心界侵蝕、魔導騎士再臨(後編①)
魔界の将たるメルキオスの辞書に、「敗北」の二文字は存在しなかった。
彼が展開した絶対結界《深淵の檻》は、空間そのものを外界から切り離し、因果の理すらも歪める概念牢獄。
いかなる高位の魔術師であろうと、どれほどの膂力を誇る戦士であろうと、決して破ることはできない。逃走も、外部からの干渉も許されない、文字通りの「絶対領域」であるはずだった。
(……なんなんだ……この化け物は?)
没落貴族めいた端正なメルキオスの貌に、数百年ぶりとなる冷や汗が伝う。
知性を湛えた金色の双眸が見開かれ、眼前の「異形」を映し出していた。
分厚いアクリルガラスの向こう側に広がっているはずの、穏やかな群青の海。
色鮮やかな魚群が優雅に泳ぎ、子どもたちの歓声が響いていたはずの水族館の海底トンネルは、今や光すら存在を許されない『深淵』へと変貌している。
その闇の中心で、ハルトは肺の奥に張りついた冷気を、ゆっくりと吐き出した。
ズン――。
重い足音が鳴る。
光を一切反射しない漆黒の装甲が、ゆっくりと前へ進む。
一歩。
また一歩。
左腕に完全に癒着した捕食器官――大楯グラトニーが、歓喜のあまり狂ったように打ち震えていた。
ギチ、ガチ、ガチ……。
上下にびっしりと並んだ黄ばんだ牙が、見えない空間を噛み砕く。
不気味な肉腫に覆われた長大な舌が、緑色の粘液をボタボタと滴らせながら、ただ一つの極上の標的を見据えていた。
「お前との因果は、ここまでだ」
漆黒の兜の奥から響く声は、もはやハルト一人のものではない。
彼の足元の影が不自然に膨れ上がり、背後に巨大な闇の空間を形成していく。
それは影ではない。
門だ。
万物を呑み込む、地獄へと直結した暴食の門。
「見せてやる。俺たちの結界の力を」
人間の青年の強靭な意志と、強欲の悪魔の底なしの飢餓。
本来なら喰い合うはずの「理性」と「暴食」が、一切の衝突を起こすことなく、極限のレベルで同調し、溶け合っていた。
ハルトは左腕の大楯を高く振り上げる。
そして、地の底から響くような、世界そのものを呪う二重の声で告げた。
「――《世界終焉》」
次の瞬間。
大楯が床へ叩き込まれる。
ガギィィィィィィンッッ!!!
衝突。
その瞬間、戦場から『音』という概念が完全に消滅した。
否。
世界が、吸い込まれたのだ。
大気が、光が、重力が。
そして、メルキオスが絶対の自信を持って構築したはずの「空間そのもの」が。
グラトニーの中央に大きく開かれた巨大な顎へと、滝のような奔流となって猛烈な勢いで引きずり込まれていく。
「な……何だ、これは……!?」
虚空が悲鳴を上げて軋む。
まるで見えない超常の巨人が、両手で空間ごと力任せに握り潰しているかのように。
上空を覆う漆黒の結界が、物理的なガラスであるかのようにひび割れていく。
ピキピキ、と鼓膜を刺す甲高い破砕音。
無数の裂け目から溢れ出してくるのは、光さえも逃れることのできない、完全なる黒。
絶対的な虚無。
メルキオスの足元の床が瞬く間に液化し、沸騰する黒い沼となる。
重力を失い、宙でもがくメルキオスの足首を、底なしの沼が冷たく絡め取った。
「馬鹿な……! 私の『深淵の檻』が……概念の牢獄が、物理的に飲み込まれているだと!?」
端正だった顔が、醜悪な恐怖に歪む。
どれほど強大な魔術であろうと、結界の概念そのものを破壊することは不可能なはずだった。
だが、目の前でよだれを垂らす巨大な顎は、その『概念』すらもただの餌として咀嚼しようとしている。
「誤差だ……こんなものは修正可能だ……私は魔界の将だぞ! 下等な人間に、負けるはずが――」
ズチュゥゥゥゥッ!!
