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届かない距離の、その先へ(後編①)

窓の外には、冬の空気が張り詰めた、抜けるような青空が広がっていた。キャンパスの並木道は葉を落とし、寒々しい枝が風に揺れている。どこにでもある、平和な大学の午後。


階段状になった巨大な講義室。そこでは、老教授の抑揚のない声がマイクを通して響き、何百人もの学生がペンを走らせる乾いた音が、微かなノイズのように重なっていた。暖房の効いた室温が、思考を鈍らせるような微睡みを誘う。


だが、中段の席に座るレイジにとって、この穏やかすぎる時間は、肌が粟立つほどの違和感でしかなかった。


(……平和すぎる。感覚が、バグを起こしそうだ)


レイジは指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、吐き捨てるように内心で独りごちた。


つい数日前まで、彼はラプラスが構築した精神世界で、感情を持たない「機械の化け物」たちと、文字通りの殺し合いを演じていたのだ。鋼鉄の牙が喉元をかすめる風圧、魔力の爆風が皮膚を焼く熱、破壊された機械が撒き散らすオイルと焼けた金属の臭い。


死と隣り合わせの極限状態。それに比べれば、この講義室の空気はあまりにも薄く、現実味がない。


隣を見れば、ライバルのハルトが今にも机に突っ伏しそうな勢いで船を漕いでいる。一昨晩、ゲームで雑魚敵相手に死に続けていた男の顔だ。この落差に、レイジは乾いた笑いすら浮かばない。


(暗殺者は、一度失敗した程度では諦めない)


レイジの視線は、無意識のうちに講義室の壁一面を占める巨大な窓へと向いていた。


(間隔を置いて、奴らは必ず来る。問題は「いつ」「どこで」来るかだ。こんな無防備な場所で来られたら……)


その時だった。


レイジの思考が、鋭い針で刺されたように跳ねた。


空気に、異物が混じった。


温く甘い日常の空気を、たった一滴で猛毒に変えるような、純粋で鋭利な殺意の波動。


(――来たッ!)


全身の神経が警鐘を鳴らす。レイジは思考より先に反射で動き、隣でまどろんでいたハルトの肩を鷲掴みにした。


「――ハルト、伏せろッ!!」


ドォォォォォォンッ!!


レイジの警告が、鼓膜を破らんばかりの轟音にかき消された。


講義室の巨大な強化ガラスが、外部からの圧倒的な衝撃によって、内側へと爆ぜ飛んだのだ。


「きゃあああああっ!!」「な、なんだ!? 爆発か!?」


一瞬にして、平穏は崩壊した。爆風が室内の空気を掻き乱し、ノートやプリントが紙吹雪のように舞い上がる。太陽光を反射してキラキラと輝く無数の硝子片が、凶器の雨となって学生たちの上に降り注ぐ。


悲鳴と怒号の坩堝と化した講義室。その混沌のただ中、砕け散る硝子の嵐を切り裂いて、音もなく教壇へと舞い降りた影があった。


魔界の刺客、バルバトス。


まるで火口から這い出てきたかのような、赤熱した亀裂が走る黒鉄の甲冑。ボロボロになった漆黒のマントが、爆風の中で不吉な旗のようにたなびいている。兜の奥、本来なら顔があるべき場所には、底知れぬ闇だけが広がっていた。


バルバトスは、パニックに陥り逃げ惑う何十人もの学生たちなど、最初から視界に入っていないようだった。


その虚無の視線が、正確に、群衆の中にいるレイジだけを射抜く。


「対象確認――アスタロト。今日こそ、その命をもらう」


感情の一切が削ぎ落とされた、死刑宣告のような無機質な声。


次の瞬間、バルバトスの姿が掻き消えた。


人間の動体視力では捉えきれない、超高速の踏み込み。音すら置き去りにする刺突が、レイジの心臓目掛けて放たれる。


「チッ……!」


レイジは自身の限界を超えた反応速度で、床を転がるようにして横へと回避した。


ガァァァンッ!!


