届かない距離の、その先へ(後編④)
カーテンを閉め切った六畳一間のアパートは、昼間だというのに深夜のような静寂と暗闇に支配されていた。
わずかに開いた隙間から差し込む光の帯が、空中に舞う埃を無情に照らしている。
ハルトは、ベッドの脇の床に直接座り込み、自身の拳をじっと見つめていた。
その拳は、魔界の暗殺者バルバトスを退けたはずの、魔導騎士ゴエティアとしての誇りであったはずのものだ。
だが、今のハルトにとって、それはただの「無力な鉄の塊」に過ぎなかった。
枕元に放り出されたスマートフォンの通知だけが、やけに白々しく、網膜を刺す。
『大学講義室でのガス爆発事故——死傷者の身元判明』
事故。
公的には、そう処理された。
対魔特務機関『S.A.I.D.』の隠蔽工作は完璧だった。魔導騎士も、異界の魔物も、この世界には存在しないことになっている。
だが、ハルトの記憶は書き換えられない。
あの日、あの講義室で、名前も知らない女子学生が、ただ日常を生きていただけの彼女が、バルバトスの振るった刃に裂かれ、物言わぬ骸へと変わった瞬間。
ハルトが、『ゴエティア・ブースト』を起動できていればーー彼女を救えたかもしれない。
「……事故、じゃねぇだろ」
吐き気がした。自分自身の甘さと、無力さに。
強くなったつもりだった。
なのに、結局守りたかった「日常」すら守れなかった。
「ヒーロー……失格だろ、こんなの」
自嘲気味に呟いた声は、誰に届くこともなく暗闇に吸い込まれていった。
視界がじわりと滲む。
「守る」と誓った重みが、今はただハルトの首を絞める鎖のように感じられた。
その時だった。
カチャリ、と微かな金属音が響いた。
ハルトが顔を上げるより早く、静かにドアが開く。
「……ハルト」
鈴を転がすような、けれどどこか切なさを孕んだ声。
振り向かなくても分かった。この香りと、この空気感。
輪廻だった。
ハルトは答えない。今の情けない顔を見られたくなかった。
だが、輪廻は遠慮なく暗闇の中へと歩み寄ってくる。
床に座り込むハルトの背後に立つと、彼女は静かに、そして包み込むように後ろから抱きついた。
「っ……輪廻」
背中に触れる、驚くほど柔らかく、そして確かな温もり。
冬の底に沈んでいたような冷たい部屋に、彼女の体温が波紋のように広がっていく。
輪廻の腕がハルトの首に回され、彼女の頬がハルトの肩に寄せられる。
編み込んだ黒髪から漂う花の香りが、死の匂いに侵されていたハルトの五感を優しく洗い流していく。
「冷たいね、ハルト……。体も、心も」
「……来るなよ。今の俺、最悪なんだ。誰も守れなかった、ただの出来損ないなんだよ」
「うん。知ってる」
輪廻の返答は、残酷なほど即答だった。
ハルトの体が強張る。だが、彼女が抱きしめる力は、さらに強まった。
「守れなかったって、自分を責めて、独りで泣いてるんでしょ。……でもね、それでも私は来る。あなたがどれだけ自分を嫌いになっても、私はここに来るの」
「どうしてだよ……」
「忘れたの?」
輪廻は、ハルトの耳元で囁くように言った。
その吐息が熱を持ってハルトの肌を震わせる。
「私は守られたよ。ハルト。あの日、あなたが戦ってくれたから、私は今もこうしてあなたの温かさを感じていられる。世界中の誰があなたを否定しても、私はあなたの戦いを知ってる。……私は、あなたに生かしてもらったの」
「でも……俺がもっと早く動けていれば、あの子だって……」
「もし」
輪廻が、ハルトの言葉を遮った。
彼女はハルトの背中から離れると、彼の前に回り込み、その場に膝をついて座り込んだ。
ハルトの視界に、輪廻の顔が映る。
髪飾りの花が揺れ、大きな瞳が真っ直ぐにハルトを射抜いていた。
