届かない距離の、その先へ(前編③)
バルバトスが放った奇襲の斬撃は、アスファルトの路面に底知れないクレバスを刻んでいた。平穏だった住宅街の夜はその一撃によって完全に粉砕され、戦場へと変貌する。大気は魔力の摩擦熱でジリジリと焼け焦げ、不穏なオゾン臭が鼻腔を刺激した。
「……やれやれ。これだから野蛮な同業者は嫌いなんだ。僕の完璧な余韻が台無しだよ」
レイジが冷たく言い放ち、虚空に右手を伸ばした。その動きに呼応するように、彼の周囲の空間が青白い幾何学模様の数式となって歪み、膨大な魔力が渦を巻いて集束していく。
「おいで、ラプラス。奴の因果律を断ち切る」
眩い閃光と共に顕現したのは、複雑な歯車と魔導回路の意匠が施された、重厚かつ優美な大剣だった。
魔導剣ラプラス。持ち主に「未来の因果」を視る力を与え、その演算結果を戦闘にフィードバックすることで、戦闘を最適化する論理の結晶体。
「――装着」
レイジは懐から夜闇を凝縮したような漆黒の輝きを放つ**『黒鉄の鍵』**を取り出すと、ラプラスの柄に設けられた複雑な鍵穴へ迷いなく差し込んだ。
カチリ。
世界の理が根本から解き放たれるような、重厚で深淵な金属音が響き渡る。
直後、レイジの足元から魔力の奔流が火柱のように噴き出した。それは光の粒子となって彼の体を包み、やがて実体化して鎧となっていく。
現れたのは、禍々しくも美しい、深紅の熱を孕んだ黒銀のフルプレートアーマー。
魔導騎士アスタロトの姿。
その鋭角な兜のバイザーの奥で、レイジの瞳はもはや人間のものではなく、あらゆる変数を冷徹に読み解く超越的な観測者の光を宿していた。
「いいわね、やる気になったじゃない……! 出し惜しみは無しよ、レイジ!」
響花はアスタロトの変身を見届ける暇もなく、愛用の対魔銃を構え、バルバトスを狙った。彼女の銀髪が魔力風圧で激しくなびく。
「そこっ!!」
ズドンッ!!
鼓膜を劈く発砲音と共に、特殊合金で作られた銀の弾丸が放たれる。魔を祓う複雑な聖印が刻まれた弾丸は、一撃で下位魔人を跡形もなく霧散させる威力を秘めている。弾丸は音速を超え、寸分違わずバルバトスの眉間を捉えた――かに見えた。
「――!? 消えた!?」
響花が目を見開く。着弾の瞬間、バルバトスの姿は蜃気楼のように揺らぎ、煙のように掻き消えていた。
超高速移動ですらない。移動した軌跡すら残っていない。まるで最初からそこに存在しなかったかのように。
「よそ見をしている余裕があるのか、銀髪の猟犬」
冷徹で感情の欠片もない声が、響花の真後ろから響いた。
いつの間にか背後に回り込んでいたバルバトスが、漆黒の直剣を無防備な彼女の背中へ突き出していた。その刃は、死そのもののように静かで、速い。
「しまっ――」
避けられない。響花の鋭敏な野生の勘が、網膜に焼き付く死の予兆を告げていた。
逃げ場のないゼロ距離。冷たい直剣の切っ先が、自身の項を捉える感触さえ幻視する。
響花はダメージを覚悟し、奥歯を軋ませて瞳を細めた。
そこへ、鋼鉄の轟風と共に重厚な影が割り込んだ。
ガギィィィィィィィン!!
アスタロトの纏う鋼の籠手が、バルバトスの刺突をラプラスの腹で真っ向から受け止めていた。激しい火花が散り、生じた衝撃波が周囲の街灯のガラスを粉砕する。
「……危なかったね、響花。僕の演算範囲から外れないでくれ」
「……フン、助かったわ。お礼は後で、ハルトの恥ずかしい秘密を一つ教えてあげるわよ!」
「ふん、安い報酬だ。だが、悪くない」
響花は瞬時に体勢を立て直し、至近距離から対魔銃を連射する。
ズドン、ズドン、ズドンッ!!
三連射された銀の弾丸がバルバトスを襲う。しかし、それらは彼の体に触れる直前でまたも虚空へと吸い込まれるように消え失せた。
そして次の瞬間、バルバトスは数メートル離れた街灯の上に悠然と立っていた。
「……ねぇ。どうなってるのよあいつ、速すぎるわよ! あたしの目でも追いきれない!」
響花が苛立ちを隠せずに吐き捨てる。しかし、アスタロト(レイジ)はラプラスを構え直し、冷静に分析した。
「いや、違う。彼はただ速いわけじゃない。《認識の隙間》を拡張し、時間と時間の狭間に身を置いているんだ。僕たちが『今』と認識している1秒の間に、彼は別の時間軸のコンマ数秒を渡り歩いている。だから、物理的な弾丸では捉えられない」
「はぁ!? そんなのあり? どうすればいいのよ……あたしの弾丸じゃ時間の壁は壊せないわよ」
「……僕が奴の動きを先読みして、その『未来』を斬る。ラプラス、グレモリーを使う」
アスタロトが剣の柄にある特殊なスロットを操作する。複雑な歯車の意匠が高速で回転を始め、青白い魔力の光が兜のバイザー部分に走った。
《Future Sight: GREMORY(未来視:グレモリー)》
レイジの視界に、世界の理が数式として浮かび上がる。無数の「可能性の糸」が現在から未来へと伸びていく。
0.5秒後、1.2秒後、3.0秒後。バルバトスが刺突を放つ未来が、レイジの視界に浮かぶ。
「見えた。――ここだ!」
アスタロトが地面を爆砕し、鋼の塊となって突進する。彼がラプラスを突き出した空間にはまだ誰もいない。だが、その一点に剣の切っ先が到達した瞬間、空間が歪み、バルバトスが姿を現した。
回避不能のタイミング。レイジの完璧な先読みが暗殺者を捉えた。
しかし。
キィィィィィィン!!
ラプラスの刺突は、バルバトスが刹那の判断で掲げた黒い直剣のわずか数センチの「面」によって完璧に受け流されていた。
「甘いな、アスタロト。お前がどれほど未来を見ようとも、俺の速さには追いつかない。俺は『視える未来』よりも速く動く」
バルバトスの冷ややかな瞳が、兜の隙間からレイジを射抜く。
数多の闇を潜り抜けてきた殺し屋の執念と、因果律さえも解体し統べる魔導騎士の論理。相反する二つの極点が噛み合い、火花を散らすその中心は、もはや生存という概念すら生ぬるい。
瞬き一つが永遠の遅延となり、コンマ数秒の思考停止が即座に「終焉」へと直結する、極限の死闘領域へと変貌した。




