『 天使』
初めましての方は初めまして、二流侍です。
今回短編を書いてみようと思って書いたのですが、正直難しくて大変でした。
多分展開が急すぎるのでご注意してください。
「ねぇ、君は天使を信じるかい?」
意識がもうろうとしていた俺の事を呼んだかと思えば、そんな他愛もない質問をしてきた。
仕方ないので俺は壁から起き上がって、彼女の隣に座る。
今いるのは大学四階にある講義室だったはずだ。
寝ていたこともあるのだろう。記憶が曖昧になっている部分が多いが、確かそうだった。
講義室というのだから、最初は扇状に広がる大きい部屋を想像していた。
だが、残念ながら高校にあるような教室となんら代わり映えしない。木と天板で作られた机と椅子がそれを雄弁に物語っている。
唯一違うのは黒板がホワイトボードってところだろうか。しかしそれでも大学の講義室というよりは塾の教室といった方が俺としてはしっくりときた。
俺は欠伸をした後に、横にいる栗色に染まった長髪の少女へと振り向いた。
毎日着けているリボンに、目にかかりそうな前髪をまとめるのに使っている魚のヘアピン。服なんてゴスロリとまではいかなくとも、その烙印を押されても仕方ないような服装をしているのだから、目立つのは必須だ。しかも赤色。こいつは目立ちたがりなのかと思ってしまう俺を誰が攻められようか。
そんな特徴的な相手が目の前にいる。しかも自分に興味のある話なのか、ニコッと笑ってこちらの反応を確かめていた。
「えぇと、天使……だっけ? いきなりなんだよ、そんな事聞いてきてさ」
「マジメな話だ。答えくれないか?」
無視しようかなと考えていた俺の肩を掴んで揺さぶってきた。もうすぐ大学の講義が始まるはずなので、黙って講義の準備をして欲しいというのがこちらとしての言い分だ。
しかし今日は遅刻しているのか、講義をしてくれる教授はいなかった。このままじっとしていても暇という事実には変わりないだろう。
それにこいつの事だ。このまま俺が答えるまで揺さぶり続けるに違いない。そんな鬱陶しいことされるくらいなら、横に座るわがまま野郎の相手をしよう。仕方ない奴だ。
俺は正直な思いを隠そうとせず、そのまま述べることにした。
「信じない。いや、いないって言った方が正しいだろうな」
「うむ。なるほど」
手に顎を置いた形で俺の答えに満足している様子。俺は言うべき事は言ったと思い、視線を講義するために陳列している机へと移していた。
誰もしゃべらず、静かになっているところで、
「流石だ。私が思った範疇の答えを見事に再現してくれる」
「そりゃあどーも。……でも天使が何とかってよ。なんでそんな事お前に聞かれなければならないんだ?」
「思い立ったが吉というやつさ。ゆえに私は聞いた」
つまりはただの思いつきから俺は巻き込まれたという事なのか。眠気を妨げられる理由としてはあまりにも理不尽すぎるため、口からは大きなため息しか出ない。可愛い顔しているのに、時々このような話を持ちかけるのが少し残念である。
…………。
流れる静寂の時間に、俺の集中力はそがれてしまっていた。
このままだとまた夢の世界に落ちてしまいそうだと思った俺は、目を動かし、未だ空いている教授の席を見た。
今日来てくれるはずなのは御年五十三になろうというおじいさん。黒髪を探す方が大変な白髪がその年齢を堅調に表している人物だ。もう体力も衰えていると思うのだが、まだまだ現役でいけるようで、おじいさんの講義は熱く、そして流暢に喋る人だった。
ま、その気合はいいけど、人気ないんだよな。講義を受けにくる人は両手で数えられるほどしかいないし。きっと自分の自慢話などに夢中になってしまうのが原因なのだろう。講義用に用意した教科書の内容を無視して、関係ない独自の趣味などに入ってしまったりするし。ま、後二年で閉講しそうだな。
などと簡単に自分の心の中で自己完結させていた。
「天使という存在。天の神の使者はもともと神と人を繋ぐ、言い方を変えると伝達者の役割を果たす――――と仮説ではそのように言われている」
「ん? お前には納得できないのか?」
「当然であろう。神は無限の力と底知れぬ知識を持っているのだぞ? 有限の力と底が見える知識の人間。そんな奴らを何故神と交信させてやらねばならん」
