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第十話「オー、ラヴィン、ユー」

「ワカヤマを通過」

「エンジン停止」


 司令室に声が響く。

 照明が全て消え去る。鈍い音が底から響き、地面が僅かに揺れる。

 ヤーボの視線の先、唯一光を放つモニターに映された四本の縦グラフが一気に下に下がっていく。

 全てのグラフがゼロに下がる。ヤーボの横にいたライチがモニター横のマイクに顔を近づけ、声を掛ける。


「レモン、接続は?」

「メインバイパスコネクト。イニシャライジング。システムハック……コンプリート。オッケーですー」


 いくつか物騒な言葉が聞こえてきた気がするが、無視。ライチがもう一度声を掛ける。


「エンジンを起こすよ。いいね?」

「もちろん、いつでもどうぞー」


 マイクのスイッチを切り、ライチが背後を向いて頷く。

 テーブルの上に直立で滞空するイナ、彼女の周囲を泳ぎまわるスバシリ、イナの足元で体育座りでうずくまるクチメ。

 イナが腕を組み、静かに、だが力強く言った。


「点火」


 地の底から再び鈍い音。照明が再び灯り、足場がゆっくりと振動する。


「……出力上昇。七十。七十五。八十。八十五。九十……」

「システム正常。オールグリーン……凄い……これなら……!」


 まるで問題なく稼働する船を見て、イナが目を丸くする。淡々と状況を告げるクチメの顔にも、ほんの少し驚愕の色が見えていた。


「キャハハハハッ! すごーい! 人間核融合炉だー!」


 スバシリは腹を抱えて笑ったまま遊泳していた。また何か不穏な言葉が聞こえてきたが、これも無視。

 こうして新たなエネルギーを得たカサブランカは、第一目的地であるコウチへと向けて再発進したのだった。





「はあ……」


 船が再稼働し目的地へと発進した時、エムジーは自分に宛てがわれた船室のベッドの上で膝を抱えていた。

 その目は真っ直ぐ前に向けられていたが、その光景は脳内に入って来てはいなかった。

 頭の中に映し出されるのは、決まってあの情景。


「ライチ……」


 ライチ・ライフィールド。

 寂しげな目で砂漠をじっと見つめていたあの横顔。

 自分の方を向いた時の、あの顔。あの瞳。

 真っ直ぐな眼差し。

 浮かんでは消えていく、あの子の顔。あの子の体。

 あの子の画像データが次々現れて、視界を埋め尽くしていく。

 画像だけじゃない。目算によって弾き出されたありとあらゆるデータが数字となって目の前を魚のように浮遊する。

 身長体重座高平均視力体脂肪率血圧骨密度心拍数アドレナリン分泌率。

 数字と画像が入り乱れて、視覚以外の感覚を希薄にしていく。その光景を見ているだけで、心が――体が軽くなっていくような気分になる。

 ああ、私はライチのデータの海の中にいる。

 ライチに溺れている。


「……はしたない」


 算出されたデータとメモリーから引っ張りだしたピクチャデータを全て仕舞いこみ、エムジーが苦々しく呟く。

 視界はクリアになったが、演算装置は煙を吐いていた。

 頭痛。


「どうしたのかな、私……」


 そんなのわかりきっている。


「……どうすればいいのかな、私」


 そんなの判るわけがない。

 判らないけど、知らなければならない。何をすべきか知らなければならない。

 でもそれは余りに複雑で、解読困難な命題で。

 結局、エムジーは装置の過負荷を避けるために強制シャットダウン――睡眠を選んだ。


「ライチ……」


 眠りに落ちる直前、エムジーは熱の篭った声で彼の名を呼んだ。





「おはよーございまーす!」


 不意に轟いた拡声器越しの声に、ライチは思わず飛び起きた。目はとっくに冴えていたが、頭はついてこれていなかった。


「おはよーございまーす! おはよーございまーす!」


 目をこすって頭を振り、意識を強引に覚醒させる。その間にも声の拷問は止まらない。そしてやっとこさ意識を取り戻したライチがまず目にしたのは、完全に開け放たれた自室の出入口と。


