完全に無力な存在と化していた。そしてそんな人並みの中には、平時はそこで働いていた宇宙港スタッフの姿もあった。チェックイン担当や荷物検査担当など、職務への誇りをとうの昔に捨てていた者達だった。
しかしそれは誰にも責められないものだった。この時は誰も彼もが自分の事を考えるので必死だったのだ。
「なんか言ったらどうだ! おい! さっさと開けろ!」
「もたもたしてたらここにもミサイルが落ちてくるかもしれないんだぞ! わかってんのか!」
最前列に立つ面々が腰ほどの高さを持つ柵に体を押しつけ、上半身を前のめりにさせて声を張り上げる。更に彼らの後ろにいた面々も少しでも前に進もうと容赦なく前方に力を加えてくるため、柵には更に荷重がかけられたが、地面に取り付けるのではなく地面の一部を直接変形させて加工したそれは数百人もの体重を一斉に身に受けながらも己の役割を全うしていた。
柵だけが仕事をしていた。
「くそ! こいつら、言いたい放題言いやがって!」
そしてそんな群衆に囲まれた宇宙船のパイロット二人も、群衆と同様に混乱と苛立ちの中に置かれていた。彼らの中には一人でも多くの人間を乗せていきたいという気持ちも確かに存在していたが、それ以上に外の連中と同じくさっさと火星から逃げ出してしまいたいという欲求があった。しかもそれは、先に記したパイロットとしての矜持を塗り潰してしまうほどの勢いで彼らの理性を侵略していた。
「どうする? いっそあいつらを捨てて逃げるか?」
「そんな事出来るか! お前それでもシップのパイロットか!」
「でもだからって、あいつら全員を容れるスペースはここにはねえぞ! どうやっても無理だ!」
「それは」
「ロックの操作はこっちでもできる! 俺達だけでも行くべきだ!」
ここだけでなく、火星にある全ドックの船体固定アーム及びエアロックシステムは、全ドックの運行状態を総括する管制センターからだけでなく各ドックに係留している宇宙船のコクピットからも操作することが可能だった。これはパイロットの良心や責任感を信頼した上での、有事の際に備えての措置である。
宇宙船が外にでるにはまず第一ドアのロックを外してその先にあるチューブ状の内外連絡通路へアームで固定されたまま移送され、次に第一ドアを密閉した後でチューブ内の気圧を宇宙空間のそれと同じ物にし、第二ドアを開放した後にアームを展開し宇宙船を自由にするという手順を踏む必要がある。そして正規の手順を踏まずに第一ドアと第二ドアを同時に解放する事も可能であった。
その気になれば、宇宙船だけで脱出することは可能なのだ。
「……だが、今それが出来ると思ってるのか?」
しかし彼らはそれをしなかった。ずっと前から口では力強く主張していたが、今まで一度もコクピットから直接操作を行おうとはしなかったのだ。
「俺達にそれが出来るとでも思ってるのか? ここにいる俺達が?」
「それは……」
しかしそれは彼らの良心がそれを咎めたからではない。
「燃料もある。空気もある。コンピュータも生きてる。でもドアの方が無線を受け入れないんじゃ話にならないだろうが」
彼らの眼前にあるドアがこちらからのアクセスを一切受け入れず、沈黙を保っていたからにすぎなかった。原因は不明。対処法も不明。管制センターにいるスタッフの殆どは自分達の物も含めた宇宙船のすぐ近くで助けを請うていた。打つ手なしの有様であった。
「じゃあどうする? このままじっとしてるってのか?」
「それ以外ないだろ。今このことを外の連中に伝えたらどうなると思う?」
確実にパニックになる。深く考えずとも容易に想像のつく事であった。
「俺達に出来る事は何もないよ」
苛立ちと諦めの色をない交ぜにしながら、パイロットの一人が呟く。もう一人もそれを聞いて観念したのか、いくらか顔の筋肉を緩めつつ窓から外の光景を伺った。
外からは今も乗船を求める人間達の声がひっきりなしに轟いていた。それは窓から覗いた方だけでなくもう一方の心の平衡を止めどなくかき乱したが、皮肉にもそれは同時に、彼らの抱いていた出発準備は整っているのに外に出られない事への不安や焦りさえも揉み消してくれていた。
