届かない距離の、その先へ(中編③)
リビングの照明を落とし、テレビのバックライトだけが二人を青白く照らし出す。画面に躍る『DARK SIDE III』の無慈悲なタイトルロゴは、まるでこれから始まる悲劇を予感させていた。このゲームは、一瞬の瞬き、コンマ一秒の判断ミスが「死」に直結する超高難易度アクション、通称「死にゲー」として世界的なヒットを記録している。
ハルトは重厚な甲冑を纏った黒騎士を、輪廻は杖を携えた可憐な魔女を選択し、二人の協力プレイの幕が上がった。
(……ふふふ。見ていなさい、響花さん。ここからは私のターンです!)
輪廻はコントローラーを握りしめ、隣に座るハルトを盗み見た。彼女の脳内では、すでに「完璧な勝利の方程式」が組み立てられている。
この地獄のような難易度の世界で、恐ろしい怪物に襲われる自分。そこへハルトが颯爽と割って入り、盾となって彼女を守る。死線を共にする緊張感が「吊り橋効果」を生み、クリアした瞬間の高揚感で、そのままハルトから「君がいてくれて良かった」と抱きしめられる……。
下心という名の希望。情熱という名の妄想。しかし、現実は非情である。
「よし、輪廻! 俺が前に出て敵を食い止める。お前は後ろから魔法で――ぎゃあああ!?」
ゲーム開始からわずか三十秒。ハルトの操る黒騎士は、物陰から飛び出した雑魚敵の「錆びた短剣」にあっけなく突き刺された。画面には血飛沫と共に、大きく 『YOU DIED』 の文字。
「……ハルト? いま、ただの骸骨でしたよね? 一番弱そうな」
「悪い、タイミングが……次は任せろ! ……うわあ! 落とし穴ぁぁ!?」
二度目の 『YOU DIED』。輪廻は唖然として、隣で必死にボタンを連打するハルトの横顔を見た。現実の彼は、山をも砕く魔人を相手に一歩も引かず、どんな絶望的な戦場でも勝利を掴み取る不屈の英雄だ。しかし、画面の中の彼は、ただの「全てのトラップに律儀に引っかかる黒い置物」に成り下がっていた。
一時間が経過した。輪廻は驚くべき適応力を見せていた。魔界の刺客からの逃亡生活で磨かれた洞察力と冷静な判断力が、ゲームの世界でも存分に発揮されたのだ。
「ハルト、右から弓兵が来ます! ローリングで回避して!」
「えっ、どっち!? うわっ、当たった! 体力がミリだ、回復薬がない!」
「下がっていてください! 私が焼き払います!」
輪廻の魔女が華麗なステップで攻撃を回避し、極大魔法で敵を殲滅する。その背後で、ハルトの騎士は壁際に追い詰められ、震えながら薬草を齧っている。
(……おかしい。おかしいですよ。あの勇敢で強い、私のハルトはどこへ行ったのですか!? そもそも、このゲームを誘ってきたのはハルトの方ですよね!?)
現実のハルトがフィジカルに頼りすぎているせいなのか、繊細なボタン操作が必要なゲームの世界では、その「熱血さ」が裏目に出て、全ての初見殺しに真っ正面から衝突している。輪廻の当初の目的であった「吊り橋効果」どころか、もはや「手のかかる子供の介護」の状態である。
「くっそー……なんで当たるんだろー? 次は、次は絶対……ぐふっ」
「……もう、ハルト。私が先行しますから、あなたはとにかく私の影に隠れていてください」
もはや夜の甘い雰囲気など、欠片も残っていなかった。輪廻は半ば意地になり、死にまくるハルトを無理やり引っ張り上げながら、魔王軍を殲滅する勢いでコントローラーを叩き続けた。
さらに一時間。ようやく最初のステージを統べる巨大なボスの門が開いた。輪廻の神懸かり的なフォローにより、一度も死なずにボス部屋まで辿り着いた黒騎士。最後は輪廻の放った極大魔法がボスの心臓を貫き、ついに勝利のファンファーレが鳴り響いた。
「……や、やりましたよ、ハルト! やっとクリアです!」
達成感と疲労、そして「ようやくこれで本来の目的に移れる」という安堵感。輪廻は高鳴る胸を抑えながら、隣のハルトを振り返った。だが、返事はない。ハルトはコントローラーを握りしめたまま、ソファの背もたれに体を預け、規則正しい寝息を立てていた。