黒い沼の底から、血と胃酸の臭気を纏った巨大な舌が無数に射出された。
大蛇の群れのように四肢へ執拗に絡みつき、仕立ての良い燕尾服を引き裂き、青白い肌に深く食い込む。
逃げ場はない。
抗う余地もない。
顎の奥。
上下左右、360度すべてを覆い尽くす無数の歯列が並ぶ“世界の断面”。
物質も、魔力も、概念すらも存在を許されない、本当の胃袋。
「ア……ガ、アァァァァァァァァァッ!!!」
――バキィィィィィィィィンッッ!!!
世界そのものが噛み砕かれる音。
それは背筋が凍るほど悍ましく。
同時に、大自然の脅威を見るような、抗えぬ神威すら感じさせた。
絶対的な咀嚼は、ただ一度きり。
直後、すべてを飲み込んだ空間の歪みは急速に収束し――静寂が訪れた。
パリン、と微かな音を立て、結界が霧散する。
元の景色が戻ってきた。
分厚いアクリルガラスの向こうの青い海。
悠々と泳ぐ魚たち。
散乱した瓦礫を照らす、非常灯の薄明かり。
だが、その中央に立つ存在だけは、圧倒的な「異常」を放っていた。
光を吸い込む漆黒の装甲。
全身から立ち上る、どす黒い呪いの瘴気。
いまだ満たされぬとばかりに、牙を打ち鳴らす大楯。
異形の騎士――ゴエティア・グリード。
「……結界が、消えた?」
空間が解放され、暗闇の迷宮に分断されていた仲間たちが合流を果たした。
床にへたり込んでいた輪廻が、震える足に鞭打って立ち上がる。
「ハルト……?」
彼女の掠れた声に反応し、漆黒の兜がゆっくりとこちらを振り向いた。
兜の奥でギラリと光る瞳は、禍々しく濁った紫色に染まりきっている。
そこに、仲間を想う優しき少年の理性はない。
あるのは、果てのない純粋な暴食の欲求だけだ。
「近づくな!!」
魔導騎士アスタロト――レイジの鋭い声が、水族館のホールに響き渡る。
「ハルトは、グリードキーの汚染されている!」
レイジの警告を裏付けるように、ゴエティア・グリードの右腕が、ゆっくりと持ち上がった。
もはや敵味方の区別はない。
目の前にある動くものすべてが、彼にとっては「次の餌」でしかないのだ。
「……やらせないわよ!」
響花が、愛用の対魔銃を躊躇なく床へ投げ捨てた。
「私のハルトを、これ以上あのバケモノに奪わせてたまるもんですか!」
弾丸のような踏み込み。
響花は恐るべき膂力で振り下ろされようとした漆黒の右腕の懐へと潜り込み、体当たりをするようにしがみつき、自身の全体重をかけてその動きを強引にロックする。
「ええ。私たちのリーダーを、返してもらいましょう」
逆側から、カレンが金色の旋風となって駆け抜けた。
高周波ブレードを鞘に収めた彼女は、徒手空拳の極致たる完璧な関節技をもって、左腕の駆動部――大楯グラトニーの付け根を完璧な角度で極め、その狂乱の動きを封じ込める。
「ガァァァァァァッ!!」
捕食を邪魔された悪魔が咆哮を上げる。二人の少女の力では、抑え込めるのはほんの数秒。
「今よ、レイジ!!」
響花が悲鳴のように叫ぶ。
「言われるまでもない!」
紅蓮の残光が尾を引いて走る。
アスタロトが一直線に踏み込んだ。
狙いはただ一つ。
ハルトの心臓部、魔導剣レメゲトンの鍔元に深く突き刺さっている呪いの核――グリードキー。
「君なんかに、彼は渡さない!」
レイジは躊躇なく、脈動する漆黒の鍵へと右手を伸ばし、ガッチリと掴み取った。
ジュウウゥゥゥッ!!
