灰色の景色、贋作のワルツ(後編②)
あまりにも騒がしかった週末が、ようやく重い帳を下ろそうとしていました。
駅前広場を震撼させた「偽物」の騒動と、それに呼応するように現れた魔界の将、フォラスの再来。それらの一連の事象は、対魔特務機関『S.A.I.D.』の冷徹なまでの迅速さによって、またたく間に隠蔽されていきました。表向きのニュースでは「過激なパフォーマンス集団による演出と、機材トラブルによる混乱」という、実にあっけない見出しで処理されてしまったのです。
本物の魔導騎士の姿を目撃した人々の記憶でさえ、特殊な処理と時間の経過という名の淡い霧に包まれ、日常の平穏という影の向こう側へと追いやられていく。……けれど。
私の胸の奥に立ち込めた霧だけは、どんな隠蔽工作をもってしても晴らすことはできません。
「…………」
茜色と藍色が混ざり合う、薄明の帰り道。
私は、隣を歩くハルトの数歩後ろを、足音を忍ばせるようにしてついていきました。長く伸びた影がアスファルトの上で重なり、また離れていく。その一喜一憂するような影の動きが、今の私の心のようで、ひどく落ち着かないのです。
あの一件以来、私の思考は同じ場所を何度も何度も、螺旋を描くように巡っています。
救急車で運ばれていった、あの女性。
担架に乗せられ、意識も朦朧としていたはずの彼女に、ハルト――魔導騎士ゴエティアがかけた言葉。
『また何かあれば、俺を呼んでくれ。必ず、守る』
その言葉を思い出すたび、耳の奥が熱くなり、心臓の鼓動が不快なリズムを刻みます。
あんなにも真っ直ぐな、魂の契約とさえ思えるほど重みのある言葉を、どうして彼はあんなにも自然に口にできたのでしょう。
彼女は、偽物の、けれど執念さえ感じる自作の衣装を纏っていました。剥き出しになった肩や、引き裂かれた布地から覗いたあの……たおやかで、女性らしい肉感的な身体つき。
絶体絶命の淵で、憧れ続けた本物のヒーローに、あの強靭な腕で抱きかかえられ、あんな瞳で見つめられながら誓いを立てられたら……。
(……もし私が彼女の立場だったら、それだけで一生分の運命を使い果たしたって、本気で思ってしまう)
彼女がハルトに抱いたであろう感情を想像するだけで、胸の奥がちりちりと焼け付くように痛むのです。
ハルトに悪気がないことは、痛いほど理解しています。彼は冷静な判断力を持つ一方で、その内側には誰よりも熱い情熱を秘めている。困っている者を、傷ついた者を放っておけない……そんな「熱血漢」としての彼が、あの時、自分の名を騙ってまで戦おうとした彼女の勇気に応えただけなのだと。
分かってはいるのです。でも、分かっているからこそ、私の中の「独占欲」が醜く首をもたげる。
(ハルトには……私という恋人がいるのに。私だけのヒーローでいてほしいのに。……あんなに優しくするなんて、ちょっと、意地悪が過ぎるよ……ハルト)
気づけば、私は自分の服の裾をぎゅっと握りしめていました。
視線の先にいるハルトの背中は、19歳の青年としての瑞々しさと、戦場を潜り抜けてきた戦士としての無骨さが同居していて、たまらなく愛おしい。……だからこそ、その優しさの端っこさえも、他の女性に分け与えてほしくない。そんな17歳の少女らしい、身勝手な嫉妬が心を支配していくのです。
「……ねえ、ハルト」
耐えきれず、私は震える声を絞り出しました。
「ん? どうしたんだ、輪廻」
足を止め、ハルトが振り返ります。
夕日に照らされた彼の顔。冷静沈着な普段の彼とは少し違う、戦いの余韻を滲ませた、どこか柔らかい眼差し。その無防備な表情が、今の私にはとても恨めしく見えてしまいました。
「ハルトは、本当に人がいいのね。……あんな風に、あの女性を助けて。あんなに格好いい約束までして。……きっと今頃、彼女は病院のベッドで、ハルトのことで頭がいっぱいになっているんじゃないかな」
努めてお淑やかに、冷静に振る舞おうとしたはずなのに。
吐き出した言葉は、自分でも驚くほど冷たい棘を孕んでいました。皮肉めいた言い方しかできない自分が、ひどく幼くて惨めに思えます。
ハルトは一瞬、きょとんとしたように目を丸くしました。
彼は19歳。冷静で大人びているけれど、女性の……それも、恋人のこんなに複雑で湿った感情には、まだ少しだけ疎いところがあります。
けれど、私の潤んだ瞳や、震える唇を見て、彼はすぐに自分の「不手際」を悟ったようでした。
「……すまない、輪廻。……その、変な意味じゃないんだ。ただ、彼女の覚悟を無視できなくて」
言い訳をして逃げることもしない。ただ、真っ直ぐに私の不機嫌を受け止め、申し訳なさそうに視線を落とす。
私がどんなに冷たく接しても、どんなにわがままを言っても、この人はいつもこうして、私の拙い感情を丸ごと包み込んでくれるのです。
(……ああ。私、本当に可愛くないよね。こんな態度ばっかりとっていたら、いつかハルトに呆れられて、嫌われちゃうかな……)
嫌われたくない、という切実な不安が、先ほどまでの嫉妬の炎を一気に追い越して、胸を締め付けます。
ハルトの前では、気高くて、落ち着いた、彼に相応しい「完璧な彼女」でいたいのに。
内側に渦巻く17歳の独占欲は、お淑やかな仮面を容赦なく引き剥がそうとする。
情けなくて、俯いて唇を噛んだ私の視界に、ハルトの大きな手が、迷いなく伸びてきました。
「……輪廻」
名前を呼ぶ、低くて落ち着いた声。
次の瞬間、私の指先を、彼の熱い手のひらが優しく包み込みました。
「っ……」
それは、戦場で見せる『ゴエティア』の冷たい鋼の感触ではありません。
温かくて、少しだけ節くれだった……青年としての、ハルトだけが持つ体温。
言葉なんて、もう必要ありませんでした。
ぎゅっと握りしめられたその手の力強さが、彼の拍動が、「俺にとって君が一番なんだ」と饒舌に語りかけてくるようで。
意地を張っていた私の頑なな心は、一瞬で溶け、崩れ去ってしまいました。
(……嫌いになれるはずなんてない。……やっぱり、私はこの人に、一生勝てない)
お淑やかな仮面の奥から、熱い涙がこぼれそうになるのを、私は必死に堪えました。
繋いだ手から伝わってくる彼の体温があまりにも心地よくて、愛おしくて、さっきまでの嫉妬が嘘のように消えていくのが分かります。
「……ハルトの、バカ」
私は顔を上げられないまま、彼にだけ聞こえるような小さな小さな声で毒づきました。
それは、私の最大級の親愛の言葉。
毒づきながらも、私は繋がれたその手を、これ以上ないほど強く握り返しました。
胸の奥から、せき止めていた「好き」という感情が、ダムが決壊したかのように溢れ出し、薄闇に溶けゆく街へと広がっていきます。
たとえこの先、世界中を敵に回すことになっても。
たとえ、あの女性のように数多の人間が彼に恋い焦がれ、彼を追い求めたとしても。
今、こうして誰よりも近くで、彼の熱を感じ、歩幅を合わせて歩いているのは。
彼の手を独占し、その眼差しを向けられているのは――私だけ。
私たちは、藍色の静寂に包まれ始めた街並みの中、繋いだ手の温もりだけを道標にするようにして、ゆっくりと、幸せな家路を辿っていきました。