不服そうに唇をへの字に曲げていた人類否定派さんに、俺はただただ呆れるしか無かった。
「なんか、天使の愚痴を代わりに言っているみたいだな……」
「君も天使の立場から考えれば直ぐに分かるであろう?」
腕を組み、救急車のサイレンが鳴り響いて騒がしくなったのを無視して俺は考える。
確かに天使側から考えれば、あながちこいつの言っている事は的を射ているのではないかと思った。
俺が天使だったら、何故面倒な事をしないといけないのだと考えているだろう。もし象とイルカの仲介役だったとして、互いの意見を理解出来るよう、仲介出来るかと聞かれればノーと答える。
住んでいる場所も違えば、コミュニケーション、そして互いの考え方、知識量も異なる。そこまで違う二つを結びつけるなど不可能に近い。
神と人間の関係も然り。いや、それ以上に困難かもしれない。だからそれを結びつけようと交信している天使は意味があるのか。目立ちたがり屋さんが言いたいのはそんなところなのだろう。
しかし、先ほども言っていたように俺は天使という存在を信じていない。彼女の言っていた言葉の意味は理解出来るが納得はしなかった。
そもそも彼女の説は天使の存在が認められてからの話なのだ。
「もしかして君はこう考えているのではないのだろうか? 『天使の存在を認めていない俺に言ってどうしたいのだろうか?』と」
当たっているだろうと、彼女は不気味に口角を上げて笑っていた。一応質問の形で聞いてきたが、彼女の表情には自信しか見当たらない。
「私だってそこまで無知ではない。神の使者と言われている天使などと、そんな架空の存在を信じてなどはいないさ。あれは人が作り上げている幻想だ。だが、信じている者がいるというのも分かる。人の頭で作り上げているのだから、当然のこと、人が信じやすいように変えられているのだ。仮に人ではなく、蟻を助ける存在だけだったら人は信じるのか? ははは! そんなの信じる訳がないだろう?」
こいつはそう言って笑って見せてきたが、こちらはその事を聞いて眉を潜め、聞きたいことを聞いていた。
「矛盾してないか? さっきから言っていることがむちゃくちゃな気がしてならないんだが……」
「ん、そうか?」
「さっきまで天使を信じているような質問したり、セリフを言っていたくせに。急に天使の存在全否定じゃないか」
「あぁ、それはな」
こちらに指を差して、今回の本題であろう事実を述べた。
「私は『想像された天使の存在を信じない』という事だ」
「…………すまん。俺はあまり頭いいの方じゃないんだが」
「知っているさ」
そんなきっぱり言うのかよ。確かに地方大学をぎりぎりで受かったくらいの成績しか知識は無いが、もっとオブラートに包んで言うという選択肢はないのか、こいつは……
俺の落胆する気持ちなど、道端に落ちているゴミ並みにどうでもいいのだろう。本音しか言わないストレート少女はこちらの様子を気にせず、話を進めていた。
「知っていて言っている。人が考える天使。所詮それは人に作られた天使なのだ」
「いや、作られたんじゃなくて、その考えられたモノを天使というんだろう? 人が想像し、見出した存在だからこそ、天使という名前が付き、その存在意義が生まれたんじゃないのか?」
「『我思う、ゆえに我あり』。ルネ・デカルトが悪魔の存在を証明するために使われた言葉だ。君もそれを言いたいのか?」
ルネ・なんとかさんの言葉なのかは知らないが意味は似ている。
俺が頷くと、彼女は落胆というか、相手を卑下するかの如く目を細めていた。
「そもそもそれが間違いなのだ。人からの視点、そして基準で考えているからそのような考えしか生まれない。人が想像しなくても宇宙はあり、世界は回り、生物は進化する。それを人が『世界はこれだ』と定義するから、人は想像した世界でしか生きていないのだ」
「まぁ……そりゃあそうだな」
正直言っていることが複雑すぎて、こちらとしては理解することさえ難しい状況だ。というより、段々話が壮大になってきているのは俺の気のせいだろうかと思っていた。
彼女のおしゃべりは止まる事を知らず、次の展開へと進んだ。
「天使というのもそうだ。不確定な要素しかないのにそれだけで定義している。それが天使だと思い込んでいるのだ。だから――――」
「だったらさ」
このままいくと話が長続きになりそうだったので、簡潔にまとめてもらおうと考えた。