その瞳には、一滴の涙もなかった。あるのは、揺るぎない覚悟。
「もし、あの子を助けるために、あなたが無理をして……死んでたら。……私、あなたのこと一生許さない」
「……え?」
「私にとって一番大事なのは、世界でも、正義でも、ヒーローとしての誇りでもない。……ハルト、あなたなの」
静かな、けれど魂を削り出したような強い声だった。
輪廻はハルトの大きな両手を、自分の小さな手で包み込んだ。
「ハルトが選ぶ道が、たとえどれだけ険しくても。あなたが自分をヒーローじゃないって思ってもいい。でもね、私は『私を選んでくれたハルト』を、何度でも選ぶ」
ハルトの胸の奥で、固く閉ざされていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。
輪廻はそっと手を伸ばし、ハルトの頬を包む。
その指先が、わずかに震えていることにハルトは気づいた。
彼女だって、怖かったのだ。ハルトが壊れてしまうことが。彼を失ってしまうことが。
「自分を責めるのは、もうやめよう。……あなたは、ちゃんと私を守ってくれてる。……ありがとう、ハルト」
ハルトの目から、こらえていたものが一筋、頬を伝った。
輪廻はそれを指先で優しく拭い、慈しむような微笑みを浮かべた。
その瞬間、ハルトの中で「守るべき理由」が、抽象的な正義から、目の前のこの少女へと塗り替えられた。
「輪廻……。……悪い。俺、どうかしてた」
「ふふ、やっといつものハルトに戻ったね」
名前を呼ぶだけで、胸の奥が熱くなる。
ハルトは、自分の頬に触れる輪廻の手に、自分の手を重ねた。
暗かった部屋が、不思議と夕暮れのような、柔らかな熱を帯びて感じられた。
輪廻は少しだけ照れたように、けれど挑発的な光を瞳に宿して笑う。
「今日はね、私がハルトを守る日。……ハルトが自分のことを嫌いにならないように、私が上書きしてあげる」
自然と、顔が近づいた。
どちらからともなく、吸い寄せられるように。
触れ合う直前、輪廻が小さく目を閉じる。
重なった唇は、驚くほど柔らかく、そして火傷しそうなほど熱かった。
最初は、ただの確認。
けれど、一度触れ合えば、抑えていた感情が熱となって溢れ出す。
ハルトの手が輪廻の腰を引き寄せ、彼女の華奢な体がハルトの逞しい胸板に密着する。
「ん……っ……」
微かな吐息が、キスの隙間から漏れる。
一度離れた唇が、磁石のように再び惹かれ合う。
今度は、より深く。互いの存在を確かめ合うように、舌が絡み合い、呼吸が一つに混ざり合う。
悲しみも、罪悪感も、世界の不条理も。
今、この瞬間だけは、輪廻の甘い香りと熱の中に溶けて、遠ざかっていく。
ハルトは輪廻を抱き寄せたまま、ゆっくりと背後のソファに倒れ込んだ。
乱れた黒髪がソファに広がり、輪廻の白い肌にコントラストを描く。
上気した頬。潤んだ瞳。
それでも、輪廻は視線を逸らさなかった。
「……やっと、こっちを見てくれた」
その言葉が、狂おしいほど甘くて、切ない。
「ずっと、待ってたんだよ? 私のこと、女の子として見てくれるの」
ハルトの理性が、音を立てて溶けていく。
守りたい。失いたくない。
この温もりを、この命を、二度と離したくない。
指先が輪廻の服の裾へと伸び、肌の熱が直接伝わる。
鼓動が重なり、部屋の空気は濃厚な甘さに満たされていく。
輪廻がハルトの耳元で、消え入りそうな声で囁いた。
「好き……ハルト……。全部、あなたにあげる……」
世界が静かに溶けていく感覚。
ハルトはもう一度、今度はすべてを奪い去るような深いキスを――。
ピンポーン。
静寂と熱情を切り裂く、一回の、あまりにも落ち着いた呼び鈴。
