聖戦は、ベッドサイドで(後編①)
病室の空気は、突如として現れた闖入者によって、甘く、そして決定的に毒されていた。
カレンは輪廻の激しい動揺を底意地悪く愉しむように、艶やかな唇に薄く弧を描いた。ゆったりと羽織った薄手のカーディガンが、彼女の優雅な身のこなしに合わせてふわりと揺れる。
彼女はその白く細い指先で、まるで自身の所有物に対する当然の権利を行使するかのように、眠るハルトの頬をそっと撫でた。
「……っ!?」
輪廻の心臓が、ひどく嫌な音を立てて跳ねた。全身の血の気が引き、代わりにぞっとするような焦燥感が足元から這い上がってくる。
カレンの指先は、まるで熟練の愛好家が至高の名器を愛でるように、ハルトの頬の輪郭をゆっくりと、ただひたすらにゆっくりとなぞっていく。指の腹でその肌の質感を確かめ、愛おしむように滑るその動きは、見ているこちらが羞恥で焼け焦げそうになるほど生々しい。
指先はそのまま逞しい首筋へと滑り落ち、パジャマのボタンの隙間から覗く、魔導騎士として鍛え上げられた厚い胸板へと執拗に這っていく。昏睡しているはずのハルトが、その女の指先から放たれる熱に浮かされたように、微かに身じろぎした。
「ハルトに……触らないで……っ!」
耐えかねた輪廻が、喉の奥から絞り出すような声で叫んだ。
その声は、ひどく震えていた。単なるライバルへの嫉妬ではない。カレンの指がハルトの肌に触れるたび、彼が自分の手の届かない、もっと遠くの、甘く危険な「大人の深淵」へと引きずり込まれてしまうような――そんな、取り返しのつかない「喪失感」と「敗北感」に、輪廻の魂が本能的な悲鳴を上げていたのだ。
カレンは胸板を這わせていた指をピタリと止めると、ゆっくりと顔を上げた。
肩から滑り落ちそうになったカーディガンを直す、ただそれだけの日常的な仕草さえも、彼女がやると計算し尽くされたかのような蠱惑的な優雅さを纏っている。月光を反射する彼女の双眸には、罠にかかって怯える子リスを見下ろすような、冷ややかで残酷な慈愛が宿っていた。
「あら、どうして? 理由を聞かせてもらえるかしら」
「それは……っ」
「私が彼に触れてはいけないなんて、ずいぶんとおかしな話じゃない? 輪廻さん、あなただってさっきまで、誰にも見られていないのをいいことに、存分に彼を堪能していたでしょう?」
カレンの静かな言葉に、輪廻は言葉を失い、息を呑んだ。
すべてを、一から十まで見られていたのだ。彼の胸にすがりつき、顔を埋め、独占欲という名の醜い感情に身を任せていた自分を。何よりも神聖だと思っていたハルトとの時間を、「堪能」というあまりにも露骨で卑俗な言葉で断じられ、輪廻の顔は羞恥と屈辱で一瞬にして真っ赤に染まった。
「そ、それは……! 看病の、一環で……っ」
「看病? 苦しい言い訳ね。エージェントの報告書なら突き返しているところよ。……ねえ、輪廻さん。単刀直入に聞くけれど、あなた、ハルトくんと正式にお付き合いしているのかしら? 婚約でもしているの?」
カレンはベッドの端に腰を下ろすと、長い脚をゆっくりと組み替えた。ショートパンツの裾から覗く眩いほどの白い太ももが、青白い月光に照らされて毒々しいほど美しく光る。その圧倒的な「雌」としての造形美を見せつけられ、輪廻は思わず目を逸らしそうになる。
「……っ、それは、まだ……」
「なら、答えは簡単じゃない。彼は『フリー』よ。誰のものでもない。ということは、私にだって、あるいはこの場にいる全員にだって、彼を手に入れる権利とチャンスが平等にあるはずでしょう?」
「っ……! 私は、諦めません。必ず……必ず、ハルトには私だけを見てもらいます!」
両拳を強く握り締め、精一杯の反論を試みる。輪廻にとって、それは己の命よりも大切な祈りだった。
けれど、カレンはそれを鼻で笑うように、フッと艶やかな吐息を漏らした。
「……まるで、お気に入りのおもちゃを取られそうになった子供が駄々をこねているみたい。でも、あなたのその真っ直ぐで不器用な気持ちは否定しないわ。だって――」
カレンは立ち上がり、じりじりと、音もなく輪廻との距離を詰める。
