泣けなかった夜、君が灯した光(前編②)
渓谷の夜は、都会のそれよりもずっと深く、そして濃密だった。
宿泊先の老舗旅館『渓流閣』。窓の外からは、岩肌を打つ清流の心地よいせせらぎと、秋の訪れを告げる虫の音が微かに聞こえてくる。
夕食は広間ではなく古風な「部屋食」が用意されていた。十五畳の広い和室の中央には、黒塗りの立派な座卓が置かれ、その上には贅を尽くした山の幸、川の幸が所狭しと並べられている。鮎の塩焼き、旬の山菜の天ぷら、そして見事な霜降りの和牛の陶板焼き。
湯上がりで火照った体を休めながら、ハルトたちは旅館特製の浴衣姿で食卓を囲んでいた。
「ハルトくん、レイジくん。それに輪廻ちゃんも。はい、烏龍茶ね」
カレンが艶っぽく笑いながら、手際よく三人のグラスを茶で満たしていく。薄紅色の浴衣をふわりと着こなす彼女は、うなじからほのかな湯の香りと大人の色気を漂わせていた。
自分と響花の分には、キンキンに冷えた生ビールのジョッキと、氷水で冷やされた竹筒入りの冷酒を用意し終える。全員がグラスを手にしたのを確認して、響花が快活な声を上げた。
「よし! みんな、準備はいい? ……えー、今回はハルトの無事退院と、この、なんていうか……敵味方入り乱れた不思議な縁の五人に! 乾杯っ!」
パリン、とガラスとガラスがぶつかる小気味よい音が響き、五人の宴が始まった。
「くぅぅ〜っ!! 染み渡るぅ! この一杯のために生きてるわね!」
ジョッキの半分を豪快に煽り、ぷはぁ、と親父臭い声を上げる響花。普段の機能性重視の戦闘服とは違い、今日は紺地に朝顔が描かれた可愛らしい浴衣姿だ。しかし、動きが大きすぎるせいで、早くも胸元が少しはだけそうになっており、目に眩しい。
対面のカレンも、慣れた手つきでお猪口に冷酒を注ぎ、くいっと嗜む。すでにその真っ白な頬はほんのりと桜色に染まり、潤んだ瞳が妖艶さを増していた。
美味しい食事に舌鼓を打ち、ハルトもようやく、死と隣り合わせの戦いから解放された確かな安らぎを感じていた。
――だが、平和な時間はそう長くは続かなかった。
「……ねぇ、ハルっちぃ〜。アンタさぁ、いっつも無茶ばっかりして。もっと自分を大事にしなさいよねぇ……」
「ハルトくん、こっち向きなさいな。ほら、このお肉美味しいわよ。あーんして?」
アルコールが急激に回った響花とカレンが、じりじりと座布団をすり寄せて、ハルトの両サイドから詰め寄ってきたのだ。
「ちょ、だ、ダメですよお二人とも! ハルトが困ってます!」
対面で大人しく食事をしていた輪廻が、危険を察知して声を上げる。しかし、タガが外れた年上組の耳には届かない。
「いいじゃない輪廻ちゃん! 減るもんじゃないし。ほら、ハルっちのこの……無駄に鍛えられた二の腕ぇ……えいっ! つんつん!」
「ちょ、響花! 近いって! やめろって、くすぐったい!」
酔った響花は、幼馴染という距離感を完全に無視してハルトの腕に抱きつき、全体重を預けてくる。彼女の柔らかい感触と、シャンプーの甘い香りがハルトの鼻腔をくすぐる。
対するカレンは、「あら、私、なんだか酔っちゃったみたい……」と、ハルトの反対側の肩に、その暴力的なまでに豊満な胸の重みを押し付け、耳元に熱い吐息を吹きかけてきた。
「ひゃああっ!? ちょっとカレンさん、どこ当てて……っ!?」
「ふふっ……ハルトくん、顔が真っ赤。可愛いわね……」
「だ、だめです、二人とも! ハルトから離れてくださいっ!」
輪廻が涙目になりながら必死に二人を引き剥がそうと立ち上がるが、泥酔した「エージェンシー最強の女性陣」の体幹と力は凄まじく、病み上がりのハルトは顔を真っ赤にしてサンドバッグのように翻弄されるばかりだった。