キーから溢れ出す高濃度の瘴気が、アスタロトの強固なガントレットを容赦なく焼き焦がす。肉を焼く匂いが鼻をつく。
だが、レイジは歯を食いしばり、決して手を離さない。
全身の力を右腕に叩き込み、一気に、力任せにそれを引き抜いた!
『……チッ……油断、シタ……』
地獄の底から響くような悪魔の舌打ちが、霧散する黒煙と共に遠ざかっていく。
瞬間、ハルトの全身を覆っていた漆黒の装甲が、まるで風に吹かれた砂のようにサラサラと崩れ落ちていった。
大楯グラトニーもまたドロドロに溶け落ち、元の黒刃の大剣へと姿を戻す。
「……ぁ……っ、がはっ……!」
支えを失い、ハルトの体から一気に力が抜け落ちた。
糸の切れた操り人形のように倒れ込む彼の体を、駆け寄った輪廻が必死に抱き止める。
兜が消え、露わになった素顔は、死人のように蒼白だった。
だが――。
(……灰化、していない?)
肩で息をしながら、レイジはバイザー越しにハルトの肉体を見て、微かに眉をひそめた。
魔導騎士の鎧は代償からは逃れられない。
力を引き出すたび、装着者を静かに灰へと近づける。
位階が高ければ侵食は遅い。
だがハルトは、まだそこに至っていない。
あの出力。あの負荷。
無事で済むはずがなかった。
しかし、ハルトの肉体に灰化の兆候は一切見られなかった。
彼のダメージは、魂の深層を抉られたことによる極度の疲労と魔力枯渇。
そして、額から流れる血、肩口や脇腹に刻まれた裂傷など、メルキオスとの死闘による『純粋な物理的戦闘の結果』でしかなかったのだ。
(まさか……いや、今は考えるべき時じゃないな)
レイジは思考を打ち切り、静かに兜を脱いだ。
「ハルト! ハルト……!」
輪廻の温かい涙が、ハルトの冷え切った頬にポツリと落ちる。
その感触に呼び戻されるように。
「……ん……」
ハルトのまぶたが微かに震え、ゆっくりと開かれた。
濁った紫色はすっかり消え去り、そこにはいつもの、優しく、けれど芯の強い琥珀色の瞳があった。
「……輪廻……」
掠れた声で名前を呼ぶ。
視界の端には、息を荒らげながら顔を歪める響花と、祈るように目を伏せるカレン。そして、火傷を負った右手を庇いながらこちらを見下ろすレイジの姿が見えた。
自分がどれほど危険な状態にあったのか、痛む体で理解する。
ハルトは血に濡れた顔で、心底安堵したような、柔らかい微笑みを浮かべた。
「……ごめん。信じてた……お前らなら、絶対に止めてくれるって」
その言葉に、響花は泣きそうな顔を隠すように顔を背けた。
「……バカ。当たり前でしょ」
震える指で、自らの前髪を乱暴に払う。
「無茶をする。……本当に、世話の焼けるリーダーだ。だが助かった。ありがとう」
レイジが小さく鼻を鳴らす。だが、その声はどこまでも柔らかかった。
輪廻は声にならない嗚咽を漏らしながら、ハルトの頭を自身の胸にギュッと抱き締めた。
「もう……もう、どこにも行かないで……!」
水族館に、ようやく生者の温かな空気が戻ってきた。
――だが。
その時。
床に転がり落ちた漆黒の『グリードキー』が、微かに、生き物のように震えた。
禍々しい光は放っていない。
しかし、ハルトの足元から落ちる影が、黒いインクが滲むようにスルスルと伸び、転がっている鍵へと絡みついたのだ。
音もなく。
まるで、本来あるべき場所へ帰るかのように溶け込み――鍵は、ハルトの影の中へと静かに沈み込んで消えた。
安堵に包まれた仲間たちは、誰一人としてその異変に気づいていない。
夜の海底トンネルに、冷たい夜風の残滓だけが吹き抜ける。
終わってはいない。
ハルトの傍らで、本来の姿を取り戻した魔導剣レメゲトンが、ただ横たわっていた。
主の帰還を、静かに待つように。




