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届かない距離の、その先へ(前編①)

温泉街での、あの命を削るような死闘から数日。


世界を揺るがすような事件の渦中にいたことが嘘のように、日常という名の平穏は、あまりにも呆気なく、そして厚かましいほどの顔をして戻ってきた。


大学の講義を終えた夕暮れ時。キャンパスのレンガ造りの校門を後にする二人の影が、長く石畳に伸びている。街路樹の隙間から漏れる斜光は、まるで古い映画のフィルターのように世界をオレンジ色に染め上げていた。


「そういえばレイジのやつ、今日も女の子とデートらしいよ。わざわざ講義の後に自慢しに来やがって。『僕の演算によれば、今日のディナーは成功率100%だ』なんて、相変わらずの残念イケメンムーブだったぞ」


ハルトが可笑しそうに、けれど少し呆れたように笑う。その屈託のない横顔は、戦場で見せる峻烈な戦士のそれとは程遠い、どこにでもいる大学生の青年だった。


「ふふ、レイジくんらしいね。……あ、そういえば、響花さんは? 今日は姿を見かけなかったけれど」


「ああ、響花なら今日から隣県の調査で単独任務ソロ・ミッションだよ。腕が鳴るって、意気揚々と出かけていった。あの戦闘狂め、少しは休めばいいのにな」


交わされるのは、なんてことのない、いつもの仲間たちの話題。


ハルトの声はどこまでも穏やかで、一分の曇りもない。それは彼が今の平穏を心から享受し、隣に歩く輪廻という存在を心から信頼している証左でもあった。


――けれど。


輪廻の胸の奥には、数日前から澱のように溜まり続けている小さな、けれど無視できない「違和感」があった。


(……今日も、手を繋いでくれない)


並んで歩けば、腕と腕が触れ合いそうな距離。彼女の長い黒髪が、風に煽られてハルトの肩を掠めることもある。けれど、ハルトの手は無造作にポケットに突っ込まれたまま。あるいは、重たそうなカバンのストラップを握りしめたままだ。


温泉街でのあの夜、あんなにも激しく感情をぶつけ合い、絆を確かめ合ったはずなのに。


今の二人は、まるで清廉潔白な兄妹か、あるいは極めて仲の良い親友同士のように見えてしまう。


輪廻は、自身の端正な顔立ちをわずかに伏せた。編み込まれた黒髪と、繊細なつまみ細工の花飾りが、夕陽を浴びて静かに揺れる。


(私とハルトは、恋人……だよね?)


魔人と人間。その両方の血を引く「ハーフ」として、忌み嫌われ、孤独に育ってきた輪廻にとって、人間の男女の機微は、古文書の解読よりも難解だった。


ただ、乏しい知識の中でも、恋人同士がひとつ屋根の下で暮らせば、そこにはもっと特別な、言葉にできないような深い繋がりを求める「出来事」が起きるのが道理であったはずだ。


(何も、私は最初から破廉恥な結末を期待しているわけじゃないの。ただ、ほんの少しの熱量が欲しいだけ。隣にいる私を、ただの守る対象じゃなくて、一人の「女の子」として意識してほしい……)


ハルトの誠実さは、輪廻にとって何よりも愛すべき美徳だったが、今の彼女にとっては、それは時に残酷なまでの「境界線」に感じられた。



夜。リビングの時計が、規則正しく秒針を刻んでいる。


シャワーを浴び終えた輪廻は、脱衣所の鏡の前で立ち尽くしていた。


湯気で上気した頬。濡れた長い髪。そして、最近新調した薄手のパジャマ。


鏡に映る自分を見る。魔人の血が混じっているせいか、彼女の肌は透き通るように白く、その瞳にはどこか人を惹きつける妖艶さが宿っている――はずなのだが、ハルトの前ではそれが全く機能している気がしない。