「おい、お前ら。二人とも見苦しいぞ。少しは戦士としての自制心を保ったらどうだ。酒に飲まれるとは……ぐふっ!?」
見かねたレイジが、腕を組んで正論を吐こうとした瞬間だった。
「うるさいわねぇ!」と響花が放った無意識のバックキックがレイジの鳩尾にクリーンヒットし、さらにカレンが「あら、手が滑ったわ」と投げた空のお猪口が見事に彼の額に命中。誇り高き魔導騎士は、一言も反論できずに畳の上をゴロゴロと転がっていった。
「……わ、悪い! 俺、ちょっと冷たい飲み物買いに行ってくる!」
このままでは理性が、いや心臓が持たないと察したハルトは、混乱の極みにある部屋から逃げるように襖を開け、廊下へと飛び出した。
「ふぅ……。死ぬかと思った……」
旅館の中庭。
ライトアップされた見事な枯山水の庭園には、夜の静寂が満ちていた。空には雲一つなく、白磁のような満月が煌々と輝いている。
自販機コーナーで冷たいミネラルウォーターを買ったハルトは、庭園に面した縁側に腰を下ろした。冷たい夜風が、女性陣に揉まれて火照りきった頬を心地よく撫でていく。遠くで聞こえる川のせせらぎが、酔い乱れた脳をゆっくりと落ち着かせてくれた。
「ハルト、ここにいたんだね」
柔らかな、控えめな足音と共に、輪廻がやってきた。彼女の手には、自動販売機で買ったばかりの温かい缶コーヒーが握られている。
「輪廻……二人とも、まだ暴れてるか?」
ハルトが苦笑いしながら尋ねると、輪廻は少し呆れたように肩をすくめた。
「はい。響花さんは座布団と枕を相手に関節技の組み手をしていますし、カレンさんは、気絶したレイジくんの横に座って延々と人生観を説いています。……本当に、騒がしいですね、私たちは」
輪廻はハルトの隣に、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。
月明かりに照らされた彼女の横顔は、先ほどの部屋での喧騒が嘘のように静謐で、透き通るように美しい。風に揺れる黒髪から、石鹸の淡い香りが漂ってきた。
「ごめんな。せっかくの旅行なのに、落ち着かなくて」
「ふふ、そんなことありません。私、すごく楽しいです」
輪廻は缶コーヒーのプルタブを開け、両手で包み込むようにしながら夜空を見上げた。
「……でも、こういうのも悪くないなって思うんだ」
ハルトは、手元のペットボトルを見つめながらぽつりとこぼした。
「俺たち、いつ何があってもおかしくない世界にいるだろう? 明日、魔獣に殺されるかもしれないし、俺の寿命が尽きるのが先かもしれない。……でも、こうしてバカみたいに騒いで、笑い合える仲間がいる。俺、それがすごく嬉しいんだ。生きてるって、こういうことなんだなって」
その言葉に、輪廻はハルトの顔を見つめた。彼の瞳には、死線を越えてきた者特有の哀愁と、仲間を慈しむ優しい光が宿っている。
「……はい。私も、同じです。ハルトとこうして、同じ夜空を見て、同じ風に当たっているだけで……何だか胸がいっぱいで、幸せです」
二人の間に、穏やかで温かい沈黙が流れる。
互いの呼吸の音が聞こえるほどの距離。このまま時間が止まればいいと、ハルトも輪廻も心の底から願っていた。
――だが、その平穏は、一筋の不吉な「死風」によって唐突に切り裂かれた。
「――っ!? 輪廻、伏せろ!」
ハルトの戦士としての本能が、大気を震わせる異質な殺気を捉えた。
闇の彼方、旅館の屋根の上から、月光を弾いて飛来する無数の影。それはただの暗器ではない。長さ十五センチほどの、五寸釘にも似た漆黒の太い針。
「キャッ!?」
「くっ……!」
ハルトは反射的に輪廻の肩を掴んで縁側に引き倒し、彼女を抱き寄せるようにして自らの背中を盾にした。
――ドスッ!! ズシュッ!!
