心界侵蝕、魔導騎士再臨(前編①)
世界を白く閉ざしていた昨夜の猛吹雪が、まるで悪い夢だったかのように。
温泉旅館『渓流閣』をチェックアウトした一行を待っていたのは、抜けるような冬の青空と、どこか不穏なまでに静まり返った海沿いの空気だった。
冷たい海風が頬を刺す中、波の音だけが静かに響いている。
十年以上もの間、ハルトの心を縛り付けていた「雨の日記憶」という分厚い氷は、昨夜の出来事――女性たちの熱情と、輪廻との魂が結びつくような口付けによって完全に溶け去っていた。
ハルトの足取りは、かつてないほどに軽い。息を吸い込めば、冬の冷気が心地よく肺を満たし、生きているという確かな実感が全身を駆け巡る。
「さあ、気持ちを切り替えて今日は思いっきり楽しみましょう! 警戒は怠らないけれど、せっかくの旅行ですもの!」
先頭を歩く響花が、海風に長い髪をなびかせながら、ことさら明るい声で号令をかけた。
いつメルキオスが攻めてくるか分からない、薄氷の上を歩くような緊迫した状況。響花の明るさは、そんな不安を吹き飛ばすための彼女なりの強がりでもあった。だが同時に、だからこそ「最後になるかもしれない安らぎの地」を、誰もが心の底で切実に求めていたのだ。
一行が向かったのは、海沿いに建つ巨大な水槽が自慢の海浜水族館。
休日ということもあり、館内は家族連れやカップルでごった返しており、華やかな活気と喧騒に満ちていた。
一行が最初に訪れたのは、この水族館の目玉である『セイウチのパフォーマンスショー』だ。
すり鉢状になった屋外の観客席には、潮の香りと微かなポップコーンの匂いが漂っている。休日の混雑で座席が埋まりつつある中、ハルトはごく自然に、見晴らしの良い中央のわずかに空いていた席へ腰を下ろそうとした。
その瞬間、背後でパチパチと高圧電流がぶつかり合うような、不可視の火花が散る音がした。
「ハルト! 私、アンタの右側がいいわ! ほら、右腕貸しなさいよ!」
「あら響花、気が合うわね。私はハルトの左側、心臓に一番近い特等席を頂こうかしら」
響花がハルトの右腕をがっしりと掴み、その柔らかな胸元へと引き寄せる。すると間髪入れずに、カレンがその左側へと滑り込み、甘い香水を漂わせながらしなやかに腕を絡めてきた。
両手に花――というよりは、両手に『超高火力爆弾』を抱え込まれたような心地で、ハルトは顔を引きつらせた。
「お、おい、二人とも……近すぎるって……!」
「いいじゃない。昨夜、あんなに熱い夜を過ごした仲なんだから」
「ちょっとカレン! アンタ抜け駆けしたことまだ許してないからね! っていうかハルト、私のキス、ちゃんと覚えてるわよね!?」
周囲の客が好奇の視線を向ける中、ハルトは冷や汗を流す。
ふと前を見ると、輪廻が遠慮がちに、けれど少しだけ寂しそうな顔をしてハルトを見つめていた。本当は隣に座りたかったけれど、二人の勢いと周囲の人混みに押されて一歩引いてしまったのだ。
その淑やかな、庇護欲をそそる視線に胸が締め付けられたハルトは、「輪廻、こっちへ――」と声をかけようとした。その時だった。
「やれやれ……朝から修羅場寸前じゃないか。これではハルトの身が保たないね。ここは親友の僕が隣に座って、場の温度を下げてあげようかな」
そう言うとレイジは、良家出身らしい気取らぬ気品を纏った仕草でひょいと椅子に手をかけ、ハルトの隣へ滑り込もうとした。……が。
「「どきなさい(どいてっ)!!」」
カレンの鋭いヒールキックと、響花の容赦ないローキックが、レイジの脛を左右から正確無比に捉えた。
「――っ!? ぎぃっ……い、痛いな……。僕はただ、普通に腰を下ろそうとしただけなんだけれど!?」
「空気を読みなさいな、レイジ。今はレディたちが優先よ。男の友情なんて後回しになさい」
「そうよ! 男同士でくっついてショー見て楽しいわけないでしょ! あっち行ってなさい!」
「……理不尽だね。僕の家に代々伝わる由緒正しき礼法にも、“淑女の理不尽な蹴りを受け止める心得”なんて項目は存在しないんだけれど……」
涙目で脛を押さえ、優雅さとは程遠い姿で悶絶するレイジを尻目に――結局、ハルトの右に響花、左にカレン、そしてハルトの足元に近い一段下の最前列に、彼を見上げる形で輪廻が座るという、歪かつ偏重した布陣でショーが始まった。
「皆様、こんにちはー!」
