心界侵蝕、魔導騎士再臨(後編③)
対魔特務機関『S.A.I.D.』の秘匿施設を出た時、頬を撫でた風には、微かに硫黄の香りと、降り注ぐ陽光の熱が混じっていた。
海底トンネルでのメルキオスとの死闘。つい数時間前まで世界の境界線で泥を啜るような戦いを繰り広げていたことが、遠い白昼夢のように感じられるほど、温泉街の昼下がりは穏やかだった。
「さて。ボロボロになった身体を癒やすには、殺菌消毒の匂いよりも、美味しい食事と景色が必要ね」
カレンが、結い上げた髪を解き、さらりと肩に流しながら言った。彼女の背後には、治療を終え、いくらか生気を取り戻したハルト、輪廻、レイジ、そして響花の姿がある。
カレンは、年上の余裕に満ちた足取りで先陣を切る。彼女が纏う空気は、戦場での鋭利な魔導師のそれではなく、今はただ、仲間たちをリードする、美しくも勝気な「お姉さん」のそれだった。
「ハルト、顔色がまだ少し悪いわよ? 栄養を摂って、私を楽しませるくらいの気概を取り戻してね」
不敵に笑う彼女の挑発に、ハルトは苦笑いを返しながらも、その包容力に救われる思いだった。
辿り着いたのは、苔むした石畳の先に佇む、創業百年を越える老舗割烹。重厚な門構えを潜れば、出汁の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
お目当てはこの街の至宝、**「温泉豆腐」**だ。
「あら……お豆腐が溶けて、お出汁が白濁していますわ。なんて上品な佇まいかしら。まるでお肌を磨く美肌の湯のようね」
運ばれてきた土鍋を覗き込み、カレンが感嘆の声を漏らす。特殊な温泉水で煮込まれた豆腐は、角が取れて淡雪のように崩れ、汁そのものが濃厚な豆乳のように白く変化していた。
「……美味しいです」
輪廻が、レンゲで掬った豆腐を小さく口に運ぶ。
彼女の脳裏には、数時間前の光景が焼き付いていた。暴走するハルト、血を流す彼の背中、そして自分の腕の中で震えていた鼓動。
(……生きてる。温かいものを食べて、味を感じて。ハルトが、私の隣にいる)
輪廻は、お淑やかな所作を崩さぬまま、静かに咀嚼を繰り返す。彼女にとって、この豆腐の甘みは、ハルトが生き延びたという何よりの証明だった。
「大豆の甘みが、そのまま溶け出しているみたい。とてもヘルシーで、心が洗われます……。ハルト、ちゃんと食べてね」
隣に座るハルトを見つめる輪廻の瞳は、静かな慈愛に満ちていた。ハルトが一口食べるごとに、彼女は満足げに、けれどお淑やかに目を細める。
一方、その静寂を切り裂いたのは、眼鏡を指先で押し上げたレイジだった。
「フ……。これぞ計算し尽くされた伝統の味だ。タンパク質の変性を化学変化で制御し、喉越しを極限まで高めている。僕のような高潔な男の胃袋を休めるには、この上ないチョイスだね。僕の演算に狂いはなかった」
「レイジ、あんたは店を選んでないでしょ。選んだのはカレンよ」
響花が即座に突っ込むが、レイジはどこふく風で豆腐を味わい深く咀嚼している。その向かい側で、ハルトは申し訳なさそうに、けれど空腹には勝てず、響花と視線を交わした。
「……なあ、響花。正直に言っていいか? 豆腐はめちゃくちゃ美味いけど、今日の消費カロリーには、これだけじゃ足りない気がするんだ」
「ハルト、あんたとは本当に気が合うわね! すいませーん! こっちにカツカレー二つ! 豆腐も食べるけど、メインは別で!」
「はい喜んで!」
老舗の割烹にあるまじき豪快な注文。運ばれてきたのは、スパイスの香りが弾ける分厚い三元豚のカツカレーだ。
ハルトと響花は、まるで見本のような食べっぷりでスプーンを動かし始める。
「これよこれ! この暴力的なパンチが欲しかったのよ!」
「ああ、やっぱり肉とスパイスは最高だな。身体の芯から魔力が再構築される気分だ」
上品に豆腐を愛でる「優雅組」と、ガッツリとカレーを頬張る「本能組」。その対照的な光景に、カレンはくすくすと肩を揺らした。
「あらあら、食欲旺盛ね。でも、それくらいの方が男の子らしくていいわ。……ハルト、口角にカレーが付いているわよ? お姉さんが拭いてあげようか?」
カレンが艶やかな視線でナプキンを手に取る。
すると輪廻が、音もなく、けれど淀みない動作でハルトの頬に手を添えた。
「……お気遣いなく、カレンさん。ハルトのことは、私がお世話しますから。貴女はご自分の美肌豆腐を、ゆっくり召し上がっていてください」
輪廻の言葉はどこまでも丁寧で、柔らかな微笑みすら湛えている。しかし、ハルトに触れるその指先からは「この人は私のものです」という無言の意思が静かに伝わってくる。
ハルトはカレーを喉に詰まらせそうになりながら、「あ、ありがとう、輪廻……」と絞り出すのが精一杯だった。
食後は、この街の象徴である国宝の神社へと足を運んだ。
千年を越える歴史を湛える社殿は、朱塗りの色が夕陽に映えて、燃えるような美しさを見せている。周囲を囲むのは、空を突くような巨木たち。
