第百十八話「エスケープ」
軟禁されていた部屋を取びだした時点で、ジェイクの精神の均衡は完全に崩れていた。この時の彼の脳内には、姉を助け出し、一緒に仲良く暮らす事だけしか存在していなかった。
その仲良く暮らすまでの細かな計画や、その後の展望などは頭の中からごっそりと抜け落ちていた。エリートらしからぬ短絡的な思考だったが、平静を失った今の彼にとっては結果が全てだった。
「あれだ、あれだ、あれを……!」
作戦も計画も満足に作る余裕は無い。力ずくで己の道理を通すのみ。ジェイクの沸騰した頭ではそれが思考の限界だった。しかしここで彼にとって幸いだったのは、そんな彼の言い分を通せるだけの力が手元に存在していたことだった。
「あれさえあれば……!」
家を飛び出し、北西に一キロほど進んだ所にある空き家。自分のポケットマネーで格安で買い叩いた――上流階級の家の息子はもらえるお小遣いの額も桁違いだったのだ――その家の地下に、父にも内緒で購入し密かに隠しておいたそれが、像の如く屹立していた。
「これだ!」
地下に降りてそれを前にした時、ジェイクは唇の端を吊り上げ薄気味悪い笑みを浮かべていた。それは自分がこれからやろうとしている事がとんでもなく非常識で犯罪行為と呼ばれても致し方ないものであり、そしてそれが犯罪であると知りつつ手を染める事への背徳感から来る暗い興奮がもたらす物であった。
今のジェイクに、それが犯罪であるという事を理解できるだけの思考能力は備わっていた。だが「それはやってはいけない」という理性のブレーキは完全に壊れていた。
「俺はやる。俺はやるぞ」
迷うことなく機体表面に据え付けられた段を伝ってコクピットまで登り、操縦席に腰を下ろす。シミュレーションは何度も行ってきた。起動の手順は完全にマスターしている。なんの問題もない。
「ユスティジア、起動……!」
ジェイクの声に応えるようにコクピットハッチが閉まり、前面に降りたそれがまるごと巨大なモニターとなる。その後、腹の底に鉛のように溜まる重低音とシートを揺さぶる震動が彼を包む。
「……待っててね」
やがて音と震えが完全に止まる。それまで上下左右に揺れていた視界も完全に安定し、彼はそれがこの機体が直立し終えた合図だと悟る。
「待っててね、姉さん!」
使命感に満ちた熱い叫び。それと共に両方の操縦桿を勢いよく前に倒し、乗り込んだそれ――鋼鉄の塊を全速力で前へと走らせる。長い間沈黙を保っていた白銀の巨人――正義と名付けられた肥満体型の巨人が、一軒家の壁を突き破ってそれを内側からぶち壊し、外の世界へと産声を上げた瞬間だった。
ライチ達は今現在目の前で起きているそれを、どこか遠い世界で起きている事のような気持ちでーー他人事のような気持ちで見つめていた。端的に言えばそれは単なる現実逃避であったのだが、目の前で起きていたそれは彼らが思わずそうしてしまうほど衝撃的な光景であったのだ。
「これは……」
「ひどい」
突如現れたジャケットが背中に大量に積まれた爆弾を一個一個取り出し、足下から遙か彼方に至るまで無差別に投げまくっていた。ビルと言わず道と言わず人と言わず、そのラグビーボールの形をした爆弾は何かとぶつかった直後に音と粘りけのある黒煙と炎と衝撃を周囲にまき散らし、辺りの物を容赦なく巻き込んでいった。
爆発音と衝撃に混じって人の悲痛な叫びがこだまし、間欠泉の如き勢いで外向きに吹き飛ぶ煙に混じって人間が高々と空へ打ち上げられる。窓ガラスが根こそぎ砕かれて建物の内側へ吹き飛び、人間と共に車や自転車が宙を舞う。その中には火達磨になりながら空を飛ぶものもあり、中に乗った人間ごと火の玉と化していたものもあった。
地獄だった。正義の作り出した、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。ライチと老人は呆然と立ち尽くし、カリンは反射的に耳を塞いでいた。しかし三人の目線の先には、破壊の限りを尽くす白銀の巨人の姿が等しく映っていた。
その三人を、ついに巨人のセンサーが捉えた。
「いかん!」
それまでの破壊行動を中止し、のっぺらぼうの顔を下げつつこちらへまっすぐ歩き始めた巨人の姿を見て、それが何を目的としているのかを察した老人が叫ぶ。そしてすぐさま放心していたライチとカリンの肩を叩いて正気を取り戻させ、二人に向かって声を張り上げて言った。
