白衣の乙女(!?)は恋のキューピット ——迷える子羊と鉄の味——(前編②)
あらあら、見て。
全面ガラス張りのスタジオを、溶けた琥珀のような夕闇が飲み込もうとしているわ。
でもね、私のジム『ミラ・フィットネス・ラボ』の空気は、そんなロマンチックな情緒なんて一瞬で吹き飛ぶほど、不穏で、それでいて華やかなエネルギーに満ち満ちているの。医師としてのバイタルチェック抜きでもわかるわ。今、この場所の「恋の血圧」は異常値よ。
カツ、カツ、カツ――。
静まり返ったフロアに、硬く、冷たく、そして絶対的な自信を刻み込むようなヒールの音が響き渡ったわ。直後、入口の強化ガラスのドアが、迷いのない力で勢いよく押し開けられたのよ。
「ごきげんよう。……あら、ずいぶんと湿っぽい空気ね。いい汗を流しているじゃない、響花」
そこに立っていたのは、一瞬でスタジオの酸素濃度を書き換えてしまうような、圧倒的なオーラを纏った美女――鳳カレン。
首都支部での過酷な極秘ミッションを終えたばかりだっていうのに、その美貌には微塵の曇りも、疲れも見当たらないわね。むしろ、獲物を見つけた猛獣のような、艶やかで残酷なまでの鋭さが研ぎ澄まされている。
彼女が歩くたび、最高級の香水の香りが、この場に漂う汗と鉄の匂いを情け容赦なく塗りつぶしていくわ。それは甘く、けれど拒絶を許さない、支配的な女王様の香り。
「カ、カレン!? ……あんた、なんでここにいるのよ。首都へ戻ったんじゃなかったの!?」
さっきまで「ミラ先生、うるさいわよ!」なんて私に毒づきながらダンベルと格闘していた響花が、素っ頓狂な声を上げて跳ね起きたわ。
二人は同じ特務機関『S.A.I.D.』の精鋭同僚。けれど、質実剛健でストイックな響花にとって、自由奔放で華麗なカレンは、生理的に最も相性の悪い「猛毒」なのよね。
「ええ、仕事は完璧に片付けてきたわ。……でも、私の心臓がこの街を離してくれなくてね。理由は、あなたが一番よく分かっているんじゃないかしら? もちろん、ハルトくんに会うためよ」
カレンは不敵な笑みを浮かべ、身に纏っていたシルクのジャケットをさらりと脱ぎ捨てたわ。その下から現れたのは、一切の無駄を削ぎ落とした、しなやかで力強い四肢。まるで、戦うためだけに造形された美しい彫像のようよ。女の私……いえ、オネェの私から見ても、惚れ惚れするような機能美ね。
「……ハルトなら、もう輪廻と付き合ってるわよ」
響花が、喉の奥から絞り出すように言ったわ。
「あんたが首都で高みの見物を決め込んでいる間に、二人はもう『正式な恋人同士』になったの。割り込む隙なんて、指先一つ分も残ってないわよ。……とっとと首都に帰りなさいよ」
刺すような響花の言葉。けれど、カレンは動じるどころか、その深紅の唇をさらに深く、妖しく弧を描かせたの。
「付き合っている? ええ、報告は受けているわ。……でも、それは『現時点』でのステータスでしょ? 未来なんて、誰にも確定できない不確かなもの。まだまだチャンスはある……そう思わないと、私がわざわざこの退屈な地方都市に舞い戻ってきた意味がないわ」
そう言い放つと、カレンは迷いのない足取りで、響花が使おうとしていたランニングマシンの真隣に陣取ったの。
高いヒールを無造作に蹴り脱ぎ、瞬時にトレーニングシューズへ履き替える。スタートボタンを迷わず連打するその指先は、戦場でのトリガーさばきと同じくらい正確で、残酷だったわ。
「……ふん、いい度胸ね。なら、その余裕がいつまで保つか、たっぷり試してあげるわ!」
響花も負けじと、隣のマシンの速度設定を跳ね上げる。
ウィィィィン……というモーターの回転音が、瞬く間に高音の咆哮へと変わっていったわ。
時速12キロ、15キロ、18キロ……。
もはやこれは、健康維持のための有酸素運動なんて生易しいレベルじゃないわよ。
二人が競っているのは、走行距離でも時速でもない。それは、ハルトくんという一人の少年を巡る、乙女の意地と、渇望と、燃え盛る執念そのもの。
カレンの、まるでランウェイを歩くような華麗で無駄のないピッチ。
響花の、一歩一歩が地面を砕かんばかりの、泥臭くも力強いストライド。
二人の瞳からは、物理的な火花が散っているんじゃないかと錯覚するほどだわ。彼女たちの視線の先にあるのは、決して届かないはずの、けれど何よりも手に入れたい、あの銀灰色の騎士の背中なのね。
(あらあら……。若いって、本当に恐ろしくて、そして素晴らしいわね。見ているこっちの白衣が焼け焦げそうだわ)
私は、二人分のスポーツドリンクをカウンターに用意しながら、そっと溜息を吐いたの。
ハルトくん、あんなに朴訥として、恋愛に関しては生まれたての小鹿みたいに不器用な十九歳の青年のどこに、これほどまでの執念を女たちに抱かせる魔力があるのかしら。罪な男の子ね。
もちろん、現在「正妻」の座に君臨している輪廻ちゃんの壁は、エベレストよりも高くて険しいわよ。
あの「完璧なお淑やかさ」の裏に潜む、深淵のような独占欲。あれは、同じ女から見ても難攻不落、不可侵の聖域だもの。
でも。
隣同士で限界まで心拍数を上げ、マシンの限界速度に挑む響花とカレンの瞳を見て、私は確信したわ。
彼女たちにとって、障害が大きければ大きいほど、逆境が厳しければ厳しいほど。
その恋の炎は、酸素を大量に供給されたかのように、より熾烈に、より美しく、周囲のすべてを焼き尽くす勢いで燃え上がるのだと。
「……ハルトくん。あなたは本当に、世界で一番幸せな男の子で……そして、一番命が危うい幸せ者ね」
私は二人の猛烈なデッドヒートを、安全なカウンターの向こう側から見守りながら、心の中で密かにハルトくんの平穏(と生存)を祈ることにしたわ。
さあ、恋の戦場はまだ始まったばかり。
この白衣を纏ったオネェのキューピットが、最高の特等席で、この狂騒曲の結末を見届けてあげるわよ!