直前までレイジの胸があった空間を、不可視の刃が貫通する。背後にあった机と椅子が紙細工のように粉砕され、コンクリートの壁が爆ぜて深いクレーターが生まれた。


「危なかった……僕じゃなかったら死んでいたよ」


レイジは床に膝をつき、冷や汗を拭う。あとコンマ数秒遅れていれば、即死だった。


バルバトスは追撃の手を緩めない。懐から、毒々しい紫色の光を放つ結晶石を取り出すと、それを迷いなく握り潰した。


「分断し、殲滅する。――『影の軍勢シャドウ・レギオン』」


教壇を中心に、床に不気味な魔法陣が展開される。そこから溢れ出した漆黒の霧が、バルバトスの姿を覆い隠し、そして四つに裂けた。


霧が晴れた後、そこに立っていたのは、本体と全く同じ姿、同じ威圧感を放つバルバトスが五体。


出口を塞ぐように配置された死神の群れに、講義室は絶望的な悲鳴に包まれた。


「大学まで乗り込んでくるとか、趣味が悪すぎるだろッ!」


ハルトが硝子片を踏み砕きながら立ち上がる。その瞳には、理不尽な暴力に対する激しい怒りの炎が宿っていた。


「レイジ、やるぞ! これ以上、好き勝手させてたまるか!」


レイジもまた、静かに立ち上がり、懐から鎧を召喚する「鍵」を抜き放つ。ハルトの手には希望の光を宿した銀色の鍵が、レイジの手には宿命の重みを湛えた黒鉄の鍵が握られていた。


