泣けなかった夜、君が灯した光(中編②)
老舗旅館『渓流閣』の最上階、貸切家族風呂。
外は二月から三月へと移ろう、湿った雪混じりの冷たい雨が降りしきっている。しかし、厚い檜の扉に隔てられたその空間だけは、濃厚な湯気と檜の香りに包まれた、この世の苦しみから切り離された聖域のようだった。
「……っ」
ハルトは、股の間を申し訳程度のバスタオルで隠し、肩まで白濁した湯船に沈めていた。
耳の先まで真っ赤に染まり、心臓の鼓動は浴室内に響くほどに速い。本来の彼ならば、年上の美女……それも、普段はエージェントとして共に戦うカレンとの混浴など、心臓が口から飛び出すほどの衝撃を受け、死に物狂いで逃げ出していたはずだ。
だが、今の彼はあまりにも無力だった。
魔界の将メルキオスから叩き込まれた精神攻撃……心の奥底に封じ込めていた「父を亡くしたあの日」の記憶が、楔となって脳髄を蝕んでいる。視界の端には、未だにひしゃげた車の残骸と、降りしきる冷たい雨の残像がこびりついて離れない。思考の歯車は錆びついたように空回りし、正常な判断を下すことすらままならなかった。
そんなハルトのすぐ隣で、お湯が大きく、しなやかに揺れた。
波紋がハルトの胸を叩き、続いて、なめらかな、そして吸い付くような白い肌の感触が、微かに彼の左肩に触れる。
「……ハルトくん。無理に強がらなくていいのよ。今はただ、この温かさに身を任せて」
カレンの声が、耳元に届く。
いつもの、敵を翻弄するような挑発的なエージェントの響きは、そこにはなかった。ただ一人の少年を慈しむ、成熟した女性の柔らかなトーンが、ハルトの強張った鼓膜を優しく震わせる。
「カレン……さん。俺……」
「いいの。何も言わなくていいわ。……でも、もし辛いなら、あの日からずっと心に降り続いている雨のことを、私に話してくれないかしら?」
カレンは、ハルトを追い詰めるようなことはしなかった。ただ、彼の視線の先に寄り添い、母のような包容力で彼の心に手を差し伸べる。
ハルトは、ぽつり、ぽつりと語り出した。自分でも驚くほど、言葉が溢れてくる。
あの日、アスファルトを叩きつけていた残酷な雨の冷たさ。鼻を突く、吐き気を催すようなガソリンの臭い。そして――自分を庇い、血に染まった父の大きな手が、次第に体温を失い、硬くなっていく絶望的な感触。
「……俺が、もっと……もっと早く、動けていれば……っ。父さんは……っ!」
言葉にするたびに、堰を切ったように涙が溢れ出し、白濁した湯船へと落ちて溶けていく。
ハルトは膝を抱え、子供のように声を上げて泣いた。
カレンはその様子を、慈愛に満ちた眼差しで見守っていた。彼女はハルトの震える背中にそっと手を添え、ゆっくりと、彼の悲しみを吸い取るように撫で下ろす。
「……あなたは十分、戦ってきたわ、ハルトくん。あの日から今日まで、あなたは立派に生きてきた。自分を責めるのは、もうおしまい。……これからは、私があなたの重荷を半分持ってあげる。いいえ……全部、私が引き受けてあげてもいいのよ?」
その言葉は、ハルトの心に深く打ち込まれていた『呪詛の楔』を、熱い湯気とともに少しずつ、確実に溶かしていった。
ハルトは目元を拭い、深く息を吐き出す。
「……ありがとうございます、カレンさん。少し、楽になりました。俺……なんだか、自分が情けなくて……」
彼は、少しだけ正気を取り戻した。同時に、猛烈な羞恥心が遅れてやってくる。
これ以上彼女のそばにいたら、安堵感と、彼女から放たれる圧倒的な女性の香りに、自分自身が溶けてなくなってしまいそうな予感がした。
「……そろそろ、上がります。カレンさんも、ゆっくり温まってください」
ハルトは逃げるように湯船の縁に手をかけ、立ち上がろうとした。