「…………えっ?」
ハルトは、不慣れな精密操作と「絶対に輪廻を守らなければ」という空回りした気負いで、現実の戦い以上に精神をすり減らしていたらしい。緊張の糸が切れた瞬間、深い眠りに落ちてしまったのだ。
唖然とする輪廻。猛烈な脱力感と、損をしたような気分が押し寄せる。今日の夕食から、響花への嫉妬、そしてこのゲームの奮闘。全ては彼に「一人の女として」見てもらうための布石だったのに。
「……バカハルト。本当に、大バカです」
輪廻はため息をつき、静かに電源を落とした。画面が消え、暗くなった部屋にハルトの寝息だけが響く。月の光がカーテンの隙間から差し込み、無防備なハルトの寝顔を照らし出していた。その顔は、戦場での険しさは微塵もなく、まるで幼子のように純粋で、輪廻が何よりも愛してやまない表情だった。
ふと、彼女の中に小さな「下心」が再び鎌首をもたげる。眠っている今なら、彼は拒まない。彼に触れても、彼は笑って許してくれるだろう。
輪廻はゆっくりと、音を立てないように距離を詰めた。衣服越しに伝わるハルトの体温。若々しく、力強い男性の熱。彼女は自分の心音が耳に響くのを感じながら、彼の腕の中に滑り込むようにして、その胸元にそっと顔を埋めた。
(……せめて、これくらいの報酬はいただいても罰は当たりませんよね)
ぎゅっと、その温かい体に抱きつく。
ハルトの鼓動が、自分の鼓動と共鳴していく。広い胸板、少し荒い呼吸、石鹸の混じった彼の匂い。その全てが、輪廻の理性を甘く溶かしていく。
「好き。大好きです、ハルト」。心の中で何度も繰り返しながら、彼女は彼に抱きついたまま、その腕の感触、その呼吸の全てを独り占めにした。昼間の嫉妬も、ゲームでの苦労も、この一瞬の幸福で全てが報われるような気がした。輪廻は、顔を真っ赤に染めながら、このまま時が止まればいいと願う、ドキドキとした夜を過ごすのだった。
一方その頃、数式の文字が星海のように流れる、暗澹たる精神世界。そこでは、甘い夜の空気など微塵も存在しなかった。
「……遅いわよ、レイジ。論理の構築が0.2秒遅れているわ」
ラプラスが杖を振ると、数式の海から巨大な「機械の化け物」が次々と這い出してきた。歯車が剥き出しになった多脚の獣、蒸気を吹き出す鋼鉄の巨人。それらはラプラスがレイジの限界を引き出すために創造した、感情を持たない殺戮機械だ。
「ぐっ……あああああ!」
レイジは魔導剣を構え、迫り来る機械の牙を紙一重で回避する。鋼鉄の爪が彼の肌をかすめ、精神体であるはずの体から魔力の火花が散る。
「まだだ……まだ、動ける……!」
レイジの眼鏡の奥で、闘志が宿る。ラプラスの創り出す機械たちは、物理法則を無視した動きで彼を追い詰める。
ボロボロになりながらも立ち上がり、修行に挑み続けるレイジ。ラプラスは彼を冷ややかな、しかしどこか憐れみを帯びた瞳で見つめていた。
魔導剣そのものである彼女には、因果の糸の先、現実世界で起きている「平和すぎる」光景が手に取るように視える。
「……ねえ、レイジ。あなたは今、この瞬間のために、脳を焼き切らんばかりの過負荷な演算を繰り返しているけれど」
ラプラスは魔女の帽子を直し、杖を弄びながら、深いため息をついた。
「当のハルトは、柔らかい女の子に抱きつかれて、お花畑のような夢の中で熟睡中よ。……正直、マスターを代えたくなるくらい、今のあなたって救われないわね」
「……はぁ、はぁ……何、を言って、いる……ラプラス……っ。ハルトは、今もどこかで、強敵と戦っている、はずだ……。僕だけが、立ち止まるわけには……いかないんだ……!」
機械の化け物が放つ斬撃を、レイジは魔導剣で防ぎ、血の滲むような努力を続ける。限界を超えた修行。
そのあまりの健気さと、現実のハルトの「果報者」ぶりの落差に、毒舌な魔女ラプラスも、今回ばかりは杖で自分のこめかみを叩き、深い同情を禁じ得なかった。