「おはよーございまーす! おはよーございまーす!」


 その前に立ち、片手を腰に当ててもう片方の手で拡声器を持ち、満面の笑みで声を張り上げるスバシリの姿だった。


「おはよーございまーす!」

「あ、お、おはよう」

「おはよーございまーす!」

「うん。もう起きてるから。大丈夫だから」


 なおも叫ぶことを止めようとしないスバシリを手で制しながら、ライチが聞こえないように疑問を口にした。


「なんで電子ロックが外れてるんだ?」


 寝る前にドアは閉めて、ロックもかけていた。外からは絶対に開ける事が出来ない作りをした頑丈なものだ。AIの介入を以ってしても開ける事は出来ない。


「僕は開けた覚えは無いんだけど……」

「私が開けましたー!」


 拡声器越しにスバシリが叫ぶ。ライチは咄嗟に両耳を塞ぐが、その大音響は既に彼の頭に大ダメージを与えていた。


「あ、う……あれ?」


 だがその痛みが引くと同時に、ライチの中で新たな一つの疑問が浮かび上がる。


「でも個室って、AIは干渉できないんじゃ……」

「よくぞ聞いてくれましたー!」


 三度の絶叫。ライチが耳を塞ぐ。スバシリは攻撃を止めない。


「実はエンジン動かす際に、こっそりレモンと取引してたんだよねー!」

「と、取引?」

「うん!」


 拡声器から口を離すこと無くスバシリが言った。


「エンジン動かす代わりにー! システムをハッキングしてプログラムを書き換えてくれってー!」

「え、それじゃあ」

「人の個室のぞきホーダイ! きゃっ!」


 拡声器を持ったまま両手で自身の頬を包むスバシリ。そして痛む頭を抱えながらそのスバシリの方へ目を向けた時、ライチは目を見開いたまま硬直した。


「イエーイ! イエーイ! 赤裸々にプライベート告白たいかーい!」


 イナが憤怒の形相を浮かべながら、スバシリの背後に立っていたからだ。





「ラジオ体操だいいちー」


 数分後。スバシリをしばき倒したイナの無言の誘導によって艦橋真横の甲板に立ったライチは、そこに既に集まっていたクルーと共に奇妙な踊りを踊っていた。

 発案者はイナだった。彼女曰く。


「健全な精神は健全な肉体に宿る。健やかな一日は健やかな朝から始まる物です」


 との事だった。特に断る理由もなかったので、彼らはそれに従う事にした。


「腕を振って体を捻ります。一、二、三、四……」


 背後の艦橋に括りつけられたスピーカーから流れる軽快な音楽と声に従って、機械的に体を動かしていく。その動きは酷く緩慢でマイペースな物だったが、同時に寝起きで強張っていた体がほぐれ、心が軽くなっていくようにも思えた。


「最後に深呼吸。ふかーく息を吸って……吐きまーす」


 この奇妙なダンスのお陰だろうか。最後の工程を終える頃には、ライチは程よく自分のお腹が空いていた事に気づいた。





 『ラジオ体操』と呼ばれる謎の踊りの後、ライチ達は食堂にいた。軍用の船と言う事でせせこましい物を想像していたのだが、実際は思っていた以上に天井が高く開放的な作りをしていたので、ライチはこの船を送って寄越した『本部司令』なる人物に感謝した。

 数人が使うにはかなり広すぎる感じもしたが、これ以上贅沢を言っては申し訳ない。彼らは黙って長いカウンターに並び、そこで食事を受け取っていった。エムジーは冷却用の水を一リットル、ピッチャーで受け取っていた


「これはなんだ?」


 だが小皿ごとに盛り付けられたその色とりどりの料理を見て、火星育ちのライチとジンジャーが目を丸くした。二人の傍に座ったギュンターが生暖かい目で解説を始める。


「確か、お二方は火星で合成食料しか食べていないのでしたな……。これが、地球での食事です」

「これが? こんな色のドギツイのが?」

「ご安心を。全部食べられる物ですよ。その赤い液体はニンジンのスープ。こちらの白いのは焼き魚……恐らくはサバですね」

「この緑色の奴は?」

「それはホウレンソウのおひたしですね。手前にあるのがオコメと呼ばれる物を炊きあげた物。そして隅にある黄色く丸い物体はミカンと言う果物です」


 すらすらと並んでいくギュンターの言葉に、二人は揃って耳を傾ける。そしてあらかた解説を終えた所で、ギュンターが胸を張るようにして言った。


「これが、地球の食事。天然食です」

「天然食って……」

「火星の上流階級でもほんの一握りの人間しか食べられない代物だ。こう言う物だったとは……」

「まあ、地球でも摂れる量は限られておりますので、あまり大量に食べられる訳ではありませんが。それでも今地球に降りている人間はほぼ全員がこうした物を食べて生活しております」

