届かない距離の、その先へ(後編③)
「さぁ……いくよ」
アスタロトの、感情の温度を感じさせない声が講義室に落ちた。
破壊された窓から吹き込む冬の風が、彼の背から流れる影のような外套をゆらりと揺らす。
そして、その隣。まったく同じタイミングで、まったく同じ角度で、もう一つの外套が風に揺れた。
魔導獣グレモリオン。
それは単なる分身ではない。「完全なる写し身」だ。
同じ意匠の角を持つ兜。同じ細身で悪魔的な機能美を誇る装甲。そして、バイザーの奥で光る、同じ赤く冷たい視線。
二体の騎士は、呼吸の感覚、装甲の駆動音、果ては瞬きのコンマ一秒に至るまで、完全に一致していた。それは見る者に、世界のバグを見せつけられているような、底知れぬ気味の悪さを抱かせる。
アスタロトとグレモリオン。二体の視界が、脳内で完全に重なり合う。
展開される《Future Sight: GREMORY(未来視:グレモリー)》。
二つの視点から弾き出される演算は、未来を二重化し、不確定な要素を徹底的に排除していく。枝分かれした無数の可能性が、冷徹な論理の炎で次々と焼却され、最後に残るのはたった一つ。
――“最短で、確実に敵を殺す未来”。
バルバトスの四体の分身体が、危険を察知して散開する。
同時に、二つの黒銀の影が動いた。
彼らの斬撃は、あまりにも静かだった。
空気を裂く音すら置き去りにするほどの、純粋な速度。
右からの踏み込み。左からの牽制。交差。反転。そして背後からの追撃。
二体のアスタロトは、言葉を交わすことも、視線を合わせることすらしない。一つの脳で二つの肉体を操作する異常な連携の前に、分身体の剣戟は空を切り、次々とその黒い装甲を削り取られていく。
「チッ……!」
分身たちが圧倒される中、バルバトス本体が舌打ちと共に後退した。
アスタロトの剣がその喉元に迫る。だが、バルバトスは不敵に目を細めた。
「無駄だ。お前の剣は届かない」
バルバトスの姿が、陽炎のように空間からブレて消える。
三次元からの絶対的な逃走。
だが、二体のアスタロトは剣を振り抜いた姿勢のまま、微塵も焦る様子を見せなかった。
なぜなら、未来はすでに確定しているからだ。
「任せろ」
背後から、重低音の声が響いた。
ハルトが、焼け焦げた床を踏み砕いて前へ出る。
ハルトの左手には、血のように赤く輝くクリムゾンレッドのキーが握られていた。
それを、魔導剣レメゲトンのスロットへと迷いなく突き刺す。
「ーー換装!」
重厚な音声と共に、ゴエティアを覆っていた分厚い燻し銀の重装甲が、爆発的な勢いでパージ(強制排除)された。
吹き飛んだ装甲板が壁や床に突き刺さる中、爆煙の中から現れたのは、一切の無駄を削ぎ落とした、禍々しいまでに研ぎ澄まされた細身のシルエット。
血のように鮮烈な深紅のフレームが、高出力の魔力に耐えきれず脈を打つように発光している。
――ゴエティア・ブースト。
防御を完全に捨て去り、全てのエネルギーを「機動性」へと変換した超高機動形態。
ハルトは、胸部に浮かび上がった真紅の紋章へと右手を当てた。
《Boost Up》
無機質なシステム音声が鳴る。カチリ、と時計の針が止まるような音が、ハルトの脳内で響いた。
――その瞬間。
世界が、引き延ばされた。
崩れ落ちる天井の瓦礫が、空中でピタリと静止する。
巻き上がった砂塵が、漂う軌跡を保ったまま空間に凍り付く。
アスタロトの外套の揺れも、バルバトスの分身たちが剣を振りかざすモーションも、全てがモノクロームの静止画へと変わった。
加速したのは、ゴエティアのみ。
深紅の装甲の縁が、高濃度の魔力を光の帯として循環させ、鮮烈な赤い光を放つ。胸の紋章が、命を燃やすように灼けて輝いた。
限界稼働時間は、わずか10秒。
【 10 】
踏み込む。
音すらない静止世界に、真紅の閃光が一本の線を引いた。
【 9 】
一体目の分身。その懐に潜り込み、レメゲトンの刃が音もなく胸部装甲を貫通する。抵抗すら感じない。
【 8 】
足を止めることなく、瞬時に軌道を変えて背後へ回り込む。
【 7 】
二体目の分身。すれ違いざまに放たれた横薙ぎが、その首を正確に刎ね飛ばす。切断面から血が噴き出すことすらない。時間は止まっているのだ。
【 6 】
三体目。頭上へ跳躍し、脳天から股下までを一刀両断する逆袈裟懸け。
【 5 】
着地と同時に反転し、四体目の心臓目掛けて、渾身の刺突を突き入れる。
