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届かない距離の、その先へ(中編①)

窓の外では、穏やかな午後の日差しがアスファルトを温めている。しかし、カーテンが引かれた薄暗い部屋の中は、それとは対照的に、ある少女の鬱屈としたため息で満たされていた。


場所は、響花が住むアパートの一室。


彼女の右肩には、真っ白な包帯が痛々しく巻かれている。バルバトスとの死闘で負った斬撃痕は、高度な治癒魔導によって塞がってはいたが、担当医師からは「数日は絶対安静。激しい運動、特に銃火器の使用は厳禁」と念を押されていた。


「……はぁ。安静にしろって言われても、退屈で死んじゃうわよ」


響花はソファに深く沈み込み、所在なげに包帯をさすった。視線は、テーブルの上に置かれたスマートフォンに釘付けだ。画面は真っ暗なまま、何の通知も表示していない。


「……ハルトのバカ。連絡くらい寄こしなさいよ。あたしが心配じゃないの……?」


口では毒づきながらも、指先は無意識にメッセージアプリを開いてしまう。「ハルト」の名前をタップし、入力しかけたメッセージを消しては、また入力する。


『傷、まだ痛むんだけど』


(これじゃ、かまってちゃんみたいじゃない……)


『暇なんだけど、なんか面白い話して』


(いや、これはこれでウザいか……)


結局、何も送れないまま、響花はスマホを放り投げた。


脳裏に焼き付いているのは、あの絶体絶命の瞬間。風を切り裂き、自分とバルバトスの間に割って入った、ハルトの背中だ。


焦りと、安堵と、そして怒りが入り混じった、あの必死な顔。自分を抱き起こした時の、力強くも優しい腕の感触。


(……あんな顔で助けに来られたら、勘違いしちゃうじゃない)


無意識に熱くなる頬を、両手で強引に押さえる。自分の危機に、誰よりも早く、真っ先に駆けつけてくれた。あの真っ直ぐで、熱すぎるほどの瞳。それを思い出すたびに、心臓が肋骨を叩くようにうるさく跳ねるのだ。


ピンポーン。


静かな部屋に、突如としてインターホンの音が鳴り響いた。


「っ!?」


響花は弾かれたようにソファから飛び上がった。心臓が早鐘を打ち始める。


(き、来た!? まさか、ハルト!?)


慌てて姿見の前に走り、銀髪の乱れを手櫛で整える。少しヨレていた部屋着のシャツのボタンを、わざとボタンを一つ多めに外す。そして、痛む肩を庇うような、少し儚げで「守りたくなる」ポーズを鏡の前で予行演習。深呼吸を二回。


(よし、完璧……!)


期待に胸を膨らませ、ドアノブに手をかける。


「はーい、どなた? ……って、ハルト!」


勢いよくドアを開けると、そこには案の定、少し気まずそうな顔をしたハルトが立っていた。黒髪の隙間から覗く瞳はどこまでも誠実で、彼は響花の顔を見ると、安心させるような穏やかな笑みを浮かべた。


「よお、響花。具合はどうだ? あの時の怪我が心配でさ……まだ痛むだろ?」


「な、なによ、わざわざ来なくてもあたし一人で平気よ。子供じゃないんだから……」


憎まれ口を叩きながらも、響花の顔は隠しきれないほどパッと明るくなった。あの瞬間の痛みを共有しているハルトだからこその、重みのある気遣い。それが何よりも嬉しかった。


「……でも、ありがと。来てくれて」


素直な言葉が口をついて出た、その直後だった。


ハルトの背後から、まるで幽霊のように、あるいは守護霊のように、ひょこっと見慣れた顔が覗いた。


「響花さん、お見舞いに伺いました。……ハルトと一緒に」


にっこりと微笑む輪廻。ハルトを当然のように呼び捨てにするその響きは、何度聞いても響花の神経を逆撫でする。


(……輪廻ちゃん! 相変わらずハルトにべったりね。今日くらい遠慮しなさいよ! ここはあたしの家よ!?)


(……ハルトを一人で、野獣のような幼馴染の元へ行かせるわけないでしょう?)