その圧倒的なプロポーションと、「できる女」としての途方もない重圧が、輪廻を壁際へと容赦なく追い詰めていく。
「――私もハルトくんのことは、あなたたちに負けないくらい、狂おしいほどに好きだから」
その瞳の奥に宿る、決して冗談ではない真剣な熱量に、輪廻は背筋が凍るような思いがした。
「でもね。ハルトくんがあなたを選ぶとは限らないわ。……確かにあなたは若くて健気で、男が守ってあげたくなるような可愛らしさがある。それはあなたの武器よ。でも、今の傷ついたハルトくんに必要なのは、そんな子供のママゴトみたいな献身じゃないの」
カレンは輪廻の耳元まで顔を寄せ、密やかな、けれど心臓を的確にえぐる残酷なナイフのような声で囁いた。
「今のあなたには――決定的に『色気』が足りないわ」
「…………っ!」
言い返せなかった。
至近距離に立つカレンから漂う、完熟した果実のような芳醇な香水と体臭の混ざった匂い。立ち振る舞いのすべてから溢れ出る、余裕に満ちた大人の女の色気。
それに比べて、自分はどうだろう。ただ感情のままに泣き、すがりつき、彼の重荷になることしかできない未熟な子供。
自分の幼さ、経験のなさ、女としての絶対的な格の違いをこれでもかと突きつけられ、輪廻の心は完全にへし折られた。屈辱に震える唇を血が滲むほど噛み締め、その場に縫い付けられたように黙り込むことしかできなかった。
完全に輪廻の口を封じたことを確認すると、「さて……」とカレンは勝利を確信した笑みを浮かべ、再びベッドで眠るハルトの方へと振り返った。
「お喋りはこれくらいにして。私も『看病』の続きをさせてもらおうかしら」
余裕に満ちた足取りでハルトの枕元に立つカレン。
だが、その内面では、表面上のクールな態度とは裏腹に、彼女の心臓もまた早鐘のように打ち鳴らされていた。
(ああ……ハルトくん。こんなに近くであなたの寝顔を見るのは、初めてね……)
優秀なエージェントとして、常に冷静沈着で「完璧な女」を演じ続けてきた彼女。あらゆる男からの誘いを冷笑と共に切り捨ててきた彼女が、唯一心を許し、惹かれてやまないのが、目の前で無防備に眠るこの年下の青年だった。
傷だらけになりながらも誰かを守ろうとする彼の不器用な生き様に、カレンの胸の奥底に眠っていた「ただの少女」としての純情が、どうしようもなく共鳴してしまっているのだ。
(本当は、あなたから触れてほしい。あなたに抱きしめてほしい……。でも、待っているだけじゃ、あの若くて可愛い子たちに先を越されてしまうもの)
恋に落ちた少女のような焦燥と、大人の女としての狡猾さ。
カレンは、ハルトと自分との間に、誰も否定できない決定的な「既成事実」を作ることを決意していた。彼が目を覚ました時、唇に、肌に、自分の香りと感触が深く刻み込まれているように。逃げ道を塞ぎ、彼を自分のものだけにするために。
カレンは、彼を覆い隠すように、ゆっくりと、けれど確実にその身体を被せていく。
ハルトの顔との距離が縮まるにつれ、カレンの頬も微かに朱に染まる。キャミソールの胸元が大きく波打ち、カレンのたわわに実った果実が、パジャマ越しのハルトの逞しい胸板と重なり合う。押し当てられた二つの柔らかな果実が、彼の筋肉の硬さに合わせて、ひどく卑猥な形へと変形していく。
「んっ……」
カレンの口から、無意識のうちに甘い吐息が漏れた。
大好きな人の体温を直接肌で感じ、彼女のなかの雌が歓喜に震えている。
ハルトの顔との距離が、あと数センチまで近づいた。彼の吐息が、カレンの唇を撫でる。
「いや……やめて……っ、お願い……!」
壁際に追いやられた輪廻が、涙目で必死に手を伸ばそうとする。だが、カレンの言葉の呪縛と圧倒的なオーラに気圧され、足が一歩も前に出ない。自分の初恋が、最愛の人が、目の前で大人の女に喰われようとしているのに、声を出して懇願することしかできなかった。
カレンの濡れた紅い唇が、ハルトの無防備な唇に完全に重なろうとした、まさにその刹那――。
「――ストォォォップ!! そこまでよ、この発情期どもぉぉ!!」
