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第百十一話「潜入」

 アラカワとアロワナが対峙していたのと同じ頃、ライチ達はそのアラカワの助言に従い未だ火星に留まっていた。そして彼らはこれまたアラカワの指示通りにライチとカリンを匿っていた老人の家を出て、ハイヤーの人種が労働に従事する都市部の一角を歩いていた。


「うわあ……!」


 自身の纏う服をそれまで着ていた古めかしい布で作られた安っぽい物から上質な化学繊維で作られた小綺麗な物に着替えたライチが、目の前にそびえ立つ摩天楼の群れを見上げて感嘆の声を漏らす。その目には上流階級に対する憧れや嫉妬ではなく、ただ純粋な驚愕の光りが宿っていた。


「あんな大きい建物の中に人が入ってるの? あの中全部に?」

「ええ、そうよ。あそこのビルの一階に入っているのが食料品を取り扱う会社、そのビルの上にあるのが車の製造を行っている会社で、それの向かい側に建ってるビルの最上階付近を独占してるのが電力の生産と供給を行っている会社ってところね。私が知ってるのだとこれが限界だけど」

「へええ……!」


 カリンの言葉を受けてから、ライチが再び摩天楼を見上げて目を輝かせる。自分が火星にいた頃に、そして地球に降りてから一度も見たことのないその美しくそびえ立つ高層ビルの群れは、彼の目にはとても圧倒的な存在感を放ち、それでいて非現実的な代物として映っていた。


「凄いなあ……! 凄いなあ!」


 田舎から上京してきたばかりの「おのぼりさん」というよりも、初めてそれを目にする幼子のように、ライチが口と目を開かせたまま純粋に歓声を上げる。その無邪気な様子を後ろから見ていたカリンは口を握り拳で隠しながら小さく笑いをこぼしていたが、一方の老人は苦笑を浮かべつつ、そのライチの方へ静かに歩み寄っていった。


「ライチ君、驚くのもわかるが、視線は上ばかり向けていて良いものではないぞ。自分と同じ高さの方へも目を向けて、しっかり地に足つけて行くのも重要じゃ」


 そしてライチの肩に手を置きながら老人が言った。突然のことに驚いて肩越しに老人の方を向くライチに、前を指さしながら老人が続けた。


「あれを見なさい」


 老人の言葉につられて、ライチが彼の指さす方へ目を向ける。そこにあるのは赤い光が灯った信号機を前に蟻のように延々と列を作る、核融合エンジン駆動のホバー自動車達であった。そしてその大半が前の車を急かすようにクラクションをがなりたてていた。

 その人の品性を疑うような、独善的で暴力的な光景だった。


「文明の光と影じゃな」


 高層ビル群を見たときとは異なる驚きをその顔に表すライチを尻目に、老人が他人事のように笑い声をたてる。一人残されたカリンは見るからに落胆したライチを見てどこか気まずそうに息を吐きつつ彼らの元へと歩み寄り、二人に向けて言った。


