四年育てた薔薇を幼馴染の名で出された令嬢は、審査員が二年来の文通相手だと黙っておりました
「名前なんて飾りだろう」
コルネルがそう言ったのは、温室の硝子に朝霧が張り付いている時刻だった。
毎朝六時に炭を足して、夜露を拭く。開きかけた花の雌しべに、細い筆で別の株の花粉を移す。受粉の済んだ花には小さな紙袋をかぶせる。四年のあいだ、わたくしはそれを一日も欠かさなかった。
わたくしは花鋏を手に、淡い藤色の八重の蕾を一輪ずつ確かめていた。四年かけて育てた薔薇だ。まだ名前のないこの花が、今朝は十二輪、一度に開きかけていた。
「ルイーゼの縁談が決まりそうなんだ」
コルネル・ブラントはブラント子爵家の嫡男で、わたくしの婚約者だ。温室の入口で外套の雪を払いもせず、上機嫌に続けた。
「先方が薔薇を育てる令嬢を探しているらしい。ちょうど来月の植物院の品評会がある。出品者の欄にルイーゼの名前を書いてやってくれないか」
「この薔薇ですか」
「他にあるか? これだけ見事な花は他に無いだろう」
ルイーゼ・ハルトマンはコルネルの幼馴染だ。伯爵家の令嬢で、笑顔の可愛い人だと誰もが言う。薔薇の世話をしたことは、一度もない。
「君の名前で出しても、爵位の低い男爵家の次女の薔薇、で終わってしまう。ルイーゼの名前なら、貴族の来賓の目に留まる。花は誰の名前で出しても、同じように咲くだろう」
彼は朗らかに笑った。
「名前なんて飾りだよ。どうせ君は来春、僕の妻になるんだ。君のものは家のもの。誰の名前で出しても同じことじゃないか」
同じこと。
わたくしは花鋏を置いた。
実生が三千二百。四年のあいだに、わたくしはそれだけの苗を鉢に蒔いた。寒波で枯れたもの。病気で潰れたもの。花の色が濁ったもの。一株ずつ札を抜き、最後に残ったのが、目の前のこの一株だった。
交配に使ったのは、北の山で拾った野生の岩薔薇と、南の温室で育てた茶薔薇だ。零下十二度の夜を越えて、蕾を保ち続ける薔薇。花弁の間から、桃と香辛料の混ざった香りがする。
「承知いたしました」
わたくしが答えると、コルネルは満足そうにうなずいた。
「君ならそう言ってくれると思った」
◇
品評会の規則を、わたくしは暗記していた。
出品者は花を持参し、審査員の質問に答える。育種記録の写しを提出し、親株の所在を示す。もし育種者本人が出席できなければ、代理人が記録を携えて立つ。
「ひとつだけ、申し上げておきます」
コルネルが温室を出る間際に、わたくしは言った。
「当日、審査員は育種の記録についてお尋ねになります。親株の組み合わせと、何世代目か。お答えになるのは、出品者のお名前の方です」
「記録なら、君の帳面を渡してくれ」
「帳面は、差し上げません」
コルネルが振り返った。
「名前が飾りなら、帳面も飾りでしょう? 花だけをお持ちください」
彼はしばらくきょとんとして、それから声を上げて笑った。
「拗ねているのか。可愛いな。分かった、分かった。審査員なんて、姿と名前を見て決めるものさ。記録は適当にこちらで話をつける」
扉が閉まった。
廊下に出ると、コルネルの母君が待っていた。ブラント子爵夫人は扇の先で私の袖を軽く叩いた。
「聞きましたよ、マルテさん。ルイーゼさんの縁談がまとまれば、ブラント家にとっても益になるのです。あなたは来春から子爵夫人になるのですから、裏方に慣れなさい」
「裏方、でございますか」
「花は誰が育てても花でしょう。名前を貸すくらい、何でもないことです」
夫人は笑って、扇を開いた。わたくしは頭を下げただけで、何も言い返さなかった。
拗ねているのではなかった。わたくしはただ、規則を読み上げただけだ。
けれど、コルネルに伝わらなくても構わない。伝えるべき相手にはもう伝えてある。
わたくしは机の引き出しを開けた。二年間分の手紙の束が入っている。
『M.F.殿。北の岩薔薇Nr.7の第三世代の耐寒報告、拝受。零下十二度の夜を越えて蕾を保ったという記述に、同僚と声を上げました。冬を越えるだけでなく冬のあいだに香る薔薇というものを、私は初めて想像しています。T.L.』