ドバァァンッ!! という爆発音にも似た轟音と共に、堅牢なはずの病室のドアが、凄まじい勢いで蹴破られた(いや、蝶番ごと吹き飛んだ)。
「っ!?」
唇が触れ合う数ミリ手前。
カレンは咄嗟に動きを止め、チッ、と小さく舌打ちをして、面倒そうに首だけをドアの方へと回した。
「あーらあら。随分と不健全な『残業』をしてるじゃないの、カレン?」
吹き飛んだドアの向こうで仁王立ちで立ち尽くしていたのは、自動販売機で買ってきた冷たい水の入ったペットボトルを、今にも握り潰しそうなほどの力で握りしめた、銀髪の響花だった。
その瞳には、先ほどまでの絶望の涙は欠片もなく、闘志という名の猛烈な炎が燃え盛っている。
そして、響花の背後。
「フンッ!!」という異様な呼気と共に、白衣の隙間から丸太のような大胸筋をピクピクと威嚇するように跳ねさせた神宮寺ミラが、腕を組みながら不敵な笑みを浮かべてそびえ立っていた。
「……あら。随分とやかましいお邪魔虫の登場かしら。いいところだったのに」
カレンはハルトの胸からゆっくりと身体を離すと、乱れたキャミソールの胸元を直しながら、冷たい視線を入り口に向けた。
「いいところじゃないわよ! ハルトが寝てるのをいいことに、抜け駆けなんて卑怯よ、カレン!」
「抜け駆け? 恋愛はいつだって先手必勝よ、響花。ボーッと突っ立ってたあなたたちが悪いんじゃない」
一気に冷え込む病室の空気。
眠れる勇者を挟んで、三人の乙女たちの視線がバチバチと火花を散らす。
しかし、その一触即発の空気を、物理的な「圧」で強制終了させたのは、筋肉の聖母だった。
「はいはいはい、そこまでよ発情ガールズ!!」
パンッ!と、ミラが極太の掌を打ち鳴らす。その柏手は、まるで小型の爆竹でも破裂したかのような破裂音を生み出し、三人の肩をビクッと跳ねさせた。
「今は深夜一時! 筋肉のゴールデンタイムよ! 傷ついたハルトちゃんの筋繊維が、一生懸命『超回復』しようとしてるこの神聖な時間に、色ボケした小娘たちが周りでギャーギャー騒ぐんじゃないわよ!」
「ミ、ミラ先生……でもっ」
「響花も、カレンも、輪廻ちゃんも! 全員まとめて退室! これ以上患者の睡眠を妨害するなら、アタシ特製の『プロテイン地獄の刑(経管栄養)』に処すわよ!」
その言葉が出た瞬間、エージェントであるカレンと響花、そして輪廻の顔色が変わった。ミラの「特製」がどれほど恐ろしいものか、彼女たちは本能で理解していた。
「……チッ。野蛮な筋肉医務官サマには逆らえないわね」
カレンは小さくため息をつくと、羽織っていたカーディガンをきちんと着直し、いつもの「完璧なエージェント」の顔へと戻った。
そして、去り際にチラリと輪廻と響花を一瞥し、妖艶に微笑む。
「今日はこの辺で退散してあげるわ。……でも、次は邪魔させないから。覚悟しておきなさいな、可愛い子羊ちゃんたち」
カツ、カツ、と知的なヒールの音を響かせながら、カレンは誰よりも早く病室を後にした。
「っ……負けないわよ。ハルトの隣は、絶対に私の指定席なんだから!」
響花が負けじとカレンの背中に吠え、その後を追うようにドスドスと廊下へ出て行く。
病室に最後に残された輪廻は、カレンに押し倒されていたハルトの寝顔を見つめた。
胸の奥で渦巻く敗北感と、それでも彼を想う気持ち。輪廻はハルトの布団をそっと掛け直すと、誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。
「……色気なんて、これから身につけます。だから……どうか、私だけを見て、ハルト」
そっと病室の電気を消し、輪廻もまた、静かに部屋を後にした。
「やれやれ。青春のホルモンってのは、筋肉並みに手強いわね」
全員を追い出したミラが、呆れたように肩をすくめ、吹き飛んだドアを立てかけてから廊下へと消えていく。
静寂を取り戻した病室。
青白い月光の下、ただ一人残されたハルトは、自分の唇を巡ってどれほどの修羅場が繰り広げられていたかなど知る由もなく、ただスースーと穏やかな寝息を立てていたのだった。




