心界侵蝕、魔導騎士再臨(前編②)
「……っ!?」
ハルトが息を呑んだ瞬間、世界が反転した。
耳を劈くような高周波音が鼓動と同期し、脳髄を直接揺らしたかと思うと、次の瞬間には、周囲の喧騒が嘘のように掻き消えた。
さっきまですれ違っていた家族連れの笑い声も、隣ではしゃいでいた響花の明るい声も、優雅に歩いていたカレンの甘い香水も、後方で皮肉を言っていたレイジの気配も――すべてが、まるで最初から存在しなかったかのように霧散している。
色彩が抜け落ち、病的なモノクロームに変貌した海底トンネル。
そこに残されたのは、ハルトと、彼と外套のポケットの中で固く手を繋いでいた輪廻の二人だけだった。
「えっ……ハルト、みんなは……? それに、この水槽、様子が……」
輪廻が怯えたように、ハルトの腕に力強く縋り付く。
見上げれば、頭上を優雅に泳いでいたはずの巨大なエイやサメたちはすべて完全に静止し、やがて腐敗した死骸のように泥のような腹を見せて浮かび上がっていった。そして、分厚いアクリルガラスの向こう側に広がっていたはずの美しい青い海水は、底なしの沼のような、どろりとした漆黒の闇に塗り潰されている。
水族館という現実の空間が、異界の法則によって完全に切り取られ、隔離されてしまったのだ。
「なんだ、これ……何が起きたんだ!?」
ハルトが初めて目にする異常な閉鎖空間に戦慄したその時、脳内に直接、低く枯れた重厚な声が響いた。それは彼に宿る漆黒の魔導剣――幾千の戦場を渡り歩いてきた歴戦の老兵を思わせる、『レメゲトン』の意志だ。
『――小僧、うろたえるな。呼吸を整えろ。見ての通り、厄介な檻に放り込まれた』
「レメゲトン……! 厄介な檻とはなんだ? 響花たちはどこに行った!?」
『結界だ。それも、ただの魔法障壁じゃない。魔界の技術の集大成よ。特殊な結晶石を触媒に使い、対象を丸ごと術者の魔力フィールド内に閉じ込める、空間浸食魔術の極致だ。空間そのものが切り離されてる。おそらく、他の三人もそれぞれ別の結界の中に隔離されたはずじゃ』
ハルトの脳内に、レメゲトンの言葉を通じてその理が濁流のように流れ込んでくる。本来、この結界は「個」を確実に孤立させ、逃げ場のない密室でなぶり殺しにするための処刑場なのだ。
『本来なら、貴様も一人でこの暗黒に放り出されていたはずだ。だが……その娘と手を繋いでいたのが功を奏したな。因果の糸が絡まり、娘と離れ離れになるのを防いだのじゃ。物理的な接触が、術式のターゲティングを狂わせたんだ』
「そうなのか……。手を繋いで正解だったな」
ハルトはポケットの中で、輪廻の震える小さな手をぎゅっと握り返した。もしあの時、恥ずかしがって手を離していれば、戦闘能力を持たない輪廻は一人でこの闇に取り残されていたかもしれない。そう想像するだけで、背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走る。
ハルトは空いている方の手で虚空を掴み、漆黒の剣『レメゲトン』を顕在化させた。
しかし、剣を握る手に伝わるのは、頼もしい鉄の重量感ではなく、底なし沼に剣を突き立てたような不気味な虚無感だけだった。
『くくく……ははははは! 素晴らしい。実に素晴らしい“繋がり”だ、ゴエティア!』
突如、空全体が震えるような、メルキオスの悍ましい嘲笑が響き渡った。
音源は特定できない。前からも、後ろからも、足元からも聞こえる。上下左右、この空間そのものがメルキオスの声帯と化しているのだ。
『トラウマを克服したと悦に浸っていたようだが、それは大きな間違いだ。絶望とは、克服するものではない。より深く、より凄惨な絶望によって上書きされるものだ……!』
「くっ……! どこにいる! 姿を見せろ!!」
『場所など意味をなさない。この空間こそが私自身なのだからな。まずは、お前が命を懸けて守ろうとしているその女が、目の前で肉を削がれ、魂を腐らせていく様を特等席で眺めるがいい!』
天を仰いだハルトの瞳に、絶望の雨が映った。
闇に染まった天井――本来なら水槽があるはずの虚空から、無数の「光」が産声を上げた。それは希望の光ではない。魔力を極限まで凝縮し、禍々しい紫電を纏った『精神毒の針』だ。触れた者の肉体を裂くだけでなく、精神を直接破壊し、狂い死にさせる劇毒の豪雨。
「輪廻、俺から絶対に離れるな!!」
ハルトは輪廻を力強く抱き寄せ、自らの背後に完全に隠すように庇い、銀の鍵を握った。
「――装着!!」
ハルトの咆哮に応えるように、空間が歪み、燻し銀の重厚な魔導鎧『ゴエティア』がその身体を包み込む。冷たい銀色の金属音が鳴り響き、彼の全身を堅牢な装甲が覆い尽くした。
直後、凄まじい衝撃の連鎖がハルトを襲った。
ドォォォォォォン!! バガガガガガガガッ!!!