「毎日?」

「はい。毎日」


 ギュンターの言葉に二人が思いっきり素で驚く。そしてすぐさま手元の天然食に視線を移す。

 本来ならば一生お目にする事の無い超貴重品。それがこうして、目の前に当たり前のように存在していた。そんな二人の心情を察したギュンターがおどけて言った。


「まあ、地球に降りた者の特権と言う物です――それでは食べましょうか」


 ギュンターがそう告げ、躊躇う事無く料理に手を付ける。ヤーボも同じく慣れた手つきで料理を食べ始め、エムジーはピッチャーを両手で持ち抱えてラッパ飲みを始めた。

 そんな中、ライチとジンジャーはまるで宝物に触れるかのように慎重な手つきで料理に手を伸ばし、恐る恐る口の中に運んでいった。

 ライチはホウレンソウ。ジンジャーはサバ。

 噛んでみる。合成食料とは違う、確かな歯ごたえがある。そして噛んだ瞬間、口の中に味が広がっていく。

 美味い。


「……!」

「!」


 美味い!

 カルチャーショック。頭から電撃を食らったような気分だ。こんな美味い物は今まで食べた事がない。

 堰を切ったように旨みが口内に充満していく。味だけでなく、料理の放つ香りもまた食欲を煽り立てる。それどころか、料理を見てるだけで涎が出そうになる。

 食事一つでここまでの衝撃を味わった事は無かった。美味すぎる。フォークを持つ手が止まらない。


「んっ、すご……なにこれ、すご……」

「うま、うまい、うますぎる……!」


 結局、二人は気品を完全に捨て去って獣のように料理に食らいつき、そして食べ残しを欠片も出す事なく綺麗に完食したのだった。





 コウチに到着したのは、トウキョウを発ってから六日後の昼過ぎだった。少しでも燃料を節約するために、通常時の三割の速度で航行していたからである。

 コウチに人はいなかった。


「地上にある建物は全滅か」

「……サブシステムが地下にあったのが幸いした……」

「早く始めましょう。ミス・レモンをあのままにしておく訳には参りません」


 補給作業は迅速に、滞り無く行われた。

 エネルギー補給は完了したが、カサブランカは暫くの間コウチに停泊する事になった。


「どうしてここで泊まるの?」


 決定の後、ライチの疑問にイナが答えた。


「このまま進みますと、カゴシマ辺りで台風と遭遇するおそれがあるからです」

「台風ごときでこの船が沈むとは思えんのだが」

「しかし絶対ではありません。いかなる不確定要素もわたくしは容認いたしません」


 ヤーボの言葉に対しても、イナは頑として動かなかった。バイパス接続の際のレモンによるハッキングとそれに伴うメインシステムの改変によって、この船の主導権は完全にあの三姉妹の手の内にあった。従うしか無かった。


「イナ様、ちょっと慎重すぎではありませんかねー?」

「まあ、死ぬよりはマシだ。大人しく従っておこう」

「そーそー! 死んだら元も子もないもんねー!」


 結局、死ぬよりマシと言う事で停泊する事に決定した。

 しかし泊まるといっても、コウチには砂と海しか無かったのでいつも通りに船の中で生活する事になった。海に入ると言う選択肢は無かったが、これは海が汚染されているからではない。寧ろ汚染源である人が地球からいなくなった事で、海は旧時代よりも青く澄み切っていた。それでも入ろうとする者は一人もいなかった。

