届かない距離の、その先へ(前編④)
静寂を美徳とするはずの夜の住宅街は、いまや無残な廃墟と化していた。アスファルトは巨大な爪で引き裂かれたように捲れ上がり、折れ曲がった街灯が火花を散らしながら断続的に明滅している。
「――くっ、想定以上だ……!」
魔導騎士アスタロトのバイザーの奥で、レイジの焦燥が激しい火花となって散る。
彼の脳細胞は、フル稼働する魔導回路と同調し、ミリ秒単位で未来を演算し続けていた。《未来視:グレモリー》が弾き出す「確定したはずの未来」。そこには、暗殺者バルバトスが次に現れる座標、剣を振るう角度、そのすべてが数学的な正確さで記述されているはずだった。
だが、その「正解」を、バルバトスは嘲笑うかのように踏み越えてくる。
ガギィィィィィィィン!!
アスタロトが放つ、因果律を固定した渾身の水平斬。しかし、バルバトスは漆黒の直剣をわずかに傾け、最小限の挙動でその力のベクトルを受け流した。
火花が夜闇を焦がし、アスタロトの腕に痺れるような衝撃が走る。
「そこよ、逃がさない……!!」
アスタロトの死角から、弾かれたように響花が飛び出した。
銀髪を夜風に躍らせ、愛用の大口径対魔マグナムを両手で保持する。至近距離。回避不能の間合い。
ズドンッ!!
臓腑を揺さぶる重低音。マズルフラッシュが辺りを一瞬だけ昼間のように照らし出し、聖印が刻まれた銀の弾丸がバルバトスの心臓を真っ向から捉えた――。
だが、着弾の刹那、バルバトスの輪郭が陽炎のように歪み、掻き消える。
「無駄だ。俺の前では、お前たちの攻撃は常に『過去』に置かれる」
冷徹な声が、二人の頭上から氷の粒のように降ってきた。
バルバトスの移動は、もはや超高速という次元を逸脱している。彼は認識の隙間に潜り込むことで、時間軸の層を自在にスライドしているのだ。物理的な実体として現世に干渉するのは、彼が「殺す」と決めた瞬間のみ。
「――がはっ……!」
死角、真空の層から放たれた不可視の蹴撃がアスタロトの胸部装甲を叩く。魔導騎士の巨体が砲弾のように吹き飛び、背後のレンガ塀を粉砕しながらアスファルトを削って後退した。
「レイジ! ……っ、このっ!」
響花が再び銃口を向ける。だが、バルバトスの方が一瞬――いや、一瞬(コンマ数秒)早かった。
認識が追いつく前に、漆黒の剣閃が空を裂く。
「ああっ……!!」
鋭い痛みが響花の右肩を走り、鮮血が夜の闇に舞った。
対魔銃が手から零れ落ち、硬い地面に乾いた音を立てて転がる。響花はその場に膝をつき、溢れ出す赤を左手で必死に押さえた。
「……致命的な、演算ミスだ。奴の能力が、これほどまで完成されているとはね……」
アスタロトもまた、過負荷に悲鳴を上げる魔導回路を強引にシャットダウンし、片膝をついて荒い息を吐く。
バルバトスが、静かに直剣を構え直した。その瞳には、仕事(暗殺)を完遂しようとするプロフェッショナルの無機質な殺意だけが宿っている。
絶体絶命。
バルバトスの姿が再び認識の境界へと沈み、トドメの一撃が放たれようとした、その時だった。
――ウォォォォォォォォォォォォォン!!