「……ハルトは、少しも動じてくれないんだもの」


彼女は意を決して、パジャマの一番上のボタンに指をかけた。


パチン、という小さな音と共に、真っ白な鎖骨が露わになる。


これだけで、彼女にとっては禁忌に触れるような背徳感があった。心臓は、対魔戦闘の開始前よりも激しく鼓動を刻んでいる。


彼女はリビングへと続く扉を、しずしずとした――を装った、ぎこちない足取りで開けた。


ソファーでは、ハルトが難しそうな顔をしてテキストを捲っていた。その無防備なうなじや、逞しい肩のラインを見るだけで、輪廻の心拍数はさらに跳ね上がる。


「……ハルト」


鈴を転がすような声で呼びかける。


ハルトが顔を上げた。その視線が、計算通りに胸元の開いたパジャマへと……行かない。


「ん? どうしたんだ、輪廻。髪、まだ濡れてるぞ。風邪引くからちゃんと乾かさないと」


ハルトの視線は、純粋に彼女の体調を気遣う誠実なものでしかなかった。


輪廻は、頬をさらに深く薔薇色に染め、わずかに開いた襟元を隠すこともせず、しずしずと彼に歩み寄った。そのまま、彼のすぐ隣にぴたりと腰を下ろす。


ハルトの体温が伝わってくる。微かに香る石鹸の匂い。


輪廻は、潤んだ瞳でハルトのシャツの裾を、そっと、摘まむようにして掴んだ。


「あのね……少し、暑くないかな……?」


実際には、湯上がりということもあって彼女の体温は高い。けれど、それは気温のせいではなかった。


「そうか? 今日は少し蒸すもんな。よし、エアコンつけようか。24度くらいでいいか?」


ハルトは事も無げにリモコンに手を伸ばした。ピッ、という無機質な操作音がリビングに虚しく響く。


輪廻は絶望を堪え、さらに踏み込んだ。


「そうじゃなくて……。その、私……今日は、なんだか寝付けそうになくて。ハルトが、側にいてくれないと……なんだか、不安なの」


これは、彼女にとっての限界突破。最大級の誘惑だった。


ここで彼が「じゃあ、隣にいるよ」と肩を抱き寄せてくれたり、あるいはもっと強引に自分を求めてくれたなら。


魔人の血が混ざっている自分が、一人の「女」として彼に受け入れられるのかという不安。それを払拭するほどの情愛が欲しかった。


ハルトは、テキストを閉じると、輪廻の方を真っ直ぐに見た。


一瞬、空気が張り詰める。ハルトの瞳に、わずかながらの熱が宿った……ように見えた。


「ああ、そうか。やっぱり温泉街の疲れが残ってるんだな。あの戦闘は激しかったし、魔力の残滓が神経を昂らせてるのかもしれない」


ハルトは爽やかな、どこまでも清々しい、そして呪わしいほどに健全な笑顔で立ち上がった。


「温かいミルクでも淹れようか? 安眠にいいらしいぞ。それとも、軽いストレッチでも付き合おうか? 体を動かしたほうが、案外すぐ眠れるぞ」


そう言い残すと、彼は軽やかな足取りでキッチンへと向かってしまった。カチャカチャというマグカップの乾いた音が、静かな夜の空気に虚しく反響する。


一人リビングに残された輪廻は、開いた襟元をぎゅっと握りしめ、その場に愕然と膝をついた。


重力に従い、行き場を失った濡れた黒髪が、頼りなく床に広がる。


(……私には、魅力がないのかな。それとも、ハルトにとって私は『守らなきゃいけない対象』であって、一人の『女』じゃないの……?)


ハルトにとって、自分はただの「脆いハーフの少女」なのだろうか。


そう思い詰めると、胸の奥がチリチリと痛んだ。魔人の血が、「もっと激しく彼を求めろ」と囁いているような気さえする。


(もしかして、私の誘い方がお淑やかすぎたの? それとも、私の方がハレンチなのかな……)


一人悶々と悩む輪廻。


その時、キッチンから「輪廻ー、砂糖は多めがいいか?」と能天気な声が響く。


「……少なめでいいよっ」


少しだけ棘のある声で返しながら、輪廻は外したボタンをこれ見よがしに留め直した。


ハルトとの境界線を越える日は、まだ遠い。


けれど、そのもどかしさすらも、今の彼女にとっては、かつての孤独な日々にはなかった贅沢な悩みだった。

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