鈍く、嫌な衝撃音と共に、ハルトの背筋と肩に焼けるような激痛が走った。
「がっ……あぁっ!?」
ただの物理的な痛みではない。毒のように冷たく、粘り気のあるナニカが、傷口から神経を伝って脳の深淵へ――ハルトが長い間、無意識のうちに固く閉ざしていた心の奥底へと直接潜り込んでくる感覚。
「ふふふ……。実に美しい自己犠牲の精神だ。拍手を送ろう、ゴエティア」
闇の中から、空間が歪むようにして一人の男が音もなく姿を現した。
仕立ての良い燕尾服を纏い、金色の瞳を三日月のように歪めた魔人。魔界四天王・幻惑の将、メルキオス。その手には、禍々しい紫色の魔力を帯びた新たな「針」が数本握られている。
「ハルト! 背中に針が……っ! 今すぐ抜きます!」
「待て、輪廻……っ、触るな……。これは、ただの……針じゃ、ない……っ」
ハルトの視界が、ぐにゃりと歪む。
メルキオスの放った『呪詛の楔』が、ハルトの脳内で封印されていた過去の扉の鍵を、強引に、残酷にこじ開けていた。
『――ハルト、お前は強い子だ。だから、お母さんを頼むな』
脳裏に響く、優しかった父の声。
一瞬にして、ハルトの周囲の景色が旅館の中庭から変貌する。
降りしきる、冷たい土砂降りの雨。
鼻を突く、ガソリンと焦げたゴムの匂い。
激突音と共に原型を留めないほどにひしゃげた、父の運転するファミリーカー。
けたたましく鳴り響く、対向車のクラクションと救急車のサイレン。
「……お父、さん……? 嫌だ、起きてよ……目を開けてよ、お父さん!!」
血に染まり、次第に冷たくなっていく父の手を握りしめ、泣き叫ぶ幼い自分。
何もできなかった。助けられなかった。己の無力さが、絶対的な絶望となってハルトの心を黒く塗り潰していく。
「どうした、ゴエティア。さぁ、レメゲトンを呼び起こさないのか? その黒い剣さえ顕現させれば、私の首など容易く落とせるぞ?」
現実世界で、メルキオスが愉悦に顔を歪めて嘲笑う。
ハルトは虚ろな目で宙を見つめ、震える右手を伸ばした。
だが、指先に黒剣の重みは感じられない。脳裏を埋め尽くすのは父の遺体の冷たさと、自分が無力だったあの日の圧倒的な絶望感だけ。心が、あの日、あの雨の夜から一歩も動けなくなっていた。
『……小僧! どうした、意識を保て! 精神を侵食されているぞ! 剣を呼べ!』
頭の奥底で響くレメゲトンの枯れた声さえ、今のハルトには遠いノイズにしか聞こえなかった。恐怖とトラウマがハルトの理性を完全に縛り付け、魔力を練り上げる術式が霧のように霧散していく。
「あぁ……あああああッ!! ごめんなさい……俺が、俺が弱かったから……っ!!」
頭を抱え、獣のように悲痛な叫びを上げるハルト。
「ハルト!? 嫌、しっかりしてください! ハルト!!」
輪廻が必死にハルトの体を揺さぶるが、彼の瞳の焦点は合っていない。
「くははは! 素晴らしい! 怯えろ! すくむのだ! 過去の絶望に溺れ、永遠に泣き喚くがいい! さて、次は貴様だ、鍵の巫女。醜い肉塊になれ!」
メルキオスが右手を高く掲げると、その周囲の影が収束し、死神が持つような巨大な大鎌が顕現した。
動けないハルト。彼を庇い、絶望的な表情で鎌を見上げる輪廻。
大鎌が、無慈悲に振り下ろされる。
万事休す――そう思われた、その瞬間だった。
「――私のハルトくんに、何してくれてるのよ!」
闇を切り裂く、二筋の閃光。
空気を震わせる甲高い高周波の駆動音と共に、赤と白の眩い光刃が、メルキオスの大鎌を真横から弾き飛ばした。
「ガァッ!? な、何者だ!?」
「カレン……さん!?」
火花を散らして着地したのは、鳳カレンだった。
浴衣の裾を太ももまで大胆に捲り上げ、その両手には、エージェンシーが誇る最新鋭の対魔武装――刀身が赤く発光する高周波ブレード『紅蓮』と、白く発光する『白夜』が握られている。
先ほどまでアルコールに酔いしれていた姿は微塵もない。そこにいるのは、数々の修羅場を潜り抜けてきた、氷のように冷徹で美しいプロのエージェント。
「ハルトくんの、優しくて脆い心を土足で踏み荒らすなんて……万死に値するわ。その首、落としてあげる」
カレンは双剣をクルリと回し、圧倒的な踏み込みでメルキオスの懐へと飛び込んだ。紅と白の斬撃が、嵐のように魔人を襲う。
「チッ……! エージェントの番犬か。……まあいい。目的は果たした。呪詛の楔はすでに、あの小僧の魂の奥底まで打ち込まれた。せいぜい、過去という名の泥沼でもがき苦しむがいい」
カレンの鋭い追撃をマントで躱し、メルキオスは忌々しげに舌打ちをすると、空間の歪みへと溶けるように撤退していった。
静寂が戻る中庭。
枯山水の庭園には、斬撃で切り裂かれた石灯籠の残骸だけが転がっている。
「ハルトくん! 大丈夫!? しっかりして!」
カレンが武器を収め、慌てて駆け寄る。
だが、ハルトは。
「ごめん……なさい……俺が、俺が……悪いんだ……っ」
ガタガタと全身を激しく震わせながら、虚空の一点を見つめて虚ろな謝罪の言葉を上げ続けていた。
その紅い瞳から生命の光は完全に消え失せ、深い「絶望の檻」に囚われたまま。
魔導騎士ゴエティアは、彼自身の心の闇によって、剣を握ることができなくなっていた。
夜風だけが、残された女たちの悲痛な叫びを無情に攫っていった。




