泣けなかった夜、君が灯した光(前編①)
人間界の理から完全に外れた、隔絶された次元の狭間。
そこには、陽光も届かず、風すらも死れ絶えた、淀んだ魔気が支配する「深淵」が広がっている。ひび割れた大地からは瘴気が立ち上り、空は永遠に明けぬ夜のようにどす黒く濁っていた。
「ふむ……。あの『ゴエティア』を名乗る魔導騎士の小僧、なかなかにしぶとい」
闇の結晶で設えられた玉座に深く腰掛け、宙に浮かべたチェスの駒を退屈そうに弄ぶ一人の男がいた。
魔界の将が一人、幻惑の将・メルキオス。
他の将が腕力による破壊や蹂躙を好むのに対し、彼は「心」という最も脆く、最も残酷で、最も美しい戦場を支配することに長けた異端の悪魔だった。
色白で神経質そうな顔立ちに、知性を湛えた金色の双眸。仕立ての良い漆黒の燕尾服を纏うその姿は、魔族というよりは狂気にとり憑かれた没落貴族のようである。
「まったく、私の同胞たちは野蛮でいけない。肉体を滅ぼすなどというのは、三流のやることだ。真の絶望とは、力でへし折ることではない。己の過去に溺れ、癒えない傷をえぐられ、逃げ場のない後悔と共に内側から崩壊していくこと……それこそが、至高の芸術なのだから」
メルキオスは、白く細い指先で手元の駒――黒い騎士を摘み上げた。
そして、その駒の心臓部にあたる位置へ、どす黒い魔力を凝縮させた呪詛の楔を、音もなく打ち込んだ。
パキッ、と無機質な音を立てて、黒い騎士の駒に致命的な亀裂が入る。
「……魔導騎士ゴエティア。お前は強靭な意志で我が同胞たちを退けてきた。だが、人間である以上、心には必ず『穴』がある」
メルキオスは立ち上がり、下界の景色を映し出す水鏡を見下ろした。そこに映るのは、束の間の平和を謳歌しようとする少年少女たちの姿。
「お前の心の奥底、最も触れられたくない『記憶』を、極上の地獄に変えて差し上げよう。足掻くがいい、ゴエティア」
男の口元が、血塗られた三日月のように歪んだ。
数日後。よく晴れた休日の朝。
ハルトの退院と全快を祝うという名目で、一つの計画が持ち上がっていた。
「いい? ハルト。アンタは最近働きすぎなのよ。自分の寿命を削って戦って、挙句の果てに倒れて……。たまには思いっきり英気を養わないと、いざって時に戦えるものも戦えなくなるわ!」
そう勢いよく息巻いたのは、銀髪の幼馴染・響花だった。
彼女が用意したのは、隣県にある歴史と自然に囲まれた高級温泉旅館の宿泊券。響花の運転するSUVで、ハルトと二人(あるいは輪廻を交えた三人)で、誰にも邪魔されずに静かに過ごす――それが彼女の描いた、完璧な「労い(という名のデート)」のシナリオだった。
「……で。なんで、あんた達がこんなに堂々といるのよ」
しかし、現実は非情である。
ハルトのアパートの前に停めたSUVの横。響花は、眉間をピクピクと引きつらせながら目の前の光景を睨みつけていた。
「あら、当然でしょう? 旅の護衛よ。ハルトさんに万が一のことがあったら、組織の甚大な損失ですから。……それに、ついでに私も温泉で羽を伸ばしたかったの」
そう言って艶やかに微笑むのは、エージェントの鳳カレンだ。
頭には女優のようなつば広の麦わら帽子、目元にはティアドロップのサングラス。そして、彼女の豊満なプロポーションをこれでもかと強調する、風通しの良さそうな薄手のリゾートワンピース。その浮世離れした大人の色気に、通りがかる近所の住人たちが次々と釘付けになっている。
(護衛って……あんた、絶対ハルトと混浴する気満々じゃないのよ! そのスケスケの服は何よ!)
