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灰色の景色、贋作のワルツ(中編①)

 いつもなら「このまま世界ごと会社が爆発すればいいのに」と、暗い呪詛を念じながら叩き止めるスマートフォンのアラーム音が、今日の佐藤ナナ(27歳)には、まるで祝福のファンファーレのように軽やかに聞こえた。


 ベッドから身を起こし、窓から差し込む眩しい朝日に向かって、ナナは大きく伸びをする。着古したスウェットの下で、彼女の豊満な胸が揺れ、背筋が心地よく鳴った。


(……昨日のこと、やっぱり夢じゃなかったんだよね)


 洗面台の鏡の前に立ち、冷たい水で顔を洗う。水滴の滴る自分の顔を見つめながら、ナナの脳裏には数日前の出来事が、まるで高解像度の映画のように鮮明に蘇っていた。


 広場を凍りつかせた、本物の化け物が放つ絶対的な死の気配。


 呼吸をすることすら忘れるほどの恐怖の中、ウレタンと木材で作った自家製の『魔導剣』を構えた自分の、ガクガクと震える両手。


 それでも逃げずに、喉から血が出るほどの思いで叫んだ名乗りに、圧倒的な強者であるはずの敵が戦慄し、ジリジリと退却していったあの光景。


(私……守れたんだ。偽物の私だって、やろうと思えば、やる時はやれるんだ……!)


 鏡の中の自分に向け、ナナはギュッと両手を握りしめた。


 半年前に婚約者に浮気され、一方的に捨てられた。結婚資金として貯めていた貯金も失い、女としての自信も粉々に砕け散った。残されたのは、ただ無機質なPC画面を眺め、意味のない数字を打ち込み続けるだけの「社畜」としてのモノクロの日常だけ。


 そんな惨めな現実から逃げ出したくて、ナナが趣味として始めたのがコスプレだった。元々スタイルには自信があり、特に豊かな胸元は彼女の数少ない武器だった。好きなキャラクター――あの本物の「ゴエティア」の銀灰の装甲を纏い、別人に成り代わっている間だけは、惨めな自分を忘れることができたからだ。


 だが、昨日の経験は、単なる「現実逃避」を、かけがえのない「誇り」へと変えた。


「おはようございます!」


 オフィスに出社したナナの明るい声に、同僚たちが驚いたように目を丸くする。いつもなら死んだ魚のような目でデスクに向かう彼女が、今日は憑き物が落ちたように晴れやかな顔をしていたからだ。


 デスクにつき、PCを立ち上げる。画面にはいつもの見飽きたExcelの表が広がっているが、今のナナにとっては、それすらも「守るべき日常」の一部に思えた。


(週末には、またあの銀灰の装甲を纏える。今度はもっと、装甲の質感を本物に近づけて、かっこいいポーズを練習しておこう!)


 カタカタ、ターンッ!


 キーボードを叩く音が、いつもよりリズミカルに、軽快にオフィスに響き渡る。


 次の週末、また「ゴエティア」として子供たちの笑顔を守るために。誰かのヒーローでい続けるために。ナナは人生で初めて、前向きで能動的な情熱を持って仕事に打ち込んでいた。


 自分の足跡のすぐ後ろに、致命的な死の影が忍び寄っていることなど、微塵も気づかないまま。


     * * *


 一方その頃。


 襲撃騒動の事後処理が落ち着き、ようやく講義が再開した大学のラウンジ。


 昼休みの喧騒から少し離れた窓際の席で、ハルトはスマートフォンを耳に当て、ひどく居心地の悪そうな顔をしていた。


『あらハルト。久しぶりね。ちゃんと元気にしてたかしら?』


 受話器の向こうから鼓膜をくすぐるのは、艶のある、それでいて少女のような無邪気さを孕んだアルトの声。対魔機関の首都支部へと戻ったエースエージェント、鳳カレンだ。


「カレンさん。ええ、なんとか生きています。そっちはどうですか? 首都の任務は順調ですか?」


『ふふ、私の腕を知っているでしょう? 任務は完璧よ。……でもね、少し寂しくなっちゃったの。あなたの、その飾らない無骨な声が聞きたくて。今夜、夢の中でこっそり会いに行ってもいいかしら?』