それしか救いが無かった。
今日自分は、何か悪いことでもしたのだろうか? 自分の両手――上から下へ向かって現れた両手を呆然と見つめながら、ライチは自問せずにはいられなかった。そして手を視界から外して、次に首を動かさずに周囲の光景を見る。
視界に入ったのは見事にブッ壊れた車の内部だった。そこは自分の手と同様に天地が逆転しており、フレームはひしゃげ、ガラス類は全て粉々になり、運転席と助手席からは火花や煙が立っていた。特にシートが天井から地面に向かって垂直に伸びている光景は斬新で新鮮で彼の心に強く焼き付いた。しかしそれを長々と鑑賞する余裕は彼にも、そして彼の首にもなかった。
ライチは今、頭頂部だけで全身を支えている格好となっていたからだ。なぜ自分がこんな体勢になったのか、何が原因でこうなったのか、ライチにはまるで見当もつかなかったが、しかし自分がどのような体勢を取っていたのかについてはすぐに察しがついた。頭にばかり血が上ってきていた時点で気づいていた。
「く、くそ」
まずは楽な姿勢になろう。そう考えてライチは一点倒立の姿勢から両手を地面につけて三点倒立へ、次いで体を慎重に右へ捻って横ばいの姿勢へ移る。左側には気絶したカリンがいたからだ。
ゆっくり、ゆっくりと、無事に体が地面に落着する。
「があ……っ!」
しかしその直後、鞭打たれた体が一斉に悲鳴を上げてライチの顔を歪ませる。
「ああ、くそ! くそ!」
それでも何とか横ばいの姿勢になったライチは悪態をつきつつ、すぐさまうつ伏せの体勢をとり、カリンの元へ匍匐前進で向かった。
「か、カリン、カリン!」
肩に手を押き、強く揺する。そうするうちにカリンの体が小さく震え、やがて首がゆっくりと動いてその顔をこちらに向けてくる。
「ライチ……?」
間近で見たカリンの顔は悲惨な物だった。大きな傷こそ無いものの小さなアザやかすり傷がそこかしこに刻まれ、更に流れた汗によって髪の毛や砂埃が貼り付いていた。ライチは上流階級のお嬢様達の間でどのようなメイクが流行っているのかわからなかったが、今の彼女の顔が女の子のしていいメイクでない事だけはよくわかった。
「カリン、大丈夫?」
「ええ、げほっ、大丈夫。まだちゃんと生きてるわ」
悲痛な表情を浮かべるライチを心配させまいと、カリンが咳き込みながらも笑顔を作る。しかし明らかに無理をして作られたその笑みは、却って彼女の受けた傷の痛ましさを強調してもいた。
「それより、あの人は? 運転してた人」
しかし話題をそらす意味でカリンが問いかけ、運転席の方へ目を向ける。そして辛うじて動ける状態にあったライチが運転席の方へ這いずっていく。そして痛みに顔を歪ませながら運転席の方へ首を動かしたライチは、そこでシートベルトで固定された状態で逆さまにシートに座っていた老人を発見した。
彼が気を失っていた事は規則的に胸が上下する事から察する事が出来た。だが同時に額の一部分が酸化した血液で赤黒く染まっており、それがライチを焦らせた。
「出血してる」
「大丈夫なの?」
「わかんない。でも血は固まりかけてるから」
カリンの問いかけにライチがそこまで言い掛けたその時、腹に溜まるような重い音と震動が二人を襲った。
「うわっ!」
「なに!?」
突然の事にライチがその場で硬直し、ライチと対照的に仰向けになっていたカリンが悲鳴を上げる。その間にも音と震動はセットになって二人に降りかかり、その間隔は次第に短くなっていった。
そして車体が中の三人ごと真上に跳ぶ程の震動と耳元で爆音が轟いたまさにその時、ライチの目の前にそれが現れた。
「やばい」
ライチの顔が絶望で染まっていく。カリンには何が起きたのかさっぱりだったが、何か良くない事が起きているのは察することが出来た。
「追ってきたジャケットが来てる」
そして次のライチの言葉がカリンの顔から生気を削ぎ落とした。
「ああくそ、ここどこだよ? 倉庫? 軍隊用の倉庫? ええいくそ」
自分は今日何か悪いことをしたのだろうか。小声で呟きながら周囲を見渡すライチの後ろで表情を青ざめさせながら、カリンは己の運命を呪わずにはいられなかった。




