灰の雨、解き放つ音速(前編)
夜のスーパーマーケットは、昼間の喧騒が嘘のように、どこか別の顔をしている。
蛍光灯の冷たく白い光が、無機質な床に反射し、スピーカーからは気の抜けた安っぽいBGMが流れていた。
仕事帰りの会社員。
夕食の買い出しを急ぐ家族連れ。
まばらに行き交う人々が作るのは、どこにでもある、ありふれた日本の日常――。
「……ほんとに、一人暮らしの冷蔵庫って感じの内容よね」
買い物カゴを覗き込みながら、響花が呆れたように言った。
銀髪のショートカットが照明を反射し、鋭く輝く。
対魔機関の執刑官としての険しさを、今だけはほんの少し緩めている表情だった。
「ちゃんと野菜、食べてる? 炭水化物ばっかりだと、いざって時に体が動かないわよ」
そう言って、ハルトのカゴに入っていたレトルトカレーを、迷いなく野菜パックと差し替える。
「最近は、輪廻さんが色々作ってくれてるから……これでも、前よりはマシなんだよ」
「なにそれ。私への当てつけ? それとも惚気?」
「ち、違うって! 事実を言っただけだろ!」
慌てて手を振るハルト。
その少し後ろを、輪廻が静かに歩いていた。
(……平和、ですね)
胸の奥で、そっと呟く。
戦いも、血の匂いも、逃亡生活も――
この明るすぎる店内では、まるで別の世界の出来事のようだった。
命のやり取りも。
忌まわしい「鍵」としての宿命も。
魔界の追跡者の影すらも。
すべてが、御伽噺のように遠い。
「輪廻、何食べたい?」
不意に響花に声をかけられ、輪廻は小さく肩を跳ねさせた。
「え……? あ……」
一瞬、戸惑いが瞳をよぎる。
「自分が何を食べたいか」を問われること自体、彼女にとっては、かつてない贅沢だった。
控えめに、けれど心からの安らぎを込めて微笑む。
「……皆さんと、同じもので。私は……皆さんと食卓を囲めるだけで……」
「それ、一番困る答えだって言ってるでしょ」
響花が苦笑し、すぐにハルトを睨む。
「ハルトが甘やかすから、この子まで遠慮するようになっちゃって」
再び始まる、生活指導という名の説教。
その光景に、輪廻の胸がじんわりと温もりで満たされ――
その瞬間だった。
――嫌な予感。
静電気のような違和感が、背筋を氷の刃でなぞった。
(……何、この感じ)
空気が、止まった。
さっきまで賑やかだった店内の音が、不自然に遠ざかっていく。
――ピシッ。
冷え切った空間に、ガラスがひび割れるような鋭い音が走った。
「……え?」
誰かの、間の抜けた声。
次の刹那。
――ズズズズズ……!!
スーパーの天井が、内側から抉られるように歪んだ。
照明が一斉に爆ぜ、BGMが途切れる。
非常灯の赤いランプが回転し、店内を血の色に染め上げた。
悲鳴。
混乱。
逃げ惑う人々。
「伏せて!! 二人とも!!」
響花の叫びと同時に、床が激しく震動する。
空間が、真っ黒なインクを零したように裂けた。
そこから這い出してきたのは――影。
骸骨のように細身の体。
無数の刃傷が刻まれた、漆黒の鎧。
背後には、獲物を狙う蛇のように鎌首をもたげた六振りの魔剣。
降り立っただけで、周囲の空気が死ぬ。
「……この匂い」
無機質な声が、響いた。
「澱んでいるな。人の世の営みというものは。
脆く、そして――無価値だ」
輪廻の顔から、一気に血の気が引く。
「そんな……骸将ジーク……どうして……」
「全員、下がれ!!」
ハルトが、一歩前に出た。
ジークの空洞の眼窩が、ゆっくりと三人をなぞる。
「探したぞ。呪いの鍵……」
視線が、ハルトの左手首へと吸い寄せられる。
「そして――忌々しい騎士の紛い物」
指先が、わずかに動く。
その瞬間、六振りの魔剣が浮かび上がり――
――消えた。
「っ!!」
反射的に身を捩る。
だが、衝撃はすでにそこにあった。
――ガギィィィンッ!!
陳列棚が紙屑のように吹き飛び、ハルトの身体が壁に叩きつけられる。
「遅い。致命的に」
耳元で、冷徹な声。
いつの間にか、ジークは背後に立っていた。
「人の身で、我らに抗おうなど。
その慢心、万死に値する」
「……っ、まだ……終わってねえ……!」
血の混じった唾を吐き捨て、震える手でブレスレットに触れる。
脳裏に浮かぶのは――
幼い頃から背中を守ってくれた、響花。
恐怖に震えながらも、自分を信じようとする、輪廻。
そして、この場所で生きている、名もなき人々。
(守るんだ……俺が)
(俺が、やらなきゃ……!)
「来い……!!」
魂を削るように、吠えた。
「――装着!!」
――ドォォォォンッ!!
灰色の火が、足元から噴き上がる。
燻し銀の重装甲が、空間の重力を書き換えるように顕現する。
ゴエティア、装着。
踏み込み一つで、床がクレーター状に砕け散った。
ジークは、わずかに目を細める。
「ほう……そのボロを纏って、どこまで保つ?」
六振りの魔剣が、同時に刃を向けた。
「十秒か……あるいは、一秒か」
かつて日常だった場所は、今や冷酷な処刑場と化していた。