俺は小さく嘆息しながら、結論を求めようとした。
「お前が知っている天使ってなんなんだよ?」
「愚問だな。その姿を知っていればとっくにこの話など終局を迎えている」
「……そうですかい」
こいつとは元々終わりのない答えについて思案することが大好きなようだ。そういえばそうだったような気がする。答えが決まっているモノなど、もはや議論の余地などない。無価値だと思っているのだろう。
だからといってこの俺とこいつ二人で答えの見えることの無い議題をしていてもそれこそ、不毛、価値の生まれることのない話だと思うのだが……
「だが、天使の視点で考えてみると、面白い見解が生まれる」
この話に正直うんざりしている俺なのだが、あちらは逆に目を輝かせていた。
よほどこの議題が気に入ったらしい。話したくて仕方ないようだ。
「それはなんだ?」
「天使は人の心を弄んでいるのだ」
簡潔に述べられた事実に俺は鼻で笑った。
「そりゃあ面白い意見だな。訳を聞こう」
「天使が人に加担する理由など見つからない。何故なら有限である人を無限である神と引き合わせる必要性など見いだせないからだ」
「それは前にも聞いた」
「では次のステップだ。なら何故天使は有限の存在である人のそばにいるのか、答えは簡単だ」
――――人は愚かな考えをする。だったら人はどこまで愚かになれるかを知るために、いるのだと
なんかキリスト教徒とかに怒られそうな内容ではあるが、生憎俺は多宗教の日本出身である。そういう話に怒りの感情は生まれない。
「天使というのは人の心にあるのだろう。昔から人の心、すなわち気持ちや衝動的な行動などには、必ず天使が干渉した形であると推測されているからな」
腕を組み、ドヤ顔でそう断言してきた。
「じゃあ、天使ってのは人を動かす存在って事か?」
「逆に人は天使なしで動ける存在だと思うか?」
こちらが聞いたというのに、そう聞き返されてしまった。相変わらずこういう時には一方的な奴だ。
「動けるだろう。そうじゃなきゃ、俺たちが人である意味がない」
「何故?」
「さっきから聞いてばかりだな……」
しかし流石にここで話を切り上げるほど、味の悪いものはない。こいつの相手をすると誓った以上、きっちりと話を終わらせる。そして俺は机に突っ伏そう。
俺の小さな頭をフル回転させながら、口を開いた。
「人は考える事の可能な動物だ。それが唯一、人として認められるアイデンティティの一つであると言っていいからな」
「ほほう。なるほど……」
「天使はいないし、人は己の意思を持って動く。それが俺の結論」
言うべきことは言ったので相手の反応を待つ。
目の前にいた奴は珍しく何かを思案する顔に変わっていた。明るく見せる彼女にとっては珍しい表情。それをしばらく眺めていると、こちらに向かって笑いかけ、
「つまり君は、自らの意思で私を殺したということになるか」
そう結論付けていた。
「は……?」
「そうだろう? 君は私を殺した。しかしそれは自分の意思である。先ほど人は己の意思で動くのだと言った。つまり君は己の意思で私を殺したことになる」
「いやいやいや、ちょっと待て」
俺は状況を把握できずに困惑してしまう。
「なんで俺がお前を殺してることになっているんだよ!」
「なっているんだよ、ではまるで私の妄言のようではないか」
「実際そうだろ!?」
「違うな」
「な、何が違うんだよ……」
何故だ。俺はこいつの神出鬼没、意味不明な発言に対し、普通に対処したらいい。それか突っ込めばいいのだ。ある訳ない話をでっち上げるなと。
なのに……。何故か俺はこいつの気迫に圧されてしまっていた。
「そうか。やはり君はあの時のショックで記憶を失っているのか」
そうか、そうかと一人で納得している。その表情は実に楽しそうで……ずるがしこい悪魔の笑みに見えた。
俺は逆に、置いてきぼり感に苛まれて逆上していた。
「なんだよ!? 面白くないだろ!」
「面白い、実に愉快な話ではないか」
くっくっくと笑う彼女の背中は小刻みに震えていた。
「ならば君に思い出させてやろう。私は最初に恋した相手に別れを告げられた。涙が止まらなかったとき、あなたが私を支えにきてくれた。赤の他人がだ」
「そ、そうだったか……?」
自分の記憶に問いただしてみても、その答えを見つけることが出来ずにいる。
