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届かない距離の、その先へ(前編②)

静まり返った真夜中の住宅街。昼間の喧騒が嘘のように、世界は冷たく無機質な静寂に支配されていた。等間隔に並んだ街灯は、まるで監視者のようにアスファルトに規則正しい光の円を描いている。


その円を一つずつ踏み越えながら、一定のリズムで歩く影があった。レイジだ。


月光を反射する眼鏡の奥で、彼の瞳は興奮の余韻を計算機のように処理している。高級な革靴がコンクリートを叩く音だけが、夜の帳を支配していた。


「フ……今日のデートも、文字通り完璧な演算通りだったな」


彼は満足げに口角を上げ、中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。その指先には、成功した実験を終えた学者の矜持が宿っている。


「彼女の心拍数、視線の微動、デザートのフォンダンショコラを口にしたときの口角の上昇率……すべてが僕の導き出した至高のシナリオを寸分違わずなぞっていた。愛は不確実な感情の揺らぎだと思われがちだが、実際はホルモン分泌と脳内報酬系の単純なフィードバックに過ぎない。観測者である僕がいれば、恋さえも制御可能な変数の一つだ」


鼻につく笑みを浮かべ、彼は自らのナルシシズムに浸る。彼にとって世界は巨大な数式であり、今夜の勝利はその証明に過ぎなかった。


――だが、その「論理の城」を、野蛮で暴力的な重低音が強引に粉砕した。


ブロロォォォォ……!


空気を震わせる排気音。アスファルトを削るようなタイヤの摩擦音。大型のオートバイが猛スピードで滑り込み、レイジの鼻先で不遜にテールを振って急停車した。舞い上がった塵に、レイジは不快そうに眉をひそめる。


「……はぁ。あんた、まだそんなところでニヤついてるの? 街灯の下でブツブツ独り言とか、不審者通報されても知らないわよ」


ヘルメットのシールドを跳ね上げ、鋭い視線でレイジを射抜いたのは響花だった。銀髪のショートボブがヘルメットから覗き、勝気な瞳が挑発的に細められている。単独任務を終えたばかりらしく、ライダースーツからは焦げた硝煙と夜風の匂いが漂っていた。


「おや、響花。相変わらず野蛮な匂いをさせているね。僕はたった今、淑女との完璧なディナーを終えて、愛の余韻という名の高次な思考に浸っていたところさ。汗と煤にまみれた君には、一生縁のない世界だろうけれど」


レイジの露骨な煽りに、響花はハンドルを握る手に青筋を立てた。


「ディナーだか愛だか知らないけど、どうせまた『僕の計算によれば、君は今ここで微笑むのが正解だ』とか言って、相手をドン引きさせたんでしょ。あんたの言う『完璧』なんて、あたしのバイクの整備ミスより信用できないわよ」


「ふん、負け惜しみかな。論理的根拠のない批判はただのノイズだ。……それにしても、響花。君、本当にこのままでいいのかい?」


レイジはわざとらしく溜息をつき、眼鏡を拭き始めた。


「そんな風に戦いとバイク、そしてハルトへの意地っ張りな態度に明け暮れている間に、彼はあの『輪廻』に完全に持っていかれるよ。あちらは今、同じ屋根の下で『甘い共同生活』の真っ最中なんだからね。僕の演算によれば、現在の輪廻の勝率は98%を超えている。君の勝機は……ああ、計算するまでもない、誤差の範囲だ」


「――ッ!! う、うるさいわね! あいつらがどう過ごそうが、あたしには関係ないでしょ! 別にハルトのことなんて、ただの腐れ縁なんだからっ!」


核心を突かれ、響花の顔が一気に赤く染まる。照れ隠しにエンジンのスロットルを回し、猛烈な回転音を響かせた。


「やれやれ、素直じゃないね。君がハルトを想う気持ちなんて、僕の演算を待つまでもなく明白だというのに。無自覚な幼馴染、いわゆるツンデレという古典的な属性も、予測不能な強敵が現れればただの敗北フラグだよ。早く行動しないと、ハルトの『影』に寄り添うのは君ではなくなる」


「あんた、本当に一発殴らせなさいよ……! その理屈っぽい口を二度と開けなくしてあげるわ!」


響花がバイクを蹴って降りようとした、その瞬間――世界から音が消えた。


ゾクッ。


二人の背筋を同時に冷徹な氷の刃が撫で上げる。喧嘩腰だった空気が、一瞬で戦場のそれへと変質した。


思考よりも早く、体が動いた。レイジと響花は、申し合わせたかのように完璧な呼吸で左右へ跳躍する。


――ガキィィィィィィン!!


二人が一瞬前までいた空間を、月光を吸い込むような黒い閃光が通り抜けた。目に見えないほど細く鋭い斬撃が空気を裂く。背後にあったコンクリートの電柱が、熱したナイフでバターを切るかのように音もなく滑らかに両断された。


「……ほう。同時に回避するか。死地を潜り抜けてきた勘は、この平和な世界でも鈍っていないようだな。レイジ、そして……銀髪の猟犬」


闇の中から染み出すように、一人の男が姿を現した。夜に溶けるような黒い装束。表情を読み取らせない冷ややかな眼差し。その手には刺突に特化した細身の黒い直剣が握られている。


「その声……バルバトスか」


アスファルトに低く着地したレイジが指先で眼鏡の位置を微調整する。先ほどの浮ついた色は消え、冷徹な暗殺者としての光が瞳に宿っていた。


「……レイジ。あんたの知り合い?」


響花がバイクを盾に身を隠し、背中から愛銃を引き抜く。指先は恐怖ではなく高揚に震えていた。勝気な瞳には、逃げるのではなく獲物を捉えるハンターの鋭い輝きが宿っている。


「魔界にいた頃の忌々しい同業者だよ。僕の緻密な演算を、物理法則を無視した暗殺術で何度も狂わせてくれた、数少ないイレギュラーの一人さ」


「へぇ……。いいじゃない。ハルトのことでイライラしてたところだし、ちょうどいい砂袋が向こうから歩いてきてくれたってわけね」


響花が不敵に口角を上げる。彼女の手に握られた対魔銃が月光を反射して不吉に輝いた。


「バルバトスだっけ? 悪いけど、あたしのバイクの最高速度より遅かったら……その場でハチの巣にしてあげるわよ!」


「威勢がいいな。だが、お前たちのその平穏な時間もここで終わりだ。魔界は裏切り者の首を、そしてその影を求めている」


バルバトスの姿が再び陽炎のように揺らぎ、消えた。夜の住宅街に、暗殺者のスピード、魔導騎士の未来予知、そしてエージェントの超絶射撃が交錯する。音を置き去りにする高速戦闘の火蓋が、今、切って落とされた。

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