夜の底から響き渡る、あまりにも気高く、そして猛々しい咆哮。
それは単なる音ではない。空間そのものを震わせ、バルバトスが作り出した「認識の層」を物理的に叩き割る衝撃波だった。
住宅街の家々の窓ガラスが悲鳴を上げて軋む中、戦場の中央に黒曜石の獣が降り立った。
月明かりさえも吸い込むような漆黒の毛並み。深淵の奥底で燃える業火のような紅の瞳。
アストラ・フェンリル。
仲間の危機を本能で察知した星を喰らう狼が、守護者として顕現したのだ。フェンリルはアスタロトと響花を庇うように立ち塞がり、バルバトスに向けて威嚇の牙を剥く。
そして、その背には、怒りに瞳を焦がす一人の男の姿があった。
「そこまでだ! ここから先は……この俺が相手だ!!」
アストラ・フェンリルの背から飛び降り、地響きと共に着地したのは、魔導騎士ゴエティア――ハルトだった。
その手には、全てを灰に還す大剣、魔導剣レメゲトンが握りしめられている。ハルトの全身からは、仲間を守るという意思の力が溢れ出していた。
「ハルト……っ」
傷口を押さえ、苦痛に顔を歪めていた響花の瞳に、光が宿る。
さっきまでの冷たい死の予感は、ハルトが現れた瞬間に吹き飛んでいた。彼の纏う空気は、レイジの精密な論理とも、バルバトスの冷酷な術理とも違う。それは、仲間を想い、理不尽に怒る、剥き出しの魂の熱そのものだった。
(バカ……遅いのよ、本当に……っ)
安堵から、視界がわずかに滲む。張り詰めていた緊張が解け、響花はハルトの頼もしい背中にすべてを預けるように、小さく溜息を漏らした。
バルバトスは、構えていた剣をわずかに下げ、眼前の騎士を冷徹に観察した。
人間界最大の単体戦力、魔導騎士ゴエティア。
ただの魔導騎士ではない。高速のブースト、圧倒的なパワーを誇るグリード。厄介極まりない敵だ。
加えて、魔導獣アストラ・フェンリル。さらには深手を負わせたとはいえ、再起可能なアスタロトと銀髪の猟犬。
四対一。
暗殺者として、これ以上の続行は「効率」の範疇を大きく逸脱し、生存率を著しく低下させる。
「……フン。これほどの『変数』が集結するとはな。計算外なのは、俺の方だったようだ」
バルバトスの体が、再び認識の境界線へと溶け込み始める。だが、その気配には明らかな警戒が含まれていた。ゴエティアという個体は、彼にとってそれほどまでに脅威なのだ。
「アスタロト。今回はここまでにしよう。だが、次はない。至高の魔人王、バエル様はお前の死を求めておられる。次は貴様が認識するより早く、その心臓を刈り取る。……必ず殺す」
呪詛のような言葉を残し、バルバトスの気配は霧が晴れるように消失した。
「待て! ……くそっ、消えやがったか!」
ハルトは叫び、逃げた方角を睨みつけたが、すでに微かな気配すら感じ取れなくなっていた。彼は低く毒づくと、すぐさま剣を引き、鎧を解除する。
「……逃げたか。助かったよ、ハルト。君の到着があと十秒遅れていたら、僕の脳細胞か心臓のどちらかが停止していたところだ」
重装甲を解除し、元の眼鏡姿に戻ったレイジが、膝をついたまま力なく笑う。
「レイジ、大丈夫か!? ……それより響花! その傷、おい、しっかりしろ!!」
ハルトは慌てて駆け寄り、響花の体を抱きかかえるようにして肩を支えた。フェンリルもまた、心配そうにクゥンと鼻を鳴らし、彼女の頬に鼻先を寄せる。
「……あはは。フェンリル、あんた……本当にハルトに似て、お節介なんだから……」
響花は苦笑いしながら、自分を支えるハルトの体温を感じていた。
肩の傷は熱く、ズキズキと痛む。けれど、それ以上にハルトの手の温もりが心地よくて、彼女はわざとらしく顔を背けながらも、その赤い頬を隠しきれなかった。
「お節介で悪かったな! ほら、止血するぞ。我慢しろよ」
「ちょっと、ハルト、手が近すぎるわよ……バカ……っ」
いつもの軽口。けれど、そこには確かな絆の再確認があった。
戦いは一旦の終結を迎えた。しかし、バルバトスが遺した「バエル」という名。魔界が組織的に彼らを排除しようとしている不吉な予感は、重く、深く、夜霧のように彼らの行く先を覆い始めていた。