「ぐあぁぁぁぁぁっ!?」
数千、数万という精神毒の針が、容赦なくゴエティアの装甲を叩き据える。
一発一発の物理的な威力は、ゴエティアの鎧をただちに貫通するほどではない。しかし、問題はその異常な「手羽数」だった。
まるで滝行のように、あるいは土砂降りの雹の中に立たされているかのように、絶え間なく降り注ぐ針の群れ。
ガンッ! ギンッ! と、燻し銀の装甲が悲鳴を上げる。数の暴力が、ゴエティアの防御限界をゴリゴリと削り取っていく。さらに恐ろしいのは、物理的な衝撃と共に、針に込められた『精神毒』が装甲の共鳴を通じてハルトの脳内に直接流れ込んでくることだった。
(がっ……あ……! 脳が、焼かれる……!)
視界が明滅し、過去の凄惨な記憶や、得体の知れない不安、恐怖といった負の感情が強制的にフラッシュバックする。吐き気を催すほどの精神的負荷。
「ハルト! ハルトっ!」
「気にするな……! お前は、俺が、絶対に守る……ッ!」
逃げ場のない密閉空間で、ハルトは回避行動をとることもできない。彼が一歩でも動けば、その隙間を縫って毒の針が輪廻に突き刺さってしまうからだ。
身を挺して輪廻の盾となり続けるハルトの鎧は、猛攻に晒され、徐々に光沢を失い、細かい亀裂が走り始める。ダメージの蓄積は限界に近づいていた。
『小僧! このまま防戦一方で突っ立っていれば、鎧が砕ける前に貴様の精神が焼き切れてやられるぞ!』
レメゲトンの切迫した声が脳内に響く。
「わかってる! やられる前に……叩き斬る!!」
ハルトは奥歯を噛み砕きそうなほどに食いしばり、精神毒による眩暈に耐えながら、渾身の力をに込めた。
狙うは、頭上の闇。この隔離空間そのものを暴力で切り裂き、外の世界への出口をこじ開けるための一撃。
漆黒の魔導剣レメゲトンに、ハルトの意思が迸る。
「おおおおおおおっ!! 」
ハルトの雄叫びと共に放たれた、空間をも両断するほどの漆黒の斬撃。
それは間違いなく、ハルトが放てる渾身の刃だった。闇の虚空を切り裂き、メルキオスの目論見を粉砕する――はずだった。
――スカッ。
「……なっ!?」
あまりにも呆気ない、手応えのなさ。
放たれた漆黒の斬撃は、まるで最初から幻であったかのように、頭上の闇に吸い込まれ、波紋一つ立てずに霧散してしまった。
『無駄だ小僧!』
脳内でレメゲトンが吼える。
『言ったはずだ、この空間は奴の魔力フィールドそのものだ! 実体のない“概念”を力任せに斬ろうったって、暖簾に腕押しよ! 空間そのものを破壊するほどの力が必要だ!』
『無駄だ、ゴエティア。この結界内において、私は絶対の神だ。物理的な刃では、私には届かぬよ』
メルキオスの冷酷で余裕に満ちた声が、ハルトの削られた意識をさらに刈り取りにかかる。
防ぐ手立てのない死の豪雨は、いっそう勢いを増した。
パキンッ――。
ついに、ゴエティアの肩口の装甲が限界を迎え、砕け散った。
その無防備な隙間に、紫電を纏った針が深々と突き刺さる。
「ガアアアアアッ!?」
削られた装甲の隙間から、赤い鮮血が海底トンネルの床へと滴り落ち、どす黒い染みを作っていく。肉を裂かれる痛みと、精神を侵される痛みが同時にハルトを襲う。
「ハルト……! いや、また、私のせいで……! 私が足を引っ張っているから……っ!」
背後からハルトの腰に回された輪廻の腕が、ガタガタと震えている。繋いだ手から伝わってくるのは、自分を責める彼女の深い絶望と、張り裂けそうな悲しみだった。
「……大丈夫だ、輪廻。泣くな」
血を吐きながらも、ハルトは決して膝を屈しようとはしなかった。
「約束しただろ……。俺がお前を……絶対に、守るって……!」
視界が血と毒で赤く染まる。
逃げ場のない海底の檻の中、立っていることすら奇跡に近い激痛の中で、ハルトの両足は屈辱と負荷でガクガクと震え始めていた。
だが、その背中は決して倒れない。
上空では、這いつくばる二人を嘲笑うかのように、メルキオスの巨大な悪魔の紋章が、不気味な紫色の光を放ちながら輝いていた。