これで、分身はすべて「既に斬られている」状態となった。
だが、本体であるバルバトスはまだこの空間にいない。「時間の狭間」へ逃走したままだ。
【 4 】
加速世界の中にあって、ハルトの瞳は空間に走る微かな“裂け目”を捉えていた。
それは通常では絶対に触れることのできない、時間の裏側への扉。だが、極限まで加速し、時の壁すらも超越しかけている今のゴエティアには、物理的な断層として認識できていた。
【 3 】
ハルトは床を蹴り、その空間の裂け目へと向かって跳躍する。
真紅の刃を、虚空の亀裂へと力任せに突き立てた。
火花ではない。
ギィィィィンッ! と、世界そのものの「時間」が軋みを上げる、鼓膜を破るような異音が加速世界に鳴り響く。
【 2 】
ハルトは全身の筋力を引き絞り、突き立てた刃を横薙ぎに思い切り振り抜いた。
「――アッシュ・トウ・アッシュ!!」
【 1 】
真紅の一閃が、時間の狭間そのものを空間ごと切断した。
絶対の安全圏であったはずの裂け目が、強制的にこじ開けられる。その内部に潜み、次の奇襲のタイミングを窺っていたバルバトスの姿が、無防備に露わになった。
「なっ――!?」
驚愕に目を見開くバルバトス。
ハルトの左手が裂け目に突っ込まれ、暗殺者の胸倉を鷲掴みにする。
そのまま、強引に、暴力的に。
時間の狭間から、加速世界という現実の俎上へと引き摺り出した。
【 0 】
世界が、元の速度と色彩を取り戻す。
次の瞬間、講義室に大音響が連鎖した。
「ガアァァァァッ!!」
ゴエティアに斬り捨てられていた四体の分身が、時間差で一斉に灰になり、消滅する。
そして、空間断裂の凄まじい衝撃と共に、現実世界へ叩き出されたバルバトス本体が、床を派手に削りながら無様に転がった。
全身の装甲から黒煙を上げ、片膝をつく最強の暗殺者。
もはや、どこにも逃げ場はなかった。
バルバトスが叩き出され、膝をつくその場所。
その光景を、アスタロトは数秒前の未来視で「既に見て」いた。
未来が、現実と完璧に重なり合う。
前方には、アスタロト。
背後には、グレモリオン。
絶望的なまでに完璧な配置。
二体の騎士が、全く同じモーションで、魔導剣ラプラスを中段に構えていた。
刀身に、限界まで圧縮された紅い魔力がバチバチと稲妻のように奔る。
「終わりだ」
アスタロトとグレモリオンの踏み込みは、コンマ一秒の狂いもなく同時だった。
「ば、かな……私が、こんな泥人形どもに……!」
バルバトスが血を吐くような声で叫び、剣を振り上げようとする。
だが、遅い。すべてが遅すぎる。
絶対の逃げ道であった時間の狭間は、今しがたゴエティアによって完全に切り裂かれたばかりだ。
左右から、不可避の双刃が交差する。
重なり合う二つの動きが、死神への死刑宣告を歌い上げた。
「終焉だ。……ブラッド・レクイエム(血の鎮魂歌)!!」
ズバァァァァァァァンッ!!
完全なる交差。
バルバトスの肉体を中心に、空間を切り裂く巨大な十字の斬線が展開された。
空中に残った赤い魔力の軌跡が、不気味な血の紋章を形成していく。それは標的を空間ごと拘束し、存在を封鎖するための絶対の檻。
時間の歪みが、完全に閉じられた。
「グ、ォォォ……ッ!?」
次の瞬間。
バルバトスの内側から、限界を超えた紅の魔力の奔流が爆ぜた。
強固を誇った黒鉄の装甲に、蜘蛛の巣のような罅が走る。
胸部が裂け、目と口の隙間から、致死量の光が漏れ出した。
――崩壊。
最強と謳われた魔界の暗殺者は、断末魔の叫びすら上げることを許されなかった。
内側からの爆発的な魔力によって、その肉体も、身に纏う装甲も、音もなくサラサラと灰へと変わっていく。
吹き込む冬の風が、その灰を講義室の宙へと散らした。
後に残ったのは、何もなかったかのような、ひどく冷たい静寂だけだった。
戦闘終了。
ゴエティアの全身を走っていた真紅の光がふっと消え、ハルトは限界を迎えたようにその場にドサリと膝をついた。強烈なバックドラフトのように、全身から白い蒸気が立ち昇る。
アスタロトの装甲を覆っていた赤光も、ゆっくりと青い理性の光へと収束していく。
役目を終えたグレモリオンは、背を向けたまま静かに光の粒子へと分解され、主であるアスタロトの影の中へと溶けるように還っていった。
完全撃破。
アスタロトのバイザーが周囲を走査するが、未来視の視界のどこにも、もはや敵影は映っていなかった。