響花が内心で毒づくが、さらにその横には、もう一人の招かれざる客がいた。
「ふん。僕はただ、ハルトがこの軟弱な連中に囲まれて、騎士としての牙を抜かれないか監視しに来ただけだ。勘違いするな」
かつての敵であり、今は奇妙な戦友となったレイジである。
彼は不機嫌そうに腕を組み、壁に寄りかかってクールなポーズを決めていた。だが、その背中に背負われたパンパンのリュックのサイドポケットには、あろうことか『るるぶ・日帰り温泉&絶品グルメの旅』という最新の旅行ガイドブックが、これ見よがしに突き刺さっているのをハルトは見逃さなかった。
(……レイジのやつ、俺たち以上に旅行の準備バッチリじゃないか……)
ハルトは思わず吹き出しそうになるのを堪え、苦笑いしながら首を掻いた。
「……まあ、いいじゃん響花。俺の退院祝いなんだろ? みんなで行った方が、絶対に楽しいもんな」
ハルトが優しく微笑んで頷くと、その隣で、今日のために新調した可愛らしいサマードレスを着た輪廻が、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うような震える手つきで、ハルトのシャツの裾をキュッと握りしめた。
「は、ハルトと一緒に、お泊まりの旅行……。ああ……私、生きててよかったです……っ。神様、本当にありがとうございます……っ」
「大げさだなぁ、輪廻。そんなに思い詰めることじゃないだろ?」
「いいえ!この旅行の一分一秒を、命懸けで楽しみます!」
瞳孔を開き気味にして天を仰ぐ輪廻。その重すぎる愛のオーラに、ハルトは少しだけたじろいだ。
こうして、それぞれの思惑と欲望が交錯する、奇妙な五人連れの「気晴らし旅行」が幕を開けたのである。
出発して一時間。響花の運転するSUVの車内は、早くも目に見えない火花が散る戦場と化していた。
「ちょっと! カレン、なんで当たり前みたいな顔して助手席に座ってるのよ! そこはナビ担当として、ハルトが座るべき席でしょ!」
ハンドルを握る響花が、信号待ちのたびに隣をギロリと睨みつける。
本来なら、助手席にハルトを座らせて、ドライブデートの雰囲気を満喫するはずだったのだ。しかし、カレンは出発の瞬間に、圧倒的な大人のプレッシャーでその席を強奪していた。
「あら、響花。私はハルトさんに一番近い場所で、彼のバイタルや体調を管理する義務があるの。プロとして当然の配置よ? あなたは前だけ向いて、安全運転に集中していなさいな」
カレンはサングラスを外し、後部座席のハルトに向けて流し目を送る。シートベルトが彼女の豊かな胸の谷間を強調しており、バックミラー越しにそれを見せつけられた響花は、ギリィッ……と歯軋りをした。
(くっ……! 私が運転手ってことは、ハルトの隣に座れないじゃない! 完全に策に溺れたわ……っ!)
運転席と助手席で静かなる女の戦いが繰り広げられるのを余所に、後部座席では全く別の、異次元の光景が広がっていた。
ハルトを真ん中に挟んで、右にレイジ、左に輪廻という配置である。
「……見ろ、ハルト。あそこに見える断崖絶壁の地層、魔界の第七監獄の地形に酷似している。あの高所から弓兵を配置すれば、一箇大隊を足止めできるな。実に戦術的価値が高い地形だ」
窓の外の緑豊かな山々を見ながら、レイジが真剣な顔で物騒な分析を披露する。
「レイジ、お前は旅行に来てまで戦術の話かよ……。もっと景色を楽しめって。ほら、ガイドブックによれば、あっちの道の駅、生乳100%のソフトクリームが有名なんだってさ」
「ソ、ソフトクリームだと……?」
ハルトの言葉に、レイジの肩がピクリと跳ねた。クールな表情を崩さぬよう必死に耐えているが、その瞳は明らかに道の駅の看板に釘付けになっている。
「……ふん。糖分の補給は、剣を握る騎士の嗜みだからな。……そこまで言うなら、あとで寄ってやってもいいぞ?」
「素直じゃないなぁ。よし、あとで皆で食べようぜ」
かつては殺し合った敵同士。しかし今、レイジはハルトとの「男同士の気楽な観光」という、魔界では絶対に味わえなかった体験に、内心では並々ならぬ高揚感と居心地の良さを抱いていた。
そして、ハルトの左側――その反対側では。
輪廻は、窓の外を流れる美しい渓谷の景色など、一秒たりとも見ていなかった。彼女の視線は、隣に座ってレイジと笑い合うハルトの横顔に、文字通り「釘付け」になっていた。
(ああ……ハルトの肩が、車の揺れに合わせて私の肩に触れてる……。温かい。ハルトの匂いがする。夢じゃない。幻覚じゃない。今、世界で一番幸せなのは絶対に私……っ!)