深い霧に包まれているようなそのような感覚。
俺が必死に思い出そうとしたが、その前に彼女は俺のことを気にせず、語っていた。
「嬉しかった。その時、私は一人で悩んでいることが多かったから、君には色々ぶつけてしまっていたよ。でも君は笑って許してくれた。助けてくれた。だから…………信じていた。私が孤独だったときに支えてくれるものばかりだと思っていた」
「思って……いた」
その言葉からは嫌なイメージしか湧いてこない。
「だがある時知った。君はただ私を独占したいだけだと」
「ど、どういう意味だよ……」
どうしてだかわからない。明確なモノが何なのかもはっきりしていないのに、怖かった。これから知るのは自分の何かが壊れてしまうような気がして、そして終わってしまうような感覚が俺を危険だと訴えかけているような気がしていたからだ。
だけど俺は彼女を止めることは出来ない。彼女の口は止まる事を知らず、ただ俺の『真実』だけを語っていた。
「その後、女友達から聞いたのだ。君の執拗な尾行。盗撮。盗聴……。君はありとあらゆることを私にしてきた。独占しようとしていた。さぁ、思い出すがいい」
「俺が、お前を?」
「自分の部屋には何がある?」
「…………写真?」
「誰のだ?」
「お、俺じゃなくて――――」
霞む記憶の中にはっきりと見えたもの。それは自分の部屋だった。しかし自分の部屋が思い浮かぶと同時、目に見えたのは無数の写真。彼女の日常をありとあらゆる場面で撮ってきたもの。何かが、一つの閉じた箱が、今開き、俺の真実となって頭の名かに流れ込んでくる。
「そうだ。そうだった。俺は、お前のことが」
俺は……彼女のことが好きだった。愛していた。愛して、愛して愛してやまなかった。だから――――
「だから私は言った。大学の講義前、ここで言ったのだ。もうやめてほしいと」
「俺は……反対した。好きな人なのだから。それは構わないのではないか。何故拒否られなくてはならないのか……!」
思い出していく。元いた彼氏さんに別れてもらうよう、上手く誘導していた自分。彼女に近づいて、家に上がらせてもらっては趣味や下着の色まで、すべてをインプットしようと必死になったりしていた自分。外に出ていたら、後ろについて他の男が出来ないように睨みを利かせていた自分。着替えている時も、寝ている時も見ていた自分。全て、すべて俺が起こしていた。
そしてそれと共に、運命の瞬間だった時のあの日を思い出す。俺の感情を少しずつ取り戻していく。それと共に――――何かが消えていく。
「そうだ……いや違う。俺はただ君を愛していたんだ……! 好きになって欲しかった! だから近づいただけだ!! でも、でも……!」
俺は頭を抱えていた。もう思い出すのが怖くて、何も考えたくなかった。自分の真実の姿を知りたくなかった。だけど、記憶は一つまた一つと思い出していく。
黙る俺に、彼女はまだ言葉を続けていた。
「私は君が盗撮しないよう、カメラを奪い取ろうとした。そして君はそれを阻止しようとした」
「あぁ……」
「そして――――」
『だから、お願いだ! もうやめてくれ!』
俺の目の前で頭を下げてきた。ゴスロリまではいかなくても、それに近い服装。俺は知っている。それが彼女の好みだと。家には五着もあるし、下着はそれに合わせて買っているものも多い。今日もその定義は揺るぐことは無かったようだ。
しかし、彼女の中は違う。いきなり俺の行動をやめろと言ってきたのだ。
――――馬鹿げているな
『嫌だ』
『何故……』
当然だろう。俺は君をようやく手に入れた。それをみすみす手放す訳がないはずだった。
『土下座でもなんでもする。だから、お願いだ!』
何度も何度も頭を下げてくる矢那。その様子を見て、数人しかいないクラスがざわざわとし始める。このような話し合いをしているのだから、みんなに注目されるのは当然だろう。
でも俺は少し高揚としていた。
俺とこいつの関係がこんなにも上下関係だったとは、そしてそれがみんなに見て貰えている。
俺にとってそれが嬉しかった。
『ほら、先週の着替えムービー。最高だったんだ、下着の色とか俺好みでよ、見るか?』
もっとこいつの姿をみんなに見てもらいたい。
もっとこいつとの関係をみんなに理解してもらいたい。
もっとこいつと一緒にいたい…………!