だが、その手首を、カレンの細く、それでいてエージェントとしての鍛錬を感じさせる断固とした力が引き止めた。
「待って。まだ、話しは終わっていないわ」
「え……?」
ぐい、と強く引かれた。
バランスを崩したハルトの体は、抵抗する間もなく、カレンの間近へと引き寄せられる。
顔を上げれば、そこには吐息がかかるほどの至近距離で、黄金色の髪を濡らし、瞳に熱い情熱を宿したカレンが自分を見つめていた。
「ハルト……」
カレンは迷うことなく、ハルトの体をその豊かな胸元へと抱き寄せた。
首筋に感じる、彼女の熱く湿った吐息。
お湯越しに伝わってくる、生命力に満ちた柔らかく、重量感のある感触。
そして、水中で絡みついてくる彼女のしなやかな脚が、ハルトの逃げ場を完全に奪う。
「カ、カレンさん……!? っ、近いです……っ!」
「いいの。これが一番の特効薬よ」
ハルトの脳は、強烈な官能と、全方位から包み込まれるような圧倒的な安心感によって、真っ白に蕩けていく。
視界に入るのは、濡れて透き通るようなカレンの肌と、誘うように結ばれた唇。
カレンもまた、愛おしい青年をその腕の中に完全に収めたことで、普段は隠している独占欲が、高揚感となってその身を焼き始めていた。密着した彼女の心臓の鼓動が、ハルトの胸板にトクン、トクンと速く、強く伝わっていく。
「私があなたを支える。戦いも、日常も、あなたのボロボロになった心も、全部……私が守ってあげるわ。……だから、ハルト。私だけのものになって? 私の彼氏に、なってくれないかしら」
耳元で囁かれる、甘く抗いがたい契約の言葉。
思考能力を完全に奪われたハルトにとって、その誘いは絶望の淵からの、唯一の救済そのもののように聞こえた。
抗う理由など、今の彼には一欠片も見当たらない。
ハルトがその熱に流され、蕩けた瞳で彼女を見つめ返し、承諾の答えを口にしようとした、まさにその時だった。
「いい加減になさーーーい!!!」
ドガァァン! という凄まじい衝撃音とともに、家族風呂の頑丈な檜の扉が、内側からかけられた鍵ごと木っ端微塵に吹き飛んだ。
「げふっ……!? な、なんだ!?」
あまりの衝撃に、ハルトは一瞬で現実に引き戻される。
もうもうと立ち込める湯気の向こうから現れたのは、全身から怒りの炎……いや、物理的な闘気のオーラを立ち昇らせ、般若のような形相をした響花だった。
その後ろでは、顔を真っ赤にして指の隙間からこちらを見ている輪廻と、半ば呆れたように深いため息をつくレイジが立ち尽くしている。
「カレン! アンタ、精神的に弱ってるハルトに付け込んで、何どさくさに紛れて禁断の契約結ぼうとしてんのよ!! この泥棒猫!!」
「あら、響花。……せっかくいいところだったのに。レディのプライベートを邪魔するなんて、お行儀が悪いわね」
カレンは全く動じることなく、むしろ見せつけるようにハルトをさらに深く抱きしめ、彼の頭を自分の豊かな胸に埋めさせたまま、不敵な、勝利者の笑みを浮かべて挑発する。
「うるさーーい! 混浴! 密着抱擁! 公序良俗に反する交際申し込み! 全部まとめてアウトよ! 離れなさい、今すぐそのエロエージェントからハルトを没収するわよ!!」
響花が湯船に飛び込まんばかりの勢いで詰め寄り、浴室内のロマンチックな空気は一瞬にして灰燼に帰した。
カレンに抱きかかえられたまま、ハルトは顔をこれ以上ないほど真っ赤にしながら、ただ乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。
「……あ、あはは……」
結局、カレンとの甘い時間は「未遂」という形で幕を閉じた。
しかし、響花の怒号とカレンの余裕たっぷりな微笑みに挟まれるなかで、ハルトの脳裏を支配していた死の雨音は、いつの間にか、小降りになっていた。