 水着を持って来ていなかったからだ。





「ミスター・ライチ。少しよろしいでしょうか?」


 一拍した後、コウチをでてから四日後の事。

 そう言ってイナがライチに呼びかけたのは、出発した翌日から毎朝やっていた『ラジオ体操』と言う奇妙なダンスについて、彼がクチメに質問していた時だった。


「……姉様、彼に何か用なの……?」

「イナ、どうかしたの?」

「ええ。少し、頼みたい事がございまして」


 二人の応答に軽く頷いてから、イナがライチに言った。


「ミス・エムジーの事なのですが」

「エムジー?」

「はい。最近、元気が無いと言いますか、覇気が無いと言いますか……」

「覇気が無い……」

「お気づきになられておりましたか?」

「……そういえば、最近外に出てるの見た事無いなあ」


 これまでの事を思い返してライチが呟く。確かに最近、エムジーの姿を見ない。風邪かも、と思って、ライチはすぐにそれを否定した。ロボットが風邪をひく訳が無い。


「どうしたんだろ、あいつ」

「それについて、ミスター・ライチに頼みたい事がありまして」


 首を傾げるライチにイナが言った。


「僕に? 何?」

「はい。自室に赴いて、ミス・エムジーの様子を確かめて来て欲しいのです」

「……僕が?」


 真剣な表情でイナが頷く。ライチが軽く狼狽する。


「い、いや、ちょっと待ってよ。どうして僕がやらなきゃいけないの? システムが変わってAIでも部屋の中に入れるんだから、イナ達が直接調べる事も出来るんでしょ?」

「確かに、わたくし達でも彼女の様子を探る事は出来ます。しかしそれでは駄目なのです。今回ばかりは、あなたが直々にミス・エムジーの下へ行かねば駄目なのです」

「駄目って……」

「嫌なのですか? ミス・エムジーが心配では無いのですか?」

「そんな訳ないだろ。僕だってエムジーの事は心配だよ。それでもその、嫌っていうか、その……」


 そこで途端に声の調子を落とし、消えそうなくらい小さな声でライチが言った。


「他人の女の子の部屋に入るのってちょっと恥ずかしいって言うか何て言うか……やっぱりいきなりそう言う事するのって失礼だと思うんだよ……もっと段階を踏まえるとか、軽いスキンシップから始めるとか、そこから段々と仲を深めていって、部屋に入るのは最終段階って感じで……」

「……何この子可愛い……」

「……ッ」


 その様子を見てクチメは半目のまま口元を僅かに緩めたが、一方のイナは憮然とした表情を作っていた。


「まったく、情けないですね」

「へっ?」

「ミスター・ライチ。あなたは男として情けないです」


 突然の事に呆気に取られるライチにイナが詰め寄る。鼻先がくっつく程に顔を近づけ、半ば怒りの篭った視線をぶつけながらイナが言った。


「あなたの言い分もわかります。確かにずかずかと女性の部屋に入るのは失礼な事ですし、少しずつ仲を深めていってから家にお邪魔するべきと言うあなたの考えも理解できます。しかし、時には芽吹きかけた愛の花を守るため、強引に事を運ばなければならない事もあるのです」

「あ、愛?」


 ライチの顔が引きつる。イナの熱弁は止まらない。


「そうです。あなた達の道程はまだ始まったばかり。しかし段階を踏まえるだの少しずつ進んでいくだの言い訳をして、あの気まずいままの状況から進展させる事も無くただなし崩しで終わらせてしまっては、あなたの、そして彼女の愛はそこで終わってしまうのです。そうならないためにも、あなたが彼女の元に赴いて、ストレートに愛を告白するべきなのです。一足飛びでも八艘飛びで構いません。とにかく今は思いの丈を伝えて、二人の関係を修復するべきなのです。そしてその後に」

「いや、待って、待って!」


 なおも喋り続けようとしたイナをライチが手を振って制止する。ライチが突然声を荒げた事に驚いてイナは黙りこくったが、そのしかめっ面は発言を遮られた事に対する不満の色を露わにしていた。