二人の視線が交錯する。言葉はいらない。互いの覚悟は、すでに決まっていた。


「「――装着!」」


二人の咆哮が重なり、虚空からそれぞれの魔導剣が顕現する。


剣の柄にある鍵穴に、鍵が勢いよく突き刺された。


**ガギィィィンッ!**という重厚な金属音が響き渡り、空間そのものが歪むほどの魔力が噴出する。


ハルトの周囲に、終焉を思わせる灰の炎が渦巻く。


煤けた燻し銀の装甲が、焼け焦げた音を立てながら次々と実体化し、彼の肉体を包み込んでいく。


現れたのは、魔導騎士ゴエティア。その姿は、幾多の戦場を焦土に変えてきた破壊の化身そのものだ。


レイジを包み込んだのは、底知れぬ深淵の闇だった。


足元から滲み出す黒が空間を侵食し、そこに鮮血のような紅い光が奔る。


無数の演算式が虚空に刻まれ、赤い軌跡を描きながら彼の周囲を巡回する。


数式が収束する。


闇が凝縮し、刃のように研ぎ澄まされた黒銀の装甲へと変貌した。


胸部を走る紅いラインが脈動する。


バイザーの奥、細い光が灯る。


魔導騎士アスタロト、顕現。


深淵を覗き込み、なお平然と最適解を選び取る――血を纏った理性の化身


硝子の海と化した講義室で、五体の死神と二騎の魔導騎士が対峙する。日常は完全に崩壊し、ここはすでに戦場だった。


殺戮の円舞曲が、幕を開けようとしていた、その時。


「……え、なにあれ。コスプレ?」


パニックから取り残されたのか、最前列近くで腰を抜かしていた一人の女子学生が、呆然とした声で呟いた。彼女の視線は、突如現れた異形の騎士たちに向けられていた。


その声が、バルバトスの耳に届いたのか、あるいは単に射線上にいたからか。


本体のバルバトスが、微かに動いた。


ヒュンッ――。


音がなかった。予備動作もなかった。


ただ、黒の直剣が閃いただけに見えた。


「あ……?」


女子学生の身体が、奇妙な硬直を見せる。


次の瞬間。彼女の胸のあたりから、鮮やかな真紅の液体が、噴水のように噴き上がった。


遅れて、ドサリ、という生々しい音が響く。彼女の身体は糸が切れた人形のように崩れ落ち、床に広がった血溜まりが、硝子の破片を赤く染めていく。


講義室の時間が、凍りついた。


悲鳴すら上がらない。あまりにも唐突で、あまりにも現実感のない死。


バルバトスは、自分が斬り捨てた命に一瞥もくれなかった。剣に付着した血を振るうことすらせず、ただ無機質に言い放つ。


「邪魔だ、人間」


それは、道端の石ころを蹴飛ばした程度の認識でしかなかった。


ブチィッ、と何かが切れる音が、レイジの脳内で響いた。


「――貴様ァァァァッ!!」


アスタロトのバイザーの奥で、青い瞳が灼けつくような怒りの光を放った。


常に冷静沈着で、感情を論理で制御してきたレイジの理性が、目の前の惨劇によって焼き切れたのだ。


 ドォォンッ!


アスタロトの脚部の装甲が爆ぜるような加速を生み出し、床のコンクリートを粉砕しながらバルバトス本体へと肉薄する。


魔導剣ラプラスを上段に構え、渾身の力で振り下ろす一閃。


殺意を物理的な刃に変えた斬撃が、空間ごとバルバトスを両断せんと迫る。


だが。


バルバトスは、その一撃を紙一重で、最小限の動きで躱した。刃が頬の装甲をかすめ、火花と共に赤い線が走る。初めて、敵の体に傷がついた。


「ほう。感情で動くか。非効率な」


バルバトスの冷淡な評価が、レイジの神経をさらに逆撫でする。


即座に放たれる反撃の刺突。それは先ほどよりも速く、鋭く、正確にアスタロトの隙を狙っていた。


「視えている……ッ!」


だが、今のアスタロトは、ただ感情に任せているだけではなかった。怒りを燃料とし、ラプラスの演算能力を極限まで加速させていた。


脳内に浮かぶ未来軌道予測のライン。0.3秒先の敵の動きが、青い光跡となって視界に焼き付く。


アスタロトは体を捻り、刺突をミリ単位で見切って回避。そのまま流れるような動作で、ラプラスによるカウンターの斬撃を放つ。


剣戟の火花が散り、金属音が絶え間なく響く。決定打には至らないが、互角の高速戦闘が繰り広げられていた。


一方、その後方では――。


「うぉォォォォッ!!」


ゴエティア(ハルト)が、四体のバルバトスの分身に取り囲まれていた。


分身と侮るなかれ。その一体一体が、本体と同等の膂力、同等の速度、そして同等の絶技を有している。


同時に四方向から放たれる、不可視の刺突の嵐。


ガガガガガガッ!!


ハルトは魔導剣レメゲトンを風車のように旋回させ、全ての攻撃を力技で弾き返した。重金属の衝突音が炸裂し、衝撃波で周囲の机や椅子が吹き飛ぶ。


「数が多い……ッ!」


ハルトは退かない。


両足を踏み締め、深く重心を落とす。


灰色の劫火が装甲の継ぎ目から噴き上がり、講義室の空気を歪ませた。


レメゲトンを両手で握り込む。

溜める。

全身の魔導の力を、一点に圧縮する。


「――はあああああッ!!」


渾身の横薙ぎ。

重厚な刃が空気を裂き、灰炎を纏った斬撃が弧を描く。


直撃。


迫っていた二体の分身がまとめて吹き飛ぶ。


だが――


振り抜いた直後の、わずかな硬直。

そこを狙うように、残る二体が左右から同時に踏み込む。


刃が閃く。

火花が散る。

ゴエティアの鎧に、鋭い衝撃が走った。


「くっ……!」


右の刺突を剣で受け止め、左の斬撃を篭手で弾く。鎧の表面で激しい火花が散り、装甲が削れていく。


力と技の純粋な衝突。一瞬の油断が死に直結する、ギリギリの拮抗状態。


硝子片の海と鮮血に染まった講義室で、五の影と二騎の魔導騎士が激突を繰り返す。


戦いは、均衡していた。


だが――均衡とは、いつか必ず崩れるためにある。


その崩壊の瞬間は、すぐそこまで迫っていた。

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