飼育員の元気な声と共に、水飛沫を上げて巨体を揺らしたセイウチが登場すると、休日の満員になった会場は一気に大きな拍手に包まれた。
セイウチが器用にヒレを使って腹筋運動をしたり、前足を口元に当てて投げキッスを飛ばしたりするコミカルな動きに、客席の子供たちが無邪気な歓声を上げる。
「ねえハルト、見て! あのセイウチ、アンタみたいにちょっとぼーっとしてて可愛いわね」
右側から響花が、いたずらっぽく笑いながらハルトの肩に頭を預けてくる。彼女の髪から漂うシャンプーの香りが、ハルトの鼻腔をくすぐった。
「あら、私にはハルトというより、あそこで脛をさすっているレイジの抜けた顔にそっくりに見えるわ。ねえ、ハルトもそう思うでしょう?」
左側からはカレンが、大人の余裕を感じさせる吐息混じりの声で囁き、さらに密着してくる。
左右からの猛烈な圧と柔らかさに、ハルトは微動だにできず、前を向いたまま石像のように固まるしかなかった。
「おいハルト、聞こえているかな? あのセイウチの筋肉、なかなかの完成度だよ。君もあれくらい頑丈な装甲があれば、今ほど右往左往せずに済むんじゃないかな?」
数列後ろに追いやられたレイジが、身を乗り出して暢気に話しかけてくる。ハルトは「お前、後で絶対覚えとけよ……」と小声で毒づくのが精一杯だった。
ふと、ハルトは逃げるように視線を下に向けた。
一段下の最前列に座る輪廻が、振り返り、肩越しにハルトの方をじっと見つめていた。
「…………」
視線が、ぶつかる。
周りの喧騒が、一瞬にして遠のいた気がした。
目が合った瞬間、ハルトの脳裏に、昨夜の――あの黄金色に輝く雪解けの朝に交わした、熱く、切なく、すべてを溶かしてしまったキスの感触が鮮烈に蘇った。
雪の香りと、彼女の奥にある蜜のような甘さ。震えていたまつ毛。
輪廻の雪のように白い頬が、セイウチショーの賑やかな照明の下で、ふわりと薄紅色に染まった。
彼女は自分の口元を片手でお淑やかに隠しながら、恥ずかしそうに、けれど世界中の誰よりもハルトを慈しむような、とびきり甘い微笑みを向けた。
(ああ……ずるいな、それは)
ハルトの心臓が、警鐘を鳴らすように大きく跳ねる。
カレンの色気や響花の元気な誘いも間違いなく魅力的だ。だが、輪廻のその「あんなキスをした、二人だけにしか分からない秘密」を孕んだ微笑みは、何よりも深く、甘酸っぱく、ハルトの理性を激しく揺さぶった。
彼は真っ赤になりそうな顔を誤魔化すように、気恥ずかしげに鼻先をこすり、少しだけ視線を逸らした。それでも、口元に浮かんでしまうだらしないほどの愛おしさは隠しきれず、輪廻へ向けて同じように柔らかな笑みを返したのだった。
ショーが終わり、一行は館内の奥深く、薄暗い『海底トンネル』へと足を踏み入れた。
休日の人混みに押されるようにして進む中、頭上を巨大なマンタやサメがゆっくりと横切り、水槽を透過した青白い光が、波の波紋となって床や壁に揺らめく幻想的な空間。
まるで自分たちが本当の深海に沈んでしまったかのような静謐な美しさに、ドタバタと騒いでいた響花やカレンもふと声を潜め、ガラスの向こうの青の世界に見入っていた。
「綺麗……だね、ハルト」
輪廻がそっと、人混みを縫うようにしてハルトの隣に並んだ。
水槽の青い光に照らされた彼女の横顔は、色素の薄い肌と相まって、まるで深海から迷い込んだ人魚のように儚く、恐ろしいほどに美しかった。
「ああ……そうだな。本当に、海の底みたいだ」
周囲にはすれ違うのもやっとの客たち。先頭を行くカレンの優雅な背中。少し右前で「ねえ、あの魚の顔、やっぱりレイジに似てない!?」とガラスに張り付いてはしゃぐ響花。そして、最後尾で「深海の特異な生態系は、魔界の生物に通じるものがあって実に興味深いね」と一人で納得しているレイジ。
三人の注意が完全に巨大な水槽に向けられた、その刹那だった。
人混みに紛れ、ハルトが厚手の外套のポケットに突っ込んでいた右手に、迷い込むようにして、柔らかな熱が滑り込んできた。
「……っ!?」
心臓が跳ね上がり、驚いて隣を見下ろす。
輪廻は前を向いたまま、何事もなかったかのように、お淑やかな歩調で歩いている。
けれど、ハルトのポケットの中に差し込まれた彼女の小さな手は、ハルトの掌を確かな力で探し当て、そして甘えるように、すがりつくように、ぎゅっと握りしめていた。
(輪廻……?)