「…………っ!?」
二人の動きが、彫像のように止まる。
心臓の鼓動だけが、異常な早さで鳴り響いていた。
少しの間を置いて、再び、ピンポーン。
「……ハルト? 反応がないな。寝ているのか?」
ガチャリ。
「鍵が開いているだと? 防犯意識の低下は戦闘能力の低下に直結する。状況確認のため入るよ」
ドアが開く音がし、足音が迷いなくリビングへと近づいてくる。
慌てて服を整えようとするが、間に合わない。
リビングへ入ってきたレイジは、ソファの上で完全に重なり合い、顔を真っ赤にしている二人を見て、ぴたりと足を止めた。
「…………」
沈黙。
レイジは銀縁の眼鏡を指先でクイ、と押し上げる。
その瞳には、驚きも、困惑も、一ミリも存在していなかった。
ただ、スーパーの袋から突き出したコーラのボトルを持ったまま、数秒で状況を整理しただけだ。
「……あー、なるほど。重力の相互作用による物理的接触か」
淡々とした、あまりにも事務的な声。
「僕の演算予測では、今の君は“女子学生の死による自己否定モード”に入っている。放っておくと、明日には戦闘力が二割三割と落ちる計算だった。……なるほど、そこに輪廻によるセロトニン分泌を促す物理的介入か。判断としては悪くない。体温は原始的だが、精神汚染には最も有効な対抗策だ」
「れ、レイジ……! お前、何、何しに来たんだよッ!!」
ハルトが怒鳴るが、レイジは軽く肩をすくめるだけだ。
「いや、単なるロジックの話だ。抱擁および口腔接触——いわゆるキスは、ストレスホルモンの低減に統計学的にも有意な差をもたらす。君たちが野生動物のように本能に従っているのは、生物学的に正しいと言える」
一瞬だけ、二人の乱れた服装を冷徹に観察するレイジ。
「ただ——」
再び眼鏡を押し上げる。
「僕の演算によれば、このまま最終段階まで進んだ場合、君のメンタリティは“世界平和”ではなく“特定個人を守るための偏執的な守護者”へとシフトする可能性が87%だ」
ハルトと輪廻の顔が、さらに茹でダコのように赤くなる。
「それ、愛としては美しいが、魔導騎士としては少しばかり重い。執着は判断を鈍らせるからね」
間。
そして、レイジは急にいつもの「残念な軽さ」で、買ってきた袋を掲げた。
「というわけで、気分転換だ。**『ダークサイドIII』**を買ってきた。物理演算の理不尽さが売りの神ゲーだ。三時間ぶっ通しで難敵に殺され続ければ、だいたい君の情緒は“怒り”という健全な方向へ戻る」
「……今、それ言うの?」
輪廻の声が、低く、低く響く。
その周囲には、目に見えるような黒いオーラが立ち上っていた。
「タイミング的には今がベストだ。賢者タイムの前に介入することで、過度な依存を——」
ドゴォォォォォォッ!!
「ぐ、ふっ……!? 演算外の……加速度……」
輪廻の、一切の迷いがない右ストレートがレイジの顔面にめり込む。
そのまま錐揉み回転をしながら、残念なイケメンは廊下へと転がっていった。
倒れながらも、レイジは粉砕された眼鏡を直し、冷静に呟く。
「……ふむ。怒れる輪廻の鉄拳。これによりハルトの脳内のドーパミンが羞恥心に上書きされ、鬱屈とした思考は完全にリセットされた。……結果オーライ、だな」
バタンッ!!
玄関のドアが、輪廻の手によって親の仇のように閉められた。
嵐が去った後のような静寂。
ソファの上で、微妙な距離感で座り直すハルトと輪廻。
「……ハルト」
「……うん」
「……もう、無理。続き、できない」
「……だよな」
顔を合わせられず、二人で天井を見上げる。
ハルトと輪廻が本当の意味で結ばれる日は、どうやら、あの残念なイケメンの予測以上に遠そうだった。




