灰色の景色、贋作のワルツ(前編②)
「みんなー! 応援ありがとう! 愛と正義の騎士、ゴエティアだよっ!」
休日の駅前広場。
自作のゴエティア衣装に身を包んだ**佐藤ナナ(27歳・独身OL)**は、子供たちに手作りのブロマイドを配りながら、満面の笑みでポーズを決めていた。
手には、ホームセンターで買った木材を削り出し、スプレーで金ピカに塗装した自慢の『魔導剣』が握られている。
(ふふっ、今日も大盛況! みんなの笑顔を見ると、明日からのエクセル入力地獄も頑張れる気がするわ!)
平和な週末の午後。しかし、その穏やかな空気は、突如として氷点下にまで凍りついた。
ズゥゥゥン……ッ!!
広場の中央、空間そのものが歪んだかのような漆黒の亀裂が走る。魔界と人間界の扉が僅かに開く。
そこから姿を現したのは、禍々しい紫色のオーラを纏った巨漢。魔界の十二将が一人、『智将』フォラスであった。
「ぬっ……貴様は、ゴエティア……」
地を這うような重低音。周囲の気温が一気に下がり、悲鳴を上げる間もなく、観衆たちはその圧倒的なプレッシャーに腰を抜かした。
(ひ、ひぃぃぃぃっ!? な、ななな、何あれ!? 本物!? 本物のバケモノ!?)
ナナの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。ウレタンの装甲の下で、足が生まれたての子鹿のようにガクガクと震え始めた。一般人の彼女にとって、魔界の将が放つ死の気配は、立っていることすら不可能なほどの恐怖だった。
一方、現れた魔界の将・フォラスの側も、内心で激しく動揺していた。魔人王の指令は、脅威となっている『ゴエティア』との戦いを避け、『鍵の巫女』を拉致することだ。だが――。
(……なんだ、この男は。いや、女か?)
フォラスは、目の前に立つゴエティアらしき騎士を鋭く観察し、息を呑んだ。
(……隙だらけだ。構えが全くなっていない。それに、殺気が一切ない。……馬鹿な。私という魔界の将を前にして、これほど無防備に立つというのか?)
フォラスは『智将』と呼ばれるだけあり、慎重かつ疑い深い性格だった。彼の目には、震えるナナの姿が「あえて隙を晒し、こちらを誘い込んでいる死地の罠」にしか見えなかった。
(……まさか、どこかに伏兵が!? いや、それとも私の攻撃を初撃でカウンターし、一撃で沈める算段か……!?)
フォラスが勝手に冷や汗を流していることなど露知らず、ナナの頭の中はパニック状態だった。逃げたい。今すぐこの木製の剣を放り投げて、アパートの布団に包まりたい。
だが、逃げ出そうとした彼女の脳裏に、ある記憶がフラッシュバックした。半年前。結婚を約束していた彼氏に浮気され、貯金も崩し、人生のどん底で泣きながら夜道を歩いていたあの日。夜のスーパーマーケットに現れた魔人。退けたのは、燻し銀の装甲を纏った本物の『ゴエティア』だった。
あの日から、ナナにとってゴエティアは「絶対に折れない心」の象徴になったのだ。
(……ここで逃げたら。あの時の、ただ泣いてるだけの情けない私のままになっちゃう!)
ナナは、ガチガチと鳴る奥歯を強く噛み締めた。偽物だっていい。痛いコスプレイヤーだって分かってる。でも、今ここで私の後ろにいる子供たちを――誰も傷つけさせない!
「あ、悪……っ、悪を断つ!」
ナナは、震える両手で金ピカの木製剣を、思い切りフォラスに向かって突きつけた。声は裏返り、涙目になっている。それでも、彼女は魂の底から叫んだ。
「紅蓮の牙……ゴエティア! わ、私が、みんなを守るんだからぁぁっ!!」
その悲痛な叫びと、一切の魔力を伴わない捨て身の構え。それを見たフォラスは、完全に勘違いの迷宮へと入り込んだ。
(……なんという事だ。魔力を……一切感じない。私の探知能力を完全に欺くほどの、高度な魔力遮断技術……! ただの一般人にしか見えぬよう偽装しているのだ!)
フォラスの額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちる。
(間違いない。私が動いた瞬間に、見えない一撃が飛んでくる。……くっ、ここで無策に突っ込むのは愚策中の愚策。奴の術中にハマるわけにはいかん!)
フォラスは、マントをバサァッと翻した。
「……フン。今日は顔見せだ」
「……え?」
「貴公の底知れぬ実力、そして恐るべき隠蔽技術……確かに見届けたぞ。流石は我らが脅威となる魔導騎士よ」
フォラスは、油断なくナナに鋭い視線を向けたまま、後ずさる。フォラスは、警戒度MAXのままジリジリと後退し、そのまま遥か彼方へと撤退していった。
沈黙。魔界の将が去った広場には、秋風だけが虚しく吹き抜けていた。
「……勝った? 私、何もしないで、勝っちゃったの……?」
へなへなとその場に座り込んだナナの周囲に、しばらくして我に返った観衆たちがどっと押し寄せてきた。
「す、すげええええっ!!」
「あの化け物を、睨み合いだけで追い返しちまったぞ!」
「一歩も引かないあの覚悟! やっぱり本物のゴエティアは最強だ!!」
広場を包み込む、割れんばかりの大歓声と拍手。ナナはポカンとしていたが、やがて頬を真っ赤に染め、えへへと照れ笑いを浮かべた。
みんなを守れた。大好きなヒーローに、少しだけ近づけた。
「愛の騎士」として、27歳独身OLの心に新しい光がバチッと灯った瞬間であった。
一方――。広場に面したカフェの窓際。
「…………」
本物の魔導騎士であるハルトは、コーヒーまみれになったテーブルの上で、完全に魂が抜けた顔で突っ伏していた。
(……なんで逃げるんだよ! あれ、偽物だぞ! 木の剣だぞ!?)
隣で「ハルト……偽物さん、勝っちゃったね」と苦笑いする輪廻と、「……なんか色々と終わってるわね」と呆れ果てる響花。
(俺の評価が……俺の知らないところで、どんどんヤバい方向に上がっていく……ッ!!)
本物のゴエティアは、右手で進行する灰化の恐怖よりも、次回フォラスと遭遇した際に求められるであろう「底知れぬ実力のハードル」の高さに、ただただ胃を痛めるのであった。