視線が交差した瞬間、バチバチと火花が散る幻覚が見えた。響花の「嬉しさ100%」だった心は、コンマ一秒で「闘争心100%」へと上書き保存された。


リビングのテーブルを囲む三人。空気は氷点下、あるいは沸点。中央には、ハルトが持ってきた高級プリンの箱が鎮座している。


「これ、駅前の有名なプリンなんだ。響花、甘いもの好きだろ? 怪我には美味しい物だと思って、輪廻と一緒に選んだんだ。食べてくれよ」


ハルトが少し照れくさそうにプリンの蓋を開ける。とろりとしたカスタードと、ほろ苦いカラメルの香りが漂う。


「……ありがと。でも、あたし肩が痛くて、あんまり手が動かせないのよね。あーあ、スプーン持つのも辛いわぁ」


響花は、ここぞとばかりに「怪我人カード」を切った。わざとらしく包帯の巻かれた肩を押さえ、上目遣いで弱々しくハルトを見つめる。


「え、マジか? そんなに痛むのか……ごめん、気が回らなくて。よし、じゃあ俺が――」


ハルトがスプーンを手に取ろうとした、その瞬間。


「そうですね! では、私があーんして差し上げます。ハルトは見ていてください」


輪廻が光の速さでハルトの手からスプーンを奪い取った。


「ちょっと、輪廻ちゃん!? なんであんたが出てくるのよ! ハルトがやってくれるって言ったじゃない!」


「あら、響花さん。ハルトは男性ですよ? 怪我人の看病など、細やかな気配りが必要な作業は、私の務めです」


輪廻の笑顔が怖い。目が笑っていない。スプーンにプリンを掬い、響花の口元へ突きつける。


「ほら、病人は黙って口を開けてください。さあ、あーん?」


「ぐぬぬ……!」


響花は屈辱に震えながら、輪廻の手からプリンを一口食べた。美味しい。悔しいけれど、最高に美味しい。だが、ここで引き下がる銀髪の猟犬ではない。


「……ふぅ。美味しいわ。ただ、やっぱり自分で食べるわ。ねぇ……ちょっとだけ、後ろから支えてくれない? 片手だと安定しなくて。……べ、別に近づきたいわけじゃないんだから」


響花がズルリと体を寄せ、ハルトの腕に密着する。そのまま潤んだ瞳で見上げれば、効果は抜群だ。


「え、あ、ああ……無理すんなよ? ほら、これでいいか?」


ハルトは少し狼狽えつつも、壊れ物を扱うような優しさで彼女の手を支える。その温もりに、響花は心の中でガッツポーズをした。


(勝った……!)


しかし、勝利の女神は気まぐれだった。


「あら、ハルト。お疲れのようですね? 響花さんに構うより、まずはご自分が栄養を摂るべきかと。はい、ハルト、あーん」


輪廻が、今度は自分のスプーンでプリンを掬い、ハルトの口元へ運ぶ。


「ちょ、輪廻!? お前まで何を――んぐっ!?」


右からは響花の「怪我」を盾にした甘え攻撃による密着。左からは「公認のパートナー」としての特権を行使する輪廻の波状攻撃。


「ハルト、あたしの方が付き合い長いのよ! 怪我人を優先しなさいよ!」


「関係ありません。ハルトは私の彼氏です。さあハルト、もう一口!」


「お、おい二人とも! 落ち着けって! そんなに一気に言われても困るーーんぐっ!?」


リビングでは、世界を救うはずの英雄ハルトが、二人の乙女による甘く激しいプリンの集中砲火にさらされ、嬉しい悲鳴を上げていた。


場所は変わり、数式の文字が星海のように流れる、暗澹たる精神世界。


レイジは、己の魔導剣から具現化した少女――ラプラスと対峙していた。


「……不甲斐ないわね、レイジ」


大きな魔女の帽子を被り、身の丈ほどもある巨大な鎌のような杖を手にした少女は、冷ややかな瞳でレイジを見下ろした。彼女の声は鈴を転がすように澄んでいるが、その言葉には、聞く者の心を抉るような棘がある。


ラプラスが杖をひと振りすれば、深層世界の空間が物理法則を無視して歪み、レイジの精神を押し潰そうとする。


「……ぐぅっ!」


「たかが暗殺者一人に遅れを取るなんて。私のマスターとして失格よ」


「分かっているさ……。僕の演算は完璧だった。だが、バルバトスの力は僕の想定を超えてきた」


レイジは、ズレた眼鏡を押し上げ、歯を食いしばって立ち上がる。全身の魔導回路が悲鳴を上げ、血管が浮き上がるほどの苦痛が彼を襲う。


「ハルトは常に、僕の計算の先を行く。奴は、あいつだけが持つ理不尽なまでの『情熱』で運命をねじ伏せるんだ。……ラプラス、僕に力を貸してくれ!」


レイジの叫びが、深層世界に木霊する。


「僕は、ハルトのライバルでありたい。彼に先を歩かせるわけには行かないんだ!」


ラプラスは、ふんと鼻を鳴らし、小馬鹿にするように首を傾げた。


「ふふっ。いい顔するようになったわね。……いいわ。そんなに言うなら、地獄の果てまで付き合ってあげる」


少女の魔女が不敵に微笑むと同時に、深層世界の闇が、目も眩むような青白い魔導の光で塗り潰されていく。


「しっかりしなさいよ、レイジ。私のマスターなら、未来くらい創り変えてみせなさい」


恋の火花が散る平穏なリビングと、血を吐くような修行の深淵。


それぞれの夜が、彼らをより強く、そしてより複雑に結びつけていく。


「……待っていろよ、ハルト。次に会う時は、僕が君を助けてみせる」

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