誰にも見えない、暗がりの中の密事。
輪廻の少し冷たくなった指先が、ハルトの指の間に深く、パズルのピースを合わせるように絡みついてくる。
昨夜結ばれたばかりの二人にしか分からない、秘めやかな共犯関係の温度。
(触れたい……少しでも、繋がっていたい)
輪廻は、早鐘のように打つ胸の鼓動を必死に抑えながら、ポーカーフェイスを保っていた。
昨夜の奇跡が嘘ではないと確かめたくて、こうして人混みの隙を突き、布越しではなく、直接肌の熱を感じずにはいられなかったのだ。
「ハルト、あっちのサンゴ礁も綺麗よ! ほら、早く来て!」
不意に、響花が突然振り返ってハルトを呼んだ。
「っ!」
ハルトは全身の毛穴が開くようなスリルを感じながら、ポケットの中の輪廻の手を絶対に離さないよう、不自然にならない程度に体を強張らせて歩みを早めた。
「お、おう。……そうだな、すごい綺麗だ」
声が微かに裏返る。
輪廻は平然としたお淑やかな顔のまま、けれど繋いだ手にはいっそう強い力を込め、ハルトの隣で最高に幸せそうな微笑みを浮かべていた。
普段は控えめな彼女が見せる、大胆で、愛らしい独占欲。海底の闇と休日の喧騒の中で共有される二人だけの秘かな鼓動と体温は、どんな強力な魔法よりも熱く、そして甘酸っぱく、ハルトの胸を焦がし続けていた。
だが、その幸福な光景を、冷たい泥のような瞳で「覗き見る」者がいた。
水族館の喧騒から遠く、遠く離れた、光の届かない次元の隙間。
鏡のように磨き上げられた黒曜石の床だけが広がる虚無の空間に、水族館の様子を克明に映し出す巨大な水球が浮かんでいた。
「……ほう」
玉座に深く腰掛けたメルキオスは、長い指で顎を撫でながら、水球に映るハルトの表情をじっと見つめていた。
そこには、過去のトラウマに怯え、無理に虚勢を張っていたかつての「英雄」の姿はない。ポケットの中で愛する女性と密かに手を繋ぎ、不器用ながらも確かな幸福を噛み締めている、一人の力強い青年の顔があった。
「トラウマを……克服したというのか? 馬鹿な」
メルキオスの声音に、微かな驚きと、そして苛立ちが混じる。
ハルトの魂に深く刻み込まれた『父親を救えなかった無力感』と『血に染まった雨の日の記憶』。あれこそが、ハルトを内側から蝕み、いずれ絶望へと引きずり込むための最高の枷だったはずだ。
それが、たかが人間の女性たちのちっぽけな「愛」や「温もり」ごときで、跡形もなく浄化されてしまったというのか。
メルキオスはゆっくりと立ち上がり、水球の表面を、爪を立てるようにしてなぞった。
「……面白い。ならば、もう一度呼び起こしてやろう」
水球の中で、ハルトと輪廻が微笑み合っている。その眩しいほどの愛の光が、メルキオスの底なしの悪意をさらに刺激した。
「愛を知り、守るべきものを得たか。……素晴らしい。高く飛べば飛ぶほど、墜ちた時の痛みは深く、甘美になる。過去の傷が癒えたというなら、今、この瞬間に、過去よりも惨たらしく、二度と立ち直れない『新しい絶望』を刻み込んでやればいい」
メルキオスの薄い唇が、三日月のように歪に吊り上がる。
彼は虚空に向かって、指揮者のように両手を高く掲げた。
「存分に愛を囁き合うがいい。その繋いだ手が引き裂かれ、愛する者の血が深海を紅く染め上げる時……お前はどんな顔で泣き叫ぶのか。私に特等席で見せてくれ、ゴエティアよ!」
その言葉に呼応するかのように――
休日の客で賑わう海底トンネル。
青い光に満たされた回廊の奥で、ふいに空気が重くなった。
ハルトたちの背後。
分厚いアクリルガラスの向こうを悠然と泳いでいたサメが、ぴたりと動きを止める。
その瞳が、ゆっくりと赤く染まった。
一匹だけではない。
気づけば、周囲を泳ぐ魚たちの動きが揃っている。
まるで、見えない合図を受けたかのように。
ざわめきは続いている。
子どもの笑い声も、カメラのシャッター音も止まらない。
だが――
ハルトの耳には、すべてが遠い。
ガラスの向こうの青が、わずかに暗む。
影が、揺れた。
水の揺らぎとは違う。
光の屈折でもない。
“何か”が、そこにいる。
赤い瞳が、はっきりとこちらを向いた。
瞬きのように、照明が一度だけ明滅する。
その一瞬。
ガラス越しに、サメの背後に―― 人の輪郭をした“黒”が立っているのが見えた。
次に視界が戻ったとき、それは消えている。
サメは、何事もなかったかのように泳ぎ出した。
だが。
赤い瞳だけは、消えていない。
そして――
ハルトの足元に落ちた影が、 ほんのわずかに、遅れて動いた。
気づいたのは、彼だけだった。




