届かない距離の、その先へ(後編②)
講義室が裂ける。
火花と衝撃波が机を吹き飛ばし、壁を穿つ。
その中心で――黒が、消えた。
「……また、それか」
アスタロトのバイザー越しに、レイジの瞳が細まる。
バルバトスが使うこの「消失」は、単なる高速移動ではない。自身の魔力によって時間と時間の狭間へと身を投じ、三次元的な認識の外側へ脱出する特異な機動力。一度戦ったことのあるレイジにとって、それは既知の、そして最悪の脅威だった。
次の瞬間。
喉元に、殺気。
未来視が告げる“刺突”。
だが――
バルバトスの方が速い。
視えている。だが、間に合わない。
ガギィィィンッ!!
辛うじて魔導剣ラプラスで受ける。腕が痺れ、膝が沈む。
虚空から声が降る。
「無駄だ。貴様の未来視は、私の速度には届かん」
空間が歪む。
右、左、背後。
連撃。
消失。
再出現。
レイジの脳裏に、過去の敗北が焼き付く。
――認識した瞬間、刃が喉にあった。
あのときも、同じだった。
未来は視えた。
だが、“追いつけなかった”。
(……速い……速すぎる!)
歯を食いしばる。
一方。
ゴエティアは四体の分身と激突していた。
刺突を弾き、装甲で受け、レメゲトンで薙ぎ払う。
だが――仕留めきれない。
分身たちは、本体と同じく“時間の隙間”へ逃げる。
「クッ……キリがない!」
ハルトの豪快な剣技は、分身たちの精密な連携によって無力化されていた。一体を防げば別の二体が装甲を切り裂き、灰色の炎が噴き出す間もなく次の刺突が喉元をかすめる。
重厚な装甲を誇るゴエティアの全身から火花が散り、燻し銀の鎧には無数の傷が刻まれていく。
四体の影が、連動して圧をかける。
徐々に。
確実に。
壁際へと追い詰められていく。
「レイジ! 大丈夫か!?」
「……問題ない!」
二人の騎士は、互いの背中を守りながら、破壊し尽くされた講義室の壁際へと追い詰められた。退路はない。目の前には、時間の狭間から現れたバルバトス本体と、冷酷に剣を構える四体の分身。
「期待外れだな。未来視も、暴力も。その程度か」
嘲笑。
剣先が、ゆっくりと向けられる。
レイジは、静かに息を吐いた。
(追いつけないなら――僕が追う必要はない)
視線を下ろす。
魔導剣ラプラス。
血反吐を吐きながら続けた訓練。
未来を読むだけでは意味がないと、何度も叩き込まれた。
「ハルト」
「なんだ?」
「三秒、稼いでくれるか?」
「は?」
「僕を信じろ」
ハルトは一瞬だけ黙る。
そして笑った。
「上等だ」
灰炎が爆ぜる。
レメゲトンが煌めき、五体をまとめて押し返す。
その隙に――
アスタロトが剣を床へ突き立てる。
魔導陣が展開する。
一つではない。
二つでもない。
幾何学が空間を埋め尽くす。
黒と赤の数式が、暴力的に重なる。
「訓練の成果を見せてあげよう――」
床が割れる。
魔力が唸る。
「おいで――グレモリオン」
それは“出現”ではない。
這い出た。
召喚された魔導獣が、
一瞬“銀の塊”で現れ、
そこから――
魔導陣の中心で、銀色の塊が脈打つ。
それは獣のようであり、胎児のようでもあった。
輪郭は定まらず、液体金属のように揺らめいている。
やがて――
骨格が、浮かび上がった。
見えないはずの内部構造が、光の線となって描き出される。
関節。
脊椎。
肩甲。
次に、それを覆うように黒銀の装甲が組み上がる。
一枚。
また一枚。
まるで“記憶”をなぞるかのように。
兜が形成され、
胸甲が閉じ、
最後に青いバイザーが、静かに発光した。
立っている。
そこに。
魔導騎士アスタロトが、もう一体。
「……えっ……増えた?」
ハルトは思わず半歩下がる。
視線を左へ。
本物のレイジ。
右へ。
まったく同じ装甲、同じ立ち姿。
違いがあるとすれば――
わずかに、動きに“淀み”がないこと。
コピー体が、ゆっくりと顔を上げる。
ハルトは目を見開く。
「……おい、マジかよ」
二体のアスタロトが、同時に剣を構える。
その動きは完全に一致していた。
「バルバトス。君の速度に、僕は追いつけない」
レイジが静かに言う。
「だが、二人ならどうかな?」
バイザーの奥で、瞳が光る。
「さあ……第二ラウンドだ」