ハルトの体温をすぐ隣で感じるあまりの幸福感に、輪廻の脳内では致死量の幸福物質が分泌されていた。彼女の周囲には、もはや物理的な「聖域」のような黄金色のオーラが漂い始めており、息をするのも忘れるほどハルトの横顔に見惚れていた。
「……ん? 輪廻、どうかしたか? 酔った?」
「ひゃうっ!? い、いえっ! なんでもありません! ハルトの隣が……幸せだなって思ってただけです……」
「幸せって……お前なぁ」
照れ隠しに笑うハルト。
誰もが、この平和で騒がしい時間が、ずっと続けばいいと願っていた。
「着いたーっ! 見てよみんな、絶景じゃない!」
夕暮れ時。車が長い山道を抜け、目的地である温泉街に辿り着いた。
響花が予約した旅館は、清流が流れる美しい渓谷に寄り添うように建てられた、歴史を感じさせる豪奢な隠れ家だった。
車を降りたハルトは、心地よい山の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ふと、夕日に染まる渓谷へ目を細めた。
「……綺麗だな」
その無意識の呟きには、先ほどまでの賑やかさとは違う、少しだけ湿った寂寥感が混じっていた。
彼がまだ幼かった頃。
父と母、家族三人で、こんな風に山間の温泉地に旅行に行った記憶がある。
旅館の浴衣を着て、父の大きな背中に流してもらったお湯の温かさ。帰りの車の中で、助手席で眠る母と、楽しそうに鼻歌を歌いながらハンドルを握る父の横顔。
けれど――その幸せな帰路は、対向車線から突っ込んできた信号無視のトラックによって、永遠に奪われた。
血の匂い。耳をつんざくサイレンの音。そして、動かなくなった父の冷たい手。
(……いや、止そう)
ハルトはギュッと目を閉じ、首を振ってセピア色の記憶を心の奥底へと無理やり押し込んだ。
過去は変えられない。今は不可能だ。でも、今の自分には、こうしてバカをやり合える仲間がいる。彼らと過ごすこの時間を、過去の暗い影で台無しにしたくはなかった。
「ハルトーー! 早く行きますよ。お部屋、私とお隣ですよ」
輪廻が旅館の入り口から、弾けるような笑顔で手を振っている。
「ちょっと輪廻、抜け駆け禁止よ! 夕飯の席順はくじ引きで公平に決めるって言ったでしょ!」
「あら、響花。私はすでに先回りで仲居さんに特別チップを渡して、ハルトさんの隣を確保してあるけれど? 大人を舐めないことね」
「この金満エージェントぉぉっ!!」
再びギャーギャーと騒ぎ始める女性陣。
ハルトは、心の中の暗雲を振り払うように明るく笑い、仲間たちの元へ駆け寄った。
「お前ら、宿に着く前から喧嘩すんなって!」
彼らに囲まれ、ハルトは確かに「生」を実感していた。生きているからこそ、こんなにも騒がしく、愛おしい時間を過ごせるのだと。
だが、彼は気づいていなかった。
彼らが笑い合いながら旅館の門を潜った、その頭上。
高くそびえる旅館の瓦屋根の上で。
沈みゆく血のような夕日を背に、漆黒の外套を纏った一人の魔人が、残酷な金色の瞳でハルトの背中を見下ろしていることに。
「見つけたぞ、ゴエティア。そして鍵の巫女。貴様らの尊い絆も、脆い命も、すべて私が絶望の海に沈めていただく」
風に紛れて、メルキオスの低く粘り気のある声が響く。
五人の賑やかな逃避行のすぐ裏側まで、トラウマを抉る魔の手は、すでに音もなく迫っていた。