「早く逃げるぞ! あいつの狙いは多分私達だ!」
「へっ?」
意識を取り戻した直後にとんでもない事を言われて、ライチがあからさまに混乱した声を上げる。そしてその調子のままライチが老人に尋ねた。
「な、なんで?」
「私の勘だ」
「勘って、そんな理由で」
「それで合ってると思う」
反論しかけたライチの言葉をカリンが制する。思わぬ方向からの擁護にライチだけでなく老人までもが驚いてその方を見返すと、カリンはいつにも増して力強い口調で言った。
「さっき、あの中からジェイクの声がした?」
「じぇ? 誰だそれは?」
「私の弟」
「弟」
老人がオウム返しに答え、その後続けて言った。
「君を取り返そうとしている訳かね」
「ついでにライチとあなたを消そうとしている」
「どうして?」
「あいつにとって、私に近づいてくる自分以外の男は全員敵だからよ」
淀みなく言い切ったカリンの顔は平素と変わらない調子だったが、それに対して老人の表情はいつにもまして苦渋に満ちたものとなっていた。ジェイクに対して言いたいことはあったが、実の姉であるカリンへの遠慮の気持ちもあり、それをなかなか言えずにいたのだった。
「シスコンなのよ」
しかしそんな老人の様子などお構いなしに、カリンが彼の一番言いたいことを自分から吐き出した。老人だけでなくライチも目を白黒させたが、カリンはなおも平然としていた。
「君は弟が嫌いなのかね」
「そ、そうじゃないわよ。ちょっと鬱陶しいとは思ったりするけど」
私のライチを邪険にするから嫌いだ。などとは恥ずかしくて言えなかった。よりにもよって本人の目の前で。
そしてこれ以上その話題を掘り進められたくもなかったので、カリンは話を有耶無耶にするためにわざと大きな声で二人に言った。
「それより、はやく逃げましょう! 今がチャンスなんでしょ? モタモタしてる場合じゃないわ!」
「そ、それもそうじゃな」
「うん、行こう」
若干カリンの気迫に圧される形ではあったが、ここに来て三人の息が再び一致した。そして三人はこちらに迫ってくるジャケットに背を向け一斉に走り出した。
「ああ、ちょっと」
だが数歩しか走っていない所で、不意に老人が二人を呼び止めた。何事かと振り返る二人の前で、老人は真横にあった車ーー車道の脇に停めてあった車の運転席側の窓ガラスを肘で叩き割った。
「ちょっ!?」
驚くライチを尻目に老人が外から内へ手を伸ばしてロックを外し、自然な動作で運転席に滑り込む。そしてガラスの無くなった窓から顔を出し、突っ立ったままの二人に向けて言った。
「早く乗れ! 車使った方が速い!」
「え、でも」
「無断駐車した方が悪いんじゃ」
そう言い切った老人はまったく悪びれる気配がなかった。そしてその直後、その老人の乗り込んだ車の後方から再び爆音が轟いた。
「さっさとしろ! 死にたくないだろ!」
件の爆音とその直後に老人の放った台詞が、二人の背中を押した。そして子供二人が後部座席に乗り込むのをバックミラーを使って確認した後、老人はハンドル横にあるキーの差し込み口を見た。
エンジンはかかっていなかったが、鍵は挿しっぱなしだった。そのあまりの杜撰さに、盗人の立場にいるはずの老人が顔をしかめた。
「まったく不用心な」
「それより、車使えるの?」
「免許とか持ってるんですか?」
「免許か、心配いらん」
ライチの質問に、老人がキーを回しながら自信満々に答える。
「ジャケットの操縦免許なら持ってる」
「は」
「飛ばすぞ!」
後ろ二人の反論を許さないかのように、老人が初手からアクセル全開で車をぶっ飛ばす。摩擦を溝でキャッチしきれなかったタイヤが路面の上で激しく回転して白煙を立ち上らせ、やがて甲高い音を立てながら前へと驀進する。
突然の衝撃にシートベルトをしていないライチとカリンは座席に押しつけられるような格好になったが、老人は気にする事無く、それどころか更にアクセルペダルを踏み込んだ。
「きゃあっ!」
「ちょ、はや」
「しっかり掴まっておけ! 揺れるぞ!」
ライチ達の不満など意に介する事なく、老人の駆る車はますますスピードをあげていったのだった。
そんな自分から逃げるように走り去る車の姿を、周囲から立ち上る黒煙に巻かれる格好となっていたジャケットはしっかりと認めていた。