そんな顔を前に、ライチが一呼吸置いて複雑な顔で言った。


「……イナ、いいかい?」

「何がでしょうか?」

「イナ、君は、ああ……勘違いをしている」

「勘違いですか?」


 イナの片眉が吊り上がる。どうどうとなだめるように両手を上下させながらライチが続けた。


「うん。勘違いだ。ひょっとして君は、僕とエムジーが、その……恋人同士になっていると思っているんじゃないのか?」

「え? 違うのですか?」


 今までそれが当然だと思っていたのか、きょとんとしてイナが答える。はあ、と一つ溜息を吐いてライチが言った。


「どうしてそう思ったの?」

「いえ、だってあの時、お二人はあんなに仲睦まじくしていらしたではありませんか」

「あの時?」

「トウキョウを発つ前の事。他のアンドロイドを見送った後の甲板の上での事です」

「……見てたの?」


 イナが顔を赤らめて頷く。ライチも恥ずかしさで顔を真赤にする。そして恍惚とした表情を浮かべて天井を見上げ、蕩けた声でイナが言った。


「……とても良い雰囲気で、甘くて、それでいてもどかしくて……それはわたくしにはまるで、初めての恋に戸惑う初々しい二人の男女のように見えたのです」

「……出歯亀……」

「ち、違います! 艦橋の監視カメラに偶然、そう! 偶然映っておりましたので、何事かと思って事の次第を見つめていただけです!」

「……でも、途中で姉様は二人が恋仲だと悟った。その時の早とちりだったとしても、普通ならそこで見るのを止める。人の情事は見ていて良い物じゃない……」

「うっ……」


 クチメに完全論破され、イナが言葉を詰まらせる。が、やがてがっくりと肩を落とし、失意と後悔に打ち沈んだ顔でイナが言った。


「わたくしの早合点だったと言う事ですね」

「……うん。そうなるね。少なくとも僕は、エムジーとは、その――」


 一度深呼吸。再び二人を見る。


「両想いの関係になるつもりはないよ」


 きっぱりとライチが言った。

 それに対して、イナは「申し訳ございませんでした」と深く頭を下げたが、クチメは渋い顔のままだった。


「……でも……」

「ん?」


 そのクチメが言葉を漏らす。イナとライチが彼女を見る。

 クチメが言った。


「……エムジーは、本気かもしれない……」

「本気って?」

「……本気で、あなたの事が好きなのかもしれない……」

「あの、甲板で話し合っていた時から?」

「……そうかもしれない。もしくは、それよりもっと前からかもしれない……」


 クチメが真っ直ぐにライチを見つめる。


「……あなたは、やはりエムジーに会うべきだと思う。会って、自分の気持ちを正直に伝えた方が良いと思う……」

「彼女を振れって事?」


 震えるライチの声にクチメが頷く。


「……報われないまま抱き続ける片想いほど、辛い物は無いから……」


 そう言って物悲しい顔でうなだれる。ライチも渋い顔のまま黙りこくる。

 そんな気まずい空気を何とかしようと、イナがクチメに言った。


「それより、良くそのような悟りきったセリフが言えましたね。何か似たような経験をした事があるのですか?」

「……前に読んだ漫画に書いてあった……」


 クチメが顔をほんのり赤らめて言った。





「落ち着け、落ち着け、落ち着け」


 エムジーの住んでいる部屋の前で、ライチは張り裂けん程に高鳴る心臓を落ち着けようと絶えず自分に言い聞かせていた。

 心臓を掴むように右手を胸の真ん中に押し当てる。その体勢のまま一度深呼吸。まだ足りない。もう一度。


「……駄目だ」


 全然落ち着かない。緊張で足がガタガタ震えている。


「ああ、くそっ。おとなしくしろよ」


 悪態を吐きながら押し当てた手に力を込め、目を閉じて精神を集中させる。肩の力を抜いてリラックス心をさせる……よう努力する。

 落ち着け。大丈夫。僕ならやれる。

 そう暗示を掛けていく度に、ゆっくりと――とてもゆっくりとではあるが、体から緊張が抜け落ちていく。

 心臓の鼓動が元のペースを維持し始める。伸びきり、複雑に絡まった筋繊維が一本一本緩んで解れていくかのように、強張っていた肩から力が抜けていく。

 そして何度か暗示とリラックスを繰り返し、数十秒後、心が完全に安定する。もう大丈夫。


「もう大丈夫だ――」


 そう言って目を開けて前を見る。

 ドアが開け放たれ、目の前にエムジーが立っていた。

 ライチは一瞬心臓が止まるかと思った。


「何が大丈夫なの?」


 そんな死の淵を彷徨ったライチの目の前で、喜びと――ほんの少しの期待の混じった表情で、エムジーはケラケラと笑った。





 エムジーはライチを自室に通す事を躊躇しなかった。寧ろ自分の方から「ほら、入って入って」と、急かすようにライチを部屋の中に押し込んだ。

 部屋の中は何も無かった。ライチの寝泊まりしている所と同じく、ベッドと物書き用の机、そしてクローゼット。それらの調度類や四方の床や天井は、全て硬質プラスチックで出来ていた。そのプラスチックの濁りのない白は、清潔さと物寂しさ、そして無言の圧迫感を見る者に等しく与えていた。