報告を出し始めた最初の冬は、返事が来なかった。二年前の冬に、初めて返事が届いた。
その前の年に、わたくしは試験用の挿し穂を七本、植物院に送っていた。院の温室で冬を越えたと、手紙にあった。
王立植物院には、民間の育種家から耐寒試験の報告を募る制度がある。報告は頭文字の署名で出す決まりだった。わたくしは「M.F.」、返事を寄越した植物院の講師は「T.L.」。顔も年齢も知らないまま、わたくしたちは季節ごとに、薔薇のことだけを書き交わした。
その最新の一通にはこう書いてあった。
『今年の秋の品評会では、私も審査席に座ります。M.F.殿の薔薇に、会場でお会いできるのを楽しみにしています』
わたくしは返事に、いつもどおりの報告を書いた。品評会のことは書かなかった。
本当は一度だけ筆を取った。審査席に座るのはあなたですか。この薔薇の出品者の名前はわたくしのものではありません。そこまで書いて、紙を破った。
言えば、先生は審査を辞退なさるかもしれない。あるいはわたくしに肩入れしてしまうかもしれない。どちらも望まなかった。規則どおりに見て、規則どおりに尋ねてほしかった。花は自分から名乗らない。それなら、見る人の目が確かでありさえすればいい。
◇
その週の終わりに、霜の予報が出た夜があった。コルネルは夕方から、ルイーゼの家の晩餐に呼ばれて出かけていった。
温室の暖房は、炭の火だけが頼りだ。わたくしは外套を羽織り、夜通し炭を足し続けた。硝子に霜の花が咲き、吐く息が白く凍った。朝の三時に鉢のひとつに触れると、土の表面が薄く固まっていた。湯を沸かし、布を湿らせて、藤色の蕾を一輪ずつ包んだ。
夜が明けるころ、蕾は全部、無事だった。花弁の縁にも霜の傷ひとつなかった。
帰ってきたコルネルは温室の入口で欠伸をした。
「ご苦労さん。昨夜は冷えたな」
それだけだった。
品評会の三日前、ルイーゼが温室に来た。
淡い桃色の外出着に、白い手袋。コルネルが彼女の肘を支えて、まるで舞踏会の入口に導くような足取りだった。
「これが、私の薔薇ね! なんて素敵」
ルイーゼは両手を胸の前で組み、感嘆の声を上げた。それから、伸ばした指で蕾の萼を無造作に折り取りそうになった。わたくしは慌ててその手を止めた。
「そこは、触らないでくださいませ。次の花芽が出る場所です」
「あら、ごめんなさい。難しいのね」
ルイーゼは気を取り直して、花に鼻先を寄せた。
「桃の匂い。素敵、私の香水と同じ系統ね」
違います、とは言わなかった。この薔薇の香りには、冬の岩薔薇の苦みが混じっている。ひと嗅ぎしただけで分かる人は、きっと多くない。四年かけて混ぜた匂いだ。
「この薔薇の親は、北の岩薔薇と茶薔薇です。種子親が岩薔薇、花粉親が茶薔薇で、実生の第三世代から選抜しています。審査員は、おそらくそのあたりをお尋ねになります」
ルイーゼは首を傾げた。
「いわばら、ちゃばら。うーん、覚えられるかしら」
「覚えなくても大丈夫さ」
コルネルが彼女の肩を叩いた。
「君は笑って、『努力の結晶です』と言えばいい。審査員は、本気で質問なんてしないよ」
「そうなの? よかった。ありがとう、コルネル」
二人は顔を見合わせて笑った。ルイーゼの笑顔は本当に可愛らしかった。この人は悪い人ではない。ただ、薔薇に名前があることを、知らなかっただけだ。
その夜、わたくしは自室で手紙を書いた。
これまでと同じ文面で、二年間の報告をまとめた最後の一通だった。品評会の話は書かなかった。ただ、封をする前に、末尾にひとことだけ足した。
『今秋、私の薔薇は花を咲かせます。どうぞご覧ください。M.F.』
隠していたのではない。尋ねられなかっただけだ。
◇
王立植物院の大温室は秋の光を受けて、硝子の天井が薄金色に染まっていた。
品評会の会場には、様々な薔薇が並んでいた。深紅の大輪。純白の房咲き。南国から取り寄せた珍種。貴族の婦人たちが扇を揺らして歩き回り、育種家たちは自慢の鉢の前で緊張した顔をしている。
わたくしの薔薇は会場の中ほどの台に置かれていた。札には「出品者 ルイーゼ・ハルトマン嬢」と書いてある。