「この建築様式、魔導的な幾何学模様に通じるものがあるな。結界の起点として設計されている可能性が高い。非常に興味深い……」
レイジが真剣な顔で柱の継ぎ目を観察し、独り言を呟く。その横で、輪廻もまた「この大樹、清らかなエネルギーを感じます。ハルトの傷を癒やしてくれそうな、深い慈しみです」とお淑やかに境内を歩く。
一方で、社務所の前では、現世的な欲望が爆発していた。
「ちょっと! なんで私の『恋みくじ』、**【待て。時期尚早。焦りは禁物】**なわけ!? 意味わかんない! こっちは戦場じゃ常に最短ルートで仕留めてるってのに!」
「ふふ、響花、それは貴女が精神的に子供すぎるからではなくて? 恋は戦場とは違うのよ。押し引きが肝心。私は……あら、**【熱烈なアプローチあり。ただし相手に難あり】**ですわ」
カレンは引き当てたみくじを指先で弄びながら、不敵に、そして艶やかに笑った。
「難あり……ふふ、手強い相手ほど、落とし甲斐があるというもの。ハルト、貴方もそう思わない?」
「えっ、俺ですか?」
不意に振られたハルトが狼狽える。カレンは彼の懐へ一歩踏み込み、その豊かな胸元を軽く押し当てるようにして、余裕たっぷりに囁いた。
「難のある男の子を、私好みの格好いい大人の男性に調教する……ふふっ、燃えるわ」
「ちょ、カレンさん……!」
カレンの勝気で挑発的な言葉に、ハルトは顔を赤くする。それを横で見ていた響花が「ちょっとカレン! ハルトを揶揄うのもいい加減にしなさいよ!」と割り込み、境内はいつもの騒がしさを取り戻した。
ハルトは、そんな四人を一歩引いた場所から眺めていた。みんなが無事で、こうして笑っている。死を覚悟した海底トンネルの絶望から、今のこの風景はどれほど遠い奇跡だろうか。
(守りたかったのは、この時間なんだ)
ハルトは、自分の影の中に沈む『鍵』の重さを一瞬だけ意識し、すぐにその思考を振り払った。今はただ、この平和な空気に身を浸していたかった。
日が傾き、空が燃えるような茜色から、深い群青へと溶け始める「マジックアワー」。
五人は響花のSUVに乗り込み、長い帰路へと就いた。運転席に座るのは、意外にも一番体力の余っている響花だ。
「さーて、ここから数時間のロングドライブよ! 安全運転でいくわよ!」
「響花、音楽かけていい? 車内の雰囲気に合うものを」
助手席のカレンが、車内のオーディオを操作する。流れ出したのは、重厚なベースラインが響くクラシック・ロック。
「えっ、カレン、その年代のロックも聴くの!? 意外! もっとバッハとかベートーヴェンとかだと思ってた!」
「私をただのクラシック好きだと思わないことね。この揺れるリズム、今の私には心地いいの。響花も、もう少し大人になれば、この良さがわかるわよ」
カレンのリードするような語り口に、響花が「もう、わかってるわよ! このギターリフ、最高じゃない!」と応じる。助手席と運転席の二人は、すっかり音楽談義で意気投合していた。
一方、後部座席には三人が並んで座っていた。窓際で頭を預けているレイジは、いつの間にかすやすやと深い眠りに落ちていた。普段はうるさいくらいの男だが、こうして眼鏡を外して眠っている顔は、驚くほど無垢で整っている。
「……寝顔だけは、国宝級なんだがな」
中央に座るハルトが、小声で苦笑した。
そのハルトの右側、反対側の窓際に座っていた輪廻が、音もなく身を寄せてきた。
「ハルト……」
囁くような、小さな声。
ハルトが顔を向けると、そこには、街灯の光が車内に差し込むたびに美しく揺れる輪廻の瞳があった。彼女は隣で眠るレイジを起こさないよう注意深く、それでいて吸い付くような確かな動作で、ハルトの腕をそっと自分の両手で包み込んだ。
「……お疲れ様。いつもありがとう」
「輪廻。……こちらこそありがとう」
輪廻はハルトの腕に、自分の柔らかい頬をそっと乗せた。彼女はゆっくりと顔を上げ、ハルトの耳元へ、内緒話をするようにお淑やかに唇を寄せた。
「……ねえ、ハルト。今度は、二人っきりで来ようね」
それは、騒がしい仲間たちの前では決して見せない、彼女の密やかな願望。
「二人っきり」。その言葉には、誰にも邪魔されたくないという、静かで、それでいて蕩けるような情熱が込められていた。
「……貴方のことを、もっとたくさん独り占めしたいの。……いい?」
上目遣いに見つめてくる輪廻の、恥じらいと執着が混ざり合った美しい瞳。ハルトの胸が、ドクンと大きく跳ねる。
「……ああ。約束するよ、輪廻」
ハルトがそう答えると、輪廻は満足そうに、幸せそうに瞳を閉じ、彼の肩に頭を預けた。
繋がれた二人の手のひら。指が深く絡み合い、互いの体温が溶け合っていく。遠ざかっていく旅先の灯り。戦いの傷跡はまだ疼くけれど、ハルトの心は、次に訪れる「二人だけの時間」を想像して、穏やかに、けれど確かに高鳴っていた。
車内のラジオから流れる古いロックが、夕闇に溶けていく。
一つの絶望が去り、また新しい日常が、彼らを待っている。