 相変わらずの大人の余裕。ハルトのような生真面目な学生をからかう、色気たっぷりのジョークだ。


 だが、今のハルトはそれどころではなかった。スマートフォンの向こうの蠱惑的な声よりも、自身の**「背後」**から突き刺さる物理的な殺意が、背筋を氷のように凍りつかせていたからだ。


 視線の主は、もちろん輪廻だった。


 ハルトの斜め後ろの席に座る彼女は、分厚い本を開いているものの、ページは十分前から一ミリもめくられていない。一言も発さず、ただ静かに、瞳孔の開いた真っ黒な目でハルトの背中を見つめ続けている。


『誰と、そんなに長く、楽しそうに話しているのかな? 私というものがありながら』という声なきオーラが、ラウンジの一角だけ気温を五度は下げていた。


「……あー、カレンさん。実は昨日、ちょっと変なことがありまして……。俺の、その、偽物が出現したんです」


 命の危機を感じたハルトは、逃げるように早口で話題を変えた。


 昨日のパンケーキカフェでの恥死寸前の一件。そして、どこからどう見ても一般人のOLの偽物が、魔界の将と対峙し、あろうことか睨み合いの末に敵を「退却」させてしまったという、荒唐無稽な顛末を伝えた。


『――ッ、アハハハハハハ!! 嘘でしょ!? 魔人が、偽物のゴエティアのハッタリにビビって逃げ帰ったの!?』


 首都支部のオフィスにいるであろうカレンの、腹を抱えて笑う声がスピーカー越しに響く。


『愉快すぎるわハルト! ああ、お腹痛いっ! 血も涙もない魔人が、ただのコスプレイヤーを警戒して逃げ帰るなんて……魔界の幹部も地に落ちたものね! あははは!』


 カレンの容赦のない爆笑に、ハルトは深い溜息をついた。コーヒーまみれになったパンケーキの悲惨な記憶がフラッシュバックし、胃のあたりがキリキリと痛み出す。


 俺の社会的尊厳は、あの偽物のせいで完全に崩壊しつつある。そう愚痴をこぼそうとした、その時だった。


 ひとしきり笑っていたカレンの声から、不意に、すべての温度が消え失せた。


『……でもハルト。ただの笑い話で済めばいいけれど、私から一つ忠告しておくわ』


「忠告、ですか?」


 鼓膜を打つ声は、先ほどまでのハルトをからかう余裕のある女性のものではない。数多の死線を潜り抜け、魔の生態を知り尽くした「対魔機関のエースエージェント」としての、冷徹で無機質な声音だった。


『魔人はね、例外なく皆、ひどく粘着質で執念深い性格をしているのよ。特に、今回遭遇したような知性があるタイプは、何よりも己の計算とプライドを重んじる。……自分が「名もなき一般人に退かされた」という事実は、彼らの歪んだ自尊心をひどく傷つけているはずよ』


 ハルトの背筋に、輪廻の嫉妬の冷気とは違う、全く別の嫌な戦慄が走った。


『もし、冷静になった魔人が状況を再構築し、あの「ゴエティア」がただのハッタリをかました一般人だと気づいたら、どうなると思う?』


「……ッ」


『魔人を騙し、辱めた罪は重いわ。やつらが「偽物」の命に対して、どんな残酷な報復手段をとるか……想像に難くないでしょう?』


 電話越しのカレンの息遣いが、鋭く尖る。


『偽物さん、気をつけた方がいいわ。……その首には、もう半分、死神の鎌が深く掛けられているかもしれないのだから』


「……わかりました。忠告、ありがとうございます」


 電話が切れる。ツー、ツーという無機質な電子音が、ハルトの耳の奥で不気味に響いていた。


 ハルトは無意識のうちに、ポケットの中で右手を強く握りしめた。皮膚の下で、陶器が割れるように広がっている「灰化」の白いひびが、ギシッと嫌な痛みを訴えてくる。


 本人が知らないところで、望外の英雄になってしまった佐藤ナナ。


 有頂天になった彼女が、週末の広場で再び「英雄」として振る舞えば振る舞うほど、騙されたことに気づいた魔人の、底なしに黒い悪意と殺意が彼女に牙を剥く。


「……週末の広場、か」


 ハルトは、薄暗い曇り空が広がる窓の外を見つめながら、静かに呟いた。

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