わたくしは観覧席の端に座っていた。コルネルに言われた通り、婚約者として。
開場の鐘が鳴り、観覧席から拍手が起こった。ルイーゼは薔薇の前に立って、何度も扇を開いたり閉じたりしていた。出番を待つ踊り子みたいに、頬が上気している。隣に立つコルネルは満足そうに腕を組んでいた。
審査員席に、五人の人物が着席した。その中央に座る男の顔を見た瞬間、息が止まった。
三十四、五歳の、痩せた男だった。黒の外套に、胸には植物院の徽章。少し癖のある栗色の髪が額に落ちかかっている。机の上に置いた手帳の端が、擦り切れていた。
テオドール・リンデ。T.L.だ。
彼は台の上の薔薇を見て、一瞬、動きを止めた。それから、ゆっくり立ち上がり、台に歩み寄った。
身を屈めて、花弁に顔を寄せる。目を閉じ、桃と香辛料の匂いを確かめるように、静かに息を吸い込んだ。口元がほんの少しだけ緩んだ。
手紙の中にだけあった薔薇が、現実になって彼の前にあった。わたくしは膝の上で、指を握り合わせた。
「出品者のハルトマン嬢ですね」
「はい」
ルイーゼは扇を握りしめ、完璧な笑顔を作った。
「この薔薇の花弁は、八重の三十二枚。茎の棘は、通常の岩薔薇より密です。種子親と花粉親の組み合わせを、お聞かせいただけますか」
「ええと」
ルイーゼの笑顔が少しだけ引きつった。
「努力の結晶です」
「結晶の中身を伺っています」
テオドールの声は穏やかだった。責める調子でも、からかう調子でもなかった。
「何世代目の選抜ですか。零下何度まで試験を? 親株は、今どこの温室に?」
「そ、それは」
ルイーゼは助けを求めるように、観覧席のコルネルを振り返った。コルネルは立ち上がり、咳払いをした。
「失礼、リンデ先生。彼女は緊張しておりまして。育種記録は、自宅に保管してあります。後日、提出いたします」
「規則では、当日の提出が義務です」
「そこを何とか。ブラント子爵家の名誉にかけて」
会場がざわついた。貴族の来賓たちが扇の陰で囁き合っている。
テオドールは手帳をめくった。
「それでは、植物院の記録を照合しましょう。書記官」
彼が合図をすると、書記官が分厚い綴じ込みを持って来た。
「三年前の冬から、民間育種家の耐寒報告を受け付けています。この系統によく似た記述が、M.F.という署名の報告にあります」
彼は頁を開き、読み上げた。
「北の岩薔薇Nr.7を種子親に、茶薔薇『朝の祈り』を花粉親。第三世代。花弁は八重、三十二枚。茎の棘は、一節あたり十二から十四本。花の色は、淡い藤色」
一拍おいて、彼は顔を上げた。
「ハルトマン嬢。この枝の棘を、数えてもよろしいですか」
ルイーゼが答える前に、彼は台の薔薇の枝を一本、そっと持ち上げた。白い手袋の指で、棘をひとつずつ数えていく。会場の誰もが息を殺していた。
「十二、十三、十四」
彼は顔を上げた。
「記録と、一本も違いません」
会場に、重い沈黙が落ちた。
観覧席の後ろのほうで、白い髭の老人が呟いた。
「あれは、本物の記録照合だ。三年前の報告が、そのまま枝に出ている」
誰かが小さく息を呑んだ。
「この薔薇が三年前の報告にある薔薇と同じなら、育種者はM.F.さんです。ハルトマン嬢、あなたがM.F.さんですか」
「わ、私は」
ルイーゼは扇を取り落とした。
「違うの。私は、コルネルが。コルネルが、これを私の薔薇として出せば、縁談が決まるって」
「ルイーゼ!」
コルネルの声は悲鳴に近かった。
テオドールは会場をゆっくり見渡した。
「M.F.さんは、会場にいらっしゃいますか」
わたくしは立ち上がった。
◇
全員の視線が一斉にこちらを向いた。
膝の上に置いていた帳面を胸に抱えて、わたくしは通路を歩いた。靴音が硝子の天井に反響した。
「マルテ・フィンクと申します」
テオドールの前で、わたくしは頭を下げた。
「M.F.は、わたくしです」
手紙の字と同じ人の声だ、とテオドールが小さく呟くのが聞こえた。
彼は瞬きもせず、わたくしを見ていた。やがて、ごく小さく息を吐いた。
「あなたの手紙を、二年間、楽しみにしていました」
