泣けなかった夜、君が灯した光(後編①)
深夜の嵐が過ぎ去り、時計の針が午前四時を回った頃。窓の外で静かにアスファルトを叩いていた冷たい小雨は、いつしか音のない白い雪へと変わっていた。
つい先刻まで、この部屋には嵐のような情熱が吹き荒れていた。
銀髪の幼馴染――響花は、ハルトを布団に押し倒し、むせ返るような濃厚な口付けを交わした後、しばらく顔を真っ赤にして彼を凝視していた。その瞳には、一人の女性としての熱い情念と、一線を越えてしまったことへの気恥ずかしさが入り混じり、火花を散らしていた。
「……おやすみ。変な夢でも見たら、明日ぶっ飛ばすわよ」
震える声でそう言い残すと、彼女は銀色の髪をなびかせ、逃げるように部屋を後にした。
再び訪れた老舗旅館『渓流閣』の男子部屋は、研ぎ澄まされたような静寂に包まれている。
隣の布団では、深夜二時の「強襲キス事件」の最中であっても、泥のように眠り続けていたレイジの、穏やかな寝息だけが規則正しく響いていた。鉄壁の番人も、今夜ばかりは役立たずのようだ。
「……はぁ」
ハルトは暗闇の中で天井を見つめ、熱い吐息を漏らした。
カレンに強引に引き込まれた、理性を溶かすような混浴の熱。
響花に布団へ押し倒され、大人の女性としての情熱を真っ向から叩きつけられた、あの口付け。
唇には今も、彼女の甘い蜜のような感触と、痺れるような熱い余韻がはっきりと残っている。
(眠れるわけ、ないよな……)
二人の過激すぎる「癒やし」によって、神経はむしろ過敏に逆立っていた。だが、心の深淵に沈殿している「父を救えなかった」というあの雨の日のトラウマだけは、未だに冷たい鉛のように、ハルトの心を縛り続けている。
そんな時だった。
スッ……。
極限まで音を殺した所作で、部屋の襖が開かれた。
「――っ!?」
ハルトは反射的に身を硬くし、布団の中で身構えた。
カレンが来て、響花が来た。となれば、次に現れるのは当然――。
また無理やり翻弄されるのではないか。そんなハルトの警戒は、暗闇に滑り込んできた人影を見て、一瞬で消失した。
そこには、月明かりを浴びて、静かに佇む輪廻の姿があった。
「……ごめんなさい。起こしちゃったかな、ハルト」
透き通るような、夜の空気に溶け込む穏やかな声。
だが、その姿にハルトは息を呑んだ。
いつも綺麗に結い上げられているおさげ髪も、白い小花の髪飾りもない。セットされていない彼女の髪は、艶やかな夜の色を映した見事なストレートヘアとなって、細い肩へと流れ落ちていた。
普段の可憐な印象に、どこか大人びた、そして無防備な色香が混ざり合う。初めて見る彼女の「素」の姿に、ハルトの鼓動がドクンと跳ねた。
輪廻はゆっくりと歩み寄り、布団のすぐ脇に、ちょこんと正座で腰を下ろした。
「り、輪廻……こんな夜中に、どうしたんだ……?」
「ちょっと気になって……ハルトが眠れていない気がして」
輪廻は、布団から出ていたハルトの手の上に、自分の両手をそっと重ねた。
さらりとこぼれ落ちた黒髪が、ハルトの腕に触れる。シャンプーの淡い香りが、混浴の残り香や響花の匂いを優しく塗り替え、彼の鼻腔を清涼な空気で満たした。
「手……震えているね」
輪廻の手は、驚くほど温かかった。
カレンの肌を焼くような情熱とも、響花の心臓を掴むような熱情とも違う。ただそこにあるだけで、凍りついた心が解けていくような、慈愛に満ちた温もり。
「……ごめん。情けないよな。俺、全然ダメだ」
ハルトは自嘲気味に笑い、視線を逸らした。
輪廻の前では、いつも彼女を導く存在でいたかった。けれど今の自分は、過去の幻影に怯えるだけの、空っぽな男に思えた。
「ダメじゃないよ」
輪廻の声が、少しだけ強くなった。
彼女はハルトの手を包み込んだまま、身を乗り出すようにして、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ込んだ。普段のぱっつん前髪から覗く瞳が、月明かりを反射して真剣に、そして潤んで光る。