自分の欲望からか、俺は口元をひん曲げながら、手元に存在するカメラをいじくっていた。
『やめてくれ!』
その言葉にどんな気持ちを込めていたのか俺には分からない。
いつの間にか彼女が俺のカメラを抱え込むようにして、奪い取ってきたのだ。
『何するんだよっ!』
当然彼女の勝手な行動に対して、俺は怒った。
『返せ!』
『こんなもの、なくなればいい!』
勝手なことを述べている彼女は俺の言葉を無視して、窓際まで走っていく。
俺にはカメラを窓から投げ捨てようと考えていることが分かった。
そんなことをさせては俺のせっかくの思い出がはかなく消えてしまう。
急いで上げている彼女の腕を掴んで阻止した。
『おい、やめろ!』
『この……この……!』
何度も捨てようと試みているが、所詮は文学系にいそしんでいるだけで力は無い。
俺の腕力に勝てることなく、カメラは彼女の手から離れた。
床に転がるカメラを無視して、俺はぶち切れながら彼女に歩み寄っていた。
勝手な行動取りやがって……みんなに恥ずかしいところ見せやがって……!
『あぁ……』
悲しみと恐怖から後ずさる彼女。しかし窓と背中が合わさると足が止まってしまっていた。俺は彼女の行動から、今後のために制裁を加えるべきだと考えていた。
『この野郎……。勝手なことするんじゃねぇよ!』
彼女の襟首を握りしめ持ち上げる。咄嗟に彼女の手が俺の手首を掴むが、何も出来ていない。
苦しみから逃れるように、彼女は足をばたつかせていた。
床に足はつけないから、苦しみから解放できずにいる。
ようやく騒ぎ始めた講義室だが、俺の雰囲気に恐れをなしてしまっているのか、誰も動こうとしない。
『悪い子にはお仕置きしないといけないな』
ニヤリと笑う俺は彼女の頬を殴ろうと思った。
制裁という名目だが、痣を付けるのはまずいと思って、拳を固めることはしなかった。
だが――――
『嫌だ!』
彼女は逃げようと考えてしまったのだろう。少しでも被害を少なくしたいと考えてしまったのだろう。
俺が彼女を殴ろうと考えていた一瞬の隙。
その隙をついて俺の手首を掴んでいた彼女は振りほどいた。
舌打ちし、また掴もうかと考えていた俺だったのだが、ある事に気づいて顔から血の気が引いた。
彼女が振りほどいた先には――――窓が無いのだ。
『あ!』
言葉で止めようとしてももう遅い。勢いをつけながら、腰窓の窓枠に座るような形になった彼女は、その勢いを失う事なくゆっくりと後ろに落ちていく。
『え……』
最後の彼女の顔は不思議なものやありえないものを見るような、そんな顔だった。
――――グシャッ!!
果実を潰し、中身が飛び出すような音。
その音が何を意味しているのか、理解するには甲高い悲鳴が必要だった。
『人殺しぃ! 人殺しぃいいい!!』
誰が叫んでいるのかは分からないが、誰を差しているのかは明白だった。
俺が…………人を殺した?
『嘘……だろ……』
あの場にいた彼女はいない。全てこの俺が引き起こしたことなのだと、頭では理解出来ても、感情が追い付いていない。
講義仲間が俺を拘束しようと束になってかかってきた。
『なんでだよ……』
他人事のように眺めていたのだが、その時俺は気づいた。
俺はこのまま捕まるのだろうか、と。
捕まるということはどういうことなのだろう。暗い独房に、狭い空間。完璧に自由を無くし、終わっても殺人者というレッテルを張られてしまう。全てを無くす、無くしてしまう……!