「とりあえず、目的のビルに向かいましょう。やることやらないとね」

「でもカリン、君はあんなめちゃくちゃな計画、本当に上手く行くと思ってるの?」


 不安げなライチからの問いかけにカリンが答える。


「あそこでくすぶってるより、何かやって動いた方がずっと良いのよ。これ、地球で私が覚えた教訓ね」

「でも君、ハイヤーじゃん。同じハイヤーにあんな事するのに抵抗とかないの?」

「別に考えたことないわよ。私、地球の方が好きだし。それにライチも傍にいてくれるしね」

「私も特に嫌とは思わんな。これといってあいつらに義理もないし。何よりあいつらは私のコレクションを馬鹿にしおったからのう」


 カリンの言葉に続くように老人も答える。それを聞いたライチはこれ以上追求することを諦め、替わって目の前のハイヤー二人に目的地までの道案内をしてもらおうと頼んだ。


「じゃあ、お願いしてもいいかな?」

「もちろん。任せといて。でもこの辺りは広いから、ちゃんと離れないでついてきてね」


 ライチの頼みをカリンが二つ返事で引き受けた。そして彼ら三人は離れすぎないように固まって、アラカワの提示した目的地へ向けて歩き出した。





 数分後、彼らはカリンの案内の下、目的の建物の前までやってきていた。


「ここが?」

「ええ。ここが火星全域の映像用電波を一手に取り扱う会社、いわばテレビ局ね」


 マーズ・ブロードキャスト・ネットワーク。通称MBNの本社ビルを前にして、カリンが説明を続けた。


「テレビ局といっても、別にMBNが番組を作ってる訳じゃないの。ここはいわば、番組の発信場所ね」

「どういうこと?」

「仕組みとしてはこんな感じよ。まずMBNと契約を結んだ制作会社やスタジオが、それぞれドラマやニュースのような番組を作る。そしてその制作会社は完成した番組をこのMBNに送って、MBNはその受け取った番組をチャンネルごと、曜日ごとに割り振る。最後にその割り振られたスケジュール通りにそれぞれの番組を送信する」

「つまり、そのMBNっていう所が、他の人達が作った物を一度回収して、それから一括で送信しているってこと?」

「そういうこと。テレビ電波の総元締めって奴ね」


 へええ、とライチが感心したように声を漏らす。ライチと共にその話を聞いていた老人も「そういう話だったのか」と目を細めて頷いていた。


「しかし君、よくそんな話を知っとるね」

「昔教わったんですよ」

「誰に」

「専属の家庭教師に」


 老人の問いかけにカリンが答える。その声はどこか寂しげだったが、その気配を他の二人に気取られるよりも前にカリンが先に口を開いた。


「それより、早く始めましょ。もたもたしてたらあいつらに捕まっちゃうわ」





 それから更に数十秒の後、彼らはMBNのビルとその隣に建つ別のビルの間にある隙間の中に潜み、そこにぽつんとあったマンホールを囲むようにして立っていた。


「本当にここから忍び込めるのかな?」

「やってみないとわからないわよ」


 カリンの返答を聞きながらライチが腰を下ろし、そのマンホールに開いた小さな穴に指をかけ、音をたてないよう慎重に脇にずらす。

 マンホールが外された先には底が見えないほどの暗闇があり、そしてその側面には闇の中に途中から飲み込まれるように奥底へと続く梯子があった。


「よし。私が最初に入ろう。君達は私の声がしてから降りてきなさい」


 老人がそう言って梯子をつかみ、そこから慎重に穴の底へ降りていく。非常にゆっくりとした足取りだったが、やがて老人の姿は完全に闇の中へと消えていってしまった。


「大丈夫、思ってたより浅いぞ。降りてきなさい」


 その姿が闇に消えてすぐに、老人の元気な声が穴の底から聞こえてきた。その反響音を聞いたライチが、カリンの方を向いて言った。


「じゃあ次はカリンが降りて。僕が見張ってるから」

「ええ」


 頷き、カリンが梯子の一番上の段に足をかけ、そしてそこで梯子の縁を掴みつつ向きを変えて梯子と向き合い、降りる姿勢をとる。


「でもさ」


 そこでライチがカリンに声をかける。降りる動作を中断して彼の方を向いたカリンに、ライチが怪訝そうな顔つきで彼女に言った。


「これ、成功したらどっちにしろ僕たちがここにいるってばれるよね?」

「かもしれないけど、何もしないよりマシでしょ?」


 もっともだった。何も言い返せずに頷くライチに笑みを浮かべると、カリンがそのまま一段ずつゆっくりと梯子を降りていった。

 少しして、底からカリンの声が聞こえてきた。それを聞いたライチは今度は自分が梯子をつかみ、カリンよりは滑らかな動作で梯子を降りていった。

 降りようとした所で、彼はマンホールの蓋を元の位置に戻す事を忘れなかった。その時の様はるでマンホールが独りでに動いて開きかけた穴を再び塞いだかのように見えたが、それを見た者は一人もいなかった。

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