「それで、何か私に用なの?」


 二人揃って床に座り込み、エムジーが切り出す。その手は自然とライチの手を握っていた。

 ライチは拒まなかった。自分の手を握らせたまま、エムジーの方を見て言った。


「エムジー、聞きたい事があるんだ」

「聞きたい事?」


 唾を飲み込み、再びざわつき始めた心を沈める。そして再度エムジーを見つめながらライチが言った。


「エムジーは僕の事、好きなの?」

「――!」


 ライチの顔が真っ赤になる。恥ずかしすぎて死にそうになる。真っ赤な顔のまま。恐る恐るエムジーの方を見やる。

 エムジーの顔色は変わらずメタル色のままだった。当然だ。アンドロイドに血液は通っていない。

 だがライチと目が合った瞬間、ハッと顔を驚かせてそのまま目を逸らしてしまった。手を握る力が強くなる。


「どうなの?」


 赤い顔でライチが畳み掛ける。エムジーは顔を背けたまま微動だにしない。秒単位で心臓の鼓動が激しくなっていく。相手の応答を待ち続けるのがどれだけ辛いか、ライチはこの時イヤと言う程に体感した。

 やがてライチの目の前で、エムジーが小さく頷く。


「……うん」


 きゅっ、と、手を握る力が更に強くなる。

 まるで藁に縋り付くかのように。


「……好き……かも」


 消え入りそうな声。だがライチの耳は――忌々しくも――その声をはっきりと聞き取っていた。

 と、そこでエムジーが動いた。

 顔だけでなく体全体を動かしてライチの正面に座り、衝撃を受けていたライチの顔を真っ直ぐに見つめた。その顔に恐怖は無かった。


「……うん。そうなんだと思う」


 決意を込めて、静かに、だが力強くエムジーが言った。


「私は、あなたが好き」


 好き。

 ライチは頭をハンマーで殴られたような衝撃を味わった。エムジーは自分の思いを伝える事が出来たからか、満足そうに頬を緩めている。


「そ、そうなんだ」

「うん。そうなの……やっぱり、驚いてるよね、こんな事いきなり言われて」

「え? まあ、うん。そりゃそうだよ。いきなり女の子から告白されたらさ」

「そうだよね。普通は驚くよね。ふふっ」


 しどろもどろに返すライチに対して、エムジーが無邪気な笑みを向ける。その笑顔は、ライチには眩しすぎた。

 これから自分が行う事は、この笑顔を裏切る事なのだ。


「それで、あなたの用事って何なの? ……まさか、私の気持ちが聞きたかっただけ?」

「ああ、いや、違うんだ……エムジーが、僕の事好きなのはわかったからさ」

「うん」


 エムジーが期待に満ちた眼差しを向けてくる。

 これも裏切る事になる。


「僕もここで、自分の気持ちを、伝えておこうかと、思ってさ」

「――!」


 エムジーが驚き、顔に嬉しさを溢れさせる。

 これも裏切る事になる。

 でも不思議だった。


「……エムジー」


 事ここに至って、ライチは彼女の気持ちを振り切る事に恐怖していなかった。


「僕は、僕はね」

「……うん」


 この時、ライチの心の中には『彼女』がいた。

 『彼女』を裏切る事は、彼には出来なかった。


「僕は」


 カリン。


「――ごめん」


 やっぱり僕は。


「え……?」

「僕には」


 僕はカリンが好きだ。


「他に好きな人がいるんだ」





「……」


 沈黙。

 エムジーは何も言わなかった。

 何も言わないまま、ライチをじっと見つめていた。

 ライチもカリンを見つめていた。

 お互い、何もしないままに見つめ合っていた。


「そうなんだ」


 どれだけそうしていただろうか。不意にエムジーが漏らした。


「もう、いたんだ」

「……うん」

「……恋人」

「うん……」


 ライチが返す。意識が体に戻り、それまで硬直していた体の節々が痛みを訴えるが、どうでも良かった。

 ただじっと、エムジーを見つめていた。


「……はあ……」


 エムジーが肩を落とし、顔を俯かせて大きく溜息を吐く。

 再びの沈黙。エムジーはピクリとも動かない。

 エムジー。

 慰めるでもなく、同情するでもなく、ただ何とかしようとライチが彼女に向けて手を伸ばしかけたその時。