「ハルト……。いつも助けてくれて、ありがとう。そして……私が力不足なばかりに、いつもあなたにばかり血を流させて、重荷を背負わせてしまって……本当にごめんなさい」
「違う! 輪廻のせいじゃない。俺が……あの日からずっと、俺は……っ」
ハルトの口から、せき止めていた言葉が溢れ出した。
雨の日の記憶。血の匂い。冷たくなっていく父の手。
「自分がしっかりしなきゃいけない」「俺が強くならなきゃいけない」。その責任感が、いつしか自分自身を追い詰める鋭い刃になっていたのだと。
「……ずっと、一人で戦わなきゃって、思ってたんだ」
ハルトの声が震える。
その言葉を聞いた瞬間、輪廻の美しい瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
涙は彼女の頬を伝い、ハルトの手の甲に落ちて、温かい波紋を広げていく。
「……ハルト」
輪廻は、震える声で、しかし、魂を震わせるような響きで言った。
「もう、一人で抱え込まないで。カレンさんも、響花さんも、レイジくんも……みんな、ハルトの味方だよ。そして……私も、ここにいる」
『私もいる』。
その言葉が、ハルトの心の最深部に、真っ直ぐに届いた。
「辛い時は、逃げてもいい。泣いてもいいんだよ」
輪廻の声は、どこまでも柔らかかった。
「強くなくていい。完璧じゃなくていいの。ハルトの抱えてるその弱さも、悲しみも……全部、私に半分持たせて」
そっと、二人の距離が近くなる。
「一人で壊れていく姿なんて、見たくない」
胸の奥が締めつけられるような沈黙の中で、彼女は小さく息を吸った。
「だから……お願い。自分を壊してしまう前に、私たちを頼って」
「……輪廻」
名前を呼ばれ、彼女は少しだけ困ったように笑う。
「ハルトは、私のヒーローだよ」
まっすぐな瞳が、揺れる。
「どんなに怖い時でも、必ず駆けつけてくれた。震えてる私の手、ちゃんと握ってくれた」
一瞬だけ、言葉を区切る。
「でもね……ヒーローだからって、ずっと強くなくていいんだよ?」
そっと、彼の胸元を掴む。
「ヒーローにだって、守られる日があっていい」
視線が絡む。逃げ場なんて、どこにもない。
「ハルト」
静かに、けれど確かに、ありったけの想いを込めて。
「あなたには、笑っていてほしい」
喉が震える。それでも、言葉は止めない。
「あなたが笑ってくれるだけで……私は、生きている意味を感じられるの」
指先が、ハルトの手をぎゅっと、包み込む。
「だから――私にも、ハルトを支えさせて。あなたの隣に立つ理由が、ほしいの」
その微笑みは、涙が滲みそうなほど優しくて。
けれど何よりも、強かった。
彼女は、ハルトに「無敵」であることを求めなかった。ただ、そこにいて、一緒に生きてほしいと願った。その純粋すぎる祈りが、ハルトの心にこびりついていたメルキオスの呪詛を、最後の一片まで綺麗に洗い流した。
ハルトの目から、温かい涙が溢れ出した。
彼は子供のように声を殺して泣き、輪廻はそんな彼を、包み込むような愛しさで見つめ、その震える手をずっと握りしめ続けた。
やがて、涙が枯れる頃。
部屋を支配する空気は、これまでとは違う、もっと濃密で、親密なものへと変わっていた。
ハルトは大きく深呼吸をし、赤く腫れた目で、目の前の少女を真っ直ぐに見つめ返した。
髪をセットしていない、普段よりも幼く、けれど誰よりも芯の強い、美しい女性。
「……ありがとう、輪廻。俺、もう逃げないよ。……みんながいるから。輪廻が、いてくれるから」
ハルトの顔に浮かんだのは、憑き物が落ちたような、柔らかく晴れやかな笑顔だった。
「……うん」
輪廻もまた、花が咲くように美しく微笑んだ。
だが、その微笑みはすぐに、熱を帯びた沈黙へと変わっていく。
二人の距離は、吐息が届くほどに近い。
見つめ合う瞳と瞳。
ハルトは、自分の手を握る輪廻の指先に力がこもるのを感じた。
輪廻もまた、ハルトの瞳の奥に宿った自分への確かな情愛に、胸を高鳴らせていた。
深夜、窓の外では静かに雪が降り積もり、世界の雑音を消し去っていく。
重なり合う視線の熱が、互いの鼓動を加速させていくのを、二人は確かに感じていた。