「わたくしも、先生の返事を」
観覧席から、コルネルが駆け下りてきた。
「待ってくれ、マルテ。どうして言ってくれなかったんだ」
「言いました」
わたくしは振り返った。
「花だけをお持ちください、と。審査員は、育種記録についてお尋ねになります、と」
「それは」
「名前が飾りなら、飾りのない薔薇は、咲かなかったことになりますか」
コルネルは何か言おうとして、言葉に詰まった。後ろでルイーゼが泣き出した。
コルネルがわたくしの腕を掴んだ。
「マルテ、頼む。ここで婚約を解消すれば、ブラント家の名誉に傷が付く」
「名誉も、飾りでございましょう?」
彼の手が力なく離れた。
「だって、コルネルが、マルテは気にしないって言ったのよ。私、嘘をつくなんて嫌だったのに」
「ルイーゼ」
「私は何も知らなかったのよ!」
泣き声が硝子の天井に響いた。貴族の婦人たちが、気まずそうに視線を逸らしていく。
わたくしは、左の薬指から婚約の指輪を外し、コルネルの手のひらに載せた。それから、温室の鍵を二本、その上に重ねた。
「四年のあいだ、ありがとうございました。薔薇の挿し穂は、三年前から植物院の温室でも育てていただいております。鉢は、そちらに引き取ります」
テオドールがうなずいた。
「試験用の株が、院の温室に七本あります。すべてあなたのものです」
コルネルは指輪と鍵を握ったまま、立ち尽くしていた。
テオドールが静かに告げた。
「出品者の名義を偽ることは、植物院の規則で禁じられています。ブラント家とハルトマン家には、書面でお知らせします。来年の出品資格は停止になります」
貴族の来賓たちがざわめく中で、コルネルは何も言えず、ルイーゼは両手で顔を覆った。
◇
品評会は結局、予定どおり終わった。
わたくしの薔薇は満場一致で金賞を受けた。授賞の札には出品者として「マルテ・フィンク」と書かれていた。
夕方、人のいなくなった植物院の事務室で、わたくしは机の前に座っていた。窓の外に、片付けられていく鉢の列が見えた。
「品種登録簿です」
テオドールが分厚い品種登録簿を机に置いた。頁には罫線が引かれ、上から順に欄が並んでいる。品種名。育種者。交配の記録。年。
「育種者の欄が、一番最初にあります」
「最初に」
「花の名前より先に、育種者の名前を書く決まりです」
彼は、羽根ペンをインク壺に浸して、わたくしに差し出した。軸は使い込まれて、指の形に浅く凹んでいる。二年間の手紙の字はこのペンで書かれていたのだと思った。
「名前なんて飾りだ、という人がいます。けれど登録簿では、育種者の名前は、花の根と同じ場所に書かれる。飾りは、花の上に付けるものです」
わたくしはペンを受け取った。手が少し震えていた。
「品種名は、決まっていますか」
「まだ、付けておりません。四年も、名前のないまま呼んでいましたから」
「では、今、決めましょう」
わたくしは窓の外を見た。夕陽が硝子の屋根を染め、遠い鉢の列が淡い影を引いていた。
「『雪解けの手紙』と」
テオドールは驚いたようにわたくしを見た。
「二年間、お返事を書くたびに、この薔薇のことを考えておりました。雪の下で花を保っているあいだ、先生のお手紙が、冬の間の唯一の便りでした」
「……良い名前です」
彼はそう言って、少し目を逸らした。耳が赤くなっていた。
「ただ、一番上の欄は、あなたの名前だ」
わたくしは、育種者の欄にペンを下ろした。その前に、ふと気になって顔を上げた。
「先生は、手紙では薔薇の話しかなさいませんでした」
「あなたも、そうでした」
彼は少し困ったように笑った。
「来春、院の温室の七本が一斉に咲きます。直接ご覧になりませんか。手紙に書けなかった話も、できるといい」
わたくしは、返事の代わりに頷いた。
ペン先が紙に触れた。インクが細く滲んで、一文字ずつ、線が形を取っていく。
マルテ・フィンク。
飾りではない私の名前が登録簿の最初の行に、私の字で残った。
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