「――やっちゃったなぁー!」


 不意に顔を上げ、エムジーが澄み切った顔で力強く言葉を吐き出した。





 その後、エムジーは憑き物が落ちたかのような爽やかな表情で、ライチの彼女の事を根掘り葉掘り聞いてきた。

 エムジーに対する負い目もあって、ライチは彼女の要求を拒絶する事が出来ずにいた。ただ彼女の求めるままに、カリンとの馴れ初めから今に至るまでを全て話して聞かせた。ついでに自分がなぜ地球に来たのかも。


「なんだ、そうだったんだ。そんなに昔から……」


 全てを聞き終えた後、エムジーは感慨深げに呟いた。そして額に両手を当て、弱々しい口調で言った。


「これは勝てないなあ……」

「あ、あのさ、エムジー」


 だがライチがそこまで言いかけた所で、エムジーが人差し指を彼の額に押し当ててその言葉を遮る。


「駄目だよ」

「駄目って、何が?」

「私に遠慮しちゃ駄目」

「え……?」


 呆気に取られるライチにエムジーが続けた。


「ライチは、本当にその子の事が好きなんでしょう?」

「え――」


 その一言がライチを我に返した。すぐに両目を引き締めて力強く言った。


「もちろん。もちろんだよ」

「大好き?」

「大好きだ。僕はカリンが大好きだ」


 その決意に満ちた顔を見て、エムジーはほんの少しの愛しさとやるせなさを感じていた。

 ライチにここまで言わせるなんて。

 本当に、自分は『カリン』には勝てそうもない。

 だがその気持ちはライチには見せない。代わりに強気な顔を見せてライチに言った。


「だったら、私に遠慮しないで、その子の事だけを思っていなさい。いいわね?」

「う、うん」

「そして改めて、私とは、その……」


 そこで少し言い淀み、やがて決意したように言葉を吐き出す。


「友達、で、いましょう?」


 そして握っていた手を離し、立ち上がってから改めてライチに手を伸ばす。


「……お願い」


 エムジーの目は真剣だった。

 全てを振りきった、それでも痛みと虚しさを消しきれずに交じり合った、哀しくも真剣な眼差し。

 とても綺麗だった。

 しかし、その『綺麗』と言う感情に、恋慕の情は欠片も混じっていなかった。

 それでも。ライチが立ち上がる。


「……」


 答えなど決まりきっていた。


「喜んで」


 エムジーを見つめながら、その手を握り返す。


「……ふふっ。振られたってのにね」


 手を強く握りながら、エムジーが言った。


「なんて言うのかしら。とてもさっぱりしたって言うか、視界がクリアになったって言うか……心が軽くなった感じって言うのかな?」

「エムジー?」


 不安気に尋ねるライチの顔をエムジーが見つめる。失恋したばかりだと言うのに、その顔に翳りは見られなかった。


「答えが聞けて良かった」

「え」

「有耶無耶にしないで、良かった」

「それは――」


 それはどういう。


「島だー! 島が見えたぞー!」

「……オキナワ本島を目視で確認。あと一時間でナハに到着……」


 だが声高に流れたスバシリとクチメのアナウンスによって、ライチはその言葉の意味を聞く事が出来なかった。

 気づけばエムジーは手を離していた。満面の笑みでエムジーが言った。


「ようやく着いたみたいね……ねえ、ライチ。デッキに上がってみましょうよ」

「え、あ……」

「ほら、早く!」


 そして元気を取り戻したエムジーに手を引かれるままに、ライチはその個室を後にしていった。





 答えが聞けて良かった。

 ふられちゃったけど、とてもすっきりした気持ちになれた。

 でも。ふられちゃったから。

 思い出したように、後で胸が張り裂けるほどに悲しくなって。苦しくなって。

 でも泣けないから、夜中に起きて腹いせに水を二リットル飲んだりして。

 でも後悔はしていなかった。告白の方も水の方も、して良かったと思っていた。

 彼が真っ直ぐに答えてくれただけでも、私は嬉しかった。

 ライチ。

 大好きだったライチ。


「……『カリン』を泣かせたら、承知しないんだから!」



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