講義仲間が俺の腕を掴み、俺の動きを封じようと試みた時、俺の正直な気持ちが体の中を駆け巡り、行動させていた。
『は、はなせぇ!!』
いきなりの行動にビビっている仲間へ俺は拳を顔面にお見舞いしてやった。
飛んで行った仲間を見て、騒然とするギャラリー。
俺はその間に自分の鞄からカッターナイフを取り出す。
『くそ、くそくそ! 出ていけ、みんなこの場から出て行けえぇ!!』
その一声でみんな叫び声を上げながら出ていく。みんなが出て行ったあと、俺はドアを閉め、机などでバリケードを作り、籠城するしかない。
頭の中で分かっていても、体は動かない。足が思い通りに動かず、力も入らない。
重力に負けそうになりながら、よろよろと後ろに下がっていくと、何かにぶつかった。
壁……にしては柔らかかったような気が……
後ろを見たとき、俺は何かを理解し、絶叫した。
『ああぁあぁああぁぁあ!!』
額から血を流し、足には擦り傷が多数ある。左腕、左手首は人とは思えないようなねじれ方をしている。お気に入りのゴスロリは乱れに乱れ、血に染まってどす黒い赤色に変色してしまった。顔は骨が割れてしまっているのか、変にへこんでいて、歯が欠けていた。目は瞳孔が開ききっていて、額から流れる血が垂れていても気にしている様子はない。
見るだけでも痛々しいのに……彼女は笑っていた。
『あははは――――何故叫んでいる?』
彼女は俺の首に手を掛けた。
「…………すべて……思い出した……」
頭を抱え込み、ずっと一人の世界に入っていた俺は彼女の姿を再び見る。
今まで見えていた魚のヘアピン、リボンも今は分かる。
前髪は額からの血によってまとめられているだけ。リボンはビリビリに破れた服から見えたもの。相も変わらず額から血は流れ、服はより濃い赤色に染まりあがっている。
そう、すべては俺の思い込み、幻想だったのだ。
ただこの事実を知りたくない俺が、もう一人の彼女を作り上げていたに過ぎない。
今の彼女は俺にとって恐怖以外何者でも無かった。
「お前は何者なんだよ……」
歯の掛けた彼女は切れた唇の端を持ち上げて笑った。
「私か? ははは、面白いことを言う」
何か嫌な予感がした。咄嗟にその場から離れると、床に何かが突き刺さった。
それは鋭利な刃物だった。俺が鞄にいれていたカッターナイフ。それが今、彼女の手元にあるのだ。
俺が言葉に出来ず、口をパクパクさせていると、矢那は血まみれになった指でカッターナイフ抜き取り、その背をなぞった。
「私は天使だ。優しい、優しい天使」
「天使……だと?」
彼女はそんな言ったのだが、俺の知っている天使とはまるで逆である。
「私は君を救いにきた」
そんなことカッターナイフを持ちながら言われても危険なイメージしか沸かない。
俺は避難しようと下ったのだが、そこで気づいた。
もう後ろには窓しか存在しない……
あの時と同じ状況、俺が制裁を加えようとした場所。
違うのは立場が逆だということだった。
ゆっくりと近づいてくる天使を名乗る人物は、片足を引きずっていた。
「君はこの時私に襟首を掴んだな。ならその私の心の痛みを君の体にも味わってもらおう」
言ってからの行動は一瞬だった。
ザクッと何かが切れた音、共に俺の左腕が焼けるような痛みに襲われた。
「あ……あぁああああ!」
見れば左の腕からは服が千切れ、肉が深く傷つけられていた。
「痛い、痛いぃ!!」
痛みに耐えきれず、手で押さえている俺に対し、彼女は血に染まったカッターナイフを見つめた。
「残念ながら私は腕力というモノはない。だから代わりにこれで代用させてもらった。さて次は頬を殴ろうとした痛みだ」
その言葉と共に今度は右肩に突きの形で刺してきた。もはや自分のどこが痛いのかも分からなくなってきた。ただ逃げようと、後ろに引くしか頭にない。
まだ力が入る右手で窓枠を掴んで、必死に逃れようともがく。
「ほう、中々にカッターナイフというものは鋭さがあるものだ」
では次は腹を裂こう、そう言う彼女を見るのも怖くて、俺はもう訳が分からなかった。
ただ彼女から逃げたい、その一心が俺の意識と身体を支配し、
「嫌だ嫌だ! 嫌だ、死にたくないぃいいぃ!!」
そう叫んだあと、俺は後ろに倒れていく一時の浮遊感を味わった。
ジェットコースターのような心を掴まれたような寒気。
だが、今はジェットコースターのような安全装置は存在しない。
「あぁ……」
全てがスローモーションだった。
空を見上げる形で落ちていく俺の目には彼女の姿が見えた。
言葉は聞き取れないが、口の形で分かる。
『私は 天使だ』
そこで俺の意識は――――
君は知っているかい? 天使はみんなの罪を許す役割も果たすんだそうだ。ならみんな救われるのかという疑問にいたるだろう? 殺された人を置いて、だ。そんなのはいけない。罪は償うべきだと思うのだ。そう、同じ苦しみ、恐怖を与えながら、ゆっくりと……だ。うん、私? そうか、君は私を知らなかったのか。私は 天使だよ。人の心を記してあげる道しるべのような存在。だから安心してくれ。君が罪を犯さない限り、私は出てこない。まぁもし犯したら、私はこう聞くだろう。
――――君は 天使を信じるかい?
Fin
読んでくださった方はありがとうございます。
因みに初めて短編を作った身ですので、正直不安要素しかありませんでした。
良ければ感想くださいな~。